門司・関門海峡旅行記(ブログ) 一覧に戻る
写真は門司港タワーから見た門司の街と山々の風景です。<br />全体的に私の思い出が淡い半透明のベールで覆われています。<br />(写真の技術がただ低いだけだと思いますが)<br />街は明るいイルミネーションに照らされ知らない顔つきを<br />していましたが、<br />山々の形は昔と同じで懐かしさを感じました。<br /><br />山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく 牧水<br /><br />私の想い出もあの山の麓に眠っているようです。<br /><br />このブログは「旅の道草」として私の故里の思い出が主体と<br />なります。<br />今回の旅にあまり関係のない内容ですので<br />お時間のない方はスキップしていただければと思います。<br /><br />今回の旅のもう一つ目的は私が生れた故郷門司を訪ねることでした。<br />今も私の記憶の奥底に残っている故郷の原景は今はどうなっている<br />のだろう。<br />訪れるのが怖いような、そしてときめく様な不思議な想いが<br />胸の中に浮かんで来ました。<br /><br />私が37歳の時に故郷について書いた文書が残っていましたので<br />引用いたします(少し長いのですが…)<br /><br />“ふるさと随想”<br />私が37歳の時に書いた文書(1988年12月10日)<br /><br />『風の中を歩く』<br />「夢の総量は空気であった…」<br />の冒頭で始まるのは坂口安吾の「ふるさとに寄する賛歌」であった<br />と思う。<br />私の故郷である北九州市の門司区(当時は門司市と呼ばれていた)の<br />思い出も淡い半透明のベールで覆われて今でも懐かしさを感じさせる。<br />昭和35年の秋までの短い11年であったが、<br />私の幼年期と少年前期の重要な時間の中でも私のメンタリティの基盤を<br />形成したようである。<br />私の記憶に残る“ふるさと”の風景は空と雲と風の音と暖かい陽だまり、<br />草の香り、そして家の裏山に続く風師山のモナドック(残丘)の頂きに<br />続いている山笹のスロープである。<br />眼下の関門海峡には長い航路で赤錆の浮いた大小の貨物船が行き交う。<br />大河のように潮の流れが青い渦を作る海峡の中央に取り残された砂州<br />のような船島<br />(通称“巌流島”と呼ばれていた)が白い波に洗われている。<br />夕暮れになれば島の灯台の灯が点滅を始める。<br />小学校に上がる前の頃は、縁側に座って、海峡の船を眺め、<br />対岸に並ぶ下関の街を見つめ、そのまた向こうに続く白い空を<br />飽きることなく眺めていたものである。<br />太陽は裏山の後ろから登るので朝の明るさは遅く始まる。<br />夕陽は目前の下関の山々の裏に沈みきるまで、残照が赤く山の端を<br />染め、ゆらゆらと赤金色の帯が海峡を渡り、山の斜面を駆け登り、<br />私の座っている座敷の奥の襖を黄金の光で輝かせ、柱の陰影を深くし、<br />そしてたちまち赤紫色に転ずる時間の流れを楽しんでいた。<br />幼い心にも港の街から吹き上げて来る夕風の中に、街の音を聞き、<br />人の声を聞き分けることが出来る時刻は、妙に甘くもの悲しい感触が<br />心の中に広がったことを思い出す。<br />今でも夢の中にふるさとの風景と一緒にこの感触が浮かび上がる<br />時がある。<br /><br />裏山の後ろはソ連で下関の山の向こうはアメリカだと兄に言われ、<br />いつかあの山々を越えて行きたいというあこがれに胸がときめいた<br />ものだ。<br />題名は忘れたが、今でも時々口ずさむ歌がある。<br />遠い山の向こうの知らない街よ<br />いつか馬車に乗って行きたい街よ<br /><br />この歌を口ずさむとき、数十年の時空を超えて、小さな宇宙の<br />陽だまりの中で息づいていたあこがれの念が蘇って来る。<br />この想いが私の潜在意識に組み込まれてしまったためだろうか、<br />青年期には憑かれたように旅を続けるようになった。<br />幾山河越え去り行かばさみしさの果てなむ国ぞけふも旅行く―牧水<br /><br />二十歳のころはこの歌の通りに人生を旅で暮らしたいとあこがれた<br />時もあったが、<br />社会人となり、この思いは“人生の旅”という形に転化された<br />ようである。<br />この旅の途中で妻に巡り合い、子供は娘が三人となりにぎやかな<br />同行人が増え、<br />さびしさを感ずるひまもない道中となってしまった。<br />今日もまた心の鉦(かね)を打ちならし打ちならしつつあくがれゆく<br />ー牧水<br /><br />人生の風光を家族三人で旅を続けるのもまた楽しいものである。<br /><br />もう30数年前に私の故里の門司へ家内と娘たち3人とで<br />訪れたことがあります。<br />その時はスペースワールドで遊んだり、別府の地獄温泉を見たり、<br />子供たちと阿蘇山の火口をのぞき込んだりして楽しみました。<br />ワイワイ、ガヤガヤの家族旅行でしたので今回は一人でゆっくりと<br />私の故里を訪ねたいと思っています。<br /><br />以下で門司から博多までの旅程の中で私の故里を訪れた時の<br />顛末を報告いたします。<br />

神々が集う出雲へ行こう!ふるさとに寄する賛歌、門司風師編!(2021年12月1日~7日)No.7-1

18いいね!

2021/12/01 - 2021/12/07

396位(同エリア1223件中)

2013tomo

2013tomoさん

この旅行記のスケジュール

この旅行記スケジュールを元に

写真は門司港タワーから見た門司の街と山々の風景です。
全体的に私の思い出が淡い半透明のベールで覆われています。
(写真の技術がただ低いだけだと思いますが)
街は明るいイルミネーションに照らされ知らない顔つきを
していましたが、
山々の形は昔と同じで懐かしさを感じました。

山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく 牧水

私の想い出もあの山の麓に眠っているようです。

このブログは「旅の道草」として私の故里の思い出が主体と
なります。
今回の旅にあまり関係のない内容ですので
お時間のない方はスキップしていただければと思います。

今回の旅のもう一つ目的は私が生れた故郷門司を訪ねることでした。
今も私の記憶の奥底に残っている故郷の原景は今はどうなっている
のだろう。
訪れるのが怖いような、そしてときめく様な不思議な想いが
胸の中に浮かんで来ました。

私が37歳の時に故郷について書いた文書が残っていましたので
引用いたします(少し長いのですが…)

“ふるさと随想”
私が37歳の時に書いた文書(1988年12月10日)

『風の中を歩く』
「夢の総量は空気であった…」
の冒頭で始まるのは坂口安吾の「ふるさとに寄する賛歌」であった
と思う。
私の故郷である北九州市の門司区(当時は門司市と呼ばれていた)の
思い出も淡い半透明のベールで覆われて今でも懐かしさを感じさせる。
昭和35年の秋までの短い11年であったが、
私の幼年期と少年前期の重要な時間の中でも私のメンタリティの基盤を
形成したようである。
私の記憶に残る“ふるさと”の風景は空と雲と風の音と暖かい陽だまり、
草の香り、そして家の裏山に続く風師山のモナドック(残丘)の頂きに
続いている山笹のスロープである。
眼下の関門海峡には長い航路で赤錆の浮いた大小の貨物船が行き交う。
大河のように潮の流れが青い渦を作る海峡の中央に取り残された砂州
のような船島
(通称“巌流島”と呼ばれていた)が白い波に洗われている。
夕暮れになれば島の灯台の灯が点滅を始める。
小学校に上がる前の頃は、縁側に座って、海峡の船を眺め、
対岸に並ぶ下関の街を見つめ、そのまた向こうに続く白い空を
飽きることなく眺めていたものである。
太陽は裏山の後ろから登るので朝の明るさは遅く始まる。
夕陽は目前の下関の山々の裏に沈みきるまで、残照が赤く山の端を
染め、ゆらゆらと赤金色の帯が海峡を渡り、山の斜面を駆け登り、
私の座っている座敷の奥の襖を黄金の光で輝かせ、柱の陰影を深くし、
そしてたちまち赤紫色に転ずる時間の流れを楽しんでいた。
幼い心にも港の街から吹き上げて来る夕風の中に、街の音を聞き、
人の声を聞き分けることが出来る時刻は、妙に甘くもの悲しい感触が
心の中に広がったことを思い出す。
今でも夢の中にふるさとの風景と一緒にこの感触が浮かび上がる
時がある。

裏山の後ろはソ連で下関の山の向こうはアメリカだと兄に言われ、
いつかあの山々を越えて行きたいというあこがれに胸がときめいた
ものだ。
題名は忘れたが、今でも時々口ずさむ歌がある。
遠い山の向こうの知らない街よ
いつか馬車に乗って行きたい街よ

この歌を口ずさむとき、数十年の時空を超えて、小さな宇宙の
陽だまりの中で息づいていたあこがれの念が蘇って来る。
この想いが私の潜在意識に組み込まれてしまったためだろうか、
青年期には憑かれたように旅を続けるようになった。
幾山河越え去り行かばさみしさの果てなむ国ぞけふも旅行く―牧水

二十歳のころはこの歌の通りに人生を旅で暮らしたいとあこがれた
時もあったが、
社会人となり、この思いは“人生の旅”という形に転化された
ようである。
この旅の途中で妻に巡り合い、子供は娘が三人となりにぎやかな
同行人が増え、
さびしさを感ずるひまもない道中となってしまった。
今日もまた心の鉦(かね)を打ちならし打ちならしつつあくがれゆく
ー牧水

