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2021年7月14日(土)5時40分過ぎ、本町3ヵ寺から宗堅寺、聖隣寺を案内してくださった無料ボランティアガイドの方とお別れして、聖隣寺から北の古世親水公園に向かっていると、旧山陰街道を越えた左側に稱名寺(称名寺)と云うお寺があった。一般公開していないお寺だったそうだが、山門がオープンなので境内にちょっと寄らせて戴いた。<br /><br />山号を最勝山、院号を圓鏡院と称する浄土宗のお寺。総本山知恩院に属している。かつては中本寺の格式をもち、6つの下寺があり、歴代の住職は紫衣を被着できる勅許を戴く寺院だったそうだが、江戸時代前期の1686年の12月、本町で出火し亀山城下に大きな被害を与えた火災でこの寺も大きな被害を受けた。堂宇や重要な記録が全て焼失したそうだ。<br /><br />元々は江戸時代初期、浄土宗名越派の袋中上人が1611年に琉球から帰国後、京都三条に壇王法林寺を再興し、さらに丹波の地に教化遊錫した際に、現在のトロッコ亀岡駅近くの廃寺となった天台宗寺院に草庵を建て(稱名寺跡と云われるところが残る)、浄土念仏の教えを広めたのが起源と云われる。<br /><br />その後、1643年に團忠上人により開基され、百萬遍の大本山知恩寺の末寺として現在の地に移転されてきたと伝えられている、と門前の沿革に書かれているが、もう1枚の説明板には本山は知恩院となっており、どう云うこと? 知恩寺と知恩院は似て非なるものなんだけど・・・<br /><br />山門の薬医門は1698年の建造で城下の寺院の中では最古の建物。その奥の錣屋根を持った寄棟造の本堂は1714年に再建されたもの。<br /><br />山門を入って右手の鐘楼は1748年(延亨5年)、開山からおよそ100年後に建てられたもの。切妻造で、柱は礎盤をはき、型通りに腰・飛・頭貫を通し、柱上に3斗を組む。中備として飛貫上に2つ、頭貫上に1つの蟇股を備えて賑やかに飾っている。市内の中では、建立年次も明らかで、比較的大型のものに属している。過去に一度、一部の瓦修理は行われたが、2013年に創建以来初めて解体修理された。<br /><br />梵鐘は高さ145㎝、直径85.5㎝、重さ800㎏。延亨4年と鋳造年の銘が刻まれ、他には井尻家先祖の追善供養、家内安全の願が刻まれていることから、井尻家により寄進されたものと推測される、って井尻家って何かは調べてもよう分からん・・・<br /><br />また、この梵鐘は第2次世界大戦で供出され九州の軍需工場に運ばれたのだが、終戦後しばらくして運よく還って来た。珍しいらしい。外側には供出検査の痕跡の穴が4つ見られ、内側には「京都府亀岡町(山陰線)称名寺供出」と白字で書かれているそうだ。<br /><br />山門と鐘楼の間には平安時代の歌人・和泉式部のお墓と伝えられる寳篋印塔が安置されている。高さ150㎝で塔身は縦27㎝、横28㎝。塔身には金剛界4仏の種子が刻まれ、笠が五層になった珍しい形の細身の塔で、相輪の部分も別の物が載せてあり、以前はもっと大型で擬寳珠のようなものが置いてあったと云われている。<br /><br />製作年代は不明だが、笠の部分は室町時代の寳篋印塔5基分を重ねたものと云われる。江戸時代に移転されたものだ云われるが、以前に台座があったところに上部を持って来たとも考えられている。<br /><br />前述したように稱名寺は開基から50年経たぬうちに火災に遭っており、和泉式部は和泉から水を連想させ、また古くから近くには湧水があり(現在の親水公園)、水に関連したものを多く備えることで、二度とあのような大火に見舞われないように祈念したのではないかと云われている。<br /><br />こうした経緯から身を護るご利益が戴けるほか、和泉式部は恋多き女性としても有名であることから、縁結び、恋愛成就のご利益、また、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れる謡曲「誓願寺」から生まれた信仰により芸道上達のご利益も戴ける。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7636227826447175&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />古世親水公園に続く

