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2021年7月14日(土)4時過ぎ、文化資料館から城下町跡に進む。城跡の東側を進み、城址を見学して行こうと思っていたのだが、残念ながら拝観時間は4時まで(下の写真1)。改めて訪問することとする。<br /><br />城跡の東側から南側に進み、西に進む。今は南郷池しか残ってない内堀の外を歩く感じ。道の南側には府立亀岡高校(下の写真2)、市立亀岡中学、さらに旧山陰街道(京都府道402号王子並河線)を挟んで市立亀岡小学校が並んで建っている。江戸時代にはこの辺りは内堀と外堀の間で、侍屋敷が立ち並んでいたようだ。<br /><br />亀岡高校は1904年(明治37年)創立の南桑田郡立(京都府立亀岡)高等女学校と1919年(大正8年)創立の南桑田郡立実業学校(京都府立亀岡農学校)を1948年(昭和23年)に統合して誕生した高校で、俳優の国広富之さんは卒業生。亀岡中学は1949年(昭和24年)に5つの中学を統合して誕生。亀岡小学校は1947年(昭和22年)に誕生したが、前身の亀岡尋常小学校は2つの小学校を合併して1891年(明治24年)に開校している。小学校の南側から西側は外堀の堤防だった土手に囲まれている。<br /><br />中学校と小学校の間の旧山陰街道を南に少し進むと中学校のグランドの南に形原神社がある。1880年(明治13年)に幕末まで藩主を務めた松平(形原)家の初代藩主、松平信岑(のぶみね)主祭神として、歴代藩侯を祀る社として創建された。<br /><br />(丹波)亀山藩は1595年に亀山城に入部した豊臣政権下で京都所司代を務めていた前田玄以が関ケ原の戦いでは西軍に加わったが、東軍に内通していたことで、所領安堵を受け成立した。しかし、藩主の入れ替えがたびたび行われ、岡部家、松平(大給)家、菅沼家、松平(藤井)家、久世家、井上家、青山家と変わったが、1749年に松平信岑が藩主となって、ようやく落ち着いた。<br /><br />この辺りは亀山城の三ノ丸だったところで、すぐ西に亀山城の外堀にあった5つの門のうちで、城の南側、正面大手への出入口としての城門である大手門があった。この辺りは藩の政務を執り行っていた御館と云う藩庁の南西隅に当たる。御館は本丸御殿が手狭なために藩主の居館として設けられたもので、対面所としての典型的な大名屋敷だった。<br /><br />現在は城の約2㎞南にある奈良時代以前からの歴史を持つ鍬山神社の御旅所となっており、4月15日に行われる鍬山神社の花祭に合わせて、この神社に甲冑や武具、古地図などの遺品が飾られ、形原松平城主を偲ぶ。また、秋の例祭では10月20日の神幸祭で、鍬山神社から鍬山宮と八幡宮の二輦の神輿が氏子域を巡幸し、御旅所として形原神社拝殿に出御され、10月25日の還幸祭で、城下町の辻々に立てられた山鉾の賑やかな囃子に迎えられながら城下町を巡幸し、鍬山神社へ還幸される。<br /><br />西面の鳥居の先に舞殿があり、その裏側に本殿がある。本殿は正面に唐破風を設けた門と透き塀に囲まれた一間社流造、銅板葺。本殿大棟の鬼板をはじめ随所に八丁子の紋が施されているが、これは形原松平氏の家紋(下の写真3)。また、手水覆屋の鬼瓦には丸に利の字の紋があるが、これも松平氏の家紋。<br /><br />拝殿の南側に隣接して祀られている小社の稲荷社は、もともとは丹波篠山にあったが、松平信岑の移封にともなって御館内に遷され、さらに1881年にこの地に移築された。<br /><br />形原神社の向かい側辺りには御勘定所があった。1793年の山陰丹府桑田亀山図に記載があり、1829年の職員録には勘定所大目付1名、勘定所19名と記されている。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7576661045737187&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />本町通りに進むが続く

京都 亀岡 形原神社(Katahara-jinja Shrine,Kameoka,Kyoto,Japan)