人生の風光を家族三人で旅を続けるのもまた楽しいものである。

もう30数年前に私の故里の門司へ家内と娘たち3人とで
訪れたことがあります。
その時はスペースワールドで遊んだり、別府の地獄温泉を見たり、
子供たちと阿蘇山の火口をのぞき込んだりして楽しみました。
ワイワイ、ガヤガヤの家族旅行でしたので今回は一人でゆっくりと
私の故里を訪ねたいと思っています。

以下で門司から博多までの旅程の中で私の故里を訪れた時の
顛末を報告いたします。

同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス 新幹線 JR特急 JRローカル 私鉄 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行なし)
利用旅行会社
阪急交通社

PR

  • 早朝ホテルを出ました。<br />昨晩”焼きカレー”を頂いた「門司港茶寮」の場所を確認します。<br />門司港駅を出てロータリーを渡り、茶色看板のコンビニを過ぎたら<br />その後ろの通りにあります。

    早朝ホテルを出ました。
    昨晩”焼きカレー”を頂いた「門司港茶寮」の場所を確認します。
    門司港駅を出てロータリーを渡り、茶色看板のコンビニを過ぎたら
    その後ろの通りにあります。

    門司港茶寮 グルメ・レストラン

  • 12月6日(月)、<br />今日は私の故里の門司風師エリアを<br />朝に訪ね午前中に多へ移動する予定です。<br /><br />門司風師エリア訪問は旅の「みち草」です。<br />今回の旅にはあまり関係がありません。<br />お時間の無い方はスキップしてください。<br /><br />早朝にホテルを出発し門司港駅へ行きました。

    12月6日(月)、
    今日は私の故里の門司風師エリアを
    朝に訪ね午前中に多へ移動する予定です。

    門司風師エリア訪問は旅の「みち草」です。
    今回の旅にはあまり関係がありません。
    お時間の無い方はスキップしてください。

    早朝にホテルを出発し門司港駅へ行きました。

    門司港駅

  • 昔懐かしい鉄道駅舎の切符売り場の窓口です。

    昔懐かしい鉄道駅舎の切符売り場の窓口です。

    門司港駅

  • でも改札口までくると出勤緒あわただしい雰囲気が<br />漂っていました。<br />きょうは週初めの月曜日です。

    でも改札口までくると出勤緒あわただしい雰囲気が
    漂っていました。
    きょうは週初めの月曜日です。

    門司港駅

  • 改札口から撮影しました。<br />旧式なホームに真新しく輝く<br />列車が到着しました。<br /><br />私は一人で駅前のバス停から故郷の<br />風師山エリアへ出発します。<br />家内は門司港エリアを散策します。

    改札口から撮影しました。
    旧式なホームに真新しく輝く
    列車が到着しました。

    私は一人で駅前のバス停から故郷の
    風師山エリアへ出発します。
    家内は門司港エリアを散策します。

    門司港駅

  • 駅前のバス停から最寄りの駅までバスで行きました。<br />昔は西鉄の路面電車が走っていたのを記憶しています。<br />途中で見えた街並みに昔の面影は残っていませんでしたが<br />家々の向こうに見える関門海峡の景色は心の記憶にある心象<br />スケッチと同じでした。<br />私は二タ松町でバスを降ります。<br />グーグルマップで事前に調べていましたのでルートは頭の中に<br />入っています(今は大変便利な世の中です)。

    駅前のバス停から最寄りの駅までバスで行きました。
    昔は西鉄の路面電車が走っていたのを記憶しています。
    途中で見えた街並みに昔の面影は残っていませんでしたが
    家々の向こうに見える関門海峡の景色は心の記憶にある心象
    スケッチと同じでした。
    私は二タ松町でバスを降ります。
    グーグルマップで事前に調べていましたのでルートは頭の中に
    入っています(今は大変便利な世の中です)。

    風師山 自然・景勝地

  • 信号を通り越して左側に曲がれば<br />ダラダラと長い坂道があるはずです。

    信号を通り越して左側に曲がれば
    ダラダラと長い坂道があるはずです。

    風師山 自然・景勝地

  • ありました。<br />この坂道です。<br />新しい家が建っているので<br />坂道の登り口の様子は<br />昔の風景と異なっていました。<br />でも顔を上げて坂道の上にある山を見ると<br />その姿は昔見た通りです。<br />「国破れて山河在り」という言葉が浮かんできました。<br />ふるさとの山河は変わっていませんでした。

    ありました。
    この坂道です。
    新しい家が建っているので
    坂道の登り口の様子は
    昔の風景と異なっていました。
    でも顔を上げて坂道の上にある山を見ると
    その姿は昔見た通りです。
    「国破れて山河在り」という言葉が浮かんできました。
    ふるさとの山河は変わっていませんでした。

    風師山 自然・景勝地

  • 坂道をズンズン登って行って振り返ると<br />関門海峡とその向こうの下関の山々が眼下に<br />見えて来ました。

    坂道をズンズン登って行って振り返ると
    関門海峡とその向こうの下関の山々が眼下に
    見えて来ました。

    風師山 自然・景勝地

  • 登ってゆくほど関門海峡が眼下で広がってきます。

    登ってゆくほど関門海峡が眼下で広がってきます。

    風師山 自然・景勝地

  • 更に登って行きます。<br />(7キロ減量しておいてよかった)<br />右側に私が通っていた小学校の校庭があります。

    更に登って行きます。
    (7キロ減量しておいてよかった)
    右側に私が通っていた小学校の校庭があります。

    風師山 自然・景勝地

  • ここだ、ここだ。<br />校舎から運動場に下りる石段の形は変わっていません。<br />でも随分黒ずんでしまいました。<br />(あれから60年が経過したんだもんなぁ)<br />当時は運動場の下にSLが走っていましたので<br />煙突から吐き出される白い煙が<br />モクモクと運動場まで流れてきました。<br />

    ここだ、ここだ。
    校舎から運動場に下りる石段の形は変わっていません。
    でも随分黒ずんでしまいました。
    (あれから60年が経過したんだもんなぁ)
    当時は運動場の下にSLが走っていましたので
    煙突から吐き出される白い煙が
    モクモクと運動場まで流れてきました。

    風師山 自然・景勝地

  • 春になると校庭の周りを桜の花が囲んでくれました。

    春になると校庭の周りを桜の花が囲んでくれました。

    風師山 自然・景勝地

  • 私が小学校5年生まで通っていた小森江東小学校です。<br />「風師の山の日の光…。」という校歌の冒頭を今でも<br />覚えています。<br />昔のことは覚えているのです。

    私が小学校5年生まで通っていた小森江東小学校です。
    「風師の山の日の光…。」という校歌の冒頭を今でも
    覚えています。
    昔のことは覚えているのです。

  • 更に坂道を登ると左側に風師中学校があるはずです。

    更に坂道を登ると左側に風師中学校があるはずです。

    風師山 自然・景勝地

  • ありました。<br />しかし様子が変です。<br />鉄門が錆びていて校門の壁にひび割れが目立ちます。

    ありました。
    しかし様子が変です。
    鉄門が錆びていて校門の壁にひび割れが目立ちます。

    風師山 自然・景勝地

  • 校庭にも背の高い雑草が生い茂っていました。<br />帰り道で生徒を迎える小学校の先生に確認したところ<br />「もうだいぶ前に廃校になりました。」という<br />回答が返ってきました。<br />「城春にして草木深し」(いまは初冬ですが)<br />という言葉が浮かんできました。<br />帰宅後に調べてみると<br />「平成22年(2010年)に門司中学校と統合された。」<br />と掲載されていました。<br />これは地方の少子化が影響しているのでしょうか。<br />

    校庭にも背の高い雑草が生い茂っていました。
    帰り道で生徒を迎える小学校の先生に確認したところ
    「もうだいぶ前に廃校になりました。」という
    回答が返ってきました。
    「城春にして草木深し」(いまは初冬ですが)
    という言葉が浮かんできました。
    帰宅後に調べてみると
    「平成22年(2010年)に門司中学校と統合された。」
    と掲載されていました。
    これは地方の少子化が影響しているのでしょうか。

    風師山 自然・景勝地

  • 中学校を通り越して左に曲がれば私が育った<br />家にたどり着けるはずです。

    中学校を通り越して左に曲がれば私が育った
    家にたどり着けるはずです。

    風師山 自然・景勝地

  • 坂道の前方に砂防ダムが見えます。<br />この砂防ダムは門司の大風水害の後で作られたと記憶しています。<br />昭和28年6月にこのエリアで大雨のため大水害と山津波が発生し、<br />130名以上の人々の命を奪い、2千軒以上の家屋を破壊し流し去って<br />しまいました。<br />私も母の背中に負ぶわれて麓にある幼稚園へ避難したことを<br />覚えています。<br />まだ2歳過ぎでしたが余程恐ろしい思いをしたのか<br />その時の映像を今でも鮮やかに記憶しています。

    坂道の前方に砂防ダムが見えます。
    この砂防ダムは門司の大風水害の後で作られたと記憶しています。
    昭和28年6月にこのエリアで大雨のため大水害と山津波が発生し、
    130名以上の人々の命を奪い、2千軒以上の家屋を破壊し流し去って
    しまいました。
    私も母の背中に負ぶわれて麓にある幼稚園へ避難したことを
    覚えています。
    まだ2歳過ぎでしたが余程恐ろしい思いをしたのか
    その時の映像を今でも鮮やかに記憶しています。

