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2021年7月14日(土)3時半過ぎ、亀岡駅南口正面の道を南に進む。国道9号線の頼政塚交差点まで続くこの通りはクニッテルフェルト(Knittelfeld)通りと名付けられている。1964年の東京オリンピックの年に姉妹都市となったオーストリア(Republik Osterreich)中部の街の名前。オーストリア南東部の中心都市、グラーツ(Graz)の70㎞北西に位置する。<br /><br />駅前の交差点から100m余りで三差路に突き当たり、クニッテルフェルト通りは左手に折れて続くが、突き当りの奥の池沿いが南郷公園となる。丹波亀山城の外堀として使われていた南郷池を中心につくられた公園。桜を中心として四季折々の花を楽しむことが出来る都市公園として整備され、亀岡光秀まつりを始め、様々なイベントの会場となっている。<br /><br />突き当りは光秀広場で、明智光秀像と両サイドに天守閣の鯱を復元した鯱瓦が置かれている。光秀像は丹波亀山城主として、亀岡の町の礎を築いた智将・明智光秀公を顕彰し、ゆかりの地である亀岡の新たなシンボルにするために2019年に市内団体が中心になって結成された明智光秀像建立実行委員会により建立されたもので、それまではこの広場はシャチホコ広場と呼ばれていた。<br /><br />光秀像は、亀岡市内在住の彫刻家であるとーじ・まサトシ氏によるもので、大阪岸和田の本徳寺所蔵の肖像画を基にデザインされ、戦国武将としての猛々しさよりも智将・文化人としての光秀公を表現したものになっており、像の足元には、亀岡市特有の朝霧が配置されている。<br /><br />光秀像の両隣にあるのは元々のシャチホコ広場の名前の由来の天守閣にあった鯱瓦の複製。現物は江戸末期の1852年に鋳造されたものが明治維新後の廃城により払い下げられ、その後1880年(明治13年)に京都府医学校(現京都府立医大)の講堂に使われていたが、現在は1対の片方(吽形)のみ府立医大で保存されている(もう片方(阿形)は破壊された)。この複製は1995年に亀岡ロータリークラブにより復元されたもので、片方の土台には亀岡城の天守が描かれている(下の写真1)。<br /><br />明智光秀公築城亀山城阯の碑(下の写真2)も建つ光秀広場の南側には東西に南郷池が広がる。前述したように丹波亀山城の外堀。城の南側は、内堀、外堀、惣堀の三重の堀と御土居がめぐり、堅牢な構えを呈しているが、北側の搦手は、この外堀が一重にめぐらされているだけ。これは、有事の際には、大堰川(保津川)の流れを塞き止め、北側の水田を一気に大きな堀となるように設計したため。実際には池の東西には川が続いており、市街地の南にある竜ヶ尾山の北麓から流れ出し大堰川に注ぐ雑水川の一部。<br /><br />池の北東部にも広場もあり、春の桜並木が美しい。また、池はギンヤンマやシオカラトンボ、アキアカネを始め約40種類が生息しているトンボの楽園。これだけ多くの種類に富んだ生息地は、数が少なく貴重だそうだ。<br /><br />池の南側が亀山城の本丸跡で、南郷池の東の端辺りに外堀にあった5つの門の一つで、北東部の出入口となる保津門があった。ちなみに他の4つの門は、東側に雷門、南側に古世門と大手門、西側に西門があった。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7540989602637665&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />亀岡市文化資料館に向かうが続く

京都 亀岡 南郷公園(Nango Park,Kameoka,Kyoto, Japan)

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2021/07/14 - 2021/07/14

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年7月14日(土)3時半過ぎ、亀岡駅南口正面の道を南に進む。国道9号線の頼政塚交差点まで続くこの通りはクニッテルフェルト(Knittelfeld)通りと名付けられている。1964年の東京オリンピックの年に姉妹都市となったオーストリア(Republik Osterreich)中部の街の名前。オーストリア南東部の中心都市、グラーツ(Graz)の70㎞北西に位置する。

駅前の交差点から100m余りで三差路に突き当たり、クニッテルフェルト通りは左手に折れて続くが、突き当りの奥の池沿いが南郷公園となる。丹波亀山城の外堀として使われていた南郷池を中心につくられた公園。桜を中心として四季折々の花を楽しむことが出来る都市公園として整備され、亀岡光秀まつりを始め、様々なイベントの会場となっている。

突き当りは光秀広場で、明智光秀像と両サイドに天守閣の鯱を復元した鯱瓦が置かれている。光秀像は丹波亀山城主として、亀岡の町の礎を築いた智将・明智光秀公を顕彰し、ゆかりの地である亀岡の新たなシンボルにするために2019年に市内団体が中心になって結成された明智光秀像建立実行委員会により建立されたもので、それまではこの広場はシャチホコ広場と呼ばれていた。

光秀像は、亀岡市内在住の彫刻家であるとーじ・まサトシ氏によるもので、大阪岸和田の本徳寺所蔵の肖像画を基にデザインされ、戦国武将としての猛々しさよりも智将・文化人としての光秀公を表現したものになっており、像の足元には、亀岡市特有の朝霧が配置されている。

光秀像の両隣にあるのは元々のシャチホコ広場の名前の由来の天守閣にあった鯱瓦の複製。現物は江戸末期の1852年に鋳造されたものが明治維新後の廃城により払い下げられ、その後1880年(明治13年)に京都府医学校(現京都府立医大)の講堂に使われていたが、現在は1対の片方(吽形)のみ府立医大で保存されている(もう片方(阿形)は破壊された)。この複製は1995年に亀岡ロータリークラブにより復元されたもので、片方の土台には亀岡城の天守が描かれている(下の写真1)。

明智光秀公築城亀山城阯の碑(下の写真2)も建つ光秀広場の南側には東西に南郷池が広がる。前述したように丹波亀山城の外堀。城の南側は、内堀、外堀、惣堀の三重の堀と御土居がめぐり、堅牢な構えを呈しているが、北側の搦手は、この外堀が一重にめぐらされているだけ。これは、有事の際には、大堰川(保津川)の流れを塞き止め、北側の水田を一気に大きな堀となるように設計したため。実際には池の東西には川が続いており、市街地の南にある竜ヶ尾山の北麓から流れ出し大堰川に注ぐ雑水川の一部。

池の北東部にも広場もあり、春の桜並木が美しい。また、池はギンヤンマやシオカラトンボ、アキアカネを始め約40種類が生息しているトンボの楽園。これだけ多くの種類に富んだ生息地は、数が少なく貴重だそうだ。

池の南側が亀山城の本丸跡で、南郷池の東の端辺りに外堀にあった5つの門の一つで、北東部の出入口となる保津門があった。ちなみに他の4つの門は、東側に雷門、南側に古世門と大手門、西側に西門があった。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.7540989602637665&type=1&l=223fe1adec


亀岡市文化資料館に向かうが続く

  • 写真1 復元亀山城鯱瓦

    写真1 復元亀山城鯱瓦

  • 写真2 明智光秀公築城亀山城阯の碑

    写真2 明智光秀公築城亀山城阯の碑

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