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2021/07/14 - 2021/07/14

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旅行記グループ 亀岡

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年7月14日(土)4時過ぎ、文化資料館から城下町跡に進む。城跡の東側を進み、城址を見学して行こうと思っていたのだが、残念ながら拝観時間は4時まで(下の写真1)。改めて訪問することとする。

城跡の東側から南側に進み、西に進む。今は南郷池しか残ってない内堀の外を歩く感じ。道の南側には府立亀岡高校(下の写真2)、市立亀岡中学、さらに旧山陰街道(京都府道402号王子並河線)を挟んで市立亀岡小学校が並んで建っている。江戸時代にはこの辺りは内堀と外堀の間で、侍屋敷が立ち並んでいたようだ。

亀岡高校は1904年(明治37年)創立の南桑田郡立(京都府立亀岡)高等女学校と1919年(大正8年)創立の南桑田郡立実業学校(京都府立亀岡農学校)を1948年(昭和23年)に統合して誕生した高校で、俳優の国広富之さんは卒業生。亀岡中学は1949年(昭和24年)に5つの中学を統合して誕生。亀岡小学校は1947年(昭和22年)に誕生したが、前身の亀岡尋常小学校は2つの小学校を合併して1891年(明治24年)に開校している。小学校の南側から西側は外堀の堤防だった土手に囲まれている。

中学校と小学校の間の旧山陰街道を南に少し進むと中学校のグランドの南に形原神社がある。1880年(明治13年)に幕末まで藩主を務めた松平(形原)家の初代藩主、松平信岑(のぶみね)主祭神として、歴代藩侯を祀る社として創建された。

(丹波)亀山藩は1595年に亀山城に入部した豊臣政権下で京都所司代を務めていた前田玄以が関ケ原の戦いでは西軍に加わったが、東軍に内通していたことで、所領安堵を受け成立した。しかし、藩主の入れ替えがたびたび行われ、岡部家、松平(大給)家、菅沼家、松平(藤井)家、久世家、井上家、青山家と変わったが、1749年に松平信岑が藩主となって、ようやく落ち着いた。

この辺りは亀山城の三ノ丸だったところで、すぐ西に亀山城の外堀にあった5つの門のうちで、城の南側、正面大手への出入口としての城門である大手門があった。この辺りは藩の政務を執り行っていた御館と云う藩庁の南西隅に当たる。御館は本丸御殿が手狭なために藩主の居館として設けられたもので、対面所としての典型的な大名屋敷だった。

現在は城の約2㎞南にある奈良時代以前からの歴史を持つ鍬山神社の御旅所となっており、4月15日に行われる鍬山神社の花祭に合わせて、この神社に甲冑や武具、古地図などの遺品が飾られ、形原松平城主を偲ぶ。また、秋の例祭では10月20日の神幸祭で、鍬山神社から鍬山宮と八幡宮の二輦の神輿が氏子域を巡幸し、御旅所として形原神社拝殿に出御され、10月25日の還幸祭で、城下町の辻々に立てられた山鉾の賑やかな囃子に迎えられながら城下町を巡幸し、鍬山神社へ還幸される。

西面の鳥居の先に舞殿があり、その裏側に本殿がある。本殿は正面に唐破風を設けた門と透き塀に囲まれた一間社流造、銅板葺。本殿大棟の鬼板をはじめ随所に八丁子の紋が施されているが、これは形原松平氏の家紋(下の写真3)。また、手水覆屋の鬼瓦には丸に利の字の紋があるが、これも松平氏の家紋。

拝殿の南側に隣接して祀られている小社の稲荷社は、もともとは丹波篠山にあったが、松平信岑の移封にともなって御館内に遷され、さらに1881年にこの地に移築された。

形原神社の向かい側辺りには御勘定所があった。1793年の山陰丹府桑田亀山図に記載があり、1829年の職員録には勘定所大目付1名、勘定所19名と記されている。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7576661045737187&type=1&l=223fe1adec


本町通りに進むが続く

  • 写真1 丹波亀山城址見学入口

    写真1 丹波亀山城址見学入口

  • 写真2 府立亀岡高校

    写真2 府立亀岡高校

  • 写真3 形原神社 本殿

    写真3 形原神社 本殿

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