    風師山 自然・景勝地

  • これは山から流れてきた河川水を流す地下水道です。<br />この地下水道は関門海峡迄続いているそうです。<br />子供の時に「ここを歩いて海まで歩いて探検しよう。」<br />と何人かで入り込んで遊んでいました。<br />内部は悪臭と汚物、犬の死骸があり大変な状態で<br />途中で引き返してきました。<br />大変危険な行為をしたものだと思いますが<br />当時も今も子供たちはとんでもないことを隠れてやっている<br />のは同じです。

    これは山から流れてきた河川水を流す地下水道です。
    この地下水道は関門海峡迄続いているそうです。
    子供の時に「ここを歩いて海まで歩いて探検しよう。」
    と何人かで入り込んで遊んでいました。
    内部は悪臭と汚物、犬の死骸があり大変な状態で
    途中で引き返してきました。
    大変危険な行為をしたものだと思いますが
    当時も今も子供たちはとんでもないことを隠れてやっている
    のは同じです。

    風師山 自然・景勝地

  • 私は砂防ダムを右手に見ながら山道を登って行きます。

    私は砂防ダムを右手に見ながら山道を登って行きます。

  • 山道は右に折れて山に入って行きます。<br />(これは昔の記憶と同じだ)

    山道は右に折れて山に入って行きます。
    (これは昔の記憶と同じだ)

  • 右側に石垣と家屋が見えます。<br />この光景も昔と同じです。<br />(この辺りは昔と変わっていません)

    右側に石垣と家屋が見えます。
    この光景も昔と同じです。
    (この辺りは昔と変わっていません)

  • 更に進んで右に回れば家にたどり着く石段が見えるはずです。

    更に進んで右に回れば家にたどり着く石段が見えるはずです。

  • ありました。<br />この石段を登れば家に行けます。<br />この風景はどこかで見たことがあるぞ?<br />ブログを調べてみると中国の武陵源で訪れた<br />トチャ族村で見た景色と同じです。<br />(参考ブログ)<br />10連休、湖南省武陵源から上海へ(その4)<br />天子山空中田園トチャ族の村へ行く<br />(2019年4月29日~5月3日)<br />https://4travel.jp/travelogue/11494059<br /><br />どうりでトチャ村を訪れた時に<br />「ここは昔来たことがるぞ…。」という<br />デジャブ(既視)感を感じたはずです。<br />トチャ族村は私が生まれ育ったところとよく似ていたのです。

    ありました。
    この石段を登れば家に行けます。
    この風景はどこかで見たことがあるぞ?
    ブログを調べてみると中国の武陵源で訪れた
    トチャ族村で見た景色と同じです。
    (参考ブログ)
    10連休、湖南省武陵源から上海へ(その4)
    天子山空中田園トチャ族の村へ行く
    (2019年4月29日~5月3日)
    https://4travel.jp/travelogue/11494059

    どうりでトチャ村を訪れた時に
    「ここは昔来たことがるぞ…。」という
    デジャブ(既視)感を感じたはずです。
    トチャ族村は私が生まれ育ったところとよく似ていたのです。

  • 石段を登ってゆきます。<br />こんなに小さな細い石段だったかなぁ…?<br />このように思った理由が分かりました。<br />そのころ私はまだ小さな子供だったのです。<br />でも左側にある白い手すりはありませんでした。

    石段を登ってゆきます。
    こんなに小さな細い石段だったかなぁ…?
    このように思った理由が分かりました。
    そのころ私はまだ小さな子供だったのです。
    でも左側にある白い手すりはありませんでした。

    風師山 自然・景勝地

  • 石段を振り向いて撮影しました。<br />石段はコンクリートで補強されていますが<br />昔は自然石のままで子供の遊び場の一つでした。<br />お猿さんのように走って昇り降りしていました。<br />(お陰様で足腰は強くなりました)

    石段を振り向いて撮影しました。
    石段はコンクリートで補強されていますが
    昔は自然石のままで子供の遊び場の一つでした。
    お猿さんのように走って昇り降りしていました。
    (お陰様で足腰は強くなりました)

  • 更に登って行くと後ろに関門海峡が見えてきました。<br />(向こうに見えるあの島は船島「巌流島」かな…?)<br />昔毎日見ていた懐かしい光景です。

    更に登って行くと後ろに関門海峡が見えてきました。
    (向こうに見えるあの島は船島「巌流島」かな…?)
    昔毎日見ていた懐かしい光景です。

    風師山 自然・景勝地

  • 石段の下には中学校のグランドネットが<br />見えています。<br />ここに住んでいたら兄たちのように<br />あの中学校へ通っていたんだろう。<br />左側に私が生まれ育った家があるはずです。<br />グーグルマップの航空写真で確認した時は<br />生い茂った樹木の間に家の屋根が見えていました。

    石段の下には中学校のグランドネットが
    見えています。
    ここに住んでいたら兄たちのように
    あの中学校へ通っていたんだろう。
    左側に私が生まれ育った家があるはずです。
    グーグルマップの航空写真で確認した時は
    生い茂った樹木の間に家の屋根が見えていました。

