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ポートアデレードにある博物館のうち、もっとも規模が大きいのがこちら、国立鉄道博物館です。<br /><br />オーストラリアは現在では飛行機と自動車での移動、というイメージだと思いますが、開拓時代には鉄道が大きな役割を果たしていました。この博物館はそれらの歴史的な車両を数多く保管・展示しています。子供向けの展示も沢山あるので家族連れにも人気の場所です。<br /><br /><br />

南オーストラリアの博物館(5)国立鉄道博物館

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2021/12/05 - 2021/12/05

26位(同エリア221件中)

旅行記グループ オーストラリアの博物館

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kirinbxx

kirinbxxさん

ポートアデレードにある博物館のうち、もっとも規模が大きいのがこちら、国立鉄道博物館です。

オーストラリアは現在では飛行機と自動車での移動、というイメージだと思いますが、開拓時代には鉄道が大きな役割を果たしていました。この博物館はそれらの歴史的な車両を数多く保管・展示しています。子供向けの展示も沢山あるので家族連れにも人気の場所です。


旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
旅行の手配内容
個別手配
  • 南オーストラリア州ポートアデレードにある国立鉄道博物館です。航空博物館とは隣り合わせです。

    南オーストラリア州ポートアデレードにある国立鉄道博物館です。航空博物館とは隣り合わせです。

  • COVID-19のせいで一時は休館していましたが、現在は開館しています。歩道のところに開館を知らせる看板が出ていました。ただし、かってのような参加型のエキジビションは減ってしまったようです。

    COVID-19のせいで一時は休館していましたが、現在は開館しています。歩道のところに開館を知らせる看板が出ていました。ただし、かってのような参加型のエキジビションは減ってしまったようです。

  • 建物にはかわいいロゴがあり、遠くからでもわかりやすくなっています。

    建物にはかわいいロゴがあり、遠くからでもわかりやすくなっています。

  • こちらが入り口です。広い駐車場もこの左手にありました。

    こちらが入り口です。広い駐車場もこの左手にありました。

  • 現在の入場料は大人が17ドルです。家族割引、高齢者割引などの他、ポートアデレードにある他の博物館も同時に見学する場合の割引などがあります。

    現在の入場料は大人が17ドルです。家族割引、高齢者割引などの他、ポートアデレードにある他の博物館も同時に見学する場合の割引などがあります。

  • 博物館の敷地内を一周するミニトレインがあります。普通は30分に1本運行していて、子ども連れには特に人気があります。うちは大人二人で乗りますけど。レールの幅は457mmです。

    博物館の敷地内を一周するミニトレインがあります。普通は30分に1本運行していて、子ども連れには特に人気があります。うちは大人二人で乗りますけど。レールの幅は457mmです。

  • おや、日本語の表示もありますね。アデレードは日本では知名度の低い都市ですが、語学留学や語学研修で来る若者は少しはいるからなのか、鉄道ファンははるばるここまで来る人が意外と多いのか?

    おや、日本語の表示もありますね。アデレードは日本では知名度の低い都市ですが、語学留学や語学研修で来る若者は少しはいるからなのか、鉄道ファンははるばるここまで来る人が意外と多いのか?

  • 青空の下、ゴトゴトと走って行きます。パビリオンはかなり大きな物ですが、中に収まりきらずに野外展示になっている列車もあります。

    青空の下、ゴトゴトと走って行きます。パビリオンはかなり大きな物ですが、中に収まりきらずに野外展示になっている列車もあります。

  • 整備場らしき建物の中を通っていきました。

    整備場らしき建物の中を通っていきました。

  • 街中にある博物館の敷地内ですから、それほどの距離ではありません。あちらこちらに、整備中だったり、もしかしたらもう整備も諦めたのかと思えるような車体もあります。