京都 亀岡 稱名寺(Shomyo-ji temple,Kameoka,Kyoto,Japan)

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2021/07/14 - 2021/07/14

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年7月14日(土)5時40分過ぎ、本町3ヵ寺から宗堅寺、聖隣寺を案内してくださった無料ボランティアガイドの方とお別れして、聖隣寺から北の古世親水公園に向かっていると、旧山陰街道を越えた左側に稱名寺(称名寺)と云うお寺があった。一般公開していないお寺だったそうだが、山門がオープンなので境内にちょっと寄らせて戴いた。

山号を最勝山、院号を圓鏡院と称する浄土宗のお寺。総本山知恩院に属している。かつては中本寺の格式をもち、6つの下寺があり、歴代の住職は紫衣を被着できる勅許を戴く寺院だったそうだが、江戸時代前期の1686年の12月、本町で出火し亀山城下に大きな被害を与えた火災でこの寺も大きな被害を受けた。堂宇や重要な記録が全て焼失したそうだ。

元々は江戸時代初期、浄土宗名越派の袋中上人が1611年に琉球から帰国後、京都三条に壇王法林寺を再興し、さらに丹波の地に教化遊錫した際に、現在のトロッコ亀岡駅近くの廃寺となった天台宗寺院に草庵を建て(稱名寺跡と云われるところが残る)、浄土念仏の教えを広めたのが起源と云われる。

その後、1643年に團忠上人により開基され、百萬遍の大本山知恩寺の末寺として現在の地に移転されてきたと伝えられている、と門前の沿革に書かれているが、もう1枚の説明板には本山は知恩院となっており、どう云うこと? 知恩寺と知恩院は似て非なるものなんだけど・・・

山門の薬医門は1698年の建造で城下の寺院の中では最古の建物。その奥の錣屋根を持った寄棟造の本堂は1714年に再建されたもの。

山門を入って右手の鐘楼は1748年(延亨5年)、開山からおよそ100年後に建てられたもの。切妻造で、柱は礎盤をはき、型通りに腰・飛・頭貫を通し、柱上に3斗を組む。中備として飛貫上に2つ、頭貫上に1つの蟇股を備えて賑やかに飾っている。市内の中では、建立年次も明らかで、比較的大型のものに属している。過去に一度、一部の瓦修理は行われたが、2013年に創建以来初めて解体修理された。

梵鐘は高さ145㎝、直径85.5㎝、重さ800㎏。延亨4年と鋳造年の銘が刻まれ、他には井尻家先祖の追善供養、家内安全の願が刻まれていることから、井尻家により寄進されたものと推測される、って井尻家って何かは調べてもよう分からん・・・

また、この梵鐘は第2次世界大戦で供出され九州の軍需工場に運ばれたのだが、終戦後しばらくして運よく還って来た。珍しいらしい。外側には供出検査の痕跡の穴が4つ見られ、内側には「京都府亀岡町(山陰線)称名寺供出」と白字で書かれているそうだ。

山門と鐘楼の間には平安時代の歌人・和泉式部のお墓と伝えられる寳篋印塔が安置されている。高さ150㎝で塔身は縦27㎝、横28㎝。塔身には金剛界4仏の種子が刻まれ、笠が五層になった珍しい形の細身の塔で、相輪の部分も別の物が載せてあり、以前はもっと大型で擬寳珠のようなものが置いてあったと云われている。

製作年代は不明だが、笠の部分は室町時代の寳篋印塔5基分を重ねたものと云われる。江戸時代に移転されたものだ云われるが、以前に台座があったところに上部を持って来たとも考えられている。

前述したように稱名寺は開基から50年経たぬうちに火災に遭っており、和泉式部は和泉から水を連想させ、また古くから近くには湧水があり(現在の親水公園)、水に関連したものを多く備えることで、二度とあのような大火に見舞われないように祈念したのではないかと云われている。

こうした経緯から身を護るご利益が戴けるほか、和泉式部は恋多き女性としても有名であることから、縁結び、恋愛成就のご利益、また、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れる謡曲「誓願寺」から生まれた信仰により芸道上達のご利益も戴ける。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7636227826447175&type=1&l=223fe1adec


古世親水公園に続く

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