    風師山 自然・景勝地

  • 「あれ~っ?!何もないぞ。」<br />更地には所々に先週の雨の水溜まりが残っており<br />雑草がまばらに生えているだけの空間が広がっています。<br />「家屋は最近撤去されたのに違いない。」<br />雑草が繁茂していませんので撤去されたのは<br />恐らく今年の夏の後だと思います。<br />朽ち果てた家を見るのは何だか怖かったのですが<br />「きれいサッパリ!」思い出は消えていました。<br />鴨長明の『方丈記』にありますように<br />「世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」<br />の通りだと思いました。<br />「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かく結びて、<br />久しくとどまりたるためしなし、」ですね。<br /><br />ポッカリと空いた空間を見つめていますと<br />子供時代の頃の思い出が走馬灯のように現れて<br />目の前を流れて行きます。<br /><br />「ポチは山犬の話」<br />私は動物が好きでポチという家犬を飼っていました。<br />ポチは朝ご飯を食べると首輪を外されて一目散に裏山の<br />笹の繁みに消えてゆきます。<br />1日中、裏山で「遊んで」いる様子です。<br />夕ご飯頃になり暗くなると私の父親が<br />大きな声で「ポチ~!ポチ~!」と暗い山に向かって<br />「叫(オラ)」びます。<br />しばらくするとポチはガサガサと笹の繁みから姿を現し<br />頭を撫でてもらい首輪をはめて夕ご飯を食べます。<br />しかしポチは普通の家犬ではありません。<br />ある昼下がりのことです。<br />彼は庭で腹ばいになって寝ていました。<br />(これは嘘寝でした)<br />彼の前には食べ残しの残飯が散らばっています。<br />(これは彼の罠です)<br />すると不用心な野鳥が家犬が呑気に眠っていると思ったのか<br />目の前の残飯をついばみ始めました。<br />目をつぶってたポチは「突然!」身を翻し<br />バッと野鳥に襲い掛かります。<br />野鳥は必死にバタバタと飛び立とうとしますが<br />ポチは間髪を入れず空中にジャンプして野鳥の首根っこに<br />牙でかじりつき、<br />前足で抱きつき地面へ押さえつけて首を振り廻しながら<br />飛び散る羽毛にもかまわずバリバリと野鳥を引き裂きました。<br />私は一瞬、野鳥が可哀そうになり「ポチ!止めろ!」と叫び<br />近づこうとしました。<br />するとポチはいつものお利口な家犬の顔ではなく<br />鼻先に獰猛なしわを寄せ、<br />「グルグル」とうなり声をあげながら恐ろしい形相で<br />私を睨みつけました。<br />「こいつは山犬だ!」<br />そういえばポチが山から帰って来た時に<br />時々彼の口が血に染まっていました。<br />かれは裏山では正真正銘の野生の山犬だったのです。<br />(もののけ姫の世界です)<br /><br />「寒い夜は子猫と添い寝でほっこり暖かい話」<br />私の家では猫を数匹飼っていました。<br />私が捨て猫を度々拾ってくるので仲間が増えてきます。<br />兄たちは猫の尻尾を掴んでハンマー投げのように振り回して<br />遊んでいましたので彼等にとって恐怖の的でした。<br />一方、私は動物好きの性格のためか私を仲間と思っている<br />様でした。<br />寒い冬の夜は彼らの寝床も寒いのか<br />私の布団に潜りこんできます。<br />礼儀正しい(?)子猫ですので布団に入りたいときは<br />「ニャー~?(入っていい?)」と挨拶をして来ます。<br />「いいよ~。」と言って隙間を作るとスルリと潜りこんで<br />来て私のお腹の辺りに丸く添い寝をして来ます。<br />私も彼(彼女かな?)をぬいぐるみの要領で抱きしめて<br />あげます。<br />すると満足したのか「グルグル」と喉を鳴らします。<br />寒い冬でも二人(?)で暖め合うと安眠できました。<br />幼い時代の平和な時間が過ぎて行きました。<br />いまでも動物好き(人間の子供も含めて)は変わりません。<br />旅に出ても子犬や子猫たちが「遊んで!遊んで!」と近づいて<br />来ます。<br />旅先で訪れた食堂で子犬ちゃんの遊び相手になりました。<br />中国語は必要ありません。<br />②四川成都(三国志とパンダ)と貴州の旅。<br />少数民族自治州、凱里の街は都会でした(12月29日~30日)<br />https://4travel.jp/travelogue/11587162<br /><br />「おかあちゃんに野ネズミの赤ちゃんを見せた話」<br />前にも書いた通り私は捨てられた生き物を拾ってくる癖がありました。<br />「子犬、子猫、子蛇(?)…等々」を見つけては家に持ち帰ります。<br />ある時、谷川のふもとにある水源地の草むらで野ネズミの巣を<br />見つけました。<br />中をそっと覗いてみるとピンク色をした小さな生き物が寝ています。<br />小さな耳、小さな手足、小さな口、産毛も生えていない薄桜色の<br />滑らかな皮膚、つぶらな瞳は閉じられたままです。<br />寝ているのかお腹の辺りが膨らんだり、へこんだりしていました。<br />「かわいそうに。きっと君はお母さんに捨てられたんだね。」<br />(実際は野ネズミのお母さんは人間の子供の襲撃に驚いて逃げた<br />のでしょう)<br />私はその温かい小さな生き物をやさしく掌で包み込むようにして<br />家に持って帰りました。<br />(こんなにかわいらしい野ネズミの子供だから僕のおかあちゃんは<br />きっと喜んでくれるに違いない)<br />そう思って台所でお炊事をしている母親に<br />「おかあちゃん!この子ネズミ飼っていい!?」と言いながら<br />両手を開いてお母ちゃんの目元に差し上げました。<br />「ギャー!」とお母ちゃんは叫びました。<br />「そんなもの!すぐに元の所に戻しなさい!」と何だか怒っています。<br />「でもこの子は捨て子だよ!お母ちゃんがいないんだよ」<br />と抵抗します。でも再び、<br />「ネズミのお母さんが探しているよ!すぐに返しなさい!」と叱られました。<br />仕方がないので私は泣きながら再び水源地に戻りました。<br />「きっと君のお母さんは戻って来るよ。」と何度も振り向きながら<br />その場を立ち去りました。<br />(その後、あの子は立派な野ネズミになったのでしょうか?)<br />山ではいろいろな生き物と一緒に暮らしていました。<br /><br />「恐ろしい山姥(やまんば)の話」<br />子供たちの間では裏山に山姥が住んでいるという話で<br />もちきりでした。<br />山姥は子供を鋭い鎌で切り刻んで食べるという噂です。<br />ある日の午後(小学校の授業が終わって)、<br />子供たちは裏山の渓流を伝って登って行きます。<br />身の軽い私たちは小猿のように渓流登りが得意です。<br />山の中腹付近に来た時、突然にガサガサッと横の<br />山笹をかき分けて一人のお婆さんが現れました。<br />見ると手に三日月型の白い刃が付いた野鎌を持っています。<br />「山姥(やまんば)だ!」と誰かが叫びます。<br />子供は全員で一斉に「山姥だ!逃げろ!」と叫んで一目散に<br />渓流の大岩をものともせず蜘蛛の子を散らすように逃げ降りました。<br />子供たちの後ろから「この餓鬼ども~!!」と山姥の怒り叫ぶ声が<br />恐ろしく私たちを追ってきました。<br />家にたどり着いた子供たちは息を切らせ蒼白の顔をしていました。<br />いまから思うとあの山姥は山に芝を刈りに来た普通のお婆さんで、<br />突然出くわした子供たちに云われもなく「山姥だ!」と<br />決めつけられたので頭にきた普通のお婆さんだったと思います。<br />「お婆さん”山姥(やまんば)”と決めつけてごめんなさい…。」<br /><br />「カエルにニコチンを食わせた残酷な話」<br />私の家には小さな池がありました。<br />いつもカエルが泳いでいました(時々石垣にすんでいる蛇が<br />泳いできてカエルを飲み込んでいました)。<br />ある時、年上の少年たちが<br />「カエルにたばこのニコチンを食わせると胃袋を吐き出して<br />池の水で洗うと聞いたことがあるぞ。よし!実験してみよう。」<br />(子供たちにとって、この「実験」という言葉は神様のように<br />絶対的な力を持っているのです)<br />少年たちは哀れなカエルを捕まえてきて小枝で口をこじ開けて<br />たばこのニコチンの葉っぱ屑を無理やりグイグイ押し込みます。<br />しかしカエルはもがき苦しみもがくだけで胃袋を吐き出そうと<br />しません。<br />二人は終に諦めて「どうしょうもない奴じゃ!」と<br />口がニコチンで一杯になったカエルを池の水面に叩きつけました。<br />カエルは白いお腹を上にして暫く浮かんでいましたが<br />その後どうなったか分かりません(蛇に飲み込まれてしまった<br />かもしれません)。<br />また他の子どもはもっと残酷な遊びをしていました。<br />それは「風船カエル」という遊びです。<br />カエルの肛門にストロー(当時は麦わら製のストロー)を<br />突っ込み息を吹き込むとカエルのお腹が風船のように膨らみます。<br />その後の処置は二通りあります。<br />ひとつはストローを抜くとカエルはブルブルと「おなら」を出しながら<br />飛び跳ねて逃げてゆきます。<br />もう一つの方法は口では言えないほど残酷な方法で処置します。<br />テレビもスマホもない時代の子供の遊びです。<br />(今の良い子たちはそんなことは絶対やらないで下さいね)<br /><br />「ミミズのスパゲッティオママゴト」<br />近くに可愛らしい女の子が二人住んでいました。<br />彼女たちはおままごとが大好きです。<br />「今日のお昼はスパゲッティを作りましょ。」<br />ということでスパゲッティの材料になるものを探しました。<br />「それはすぐ見つかりました(いました)。」<br />地面を見るとウジャウジャと動いて生きてるミミズがいました。<br />「それではお皿の上に載せてチョンチョンしましょ(切りましょう<br />という意味)。」<br />彼女たちはプラスティックのお皿の上に生贄のミミズを並べて<br />プラスティックの包丁で切り始めます。」<br />刃の無いプラスティックの包丁で胴体をチョン切られたミミズたちは<br />痛みに耐えかねて縮んでしまい親指くらいの太さになりました。」<br />(これではスパゲッティというよりもタラコ料理です)<br />それを見つけたお隣のお母さんが女の子の母親に言いつけます。<br />「あんたの子供たちがミミズに残酷なことをしているぞ!」<br /><br />「UFO目撃体験の話」<br />話は変わりますが私はこの庭でUFOを見ました(と思います)。<br />私がまだ4歳くらいの頃だったと思います。<br />庭で2歳の妹と一緒に遊んでいると関門海峡の上空に飛行機のような<br />物体が飛んで来ました。<br />当時は朝鮮戦争がありましたのでアメリカのジェット機が飛んできた<br />のだと思っていました。<br />後で気が付いたのですがこのジェット機は飛来スピードが<br />とてもゆっくりで、終には空中で静止してこちらを観察<br />しているようです。<br />庭の小さな家庭菜園ででこちらを向いて野良をしている父親に<br />「ジェット機だ!ジェット機が飛んでるよ!」と教えるのですが<br />野良作業に夢中になっている父親は見向きもしません。<br />でも私と妹があまり騒ぎ立てるので<br />父親は「どうれ…、」といった感じで後ろを振り向きました。<br />でもその飛行物体(私がジェット機だと信じていた飛来物体)は<br />瞬間的に猛スピードで後ろへピューッと後退し、<br />あっという間に下関の空の向こうに消えてしまいました。<br />父親は「何も飛んでいないよ。」といってまた野良作業にもどりました。<br />少し成長して本を読んで知識が増えると<br />「あれはUFOという宇宙から飛来した飛行物体ではなかったのか?」と<br />思うようになりました。<br />ウソではありません。<br />妹に確認すると「私も小さかったけど見た記憶があるわよ。」と<br />言っています。<br />不思議な体験をしたものです。<br /><br />最後に(目の前で回転する走馬灯はなかなか途切れません)、<br />「こんこん様のお告げの話」<br />私の祖母はなにかの稲荷信仰の信者であったようです。<br />月に一回、「こんこん様」と呼ばれる祈祷師のお婆さんが<br />家にやって来て仏壇(神棚だったかな?)の前で何やら<br />ブツブツお祈りを上げ始めます。<br />後半は何かに(こんこん様だと思いますが)憑かれたように<br />体を身もだえさせ、最後に大声で<br />「キエーッ!!」と叫び声をあげ座布団から飛び上がって、<br />仏壇の前にガッバッとひれ伏します。<br />私は面白そうなのでいつも見ていました<br />(勿論、信仰からではありません)。<br />ある時のことです。<br />祈祷師のお婆さんが定番のお祈りを終えて正常な姿に戻った後、<br />クルリと私たちの方に向いて<br />厳かな口調で<br />「この子の頭にはお稲荷さんが座っておわせる。<br />とても気持ちが良いところじゃと申されておる。<br />家内安全、繁盛のために、この子を大切にせよ。」<br />というお告げをくれました。<br />(勝手にぼくの頭に座るなよ!)<br />この話には後日談があります。<br />小学校の末娘にこのことを話しました。<br />すると彼女は何を勘違いしたのか<br />「どうしてお父さんは”おいなりさん(食べ物の)を<br />頭の上にのせていたの?」と聞いてきました。<br />娘は私が子供の頃に”(食べ物の)おいなりさん”を頭の上に<br />のせて歩いている奇妙な男の子だったと思った様でした。<br />ユダヤ教の男性が頭の上にのせているキッパーのように<br />”おいなりさん”を頭にのせているイメージです。<br />(クラスメートに話してないだろうな…)<br /><br />まだまだ想い出の走馬灯は幻想の様に尽きませんが<br />話が長すぎるのでここでもう止めておきます。<br /><br />また怖ろしい思い出が頭の中に浮かんできました。<br />「今夜はクリスマス、お庭の鶏を丸焼きだ!」<br />ジュラシックパークの最新版you-tubeの予告編を<br />見ていて子供の頃の記憶が鮮やかに浮かび上がって<br />きました。<br />私が小学校低学年の頃のことです。<br />わが家では庭の片隅にある鳥小屋で鶏を5羽くらい<br />飼育していました。<br />朝に新鮮な卵を取りに行くのは何故か私の役目でした。<br />オンドリは毎朝、獰猛な声で「コケコッコ~!」と鋭く<br />雄たけびを上げていました。<br />(あれはまさしく恐竜でした)<br />私は恐る恐る鳥小屋の網戸を開けてメンドリたちの産みつけた<br />まだ生暖かい新鮮な卵を藁の中から掴みだします。<br />彼女たちは「私たちの卵を盗む子供の猿」だと勘違いして<br />憎しみに瞳をギラギラと怒らしながら鋭い嘴で<br />私に襲い掛かってきます。<br />私は左手に握りしめた棒切れで彼女たちを追っ払いながら<br />何とか卵を盗み出すのが朝の日課でした。<br />今から思うと襲い掛かって来る小さな恐竜たちと<br />戦う類人猿の子供でした。<br />毎朝、新鮮な卵を盗み出す戦いが続いていましたがある時、<br />この戦いにケリを付ける日がやって来ました。<br />クリスマスの朝のことです。<br />理由はよくわからなかったのですが父親が<br />「今日の夕方に鶏を二羽つぶすぞ。」とか言っています。<br />夕方になりました。<br />私は乱暴者の兄たちと一緒に鶏小屋からメンドリ二羽を庭へ<br />外へ追い出します。<br />庭では鋭く研ぎあげた鎌を構えた父が仁王立ちで待ち構えています。<br />メンドリたちは「殺気」を感じたのか大暴れしながら庭中を走り回って<br />逃げようとします。<br />しかしノモハンの戦場でソ連軍と命を懸けた血みどろのいくさを経験<br />してきた父親の手にかかってはひとたまりもありません。<br />氷のように冷たく光る鎌を一閃させるとメンドリの首が吹っ飛んで<br />行きました。<br />不思議なことに首を失くした鶏はそのままとトットットと数メートルを<br />走り抜けて逃げて行きます。<br />それでも途中で首がないことに気が付いたようでヨロヨロとした千鳥足<br />になりバッタリと地面に崩れこんで行きました。<br />もう一羽は「首を絞めるときはこうやるんだ!」とけたたましく<br />悲鳴を上げる鶏の首を両手で無造作に<br />雑巾絞りに捩じり上げました。<br />彼女は最後の声を上げるひまもなく<br />力なくこと切れてしまいました。<br />「後はこいつらを鍋でそのまま茹でるぞ。その後で毛をむしるのを<br />手伝え!」という父親の命令です。<br />私は鳥の毛をむしる時は熱湯でゆでることを知りました。<br />毛をむしった後で父親は出刃包丁で鶏たちのお腹を切り開いて<br />中身を見せてくれました。<br />「これが卵を産む内臓だ。」といって説明してくれました。<br />その内臓は卵の黄味のように黄色い色をしていました。<br />その夜はクリスマスなのでわが家のちゃぶ台には鶏の丸焼きが<br />二羽飾られました。<br />「メリークリスマス!」と言いながら彼女たちを美味しく頂いた<br />記憶が残っています。<br />私は今の子供たちには想像が出来ないような世界で暮らしていたのです。<br />(一部、悪夢に出てきた光景が混ざっているかもしれません)<br /><br />昔この土地に埋めた氷の結晶でこしらえたタイムカプセルが<br />静かに解凍しているような不思議な時間が詰まった空間でした。<br />旅に出て幼いころの自分に出逢ったような気がしました。