    街中にある博物館の敷地内ですから、それほどの距離ではありません。あちらこちらに、整備中だったり、もしかしたらもう整備も諦めたのかと思えるような車体もあります。

  • ミニトレインを引っ張っているのはこれです。

    ミニトレインを引っ張っているのはこれです。

  • 運転手さんが機関部を見せてくれました。

    運転手さんが機関部を見せてくれました。

  • 子どもを連れて近くで見せているお父さんもいました。希望すれば、警笛を鳴らすこともできるみたいです。

    子どもを連れて近くで見せているお父さんもいました。希望すれば、警笛を鳴らすこともできるみたいです。

  • この博物館の前身は、1963年から計画され、1970年12月に開館したマイルエンド鉄道博物館です。鉄道保護を訴える人々の努力で開かれたのですが露天展示が多く展示物の劣化が心配されていました。1987年、オーストラリア連邦政府の「オーストラリア200周年記念助成金」200万ドルを獲得し、1988年12月にPort dock station railway museumという名前で開館しました。これはその記念碑です。

    この博物館の前身は、1963年から計画され、1970年12月に開館したマイルエンド鉄道博物館です。鉄道保護を訴える人々の努力で開かれたのですが露天展示が多く展示物の劣化が心配されていました。1987年、オーストラリア連邦政府の「オーストラリア200周年記念助成金」200万ドルを獲得し、1988年12月にPort dock station railway museumという名前で開館しました。これはその記念碑です。

  • 現在は多くが屋内展示ですが、それでもやはり屋外展示のものもあります。

    現在は多くが屋内展示ですが、それでもやはり屋外展示のものもあります。

  • こちらはディーゼル機関車です。<br /><br />米国のアメリカン・ロコモティブ(アルコ)が「世界モデル」として製造した電気式ディーゼル機関車FD-6シリーズの輸出用バージョンであるDL-500Bを、オーストラリアのA.E.グッドウィン社がライセンス生産したものです。

    こちらはディーゼル機関車です。

    米国のアメリカン・ロコモティブ(アルコ)が「世界モデル」として製造した電気式ディーゼル機関車FD-6シリーズの輸出用バージョンであるDL-500Bを、オーストラリアのA.E.グッドウィン社がライセンス生産したものです。

  • なにやらかわいらしい。それも当然で、この小さな機関車は公共交通に利用されたものではなく、クイーンズランド州の製糖工場で構内貨車として使われていたものです。タンク機関車という水や石炭を機関車本体に積み込むタイプのもので、小回りが効く、後部視界が良いなどの長所があります。<br /><br />現在ではもちろんディーゼル機関車ですし、古くは英国で製造された蒸気機関車が使われていました。しかし、第一次大戦後、マイルエンドにあったペリーエンジニアリングが工場などで使うための小型機関車を製造していました。これはその1台で1946年に製造され、1978年に運用停止後保管されていたものです。<br /><br />このタイプは合計13台が作られ、うち7台は構内鉄道や観光用として運用中、4台は静的保存がされているようです。<br /><br />タンク機関車と言う、水と石炭を機関車本体に積載するタイプ

    なにやらかわいらしい。それも当然で、この小さな機関車は公共交通に利用されたものではなく、クイーンズランド州の製糖工場で構内貨車として使われていたものです。タンク機関車という水や石炭を機関車本体に積み込むタイプのもので、小回りが効く、後部視界が良いなどの長所があります。

    現在ではもちろんディーゼル機関車ですし、古くは英国で製造された蒸気機関車が使われていました。しかし、第一次大戦後、マイルエンドにあったペリーエンジニアリングが工場などで使うための小型機関車を製造していました。これはその1台で1946年に製造され、1978年に運用停止後保管されていたものです。

    このタイプは合計13台が作られ、うち7台は構内鉄道や観光用として運用中、4台は静的保存がされているようです。

    タンク機関車と言う、水と石炭を機関車本体に積載するタイプ

  • ちなみに現在使われているのはこちらのようです。いずれはここに入るのかな???

    ちなみに現在使われているのはこちらのようです。いずれはここに入るのかな???

