2022/05/19 - 2022/05/19
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gianiさん
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最盛期には、世界の銀生産量の3割を占めた石見銀山。
1543年に端を発する西洋人の往来は、石見の銀が目的でした。
アジアで唯一銀を産出した石見銀山は、巨大な中国経済圏の貨幣経済を支えました。
16世紀に大きく進展したグローバル化の主役・原動力は、地味県島根の中でも特に地味な石見地方にあります。
時代が止まった大森集落を含む旧仁摩町は、テレビドラマ「砂時計」の主要ロケ地です。
用語
間歩(まぶ):坑道とその周辺の施設
灰吹法:鉱石から銀を製錬する技法。後半の工程で、灰に不純物を付着させることに由来。最古の記録は旧約聖書中にあり、3000年前のものである。
天領:江戸幕府直轄地。重要な地域は奉行、通常は代官が江戸から派遣された。
地役人:少数の中央官僚を補佐する現地採用の役人。代々世襲した。
- 旅行の満足度
- 5.0
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訳あって広島発。
2時間超で到着。
浜田行バスは、石見銀山世界遺産センターを経由する便利な足です。 -
自動車立ち入り禁止の世界遺産エリア。
ビジター用の巨大な無料駐車場が、ここにあります。
ここの見所は無料の展示スペース。
見学後、シャトルバスで現場へ向かいます。石見銀山世界遺産センター 美術館・博物館
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石見銀山
1526年に博多商人の神屋寿貞が出雲の鷺銅山へ買付に行く航海で、光を反射して輝く山を目にします。仙ノ山(銀峯山)と呼ばれ、かつて銀を露天掘りしていたと訊き、鉱山開発を始めました。
戦国大名大内氏は、博多商人と手を組んで明や朝鮮との貿易を独占していました。大内氏は、銀の積出港として鞆ヶ浦を整備しました。 -
銀が足りない!
中国を中心とするアジア経済圏は、深刻な貨幣不足(銀不足)に直面していました。明は国防予算の増加に伴い、税を銀で納入させる制度を発足。朝鮮の上流階級も、明から高級品を買うのに多額の銀が必要になりました。
日本は、明の絹製品、朝鮮の木綿を購入するために銅を輸出しました。
石見銀山は、銀山を持たなかったアジア経済にとって朗報でした。 -
西洋人を誘導した銀
アジア進出を先駆けたスペイン・ポルトガルの主なターゲットは明国だったので、決済手段として銀が必要になります。石見銀山の情報は明を通して西洋にも伝わり、1543年の鉄砲伝来以降の南蛮貿易が始まります。決済は、もちろん銀でした。
銀の価値は世界共通で、金よりも遥かに流通量が多いので、銀貨は貿易の際の通貨として最適でした。
写真は、1595年発行の日本図。朝鮮半島が顕著なように全体が大ざっぱな中、石見国は精度が高く、石見銀山も記載されています。 -
灰吹法(製錬)
鉱石や粉鉱には様々な物質が含まれており、そこから銀だけを取り出す必要があります。灰吹法は日本でも古来から行われていた。1533年に神屋寿貞は、朝鮮から宗丹と桂寿を招聘し、銀の産出量は飛躍的に向上した。以後、国内の鉱山にも伝播する。石見銀山は、先端技術の発信地でもあった。 -
銀山争奪戦
銀山周辺は大内氏の配下にありましたが、緩い統治だったために、地元勢力の反逆に遭うことも屡々。石見城・矢筈城・矢滝城といった山城が築かれ、防衛に当たりました。その後は尼子氏、毛利氏の手に渡ります。 -
御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん 1560年)
毛利元就が正親町天皇の即位料として献上した180kgの銀。
銀は軍資金に充てられただけでなく、朝廷や幕府へ献上して、家柄を高める政治的アイコンとしても用いられました。
毛利元就は、銀の積出港として温泉津を整備しました。 -
文禄石州丁銀(1593年 複製)
天下統一を果たした豊臣秀吉は毛利氏の銀山所有を認め、銀を納めさせる形で間接支配しました。写真は文禄の役(最初の朝鮮出兵)に際し、毛利輝元が秀吉へ献上した銀貨。 -
徳川政権下