    「あれ~っ?!何もないぞ。」
    更地には所々に先週の雨の水溜まりが残っており
    雑草がまばらに生えているだけの空間が広がっています。
    「家屋は最近撤去されたのに違いない。」
    雑草が繁茂していませんので撤去されたのは
    恐らく今年の夏の後だと思います。
    朽ち果てた家を見るのは何だか怖かったのですが
    「きれいサッパリ!」思い出は消えていました。
    鴨長明の『方丈記』にありますように
    「世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」
    の通りだと思いました。
    「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かく結びて、
    久しくとどまりたるためしなし、」ですね。

    ポッカリと空いた空間を見つめていますと
    子供時代の頃の思い出が走馬灯のように現れて
    目の前を流れて行きます。

    「ポチは山犬の話」
    私は動物が好きでポチという家犬を飼っていました。
    ポチは朝ご飯を食べると首輪を外されて一目散に裏山の
    笹の繁みに消えてゆきます。
    1日中、裏山で「遊んで」いる様子です。
    夕ご飯頃になり暗くなると私の父親が
    大きな声で「ポチ~!ポチ~!」と暗い山に向かって
    「叫(オラ)」びます。
    しばらくするとポチはガサガサと笹の繁みから姿を現し
    頭を撫でてもらい首輪をはめて夕ご飯を食べます。
    しかしポチは普通の家犬ではありません。
    ある昼下がりのことです。
    彼は庭で腹ばいになって寝ていました。
    (これは嘘寝でした)
    彼の前には食べ残しの残飯が散らばっています。
    (これは彼の罠です)
    すると不用心な野鳥が家犬が呑気に眠っていると思ったのか
    目の前の残飯をついばみ始めました。
    目をつぶってたポチは「突然!」身を翻し
    バッと野鳥に襲い掛かります。
    野鳥は必死にバタバタと飛び立とうとしますが
    ポチは間髪を入れず空中にジャンプして野鳥の首根っこに
    牙でかじりつき、
    前足で抱きつき地面へ押さえつけて首を振り廻しながら
    飛び散る羽毛にもかまわずバリバリと野鳥を引き裂きました。
    私は一瞬、野鳥が可哀そうになり「ポチ!止めろ!」と叫び
    近づこうとしました。
    するとポチはいつものお利口な家犬の顔ではなく
    鼻先に獰猛なしわを寄せ、
    「グルグル」とうなり声をあげながら恐ろしい形相で
    私を睨みつけました。
    「こいつは山犬だ!」
    そういえばポチが山から帰って来た時に
    時々彼の口が血に染まっていました。
    かれは裏山では正真正銘の野生の山犬だったのです。
    (もののけ姫の世界です)

    「寒い夜は子猫と添い寝でほっこり暖かい話」
    私の家では猫を数匹飼っていました。
    私が捨て猫を度々拾ってくるので仲間が増えてきます。
    兄たちは猫の尻尾を掴んでハンマー投げのように振り回して
    遊んでいましたので彼等にとって恐怖の的でした。
    一方、私は動物好きの性格のためか私を仲間と思っている
    様でした。
    寒い冬の夜は彼らの寝床も寒いのか
    私の布団に潜りこんできます。
    礼儀正しい(?)子猫ですので布団に入りたいときは
    「ニャー~?(入っていい?)」と挨拶をして来ます。
    「いいよ~。」と言って隙間を作るとスルリと潜りこんで
    来て私のお腹の辺りに丸く添い寝をして来ます。
    私も彼(彼女かな?)をぬいぐるみの要領で抱きしめて
    あげます。
    すると満足したのか「グルグル」と喉を鳴らします。
    寒い冬でも二人(?)で暖め合うと安眠できました。
    幼い時代の平和な時間が過ぎて行きました。
    いまでも動物好き(人間の子供も含めて)は変わりません。
    旅に出ても子犬や子猫たちが「遊んで!遊んで!」と近づいて
    来ます。
    旅先で訪れた食堂で子犬ちゃんの遊び相手になりました。
    中国語は必要ありません。
    ②四川成都(三国志とパンダ)と貴州の旅。
    少数民族自治州、凱里の街は都会でした(12月29日~30日)
    https://4travel.jp/travelogue/11587162

    「おかあちゃんに野ネズミの赤ちゃんを見せた話」
    前にも書いた通り私は捨てられた生き物を拾ってくる癖がありました。
    「子犬、子猫、子蛇(?)…等々」を見つけては家に持ち帰ります。
    ある時、谷川のふもとにある水源地の草むらで野ネズミの巣を
    見つけました。
    中をそっと覗いてみるとピンク色をした小さな生き物が寝ています。
    小さな耳、小さな手足、小さな口、産毛も生えていない薄桜色の
    滑らかな皮膚、つぶらな瞳は閉じられたままです。
    寝ているのかお腹の辺りが膨らんだり、へこんだりしていました。
    「かわいそうに。きっと君はお母さんに捨てられたんだね。」
    (実際は野ネズミのお母さんは人間の子供の襲撃に驚いて逃げた
    のでしょう)
    私はその温かい小さな生き物をやさしく掌で包み込むようにして
    家に持って帰りました。
    (こんなにかわいらしい野ネズミの子供だから僕のおかあちゃんは
    きっと喜んでくれるに違いない)
    そう思って台所でお炊事をしている母親に
    「おかあちゃん!この子ネズミ飼っていい!?」と言いながら
    両手を開いてお母ちゃんの目元に差し上げました。
    「ギャー!」とお母ちゃんは叫びました。
    「そんなもの!すぐに元の所に戻しなさい!」と何だか怒っています。
    「でもこの子は捨て子だよ!お母ちゃんがいないんだよ」
    と抵抗します。でも再び、
    「ネズミのお母さんが探しているよ!すぐに返しなさい!」と叱られました。
    仕方がないので私は泣きながら再び水源地に戻りました。
    「きっと君のお母さんは戻って来るよ。」と何度も振り向きながら
    その場を立ち去りました。
    (その後、あの子は立派な野ネズミになったのでしょうか?)
    山ではいろいろな生き物と一緒に暮らしていました。