  • メインの建物は、RON FITCH PAVILIONと名付けられています。ロン・フィッチとは、南オーストラリア鉄道だけではなく、西オーストラリア政府鉄道、コモンウェルス鉄道などでも重要な仕事をした著名な鉄道エンジニアであり王立鉄道委員会のメンバーだった人物です。

    メインの建物は、RON FITCH PAVILIONと名付けられています。ロン・フィッチとは、南オーストラリア鉄道だけではなく、西オーストラリア政府鉄道、コモンウェルス鉄道などでも重要な仕事をした著名な鉄道エンジニアであり王立鉄道委員会のメンバーだった人物です。

  • 館内を巡っているとこういう掲示を見つけました。<br /><br />オーストラリアでの鉄道に関する表現についての簡単な説明です。蒸気機関車において、動輪と、動輪ではない車輪の配置を「車軸配置」と呼ぶそうです。英語ではWheel arrangementです。4-6-0などと名称に使われていれば、3種類の車輪が何個あるかがわかるんですねぇ。(鉄道マニアではない私はこのくらいのことで、大いに関心してしまうのです)。

    館内を巡っているとこういう掲示を見つけました。

    オーストラリアでの鉄道に関する表現についての簡単な説明です。蒸気機関車において、動輪と、動輪ではない車輪の配置を「車軸配置」と呼ぶそうです。英語ではWheel arrangementです。4-6-0などと名称に使われていれば、3種類の車輪が何個あるかがわかるんですねぇ。(鉄道マニアではない私はこのくらいのことで、大いに関心してしまうのです)。

  • これはGクラス 4-6-0 No.1という蒸気機関車です。4-6-0ですから、先輪、動輪、従輪がそれぞれ4本、6本、なし、ということですね。なるほど。<br /><br />この蒸気機関車は1914年にクライド・エンジニアリング社で製造され、トランスオーストラリアンと呼ばれた鉄道路線で利用されました。この路線は、他州から砂漠で隔てられた西オーストラリア州にとって、最初の実用的な陸上交通手段として計画されたものです。1912年に建設が始まり、第一次世界大戦中も少しずつ進められた建設作業は戦後ペースアップして1917年に完成、それまで州ごとの鉄道会社しかなかったので、この路線を運営するために新たにコモンウェルス鉄道が設立されました。現在のオーストラリア国鉄の前身です。

    これはGクラス 4-6-0 No.1という蒸気機関車です。4-6-0ですから、先輪、動輪、従輪がそれぞれ4本、6本、なし、ということですね。なるほど。

    この蒸気機関車は1914年にクライド・エンジニアリング社で製造され、トランスオーストラリアンと呼ばれた鉄道路線で利用されました。この路線は、他州から砂漠で隔てられた西オーストラリア州にとって、最初の実用的な陸上交通手段として計画されたものです。1912年に建設が始まり、第一次世界大戦中も少しずつ進められた建設作業は戦後ペースアップして1917年に完成、それまで州ごとの鉄道会社しかなかったので、この路線を運営するために新たにコモンウェルス鉄道が設立されました。現在のオーストラリア国鉄の前身です。

  • 総重量およそ106トン、石炭容量71トン、標準ゲージで使用。そういえばこの国には、ゲージの幅が3種類もあり、過去に訪れた小さな博物館でそういう展示を見たことがあります。<br /><br />1914年3月に完成済区間を走り始め、1917年から20年間、ポートオーガスタとカルグーリーの間を往復し続けました。C型蒸気機関車の登場後はポートビリーとポートオーガスタ間を担当、第二次世界大戦中は兵站列車として働きました。1945年、完全に退役しています。

    総重量およそ106トン、石炭容量71トン、標準ゲージで使用。そういえばこの国には、ゲージの幅が3種類もあり、過去に訪れた小さな博物館でそういう展示を見たことがあります。

    1914年3月に完成済区間を走り始め、1917年から20年間、ポートオーガスタとカルグーリーの間を往復し続けました。C型蒸気機関車の登場後はポートビリーとポートオーガスタ間を担当、第二次世界大戦中は兵站列車として働きました。1945年、完全に退役しています。