関ヶ原の合戦で西軍に与した毛利輝元は敗軍の将となり、石見銀山を含む領地の大半を没収されます。合戦の10日後に銀山の経営は徳川直営になります。鉱山経営が発達した甲斐(山梨県)出身の大久保長安は、初代銀山奉行として銀山を発展させました。 -
鉱山の敷地は木柵で囲まれ(赤枠)、厳重に守られました。
とはいえ天下太平ということで山城は直ぐに廃止され、間もなく約3,000本の松を一定間隔に植えただけの「垣松」が、境界線になります。 -
鉱床
マグマで加熱加圧された地下水が岩盤の金属を溶かしつつ、地中の割れ目や断層に沿って上昇冷却されて形成されます。
石見銀山の鉱床は、福石と永久の2か所に分類されます。 -
右:福石鉱床
岩石の隙間に生成。地表近くに分布し、自然銀(高品位)が多く含まれます。初期の間歩。
左:永久鉱床
岩石の割れ目に生成。地下深くに分布し、黄銅鉱(含有率が低く製錬が複雑)を多く含みます。福石鉱床が枯渇すると本格的に開発されました。銅も産出します。 -
世界文化遺産として高く評価されるのは、世界経済に与えた影響力のみならず、当時の遺構や記録が十分に残っていることと、自然と共存した持続可能な鉱山運営が行われた点です。
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「大森銀山図解」
江戸後期の作品で、全長24mに及ぶ絵巻。
一番右は、垣松。
「銀堀」と呼ばれる鉱夫が、「四ツ留」と呼ばれる坑道入口へ向かいます。
坑道は、代官所直営の「御直山」と、山師(民間資本)が運営するものに二分されます。御直山には「四ッ留役所」が設置され、採掘物を管理しました。 -
採掘物のうち鉱石以外のものは「柄山」と呼ばれ、「柄山捨場」に捨てられました。子供や非番の銀掘が、捨石に混ざっている鉱石を探しています。
坑道は「鋪(しき)」と呼ばれ、階段や梯子で繋がる部分もありました。
断面を支える「留木」は、木材と石材の2種類があり、「留山師」と呼ばれる専門家もいました。 -
銀掘は、岩盤にタガネを当て、山槌で叩いて採掘しました。
袖の無い上着を着用し、ワラジは前半分のみ、サザエの殻製の灯で照らしました。
作業は5交代制で、1日2回を担当しました。賃金は1回当たり銀2匁=米1升でした。 -
排水
地下水を坑外へ排出するために専用の坑道を掘ったり、木や竹で作られた「水吹子(みずふいご)」と呼ばれるポンプも使用されました。
換気
坑内では、灯から出る煙や石の粉を吸って「けだえ」や「よろけ」と呼ばれる呼吸器疾患が横行しました。そのため唐箕(籾殻を取り除く農具)を改良した「唐箕風箱」(送風機)や煙穴と呼ばれる通気口を掘ったり、排水路に蓋をして水の流れで空気を循環させる等の工夫が施されました。
運搬
不要な石は、「柄山負」が坑外まで運び出しました。鉱石は、銀堀が四ッ留役所まで運び、鉱石と引き換えに賃金を受け取りました(御入用払)。
鏈分(くさりわけ)
山師が運営する間歩から採った鉱石は、山師の取り分(鏈分)と代官所の取り分(荷分)に分かれ、全体の三分の二を鏈分としました。山師の取り分が多いのは、新しい鉱脈の開発に莫大な費用が掛かる事への対価です。 -
通勤は短いに越したことはなく、間歩近くの谷間に集落ができ、銀掘は結婚して家族を設けました。
子供たちは10歳前後で「手子」と呼ばれる使い走りとして間歩で働き、12歳になると柄山負、15歳で銀堀になりました。
女性は、採掘物の選別等を担当しました。
集落のあった谷間からは、女性の装飾品や子供用の玩具が多数発掘されています。 -
銀を取り出す(製錬および精錬)
各集落にある「吹屋」とよばれる製錬所で行われました。
・焼窯
永久鉱床の鉱石は硫黄分を多く含むため、前段階として20日ほど焼いて硫黄分を取り除きます。
①選別(「鏈拵」くさりこしらえ)
土砂を洗い流した鉱石を台石(「たらい石」)の上に載せ、鶴嘴で叩いて細かく砕きます。「足踏み式唐臼」で細かく割ったりもしました。
細かく砕いた鉱石を栗材の「揺り盆」に入れて水の中で揺すると、銀を含む破片だけが盆の底に残ります。 -
②溶かす(灰吹法)
選別した銀鉱石に鉛やマンガンを加え、地面を掘った炉で加熱して溶かします。浮き上がった不純物を取り除き、底に溜まった鉛と銀の化合物(貴鉛)を取り出します(「素吹き」)。
永久鉱床は銅を多く含み、銀が枯渇すると銅を採鉱しました。荒銅に含まれる金銀を回収する技術がヨーロッパから伝わり、貴金属の回収量が増えました(「南蛮吹」)。荒銅の銀を回収する際は、土を盛った炉で加熱します。融点の低い貴鉛が先に溶け出します。 -