    「恐ろしい山姥(やまんば)の話」
    子供たちの間では裏山に山姥が住んでいるという話で
    もちきりでした。
    山姥は子供を鋭い鎌で切り刻んで食べるという噂です。
    ある日の午後(小学校の授業が終わって)、
    子供たちは裏山の渓流を伝って登って行きます。
    身の軽い私たちは小猿のように渓流登りが得意です。
    山の中腹付近に来た時、突然にガサガサッと横の
    山笹をかき分けて一人のお婆さんが現れました。
    見ると手に三日月型の白い刃が付いた野鎌を持っています。
    「山姥(やまんば)だ!」と誰かが叫びます。
    子供は全員で一斉に「山姥だ!逃げろ!」と叫んで一目散に
    渓流の大岩をものともせず蜘蛛の子を散らすように逃げ降りました。
    子供たちの後ろから「この餓鬼ども~!!」と山姥の怒り叫ぶ声が
    恐ろしく私たちを追ってきました。
    家にたどり着いた子供たちは息を切らせ蒼白の顔をしていました。
    いまから思うとあの山姥は山に芝を刈りに来た普通のお婆さんで、
    突然出くわした子供たちに云われもなく「山姥だ!」と
    決めつけられたので頭にきた普通のお婆さんだったと思います。
    「お婆さん”山姥(やまんば)”と決めつけてごめんなさい…。」

    「カエルにニコチンを食わせた残酷な話」
    私の家には小さな池がありました。
    いつもカエルが泳いでいました(時々石垣にすんでいる蛇が
    泳いできてカエルを飲み込んでいました)。
    ある時、年上の少年たちが
    「カエルにたばこのニコチンを食わせると胃袋を吐き出して
    池の水で洗うと聞いたことがあるぞ。よし!実験してみよう。」
    (子供たちにとって、この「実験」という言葉は神様のように
    絶対的な力を持っているのです)
    少年たちは哀れなカエルを捕まえてきて小枝で口をこじ開けて
    たばこのニコチンの葉っぱ屑を無理やりグイグイ押し込みます。
    しかしカエルはもがき苦しみもがくだけで胃袋を吐き出そうと
    しません。
    二人は終に諦めて「どうしょうもない奴じゃ!」と
    口がニコチンで一杯になったカエルを池の水面に叩きつけました。
    カエルは白いお腹を上にして暫く浮かんでいましたが
    その後どうなったか分かりません(蛇に飲み込まれてしまった
    かもしれません)。
    また他の子どもはもっと残酷な遊びをしていました。
    それは「風船カエル」という遊びです。
    カエルの肛門にストロー(当時は麦わら製のストロー)を
    突っ込み息を吹き込むとカエルのお腹が風船のように膨らみます。
    その後の処置は二通りあります。
    ひとつはストローを抜くとカエルはブルブルと「おなら」を出しながら
    飛び跳ねて逃げてゆきます。
    もう一つの方法は口では言えないほど残酷な方法で処置します。
    テレビもスマホもない時代の子供の遊びです。
    (今の良い子たちはそんなことは絶対やらないで下さいね)

    「ミミズのスパゲッティオママゴト」
    近くに可愛らしい女の子が二人住んでいました。
    彼女たちはおままごとが大好きです。
    「今日のお昼はスパゲッティを作りましょ。」
    ということでスパゲッティの材料になるものを探しました。
    「それはすぐ見つかりました(いました)。」
    地面を見るとウジャウジャと動いて生きてるミミズがいました。
    「それではお皿の上に載せてチョンチョンしましょ(切りましょう
    という意味)。」
    彼女たちはプラスティックのお皿の上に生贄のミミズを並べて
    プラスティックの包丁で切り始めます。」
    刃の無いプラスティックの包丁で胴体をチョン切られたミミズたちは
    痛みに耐えかねて縮んでしまい親指くらいの太さになりました。」
    (これではスパゲッティというよりもタラコ料理です)
    それを見つけたお隣のお母さんが女の子の母親に言いつけます。
    「あんたの子供たちがミミズに残酷なことをしているぞ!」

    「UFO目撃体験の話」
    話は変わりますが私はこの庭でUFOを見ました(と思います)。
    私がまだ4歳くらいの頃だったと思います。
    庭で2歳の妹と一緒に遊んでいると関門海峡の上空に飛行機のような
    物体が飛んで来ました。
    当時は朝鮮戦争がありましたのでアメリカのジェット機が飛んできた
    のだと思っていました。
    後で気が付いたのですがこのジェット機は飛来スピードが
    とてもゆっくりで、終には空中で静止してこちらを観察
    しているようです。
    庭の小さな家庭菜園ででこちらを向いて野良をしている父親に
    「ジェット機だ!ジェット機が飛んでるよ!」と教えるのですが
    野良作業に夢中になっている父親は見向きもしません。
    でも私と妹があまり騒ぎ立てるので
    父親は「どうれ…、」といった感じで後ろを振り向きました。
    でもその飛行物体(私がジェット機だと信じていた飛来物体)は
    瞬間的に猛スピードで後ろへピューッと後退し、
    あっという間に下関の空の向こうに消えてしまいました。
    父親は「何も飛んでいないよ。」といってまた野良作業にもどりました。
    少し成長して本を読んで知識が増えると
    「あれはUFOという宇宙から飛来した飛行物体ではなかったのか?」と
    思うようになりました。
    ウソではありません。
    妹に確認すると「私も小さかったけど見た記憶があるわよ。」と
    言っています。
    不思議な体験をしたものです。

    最後に(目の前で回転する走馬灯はなかなか途切れません)、
    「こんこん様のお告げの話」
    私の祖母はなにかの稲荷信仰の信者であったようです。
    月に一回、「こんこん様」と呼ばれる祈祷師のお婆さんが
    家にやって来て仏壇(神棚だったかな?)の前で何やら
    ブツブツお祈りを上げ始めます。
    後半は何かに(こんこん様だと思いますが)憑かれたように
    体を身もだえさせ、最後に大声で
    「キエーッ!!」と叫び声をあげ座布団から飛び上がって、
    仏壇の前にガッバッとひれ伏します。
    私は面白そうなのでいつも見ていました
    (勿論、信仰からではありません)。
    ある時のことです。
    祈祷師のお婆さんが定番のお祈りを終えて正常な姿に戻った後、
    クルリと私たちの方に向いて
    厳かな口調で
    「この子の頭にはお稲荷さんが座っておわせる。
    とても気持ちが良いところじゃと申されておる。
    家内安全、繁盛のために、この子を大切にせよ。」
    というお告げをくれました。
    (勝手にぼくの頭に座るなよ!)
    この話には後日談があります。
    小学校の末娘にこのことを話しました。
    すると彼女は何を勘違いしたのか
    「どうしてお父さんは”おいなりさん(食べ物の)を
    頭の上にのせていたの?」と聞いてきました。
    娘は私が子供の頃に”(食べ物の)おいなりさん”を頭の上に
    のせて歩いている奇妙な男の子だったと思った様でした。
    ユダヤ教の男性が頭の上にのせているキッパーのように
    ”おいなりさん”を頭にのせているイメージです。
    (クラスメートに話してないだろうな…)

    まだまだ想い出の走馬灯は幻想の様に尽きませんが
    話が長すぎるのでここでもう止めておきます。

    また怖ろしい思い出が頭の中に浮かんできました。
    「今夜はクリスマス、お庭の鶏を丸焼きだ!」
    ジュラシックパークの最新版you-tubeの予告編を
    見ていて子供の頃の記憶が鮮やかに浮かび上がって
    きました。
    私が小学校低学年の頃のことです。
    わが家では庭の片隅にある鳥小屋で鶏を5羽くらい
    飼育していました。
    朝に新鮮な卵を取りに行くのは何故か私の役目でした。
    オンドリは毎朝、獰猛な声で「コケコッコ~!」と鋭く
    雄たけびを上げていました。
    (あれはまさしく恐竜でした)
    私は恐る恐る鳥小屋の網戸を開けてメンドリたちの産みつけた
    まだ生暖かい新鮮な卵を藁の中から掴みだします。
    彼女たちは「私たちの卵を盗む子供の猿」だと勘違いして
    憎しみに瞳をギラギラと怒らしながら鋭い嘴で
    私に襲い掛かってきます。
    私は左手に握りしめた棒切れで彼女たちを追っ払いながら
    何とか卵を盗み出すのが朝の日課でした。
    今から思うと襲い掛かって来る小さな恐竜たちと
    戦う類人猿の子供でした。
    毎朝、新鮮な卵を盗み出す戦いが続いていましたがある時、
    この戦いにケリを付ける日がやって来ました。
    クリスマスの朝のことです。
    理由はよくわからなかったのですが父親が
    「今日の夕方に鶏を二羽つぶすぞ。」とか言っています。
    夕方になりました。
    私は乱暴者の兄たちと一緒に鶏小屋からメンドリ二羽を庭へ
    外へ追い出します。
    庭では鋭く研ぎあげた鎌を構えた父が仁王立ちで待ち構えています。
    メンドリたちは「殺気」を感じたのか大暴れしながら庭中を走り回って
    逃げようとします。
    しかしノモハンの戦場でソ連軍と命を懸けた血みどろのいくさを経験
    してきた父親の手にかかってはひとたまりもありません。
    氷のように冷たく光る鎌を一閃させるとメンドリの首が吹っ飛んで
    行きました。
    不思議なことに首を失くした鶏はそのままとトットットと数メートルを
    走り抜けて逃げて行きます。
    それでも途中で首がないことに気が付いたようでヨロヨロとした千鳥足
    になりバッタリと地面に崩れこんで行きました。
    もう一羽は「首を絞めるときはこうやるんだ!」とけたたましく
    悲鳴を上げる鶏の首を両手で無造作に
    雑巾絞りに捩じり上げました。
    彼女は最後の声を上げるひまもなく
    力なくこと切れてしまいました。
    「後はこいつらを鍋でそのまま茹でるぞ。その後で毛をむしるのを
    手伝え!」という父親の命令です。
    私は鳥の毛をむしる時は熱湯でゆでることを知りました。
    毛をむしった後で父親は出刃包丁で鶏たちのお腹を切り開いて
    中身を見せてくれました。
    「これが卵を産む内臓だ。」といって説明してくれました。
    その内臓は卵の黄味のように黄色い色をしていました。
    その夜はクリスマスなのでわが家のちゃぶ台には鶏の丸焼きが
    二羽飾られました。
    「メリークリスマス!」と言いながら彼女たちを美味しく頂いた
    記憶が残っています。
    私は今の子供たちには想像が出来ないような世界で暮らしていたのです。
    (一部、悪夢に出てきた光景が混ざっているかもしれません)