  • この日一番目立っていたのはこれ。<br />400 Class 4-8-2+2-8-4 No.409です。<br /><br />ニューサウスウェールズ鉄道で働いたウィリアム・ガーラット技師の考案した関節式蒸気機関車(ガーラット式蒸気機関車)で、実用化に協力してライセンスを持っていたのはマンチェスターのベイヤー・ピーコック社でした。4-8-2の通常型蒸気機関車2台を背中合わせに重連にしたような、つまりは2台分の足回りを持ちつつ、機関士は一人でいいので運用しやすい、というもののようです。<br /><br />第二次世界大戦が終わり、鉄鉱石の需要と生産が増大したためにそれまでのT型機関車より強力なものを、ということで導入したのですが、1951年発注、到着が2年後になってしまいました。そして、わずか10年後にはディーゼルという次世代機関車が登場し、結局1963年ごろには主力機関車の地位を譲ることになりました。

    この日一番目立っていたのはこれ。
    400 Class 4-8-2+2-8-4 No.409です。

    ニューサウスウェールズ鉄道で働いたウィリアム・ガーラット技師の考案した関節式蒸気機関車(ガーラット式蒸気機関車)で、実用化に協力してライセンスを持っていたのはマンチェスターのベイヤー・ピーコック社でした。4-8-2の通常型蒸気機関車2台を背中合わせに重連にしたような、つまりは2台分の足回りを持ちつつ、機関士は一人でいいので運用しやすい、というもののようです。

    第二次世界大戦が終わり、鉄鉱石の需要と生産が増大したためにそれまでのT型機関車より強力なものを、ということで導入したのですが、1951年発注、到着が2年後になってしまいました。そして、わずか10年後にはディーゼルという次世代機関車が登場し、結局1963年ごろには主力機関車の地位を譲ることになりました。

  • この装飾は、2020年2月の、インディアン・パシフィック鉄道の50周年を記念したものです。この409号は狭軌区を走った最後の蒸気機関車のひとつです。紋章と旗はそのときに使われていたもの。

    この装飾は、2020年2月の、インディアン・パシフィック鉄道の50周年を記念したものです。この409号は狭軌区を走った最後の蒸気機関車のひとつです。紋章と旗はそのときに使われていたもの。

  • オーストラリアは鉄鉱石や石炭を多く産出はするものの、それらを使った重工業の発展はとても遅い国でした。蒸気機関車にとってかわるべきディーゼル機関車を製造できる企業がなかったため、主要な路線のディーゼル化は遅れがちになり、初期のディーゼル機関車は海外に発注されていました。<br /><br />クライドエンジニアリング社がやっとゼネラルモーターズの機関車部門であったEMDからライセンスを取得したのが1951年という遅さです。<br /><br />EMDのF-7という機関車をオーストラリアで使えるように設計を変更してGMシリーズと名付けています。

    オーストラリアは鉄鉱石や石炭を多く産出はするものの、それらを使った重工業の発展はとても遅い国でした。蒸気機関車にとってかわるべきディーゼル機関車を製造できる企業がなかったため、主要な路線のディーゼル化は遅れがちになり、初期のディーゼル機関車は海外に発注されていました。

    クライドエンジニアリング社がやっとゼネラルモーターズの機関車部門であったEMDからライセンスを取得したのが1951年という遅さです。

    EMDのF-7という機関車をオーストラリアで使えるように設計を変更してGMシリーズと名付けています。

  • これはその2番目、GM2でブロークン・ヒルとポートピリー間の標準軌の路線が開通したときに掲げられたボードがつけられています。

    これはその2番目、GM2でブロークン・ヒルとポートピリー間の標準軌の路線が開通したときに掲げられたボードがつけられています。

  • こちらは、BHP No.4です。BHPは2001年に英国のビリトンと二元上場会社というっ方式で統合して、世界最大の鉱業会社となっていますが、それまでは「ビッグオーストラリア」という愛称を持つオーストラリア最大級の企業でした。鉱山と、鉄工所のある街や積み出し港は自社で鉄道をひいて運搬していました。