素吹きや南蛮吹で化合した貴鉛を、骨灰を敷き詰めた炉(「灰吹床」)で加熱します。吹子で送られた酸素と鉛が化合して灰に溶け出し、還元した銀(「灰吹銀」)が残ります(「灰吹」)。以上が製錬過程。以降は精錬過程です。
灰吹銀を加熱して、銀の純度を高めます(「清吹」)
※灰なら何でも良い訳ではなく、動物の骨を焼いたものを使用します。 -
出土谷の製錬所を1/30の模型で再現。
左列:唐臼(こなし)、ゆりわけ、選別、
中列:素吹、資材置き場、
右列:南蛮吹、灰吹、焼窯。 -
検品・梱包
代官所内の「極印所」で品質検査を行い、代官印を押します。2㎏単位で和紙に包み、20包毎に木箱に詰めて封印し、筵でくるんで「御銀蔵」で保管しました。
輸送
輸送は農閑期を選んで毎年1回行われました。代官所から尾道まで牛馬で運び、 -
大坂までは瀬戸内航路、京都の銀座まで淀川を遡って運ばれ、「銀座」(銀貨造幣所)で丁銀に鋳造されました。10日間の旅程でした。
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江戸時代の貨幣制度
徳川家康は大判小判の金貨を高額貨幣、銅貨を少額貨幣とする貨幣制度を目指したが、金の採掘量(=流通量)の不足や対外貿易の通貨という性格ゆえに、大坂商人を中心に丁銀・豆銀といった銀貨はマルチに活躍しました。金貨は幕府おひざ元の江戸周辺と薩摩のみで流通しました。
貨幣鋳造所は、それぞれ金座・銀座・銅座と呼ばれました。
※上記から、時代劇の水戸黄門で地方の悪徳役人と商人が小判(金貨)を賄賂としてやり取りしている姿は、史実に反している。 -
参考:江戸時代の貨幣価値(幕府の公定レート)
金貨:大判1枚=10両、小判1枚=1両=4分=64朱。
銀貨:1両=丁銀・豆銀60匁(もんめ。重量単位)=4分銀=64朱銀
銅貨:1両=4,000文(寛永通宝の場合)
両替商は秤と睨めっこしている姿が描かれるが、銀貨は秤量貨幣なのと、三井住友鴻池の本店は大坂だからである。
※市井では各貨幣の流通状況等によって、交換比率が変動した。例えば、大判1枚の実勢レートは7両2分、改鋳に伴う金貨や銀貨の含有率の変動など多くの要素が関係する。 -
近代化
明治維新を経て銀山は民間の手に渡り、明治20年には藤田組(現DOWA)に経営が移ります。五か山の一つ「永久坑道」は全長1400mに及びましたが、明治5年の震災で崩壊しており、3年かけて復旧させます。 -
明治28年には、最新技術を投入した清水谷製錬所を稼働させるも、銀は枯渇し、僅か1年半で終わります。ターゲットを銅に切り替えて、明治35年には永久精錬所を稼働。1923年の閉山まで、多くの銅や副産物の金銀を生産します。
大森鉱山ではある程度の製錬を行い、船で温泉津から秋田の小坂製錬所で精錬しました。 -
物資が不足した昭和17年に国策で採算を度外視した採掘がはじまりますが、翌年の豪雨被害で閉山します。
2007年の世界遺産登録と共に、採鉱権は島根県に無料譲渡されました。 -
大森地区
第二代奉行竹村丹後守が奉行所を移転したのに伴い形成された街。
古い建物は、1800年の大火で、ほぼ全焼。 -
城上神社
1577年に毛利元就が建設。
1818年に描かれた天井画は宙を舞う龍で、
真下で手を叩くと音響効果で「龍の鳴き声」が聞こえる。城上神社 寺・神社・教会
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大森代官所
銀の産出激減に伴い、1675年に奉行所から代官所へ格下げ。石見銀山資料館 美術館・博物館
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岡家住宅
精錬した銀を保管する業務に携わった中堅地役人の屋敷。 -
熊谷家住宅
1800年の大火の翌年に建てられた。
地役人の中でも最高クラスの家柄。
財政や秤量などを担当した。重要文化財熊谷家住宅 名所・史跡
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井戸神社
第19代代官井戸平左衛門を祀っています。全国的に多数の餓死者を出した享保の大飢饉中に、幕府の許可を待たずに代官所の米蔵を開き、私財も投じました。貴重なサツマイモの苗を取り寄せて栽培するなど、仁政を敷きました。井戸神社 寺・神社・教会
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青山家住宅
公用で代官所へ来た人が宿泊先として義務付けられた「郷宿」。青山家 名所・史跡
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西性寺
本堂は大火を生き延びた1739年築。
テレビドラマ「砂時計」のロケ地西性寺 寺・神社・教会
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観世音寺
丘の上の寺。写真は、薬師如来。観世音寺 寺・神社・教会
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旧裁判所。
現在は町並み交流センター。町並み交流センター 美術館・博物館
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旧河島家
鉱員を管理する中級の地役人。漂着した異国船の乗員を、長崎まで護送した際の書簡が保管されています。代官所地役人旧河島家 名所・史跡
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柳原家住宅
同心(警察組織の警部に相当)を務めた下級地役人の屋敷。平屋です。柳原家 名所・史跡
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大森から銀山、温泉津へと続く道。
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三宅家
元々は大久保長安が甲斐からスカウトした田辺家の邸宅。
行政手腕に長けた地役人。後に刻印を管理するまで出世する。
三宅家は醫院だった。石見銀山代官所地役人遺宅三宅家 名所・史跡
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栄泉寺
禅寺。飢饉の際に、寺に逗留していた僧が、代官の井戸平左衛門にサツマイモに関する情報提供をした。栄泉寺 寺・神社・教会
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阿部家
甲斐出身の高級地役人。1800年の大火を生き延びた建築が見所。
現在は宿泊施設になっている。阿部家 名所・史跡
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宗岡家
毛利統治時代からの地役人。そのノウハウ故に、大久保長安の下で佐渡金山など各地の鉱山開発に関わる。現在は宿泊施設になっている。宗岡家 名所・史跡
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金森家
郷宿の一つで、造り酒屋も兼ねていました。金森家 名所・史跡
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★五百羅漢
25年かけて18世紀に完成。鉱山の衰退で荒んだ人心を癒し、生産量も増加したと言われます。
※羅漢=悟りの境地に達した者を指す。羅漢寺 寺・神社・教会
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渡辺家住宅
1811年築。銀山柵内に残る唯一の地役人屋敷。渡辺家 名所・史跡
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妙正寺跡
日蓮宗のお寺で、鉱山および商業従事者の信仰が篤かった。
昭和18年の台風で崩壊。以後再建されず。 -
1605年開基、昭和18年の台風で流された大安寺跡には、
初代銀山奉行大久保長安の墓所があります。大久保石見守墓 名所・史跡
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下河原吹屋跡
選別・製錬・精錬設備を集約した代官所直営の施設。
防火性のある壁と高い天井、各部屋には有毒ガスを排気する煙突を備えていました。下河原吹屋跡 名所・史跡
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豊栄神社
毛利元就の統治下では長安寺の境内で、本堂に彼の像が安置されました。
幕末に長州藩が占領した際の陣屋でした。明治維新後に、長州の尊王政策により神社に改変されました。豊栄神社 寺・神社・教会
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清水谷製錬所跡
藤田組が、当時の最先端技術を結集した設備で、明治28年操業。銀を含む鉱石を薬液に漬けて、銀を抽出する湿式製錬法を導入し、坑道入口とはトロッコで結んだ大掛かりな設備。清水谷製錬所跡 名所・史跡
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清水寺
元々は仙ノ山の中腹に位置したが、間歩閉鎖に伴う集落消滅で、明治期に現在地へ移転。伝説の山師、安原伝兵衛が帰依した。山門の前に居座る毘沙門天は江戸時代の作品。清水寺 名所・史跡
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新切間歩
街(大森)に一番近い間歩。御直山の一つで、1715年に疎水坑として掘られた。江戸後期には採掘も行われた。総延長520m。街道沿いという立地からも分かるように、標高の低いところに平行に掘られ、地下水を銀山側へ流した。これにより、鉱山全体の採掘量が大幅に増えた。銀山を代表する「五か山」の一つ。 -
吉岡隼人の墓
毛利時代から石見銀山に従事。経営と鉱脈発見にたけた人物。大久保長安の下で、彼と共に全国の鉱山開発に従事。出雲の称号を家康から賜る。吉岡出雲の墓 名所・史跡
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福神山間歩
有数の産出量を誇った。銀山川の下を通る2本の坑道と1本の通気口から成る。
山師が運営したが、生産低下に伴い代官所が買い取って採掘を続けた。福神山間歩 自然・景勝地
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高橋家住宅
山師たちと役人の連絡役を担う。山師の中でも裕福な家柄。
現在は神社の社務所になっている。高橋家 名所・史跡
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龍源寺間歩
1715年に掘られた御直山。1000ほどの間歩のうち公開されている数少ない存在。五か山の一つ。
坑道は水平に630m伸びており、そのうち158mが一般公開されている。採掘と運搬路の両方の役割を果たした。龍源寺間歩 名所・史跡
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のみと金づちだけの手掘りです。
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左右には、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道「ひ押し坑」があります。
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竪坑(たてこう)
垂直に伸びる坑のこと。排水坑として、100m下の永久坑へ通じます。 -
各間歩の垂直、水平関係。
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観光用の出口を出て右側には、栃畑谷集落が存在しました。銀山最古の労働者集落で、16世紀半ばには既に形成されていました。
栃畑谷 昆布山谷 自然・景勝地
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出口の左側には、昆布山谷集落が存在しました。16世紀後半から明治期にかけて存在しました。集落の入口には、鉱山の神様金山彦命を祀った佐毘売山神社が鎮座します。奥には五か山の一つ、新横相間歩があります。
佐毘売山神社 寺・神社・教会
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バス停に貼ってあったポスター。
石見銀山の公式キャラクター。銀堀のシーンを覚えていれば、
「らとちゃんは、サザエの壺焼きではありません。」というキャプションが通じます。
温泉津を探検した旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11755816 -
おまけ
素吹きの図解 -
おまけ
灰吹きの図解
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