    昔この土地に埋めた氷の結晶でこしらえたタイムカプセルが
    静かに解凍しているような不思議な時間が詰まった空間でした。
    旅に出て幼いころの自分に出逢ったような気がしました。

  • 周りの崩れ落ちそうな石垣の上を見ると<br />昔の記憶に残っている樹木がまだ残っていました。<br />彼らはこの60年の間に大きく成長しているように見えます。

    周りの崩れ落ちそうな石垣の上を見ると
    昔の記憶に残っている樹木がまだ残っていました。
    彼らはこの60年の間に大きく成長しているように見えます。

  • この木もそうだったよなぁ~。<br />何だか懐かしい。

    この木もそうだったよなぁ~。
    何だか懐かしい。

    風師山 自然・景勝地

  • この大きな樹のことを覚えているぞ。<br />外にあったお風呂場の後ろに生えていた樹だ。<br />このお風呂場の屋根裏には大きな青大将が<br />二匹住んでいました。<br />(こんなに大きな木だったかなぁ~?)<br />フランクルの『夜と霧』のなかに出て来る<br />病室の窓から見えるカスタニエンの樹と<br />死につつある少女との会話を思い出しました。<br />「あの樹はこう申しましたの。<br />私はここにいるー私はーここにーいる。<br />私はいるのだ。永遠のいのちだ…。」<br />V.E.フランクル『夜と霧』(霜山徳爾氏訳、みすず書房)より」<br />樹木たちも年を取った私を見て<br />「可愛かったあの男の子がこんなにお爺さんなったんだ!」<br />と驚いているかもしれません。

    この大きな樹のことを覚えているぞ。
    外にあったお風呂場の後ろに生えていた樹だ。
    このお風呂場の屋根裏には大きな青大将が
    二匹住んでいました。
    (こんなに大きな木だったかなぁ~?)
    フランクルの『夜と霧』のなかに出て来る
    病室の窓から見えるカスタニエンの樹と
    死につつある少女との会話を思い出しました。
    「あの樹はこう申しましたの。
    私はここにいるー私はーここにーいる。
    私はいるのだ。永遠のいのちだ…。」
    V.E.フランクル『夜と霧』(霜山徳爾氏訳、みすず書房)より」
    樹木たちも年を取った私を見て
    「可愛かったあの男の子がこんなにお爺さんなったんだ!」
    と驚いているかもしれません。

    風師山 自然・景勝地

  • 私は門司港のホテルに帰ってきました。<br />ホテルの部屋では家内が待っていました。<br />彼女の顔を見てタイムマシンに乗って昔の世界から<br />現代に帰ってきたような気持になりました。<br />実際に心理的な時空を超えて帰ってきたのだと思っています。

    私は門司港のホテルに帰ってきました。
    ホテルの部屋では家内が待っていました。
    彼女の顔を見てタイムマシンに乗って昔の世界から
    現代に帰ってきたような気持になりました。
    実際に心理的な時空を超えて帰ってきたのだと思っています。

    門司港レトロ地区 名所・史跡

  • 私は時空の「みち草」から今回の旅の道へ戻ります。<br />今から私たちの旅の最終地である博多へ向かいます。

    私は時空の「みち草」から今回の旅の道へ戻ります。
    今から私たちの旅の最終地である博多へ向かいます。

    門司港レトロ地区 名所・史跡

  • 門司港駅のホームは朝の陽だまりの中で<br />人気がなくガランとしていました。

    門司港駅のホームは朝の陽だまりの中で
    人気がなくガランとしていました。

    門司港駅

  • 門司港はかつては九州の終着駅でした。<br />(連絡船で関門海峡を渡る本州への始発駅<br />でもありますが)

    門司港はかつては九州の終着駅でした。
    (連絡船で関門海峡を渡る本州への始発駅
    でもありますが)

    門司港駅

  • 線路の終わりに「0里」という石碑が建てられています。<br />(これはどっかで見たことがあるぞ?)<br />そうだ、これは北スペインのサンチャゴ巡礼の最終地の<br />フィニステーレの岬に立っていた標識と同じです。<br />その時のブログの最後には次のように書いています。<br />還暦一人旅、早春のスペイン巡礼路(カミーノ)コツコツ歩いて900km、<br />この道はいつか来た道<総集編><br />https://4travel.jp/travelogue/11031105<br />「フィステーラの道しるべ(残りあと0キロの標識)<br />スペイン巡礼路(カミーノ・デ・サンチャーゴ)<br />の西の果て。<br />「ここで地終わり、海始まる」という想いが沸き起こってくる。<br />64歳(当時)の私がこんなに遠くまでよく歩けたものだ.<br />コツコツ歩き続ければ900キロの巡礼路も歩くことができた。<br />家内を含めて途中で出会ったすべての出来事に感謝したい。<br />それではブエンカミーノ!」<br /><br />旅の終着点には共通した漂泊の想いがあります。<br />稚内で見た終着駅にも同じような標識がありました。<br />ブログには次のように書いています。<br />「駅の構内に入ります。<br />ガラス越しに何やら「最北端の線路」と書いてある<br />看板が見えます。<br />よく見ると「枕崎線の指宿駅から宗谷線の稚内駅へ」<br />と書いてあります。<br />「そうか!宗谷本線の稚内駅から<br />指宿枕崎線の西大山駅までJRの線路一本で<br />つながっているんだ。」」<br />「あぁ、遠くへ行きたい!」3日目は宗谷岬へ行く、<br />仕上げは必ずお買い物!(2020年10月7日~9日)<br />https://4travel.jp/travelogue/11652403<br /><br />「あぁ、また旅に出たい!」<br />

    線路の終わりに「0里」という石碑が建てられています。
    (これはどっかで見たことがあるぞ?)
    そうだ、これは北スペインのサンチャゴ巡礼の最終地の
    フィニステーレの岬に立っていた標識と同じです。
    その時のブログの最後には次のように書いています。
    還暦一人旅、早春のスペイン巡礼路(カミーノ)コツコツ歩いて900km、
    この道はいつか来た道<総集編>
    https://4travel.jp/travelogue/11031105
    「フィステーラの道しるべ(残りあと0キロの標識)
    スペイン巡礼路(カミーノ・デ・サンチャーゴ)
    の西の果て。
    「ここで地終わり、海始まる」という想いが沸き起こってくる。
    64歳(当時)の私がこんなに遠くまでよく歩けたものだ.
    コツコツ歩き続ければ900キロの巡礼路も歩くことができた。
    家内を含めて途中で出会ったすべての出来事に感謝したい。
    それではブエンカミーノ!」

    旅の終着点には共通した漂泊の想いがあります。
    稚内で見た終着駅にも同じような標識がありました。
    ブログには次のように書いています。
    「駅の構内に入ります。
    ガラス越しに何やら「最北端の線路」と書いてある
    看板が見えます。
    よく見ると「枕崎線の指宿駅から宗谷線の稚内駅へ」
    と書いてあります。
    「そうか!宗谷本線の稚内駅から
    指宿枕崎線の西大山駅までJRの線路一本で
    つながっているんだ。」」
    「あぁ、遠くへ行きたい!」3日目は宗谷岬へ行く、
    仕上げは必ずお買い物!(2020年10月7日~9日)
    https://4travel.jp/travelogue/11652403