    こちらは、BHP No.4です。BHPは2001年に英国のビリトンと二元上場会社というっ方式で統合して、世界最大の鉱業会社となっていますが、それまでは「ビッグオーストラリア」という愛称を持つオーストラリア最大級の企業でした。鉱山と、鉄工所のある街や積み出し港は自社で鉄道をひいて運搬していました。

  • 遠くフィラデルフィアのボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW)で製造され、船でオーストラリアまで運ばれてきた機関車なんですね。BLWは、長年、蒸気機関車の世界最大の生産者として多くの製品を送りだしています。日本の鉄道黎明期を支えたのもここで製造された機関車なのだとか。これはアイアン・ノブという鉄鉱山地帯と、ワイアラという鉄鋼と造船が盛んだった街を結んでいました。<br />アイアン・ノブとワイアラの旅行記は、こちらです。https://4travel.jp/travelogue/11689442<br />

    遠くフィラデルフィアのボールドウィン・ロコモティブ・ワークス(BLW)で製造され、船でオーストラリアまで運ばれてきた機関車なんですね。BLWは、長年、蒸気機関車の世界最大の生産者として多くの製品を送りだしています。日本の鉄道黎明期を支えたのもここで製造された機関車なのだとか。これはアイアン・ノブという鉄鉱山地帯と、ワイアラという鉄鋼と造船が盛んだった街を結んでいました。
    アイアン・ノブとワイアラの旅行記は、こちらです。https://4travel.jp/travelogue/11689442

  • 1914年に米国から届いたこの機関車は、1920年には同じBHP製の新型車(ほぼ2倍の性能を持つ)の登場で鉄鉱石運搬の主力からは外れました。1956年にはこの区間は完全にディーゼル化されています。<br /><br />米国から到着した際に外されたエンジンベルを搭載したり、半年かけて修復したのち1969年11月から展示されています。

    1914年に米国から届いたこの機関車は、1920年には同じBHP製の新型車(ほぼ2倍の性能を持つ)の登場で鉄鉱石運搬の主力からは外れました。1956年にはこの区間は完全にディーゼル化されています。

    米国から到着した際に外されたエンジンベルを搭載したり、半年かけて修復したのち1969年11月から展示されています。

  • 1886年に6台導入されたRクラスはそののち改良を受けてRx 4-6-0とされて84台が活躍しました。この93番は1885年製造、1886年3月に広軌で運用がはじまり、主に急勾配が続く南側の幹線で貨物輸送に使用されました。その後、アデレードとマレーブリッジを結ぶインターコロニアル急行にも用いられています。<br />マレーブリッジの旅行記はこちら。https://4travel.jp/travelogue/11696829

    1886年に6台導入されたRクラスはそののち改良を受けてRx 4-6-0とされて84台が活躍しました。この93番は1885年製造、1886年3月に広軌で運用がはじまり、主に急勾配が続く南側の幹線で貨物輸送に使用されました。その後、アデレードとマレーブリッジを結ぶインターコロニアル急行にも用いられています。
    マレーブリッジの旅行記はこちら。https://4travel.jp/travelogue/11696829

  • T Class 4-8-0、通称ビッグベンと呼ばれたこの機関車は南オーストラリアで1900年代初めからほぼ半世紀、大いに活躍しました。当初の目的だった鉱石輸送、第二次世界大戦中の兵站輸送など。

    T Class 4-8-0、通称ビッグベンと呼ばれたこの機関車は南オーストラリアで1900年代初めからほぼ半世紀、大いに活躍しました。当初の目的だった鉱石輸送、第二次世界大戦中の兵站輸送など。

  • Y Class 2-6-0、元はマンチェスターのバイヤー・ピーコック社で製造され、その後複数の企業で合計129台が1885-98年にかけて南オーストラリア鉄道のために製造されました。<br /><br />97号車は1889年にバイヤー・ピーコック社で製造されています。ビクトリア州以外の全オーストラリア植民地で使用され、南オーストラリアでは主力狭軌用機関車として利用されました。

