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2021年7月14日(土)5時半、ボランティアガイドさんに案内されて、宗堅寺から向かいの聖隣寺へ。臨済宗天竜寺派の寺院で山号は護国山。宗堅寺創建の翌年の1490年に天龍寺の開祖の夢窓国師の五世法孫である至圓周悟禅師により古世町地蔵ノ辻(ここより少し北西)に栖林庵(せいりんあん)として創建された。<br /><br />安土桃山時代の終わり、当時の藩主小早川秀秋が息子の菩提を弔うために毎年寄進した亀山五ヶ寺の一つと云われる。その後、江戸時代中期の1686年の大火により現在地に移され再建された。山門の両サイドの袖塀に狭間があるが、これは有事の際にはこの寺が防御線となるのを想定して造られたものと云われている。<br /><br />山門の左隅には達磨大師の像が安置されている。臨済宗は禅宗の一つで達磨大師は中国禅宗の祖。山門は柵が置かれていて、とても入れる感じではないが、ガイドさんは手慣れたもの。くぐり戸を開けて中に進む。真っ直ぐ続く参道の突き当りが庫裏で、右手に本堂が続く。江戸後期の1798年の再建。この本堂には、ご本尊である釈迦牟尼仏が安置されている。<br /><br />本堂の正面、境内の南西に当たる部分が墓地になっている。南側は惣堀跡に面し、御土居が残っている(下の写真1)。墓地のちょうど真ん中辺りに五輪塔があるが、これは織田信長の供養塔。写真では分からないが、一番下の地輪に信長の戒名、「総見院殿一品泰厳大居士」が刻まれている。<br /><br />この供養塔を建てたのは信長の四男で、1576年に7歳で羽柴秀吉の養子となった羽柴秀勝。なお秀吉には養子含めて3人の秀勝がいたため、区別するために於次(おつじ)秀勝(於次丸秀勝)と呼ばれることがある。この秀勝は1582年の本能寺の変の後、清洲会議で討たれた光秀の代わりに丹波亀山城主となり、入城後、実父の菩提を弔うためこの供養塔を建てた。その時は移転前なので、移転後にこの場所に設置したってことですね。なお、秀勝はその3年後に18歳でこの城で病死した。<br /><br />ここにお参りしたいと思っていたのだが、門に柵でガイドさんがおられなかったら入ることは出来なかったと思うので、ガイドさんに感謝だった。ありがとうございました、先輩!<br /><br />境内の外、山門の北側の角に毘沙門堂があるが、ここは塀の外なのでお参りすることが出来る。このお堂は鎌倉時代後期の作と伝わる亀山市指定文化財の木造毘沙門天立像が安置されていたお堂で、現在通常は本堂に置かれているが、6月の第1日曜に開かれる毘沙門天祭の時にだけここに移され公開される。なお、この日には併せて信長公忌も営まれる。<br /><br />この像は元々は市街地から大堰川を挟んだ北側の丹波国分寺の守護として祀られていたもので、光秀が亀山城築城の際に城の鎮護のために二の丸に移し、その後、小早川秀秋が城主を務めた頃に聖隣寺に移し城下の鎮守としたもの。築地塀外にあるので、町の人々は参拝し易かったと思われるが、光秀所縁のお堂なので、秀吉政権下で配慮したとも考えられないことはない。<br /><br />お堂の屋根の上には細川家の家紋である細川九曜と豊臣家の家紋である五七の桐が並んでいる(下の写真2)。細川家は寺を創建した至圓周悟禅師の出身。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7581322998604325&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />ガイドさんとはここで別れて北に向かうが、続く

京都 亀岡 西竪町 聖隣寺 (Seirin-ji Temple,Nishitatsu-cho,Kameoka,Kyoto,JP)

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2021/07/14 - 2021/07/14

332位(同エリア363件中)

旅行記グループ 亀岡

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年7月14日(土)5時半、ボランティアガイドさんに案内されて、宗堅寺から向かいの聖隣寺へ。臨済宗天竜寺派の寺院で山号は護国山。宗堅寺創建の翌年の1490年に天龍寺の開祖の夢窓国師の五世法孫である至圓周悟禅師により古世町地蔵ノ辻(ここより少し北西)に栖林庵(せいりんあん)として創建された。

安土桃山時代の終わり、当時の藩主小早川秀秋が息子の菩提を弔うために毎年寄進した亀山五ヶ寺の一つと云われる。その後、江戸時代中期の1686年の大火により現在地に移され再建された。山門の両サイドの袖塀に狭間があるが、これは有事の際にはこの寺が防御線となるのを想定して造られたものと云われている。

山門の左隅には達磨大師の像が安置されている。臨済宗は禅宗の一つで達磨大師は中国禅宗の祖。山門は柵が置かれていて、とても入れる感じではないが、ガイドさんは手慣れたもの。くぐり戸を開けて中に進む。真っ直ぐ続く参道の突き当りが庫裏で、右手に本堂が続く。江戸後期の1798年の再建。この本堂には、ご本尊である釈迦牟尼仏が安置されている。

本堂の正面、境内の南西に当たる部分が墓地になっている。南側は惣堀跡に面し、御土居が残っている(下の写真1)。墓地のちょうど真ん中辺りに五輪塔があるが、これは織田信長の供養塔。写真では分からないが、一番下の地輪に信長の戒名、「総見院殿一品泰厳大居士」が刻まれている。

この供養塔を建てたのは信長の四男で、1576年に7歳で羽柴秀吉の養子となった羽柴秀勝。なお秀吉には養子含めて3人の秀勝がいたため、区別するために於次(おつじ)秀勝(於次丸秀勝)と呼ばれることがある。この秀勝は1582年の本能寺の変の後、清洲会議で討たれた光秀の代わりに丹波亀山城主となり、入城後、実父の菩提を弔うためこの供養塔を建てた。その時は移転前なので、移転後にこの場所に設置したってことですね。なお、秀勝はその3年後に18歳でこの城で病死した。

ここにお参りしたいと思っていたのだが、門に柵でガイドさんがおられなかったら入ることは出来なかったと思うので、ガイドさんに感謝だった。ありがとうございました、先輩!

境内の外、山門の北側の角に毘沙門堂があるが、ここは塀の外なのでお参りすることが出来る。このお堂は鎌倉時代後期の作と伝わる亀山市指定文化財の木造毘沙門天立像が安置されていたお堂で、現在通常は本堂に置かれているが、6月の第1日曜に開かれる毘沙門天祭の時にだけここに移され公開される。なお、この日には併せて信長公忌も営まれる。

この像は元々は市街地から大堰川を挟んだ北側の丹波国分寺の守護として祀られていたもので、光秀が亀山城築城の際に城の鎮護のために二の丸に移し、その後、小早川秀秋が城主を務めた頃に聖隣寺に移し城下の鎮守としたもの。築地塀外にあるので、町の人々は参拝し易かったと思われるが、光秀所縁のお堂なので、秀吉政権下で配慮したとも考えられないことはない。

お堂の屋根の上には細川家の家紋である細川九曜と豊臣家の家紋である五七の桐が並んでいる(下の写真2)。細川家は寺を創建した至圓周悟禅師の出身。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7581322998604325&type=1&l=223fe1adec


ガイドさんとはここで別れて北に向かうが、続く

  • 写真1 聖隣寺墓地と御土居

    写真1 聖隣寺墓地と御土居

  • 写真2 聖隣寺毘沙門堂の屋根

    写真2 聖隣寺毘沙門堂の屋根

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