    「あぁ、また旅に出たい!」

    門司港駅

  • 石碑の改札側に小さな釣鐘がつるされていました。

    石碑の改札側に小さな釣鐘がつるされていました。

    門司港駅

  • これは「旅立ちの鐘」という名前だそうです。<br />その下に「幸福の泉」という小さな泉がありましたので<br />奮発して100円玉を投げ入れました。<br />「私たちの旅立ちが何時も幸せでありますように。」<br />宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の物語を思い出しました。<br />物語はジョバンニとカムパネルラという二人の少年が、<br />銀河鉄道に乗って宇宙を旅する形で進んでいくのですが<br />私はジョバンニの親友カムパネルラは本当は少女であった<br />のではと思っています。<br />カムパネルラ(Campanella)はイタリア語で「(小さな)鐘」を<br />意味しますが、<br />Campanella は「a」で終わっていますから女性名詞です。<br />また花言葉ではカムパネルラは「風鈴草」で<br />「感謝・誠実な愛・共感・節操・思いを告げる」などです。<br />花言葉から、恩人や恋人へ感謝の意を示すプレゼントに適している<br />花と言われています。<br /><br />私がジョバンニで家内がカムパネルラかなぁ?<br />でもカムパネルラは旅の途中で不条理な死を<br />迎えてしまいますので<br />私がその時だけカムパネルラになれば良いと思っています。<br /><br />ジョバンニは日常の世界に戻ってから、<br />カムパレルラが<br />祭りの夜に川で溺れかけた友人ザネリを助けようとして<br />流されてしまい亡くなったことを知らされます。<br />銀河鉄道の「夜の世界」ではカムパレルラの死は<br />次のように象徴的に書かれています。<br />「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。<br />ジョバンニが斯(か)う云いながらふりかへって見ましたら<br />そのいままでカムパネルラの座ってゐた席に<br />もうカムパネルラの影は見えず<br />たゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。」<br /><br />ふと今年の秋に若くしてこの世を去ったKちゃんのことを<br />思い出しました。<br />Kちゃんが亡くなったことを聞いた後、朝のまだ暗い夜空の星々を<br />見ながら私は次のような文章を書いています。<br /><br />「Kちゃんへ捧げる詩」<br /><br />2021年10月18日(朝5時)tomo<br /><br />早朝、こんな歌が私の胸に湧き上がってきました。<br />『真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて 光る星あり』<br />(まさごなす かずなきほしの そのなかに われにむかひて <br />ひかるほしあり)<br />正岡子規『竹の里歌』連歌十首のうちの一首<br /><現代語訳><br />細かい砂をまき散らしたような数えきれない程の星の中に、<br />私に向かって光る星があるなあ。<br />(星々は我々と同じ感情を持っている…)<br />スペイン巡礼で見た風景を思い出しました。<br />そこには次のように書いています。<br /><br />「私は2回目(2013年2月)のサンチャゴ巡礼の旅の最後、<br />アストルガの町に到着する前夜、<br />寒村にある小さなバル(スペインの食堂兼酒場)で食事をした。<br />ワインは少々水っぽかったが巡礼仲間がいたので大笑いしながら<br />美味しい食事を頂いた。<br />まだ笑いが収まらないままにバルの出口を一歩出るとそれらは<br />待っていた。<br /><br />天空にひろがる夜の静寂(しじま)に<br />白く輝く天の川と銀色絨毯のように煌(きら)めく星々が<br />耳に聞こえない荘厳な宇宙詩を歌っているのを私たちは心に感じた。<br /><br />連れの二人<br />(ブラジルとブルガリアからやってきた女性巡礼者たち)は<br />冷たい土の上に跪(ひざまづ)き天を仰いで祈りを捧げている。<br />私は荘厳に移ろい行く天宮を見上げながら「ああ何ということだ…」と<br />呟くことしかできなかった(その青い夜の風や星…)。<br />私は「夜と霧」のアウシュビッツの囚人(めしうど)のように<br />“How beautiful, the world could be….”<br />(世界って、なんて美しいのだろう…。)と<br />呟けばよかったのだろうか。」<br /><br />産まれたばかりのKちゃんと初めて出逢ったときに<br />私は<br />“How beautiful, she could be….”<br />(何て美しい女の子なのだろう…。)<br />と呟いたかもしれません。<br />

    これは「旅立ちの鐘」という名前だそうです。
    その下に「幸福の泉」という小さな泉がありましたので
    奮発して100円玉を投げ入れました。
    「私たちの旅立ちが何時も幸せでありますように。」
    宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の物語を思い出しました。
    物語はジョバンニとカムパネルラという二人の少年が、
    銀河鉄道に乗って宇宙を旅する形で進んでいくのですが
    私はジョバンニの親友カムパネルラは本当は少女であった
    のではと思っています。
    カムパネルラ(Campanella)はイタリア語で「(小さな)鐘」を
    意味しますが、
    Campanella は「a」で終わっていますから女性名詞です。
    また花言葉ではカムパネルラは「風鈴草」で
    「感謝・誠実な愛・共感・節操・思いを告げる」などです。
    花言葉から、恩人や恋人へ感謝の意を示すプレゼントに適している
    花と言われています。

    私がジョバンニで家内がカムパネルラかなぁ?
    でもカムパネルラは旅の途中で不条理な死を
    迎えてしまいますので
    私がその時だけカムパネルラになれば良いと思っています。

    ジョバンニは日常の世界に戻ってから、
    カムパレルラが
    祭りの夜に川で溺れかけた友人ザネリを助けようとして
    流されてしまい亡くなったことを知らされます。
    銀河鉄道の「夜の世界」ではカムパレルラの死は
    次のように象徴的に書かれています。
    「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。
    ジョバンニが斯(か)う云いながらふりかへって見ましたら
    そのいままでカムパネルラの座ってゐた席に
    もうカムパネルラの影は見えず
    たゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。」

    ふと今年の秋に若くしてこの世を去ったKちゃんのことを
    思い出しました。
    Kちゃんが亡くなったことを聞いた後、朝のまだ暗い夜空の星々を
    見ながら私は次のような文章を書いています。

    「Kちゃんへ捧げる詩」

    2021年10月18日(朝5時)tomo

    早朝、こんな歌が私の胸に湧き上がってきました。
    『真砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて 光る星あり』
    (まさごなす かずなきほしの そのなかに われにむかひて
    ひかるほしあり)
    正岡子規『竹の里歌』連歌十首のうちの一首
    <現代語訳>
    細かい砂をまき散らしたような数えきれない程の星の中に、
    私に向かって光る星があるなあ。
    (星々は我々と同じ感情を持っている…)
    スペイン巡礼で見た風景を思い出しました。
    そこには次のように書いています。

    「私は2回目(2013年2月)のサンチャゴ巡礼の旅の最後、
    アストルガの町に到着する前夜、
    寒村にある小さなバル(スペインの食堂兼酒場)で食事をした。
    ワインは少々水っぽかったが巡礼仲間がいたので大笑いしながら
    美味しい食事を頂いた。
    まだ笑いが収まらないままにバルの出口を一歩出るとそれらは
    待っていた。

    天空にひろがる夜の静寂(しじま)に
    白く輝く天の川と銀色絨毯のように煌(きら)めく星々が
    耳に聞こえない荘厳な宇宙詩を歌っているのを私たちは心に感じた。

    連れの二人
    (ブラジルとブルガリアからやってきた女性巡礼者たち)は
    冷たい土の上に跪(ひざまづ)き天を仰いで祈りを捧げている。
    私は荘厳に移ろい行く天宮を見上げながら「ああ何ということだ…」と
    呟くことしかできなかった(その青い夜の風や星…)。
    私は「夜と霧」のアウシュビッツの囚人(めしうど)のように
    “How beautiful, the world could be….”
    (世界って、なんて美しいのだろう…。)と
    呟けばよかったのだろうか。」

    産まれたばかりのKちゃんと初めて出逢ったときに
    私は
    “How beautiful, she could be….”
    (何て美しい女の子なのだろう…。)
    と呟いたかもしれません。

    門司港駅

  • 私たちは銀河鉄道ではなくJR西日本新幹線で<br />小倉駅経由で博多駅に向かいます。<br />約20分程度の短い旅になります。<br />新幹線ですので5日間のグリーンパスが使えます。<br />一部使えない部分の在来線は別途購入しました。<br /><br />朝日も高くなって陽射しが明るく強くなってきました。<br />門司港駅ではホームに入ってきた真新しい列車と対照的な<br />赤錆びた古い蛇口が<br />「さようなら~。」<br />と言ってくれました。<br /><br />明日で私たちの7日間の旅も終わります。<br /><br />坂口安吾は「ふるさとは、語ることなし」と言っています。<br />でも結局、私の故里について長いブログを書いてしまいました。<br />書き始めた時は「何も書くことはない。」と思っていたのに。<br /><br />ある文書を思い出しました。<br />「人はなぜものを書くのか。<br />その根本には、書くことによって、<br />自らの魂の躍動、すなわち、生きている、<br />という実感を刻印したいという思いがあるからだ。」<br /><br />私もこの故里のブログを書くことで「あの時空」に生きていたのだ<br />という実感を刻印したいという思いがあったのかもしれません。<br />

    私たちは銀河鉄道ではなくJR西日本新幹線で
    小倉駅経由で博多駅に向かいます。
    約20分程度の短い旅になります。
    新幹線ですので5日間のグリーンパスが使えます。
    一部使えない部分の在来線は別途購入しました。

    朝日も高くなって陽射しが明るく強くなってきました。
    門司港駅ではホームに入ってきた真新しい列車と対照的な
    赤錆びた古い蛇口が
    「さようなら~。」
    と言ってくれました。

    明日で私たちの7日間の旅も終わります。

    坂口安吾は「ふるさとは、語ることなし」と言っています。
    でも結局、私の故里について長いブログを書いてしまいました。
    書き始めた時は「何も書くことはない。」と思っていたのに。

    ある文書を思い出しました。
    「人はなぜものを書くのか。
    その根本には、書くことによって、
    自らの魂の躍動、すなわち、生きている、
    という実感を刻印したいという思いがあるからだ。」

    私もこの故里のブログを書くことで「あの時空」に生きていたのだ
    という実感を刻印したいという思いがあったのかもしれません。

    門司港駅

18いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

この旅行で行ったグルメ・レストラン

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP