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2021年秋、緊急事態宣言が解除されて、かねてから行きたかった姫路旅行を思い立ちました。<br /><br />当初は姫路城と城崎温泉、または姫路城と竹田城、または姫路城と淡路島・・・・・等々色々考えました。<br />日程が1泊2日と限られた期間だったため、結果的には姫路城と京都に決めました。<br />まずは京都ですが、久々の二条城と、その近くの御所を選びました。実は京都御所は今回初めてです。<br />しかも今回の京都は一人旅なので、自由気ままな旅です。

2021年秋・京都から姫路へ(京都編)

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2021/11/02 - 2021/11/02

41位(同エリア4021件中)

旅行記グループ 2021年秋 京都・姫路の旅

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noel

noelさん

この旅行記のスケジュール

2021/11/02

  • 羽田空港(8時30分)→大阪伊丹空港(9時40分)JAL107便

  • 大阪伊丹空港(9時53分:モノレール)→蛍池(阪急宝塚線)→大阪梅田→大阪(JR山陽本線)京都

  • 京都(11時すぎ)→烏丸御池→二条城前(京都市営地下鉄)

  • 二条城前→烏丸御池→今出川

  • 今出川→烏丸御池→京都市役所前

  • 京都市役所前→烏丸御池→京都

この旅行記スケジュールを元に

2021年秋、緊急事態宣言が解除されて、かねてから行きたかった姫路旅行を思い立ちました。

当初は姫路城と城崎温泉、または姫路城と竹田城、または姫路城と淡路島・・・・・等々色々考えました。
日程が1泊2日と限られた期間だったため、結果的には姫路城と京都に決めました。
まずは京都ですが、久々の二条城と、その近くの御所を選びました。実は京都御所は今回初めてです。
しかも今回の京都は一人旅なので、自由気ままな旅です。

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.0
同行者
一人旅
交通手段
JALグループ 新幹線 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • こちらは地下鉄の二条城駅を出た所です。<br />目の前に二条城が見えます。

    こちらは地下鉄の二条城駅を出た所です。
    目の前に二条城が見えます。

  • 事前にオンライン・チケットを入手していましたが、そんな心配もご無用、全然混んでいませんでした。<br /><br />この先の東大手門は二条城の正門です。そのため、この目の前の空間は正門として相応しい広さになっています。江戸城の大手前広場も同様です。<br /><br />また、こちらは東南隅櫓です。<br />城の外堀の四隅は、見張り台としての隅櫓が建てられました。<br />ただ普段は武器庫として使われていたようです。<br />残念ながら天明8年(1788年)の大火で焼失してしまい、現存するものは、西南隅櫓と、この櫓のみになってしまいました。

    事前にオンライン・チケットを入手していましたが、そんな心配もご無用、全然混んでいませんでした。

    この先の東大手門は二条城の正門です。そのため、この目の前の空間は正門として相応しい広さになっています。江戸城の大手前広場も同様です。

    また、こちらは東南隅櫓です。
    城の外堀の四隅は、見張り台としての隅櫓が建てられました。
    ただ普段は武器庫として使われていたようです。
    残念ながら天明8年(1788年)の大火で焼失してしまい、現存するものは、西南隅櫓と、この櫓のみになってしまいました。

  • 東大手門<br />重要文化財に指定されています。<br /><br />現在の門は寛文2年(1662年)頃に建てられました。<br />それにしても、寛永の天皇の行幸の際に、天皇を2階から見下ろすことがないように・・・・との事で、一重の門に建て替えられたそうです。<br />築城時には2階建ての櫓門だったのですが。<br />現在はご覧のように、築城時と同様、2階建てになっています。

    東大手門
    重要文化財に指定されています。

    現在の門は寛文2年(1662年)頃に建てられました。
    それにしても、寛永の天皇の行幸の際に、天皇を2階から見下ろすことがないように・・・・との事で、一重の門に建て替えられたそうです。
    築城時には2階建ての櫓門だったのですが。
    現在はご覧のように、築城時と同様、2階建てになっています。

  • 城内見取図<br /><br />おすすめの見学コースは、<br />二の丸御殿→二の丸庭園→天守閣跡→本丸御殿→清流園です。

    城内見取図

    おすすめの見学コースは、
    二の丸御殿→二の丸庭園→天守閣跡→本丸御殿→清流園です。

  • 唐門(重要文化財)<br /><br />寛永3年(1626年)、寛永行幸に際して、その1年前に建設されました。<br />屋根の前と後ろに綺麗な曲線を画いた「唐破風」がつけられていることから唐門と呼ばれて、格式も最も高く御所や内裏では御幸(みゆき)門とも呼ばれています。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />築地(重要文化財)<br /><br />築地(泥土を積み上げて築いた塀)の東面は、長さ110m、高さは石垣上に立つため、6mもあります。<br />白線は皇室との関係性を本数で示すもので、5本線が最高峰です。

    唐門(重要文化財)

    寛永3年(1626年)、寛永行幸に際して、その1年前に建設されました。
    屋根の前と後ろに綺麗な曲線を画いた「唐破風」がつけられていることから唐門と呼ばれて、格式も最も高く御所や内裏では御幸(みゆき)門とも呼ばれています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    築地(重要文化財)

    築地(泥土を積み上げて築いた塀)の東面は、長さ110m、高さは石垣上に立つため、6mもあります。
    白線は皇室との関係性を本数で示すもので、5本線が最高峰です。

  • 柱から上の空間に全て彫刻が入っている豪華さです。<br />鶴亀、松竹梅、蝶に牡丹など長寿や吉祥を象徴する彫刻、<br />龍に虎、唐獅子等の霊獣と考えられる彫刻も多くあります。<br />唐獅子は全部で10頭もいます。<br />これは聖域を守護する霊獣が多く、貴賓を迎えるのにふさわしい門です。

    柱から上の空間に全て彫刻が入っている豪華さです。
    鶴亀、松竹梅、蝶に牡丹など長寿や吉祥を象徴する彫刻、
    龍に虎、唐獅子等の霊獣と考えられる彫刻も多くあります。
    唐獅子は全部で10頭もいます。
    これは聖域を守護する霊獣が多く、貴賓を迎えるのにふさわしい門です。

  • 二の丸御殿(国宝)<br /><br />将軍上洛の際の居城として、徳川家康により、慶長8年(1603年)の江戸の初期に造営されました。<br />そして寛永3年(1626年)、後水尾天皇の行幸にそなえ、第3代将軍家光の代に改造が行われました。<br />慶応3年(1867年)には、第15代将軍、徳川慶喜により大政奉還の発表が行われました。歴史の大きなターニングポイントになった重要な場所です。<br /><br />また、御殿は全部で6棟からなっていて、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構です。<br />江戸城、大阪城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)、国宝に指定されました。<br />内部を飾る障壁画は、狩野派により描かれました。<br />現存する面数は2000面を超えて、その内の1016面が重要文化財に指定されています。<br />壮大な遠侍(訪問者を迎える場所)から、大広間(公式な対面所)へと、さらに白書院(将軍が普段くつろぐ場所)へと、各棟、各部屋は機能に合わせて規模としつらえを異にしています。

    二の丸御殿(国宝)

    将軍上洛の際の居城として、徳川家康により、慶長8年(1603年)の江戸の初期に造営されました。
    そして寛永3年(1626年)、後水尾天皇の行幸にそなえ、第3代将軍家光の代に改造が行われました。
    慶応3年(1867年)には、第15代将軍、徳川慶喜により大政奉還の発表が行われました。歴史の大きなターニングポイントになった重要な場所です。

    また、御殿は全部で6棟からなっていて、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として、日本建築史上重要な遺構です。
    江戸城、大阪城、名古屋城の御殿が失われた今日、国内の城郭に残る唯一の御殿群として、昭和27年(1952年)、国宝に指定されました。
    内部を飾る障壁画は、狩野派により描かれました。
    現存する面数は2000面を超えて、その内の1016面が重要文化財に指定されています。
    壮大な遠侍(訪問者を迎える場所)から、大広間(公式な対面所)へと、さらに白書院(将軍が普段くつろぐ場所)へと、各棟、各部屋は機能に合わせて規模としつらえを異にしています。

  • 釣鐘<br /><br />京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるため、使われていました。<br />京都所司代とは、主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関です。<br />京都所司代は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・塩川屋敷・下屋敷(千本屋敷)と呼ばれていましたが、これらは下屋敷で使われていたものです。慶応3年(1867年)に京都所司代が廃止された後、移されたようです。<br />