    Y Class 2-6-0、元はマンチェスターのバイヤー・ピーコック社で製造され、その後複数の企業で合計129台が1885-98年にかけて南オーストラリア鉄道のために製造されました。

    97号車は1889年にバイヤー・ピーコック社で製造されています。ビクトリア州以外の全オーストラリア植民地で使用され、南オーストラリアでは主力狭軌用機関車として利用されました。

  • 93番の車輪です。

    93番の車輪です。

  • 1922年、南オーストラリア政府は米国で手腕を振るっていたウィリアム・アルフレッド・ウェブを州鉄道の幹部に迎え入れました。彼は米国式の大型機関車を導入しました。これにより、重連運転は廃止され、より豪華で近代的な客車の導入や、貨物容量の増大、輸送時間の短縮化を可能になりました。これは南オーストラリア鉄道の主任技師だったF. J. Sheaが設計した500クラス 4-8-2です。Tom Barr Smithという固有名詞(開拓時代の南オーストラリアの偉大な慈善家の一人でアデレード大学図書館への寄付で有名な人物に因む)を持っています。独特の色と形ですねぇ。

    1922年、南オーストラリア政府は米国で手腕を振るっていたウィリアム・アルフレッド・ウェブを州鉄道の幹部に迎え入れました。彼は米国式の大型機関車を導入しました。これにより、重連運転は廃止され、より豪華で近代的な客車の導入や、貨物容量の増大、輸送時間の短縮化を可能になりました。これは南オーストラリア鉄道の主任技師だったF. J. Sheaが設計した500クラス 4-8-2です。Tom Barr Smithという固有名詞(開拓時代の南オーストラリアの偉大な慈善家の一人でアデレード大学図書館への寄付で有名な人物に因む)を持っています。独特の色と形ですねぇ。

  • これは700 Class 2-8-2 No.702です。設計は500、600シリーズと同じくF.J.Sheaでこの702番は1926年9月から幹線貨物用機関車として稼働しました。1964年に運用停止しています。

    これは700 Class 2-8-2 No.702です。設計は500、600シリーズと同じくF.J.Sheaでこの702番は1926年9月から幹線貨物用機関車として稼働しました。1964年に運用停止しています。

  • こういう部分を見るといかにも「無骨な機械」という感じがします。

    こういう部分を見るといかにも「無骨な機械」という感じがします。

  • 1906年から1923年にかけて、アデレードとメルボルンの間を走った夜間急行列車のために14両の寝台車が製造されました。それぞれの車両にはビクトリア州と南オーストラリア州の河川に因んだ名前がつけられました。これはそのひとつ、「オンカパリンガ」です。

    1906年から1923年にかけて、アデレードとメルボルンの間を走った夜間急行列車のために14両の寝台車が製造されました。それぞれの車両にはビクトリア州と南オーストラリア州の河川に因んだ名前がつけられました。これはそのひとつ、「オンカパリンガ」です。

  • 客車は中に入れるものも多いので、入ろうと思ったらこんな表示が。中はかなり豪華な仕様だったようですが、残念なことに現役を引退したあと売却され、内部はほとんど失われたそうです。

    客車は中に入れるものも多いので、入ろうと思ったらこんな表示が。中はかなり豪華な仕様だったようですが、残念なことに現役を引退したあと売却され、内部はほとんど失われたそうです。

  • 1911年から、アデレード中心部のサウステラスから、郊外のグレネルグまでを走っていた(今はトラムが走っている路線です)郊外列車で使われた客車です。

    1911年から、アデレード中心部のサウステラスから、郊外のグレネルグまでを走っていた(今はトラムが走っている路線です)郊外列車で使われた客車です。

  • こちらは二等車です。

    こちらは二等車です。

  • 単なるロングシートでした。

    単なるロングシートでした。

  • 長距離を走るとなれば、車内でもゆったりとくつろぎたい、と思う人たちはいますから、こういうラウンジカーも用意されていました。

    長距離を走るとなれば、車内でもゆったりとくつろぎたい、と思う人たちはいますから、こういうラウンジカーも用意されていました。

  • そして食堂車。

    そして食堂車。

  • キッチンもりっぱなものです。

    キッチンもりっぱなものです。

  • 特別な日には特別なメニュー表が用意されました。1957年のクリスマスディナーは、スペイン産のオリーブ、ミネストローネ、焼いたフエダイ、肉料理は七面鳥、豚、牛から選べたんですね。

    特別な日には特別なメニュー表が用意されました。1957年のクリスマスディナーは、スペイン産のオリーブ、ミネストローネ、焼いたフエダイ、肉料理は七面鳥、豚、牛から選べたんですね。

  • 展示は車両だけではありません。’The Long Journey’ - Women in Railwaysと題されたテーマ展示がありました。<br /><br />この広いオーストラリア大陸での鉄道敷設は多くの人、特に女性の生活に変化をもたらしました。鉄道敷設の重要な職についていた多くの男性は家族を建設現場に同伴しました。教育や健康維持など条件が厳しい中での生活でした。一方、鉄道を利用して旅行を楽しむ女性も現れたのです。

    展示は車両だけではありません。’The Long Journey’ - Women in Railwaysと題されたテーマ展示がありました。

    この広いオーストラリア大陸での鉄道敷設は多くの人、特に女性の生活に変化をもたらしました。鉄道敷設の重要な職についていた多くの男性は家族を建設現場に同伴しました。教育や健康維持など条件が厳しい中での生活でした。一方、鉄道を利用して旅行を楽しむ女性も現れたのです。

  • 当時の写真や新聞記事など興味深い展示があります。ETIQUETTEと題されたパネルでは、1885年に出版されたエチケットに関する書籍からの抜粋がおもしろかったですね。<br /><br />「列車の中で紳士は、女性のために席を立つことを要求されませんが、本物の育ちのよい紳士は、女性を立たせたり、劣悪な環境で不便な思いをさせるくらいなら席を立つでしょう」

    当時の写真や新聞記事など興味深い展示があります。ETIQUETTEと題されたパネルでは、1885年に出版されたエチケットに関する書籍からの抜粋がおもしろかったですね。

    「列車の中で紳士は、女性のために席を立つことを要求されませんが、本物の育ちのよい紳士は、女性を立たせたり、劣悪な環境で不便な思いをさせるくらいなら席を立つでしょう」

  • そして戦争は、オーストラリアの女性に戦地に出た男性に変わって鉄道関係でも女性の活躍を必要としました。戦後は女性も男性と同様に鉄道会社に雇用されるようになったのです。

    そして戦争は、オーストラリアの女性に戦地に出た男性に変わって鉄道関係でも女性の活躍を必要としました。戦後は女性も男性と同様に鉄道会社に雇用されるようになったのです。

  • 駅や線路に関する設備の展示もあります。これは駅長室。

    駅や線路に関する設備の展示もあります。これは駅長室。

  • こちらは昔の制御室です。

    こちらは昔の制御室です。

  • COVID-19があらゆることに制限をもたらすまでは、これと同じ物が部別の建物にあり、子どもたちが遊べたのですが・・<br /><br />他にも膨大なコレクションがあり、展示物は時期によって入れ替わったり、屋外のものが屋内に、またその逆に移動したりもしているそうです。<br /><br />今回は航空博物館や海洋博物館と合わせて1日で回りましたが、鉄道に関する知識がある人は一日いても飽きないのではないでしょうか。

    COVID-19があらゆることに制限をもたらすまでは、これと同じ物が部別の建物にあり、子どもたちが遊べたのですが・・

    他にも膨大なコレクションがあり、展示物は時期によって入れ替わったり、屋外のものが屋内に、またその逆に移動したりもしているそうです。

    今回は航空博物館や海洋博物館と合わせて1日で回りましたが、鉄道に関する知識がある人は一日いても飽きないのではないでしょうか。

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