    釣鐘

    京都所司代屋敷で火事等の緊急事態を周辺に知らせるため、使われていました。
    京都所司代とは、主に朝廷や大名を取り締まっていた江戸幕府の出先機関です。
    京都所司代は二条城の北に隣接して3ヶ所あり上屋敷・塩川屋敷・下屋敷(千本屋敷)と呼ばれていましたが、これらは下屋敷で使われていたものです。慶応3年(1867年)に京都所司代が廃止された後、移されたようです。

  • この先は二の丸庭園です。

    この先は二の丸庭園です。

  • まだ紅葉には少し早いようです。

    まだ紅葉には少し早いようです。

  • 二の丸御殿<br /><br />既に御殿内は拝観しました。(御殿内は撮影禁止です。)<br />鴬張りの廊下は、目かすがいと釘のこすれによって生じています。<br />鴬張りと言えば風流ですが、実は外部などの侵入者から守るためあります。

    二の丸御殿

    既に御殿内は拝観しました。(御殿内は撮影禁止です。)
    鴬張りの廊下は、目かすがいと釘のこすれによって生じています。
    鴬張りと言えば風流ですが、実は外部などの侵入者から守るためあります。

  • 東南から北西にかけて遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に立ち並んでします。<br />部屋数33室、800畳余りもある内部は、代表的な「松鷹図」をはじめ、将軍の威厳を示す虎や豹、桜や四季折々の花を描いた狩野派の障壁画(模写)で、装飾されています。

    東南から北西にかけて遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が雁行形に立ち並んでします。
    部屋数33室、800畳余りもある内部は、代表的な「松鷹図」をはじめ、将軍の威厳を示す虎や豹、桜や四季折々の花を描いた狩野派の障壁画(模写)で、装飾されています。

  • 二の丸庭園(特別名勝)<br /><br />慶長8年(1603年)の築城時に作られ、寛永3年(1626年)に作事奉行・小堀遠州のもとで改修された庭園です。<br />この時期の城郭には、居住のための御殿と共に豪華な庭園が作られました。<br />二条城の他には、名古屋城二の丸庭園、和歌山西之丸庭園、旧徳島城表御殿庭園が残っていますが、いずれも火災などで御殿が失われてしまい、この二条城だけが御殿と庭園を一体的に鑑賞することができる唯一のお城です。

    二の丸庭園(特別名勝)

    慶長8年(1603年)の築城時に作られ、寛永3年(1626年)に作事奉行・小堀遠州のもとで改修された庭園です。
    この時期の城郭には、居住のための御殿と共に豪華な庭園が作られました。
    二条城の他には、名古屋城二の丸庭園、和歌山西之丸庭園、旧徳島城表御殿庭園が残っていますが、いずれも火災などで御殿が失われてしまい、この二条城だけが御殿と庭園を一体的に鑑賞することができる唯一のお城です。

  • 池の中央には蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園です。<br />二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿の3方向から鑑賞できるように工夫されています。

    池の中央には蓬莱島、左右に鶴亀の島を配した書院造庭園です。
    二の丸御殿の大広間、黒書院、行幸御殿の3方向から鑑賞できるように工夫されています。

  • 東橋を渡って本丸へ向かいます。

    東橋を渡って本丸へ向かいます。

  • 本丸櫓門(重要文化財)<br /><br />寛永3年(1626年)頃の建築で、本丸西櫓門(焼失)とともに、本丸を防護する重要な門です。<br />戦時には木橋を落として、敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えました。本丸には井戸も米蔵もありますので、籠城戦の備えもできています。<br />内側の土塀の穴は、鉄砲で攻撃するためのもので、まさに要塞の構えです。<br />また、寛永行幸の際に、天皇は2回天守に登られましたが、その時の木橋は2階橋で、天皇は二の丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれました。天守へのぼられた天皇は、この時の後水尾天皇が唯一といわれています。その2階橋の一部は、昭和5年(1930年)頃まで残っていましたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されています。

    本丸櫓門(重要文化財)

    寛永3年(1626年)頃の建築で、本丸西櫓門(焼失)とともに、本丸を防護する重要な門です。
    戦時には木橋を落として、敵が渡れないようにし、さらに銅板で覆われた扉を閉めて火器に備えました。本丸には井戸も米蔵もありますので、籠城戦の備えもできています。
    内側の土塀の穴は、鉄砲で攻撃するためのもので、まさに要塞の構えです。
    また、寛永行幸の際に、天皇は2回天守に登られましたが、その時の木橋は2階橋で、天皇は二の丸御殿内から橋の2階の畳廊下を通って、地上を歩くことなく天守まで行かれました。天守へのぼられた天皇は、この時の後水尾天皇が唯一といわれています。その2階橋の一部は、昭和5年(1930年)頃まで残っていましたが、その後解体され、部材の多くは土蔵で保管されています。

  • 内堀です。

    内堀です。

  • 本丸を守る石垣

    本丸を守る石垣

  • 本丸庭園<br /><br />明治29年(1896年)に明治天皇の指示により作られた庭園です。<br />天皇は本丸御殿の最上階から指示を出されました。<br />その指示は植栽にまで及ぶほどだったようです。<br /><br />この場所にはかつては2つの建物が建てられていました。寛永3年、3代将軍徳川家光が建てた本丸御殿と、それが焼失した後、幕末に15代将軍慶喜が建てた建物です。<br />慶喜が建てた建物は明治14年(1881年)頃に取り壊されました。<br />明治26年~27年に京都御所の北東部にあった桂離宮御殿の主要部分が移築されました、これが現在の本丸御殿です。<br />移築時には、いったん庭が作られていますが、明治天皇の指示によって、すぐに改造されました。

    本丸庭園

    明治29年(1896年)に明治天皇の指示により作られた庭園です。
    天皇は本丸御殿の最上階から指示を出されました。
    その指示は植栽にまで及ぶほどだったようです。

    この場所にはかつては2つの建物が建てられていました。寛永3年、3代将軍徳川家光が建てた本丸御殿と、それが焼失した後、幕末に15代将軍慶喜が建てた建物です。
    慶喜が建てた建物は明治14年(1881年)頃に取り壊されました。
    明治26年~27年に京都御所の北東部にあった桂離宮御殿の主要部分が移築されました、これが現在の本丸御殿です。
    移築時には、いったん庭が作られていますが、明治天皇の指示によって、すぐに改造されました。

  • 本丸御殿は残念ながら工事中でした。<br />内堀に囲まれた20000㎡の本丸にあります。<br />明治26年(1893年)、京都御所の北東部にあった桂離宮御殿を移築しました。<br />貴重な宮家の御殿建築の遺構として重要文化財に指定されています。<br />

    本丸御殿は残念ながら工事中でした。
    内堀に囲まれた20000㎡の本丸にあります。
    明治26年(1893年)、京都御所の北東部にあった桂離宮御殿を移築しました。
    貴重な宮家の御殿建築の遺構として重要文化財に指定されています。

  • 天守閣跡<br /><br />南西隅には、伏見城から移された五重六階の天守閣がありました。<br />屋根は5重ですが、内部は地上5階、地下1階の大きさで、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようです。<br />寛永行幸の先に、後水尾天皇は2回天守閣に登られたそうです。ここが天皇が登った唯一の天守閣と言われています。<br />残念ながら寛延3年(1750年)に落雷により焼失してしまいした。<br />その後は石垣だけが残されています。<br />

    天守閣跡

    南西隅には、伏見城から移された五重六階の天守閣がありました。
    屋根は5重ですが、内部は地上5階、地下1階の大きさで、屋根には瓦型の銅板が葺かれていたようです。
    寛永行幸の先に、後水尾天皇は2回天守閣に登られたそうです。ここが天皇が登った唯一の天守閣と言われています。
    残念ながら寛延3年(1750年)に落雷により焼失してしまいした。
    その後は石垣だけが残されています。

  • 内堀を見渡せます。<br />京都の街の景色を見渡すことができます。<br /><br />天守台の大きさは石垣の高さ約18m、広さ427㎡です。<br />なお、築城当初の二条城には、別の場所に天守閣がありました。今の清流園のあたりだったようです。もとは大和郡山城にあったものと考えられており、寛永年間に城域を拡張するに際して、淀城へ移築されました。<br /><br />

    内堀を見渡せます。
    京都の街の景色を見渡すことができます。

    天守台の大きさは石垣の高さ約18m、広さ427㎡です。
    なお、築城当初の二条城には、別の場所に天守閣がありました。今の清流園のあたりだったようです。もとは大和郡山城にあったものと考えられており、寛永年間に城域を拡張するに際して、淀城へ移築されました。

  • 本丸庭園も見渡せます。

    本丸庭園も見渡せます。

  • この日は11月2日ですが、少しずつ樹々が色付いてきました。

    この日は11月2日ですが、少しずつ樹々が色付いてきました。

  • もみじが赤く色づいてました。

    もみじが赤く色づいてました。

  • 鳴子門<br /><br />実は本来は西門から出る予定でしたが、天守閣跡を見た後、本丸御殿が工事をしていたため、その先は通れないと誤解して、引き返してしまいました。(-_-;)<br />周囲に人がいれば間違わなかったでしょうが、この日は空いていました・・・。<br /><br />この門は桃山門と対になっており、北を向いて本丸を防御しています。<br />寛永3年(1626)頃の建築です。<br />「四脚門」という形式の門です。この形式が城で用いられることは少なく、二条城では他に唐門があるのみだそうです。<br />ちなみに「四脚門」は、正面、背面に4本の控柱を立てていることから呼ばれています。<br />ただ、正面の控柱の出が小さく四脚門には見えません。<br />控柱が壊されれば門は簡単に倒れてしまいます。<br />そのような弱点を補うため出を小さくしたと考えられます。小さな門ではありますが、非常に珍しく、他に例を見ない構造なのだそうです。<br /><br />順路を間違ったのは失敗でしたが、通常のコースで回ったら、ここはきっと通らなかったでしょう。<br />そう思うと、怪我の功名だったかも・・・。(*^-^*)

    鳴子門

    実は本来は西門から出る予定でしたが、天守閣跡を見た後、本丸御殿が工事をしていたため、その先は通れないと誤解して、引き返してしまいました。(-_-;)
    周囲に人がいれば間違わなかったでしょうが、この日は空いていました・・・。

    この門は桃山門と対になっており、北を向いて本丸を防御しています。
    寛永3年(1626)頃の建築です。
    「四脚門」という形式の門です。この形式が城で用いられることは少なく、二条城では他に唐門があるのみだそうです。
    ちなみに「四脚門」は、正面、背面に4本の控柱を立てていることから呼ばれています。
    ただ、正面の控柱の出が小さく四脚門には見えません。
    控柱が壊されれば門は簡単に倒れてしまいます。
    そのような弱点を補うため出を小さくしたと考えられます。小さな門ではありますが、非常に珍しく、他に例を見ない構造なのだそうです。

    順路を間違ったのは失敗でしたが、通常のコースで回ったら、ここはきっと通らなかったでしょう。
    そう思うと、怪我の功名だったかも・・・。(*^-^*)

  • 前は清流園、右は和楽庵 茶房のようです。

    前は清流園、右は和楽庵 茶房のようです。

  • 大政奉還150周年の記念植樹です。

    大政奉還150周年の記念植樹です。

  • 醍醐の桜<br /><br />この桜は豊臣秀吉が「醍醐の花見」をしたことで有名な総本山醍醐寺の桜の子孫で、樹齢160年と言われている「太閤しだれ桜」を、増殖した桜です。<br />(住友林業株式会社のクローン技術で増殖したようです。)<br />「古都京都の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録された醍醐寺と二条城との交流の証として植樹されました。<br />

    醍醐の桜

    この桜は豊臣秀吉が「醍醐の花見」をしたことで有名な総本山醍醐寺の桜の子孫で、樹齢160年と言われている「太閤しだれ桜」を、増殖した桜です。
    (住友林業株式会社のクローン技術で増殖したようです。)
    「古都京都の文化財」としてユネスコの世界文化遺産に登録された醍醐寺と二条城との交流の証として植樹されました。

  • 加茂七石<br /><br />鴨川上流の「紅加茂石」「雲ヶ畑石」<br />貴船川の「貴船石」「畚下(ふごおろし)石」<br />鞍馬川の「鞍馬石」<br />静原川の「賤機(しずはた)石」「賤機糸掛石」<br />高野川の「八瀬真黒(まぐろ)石」のことをいうそうです。

    加茂七石

    鴨川上流の「紅加茂石」「雲ヶ畑石」
    貴船川の「貴船石」「畚下(ふごおろし)石」
    鞍馬川の「鞍馬石」
    静原川の「賤機(しずはた)石」「賤機糸掛石」
    高野川の「八瀬真黒(まぐろ)石」のことをいうそうです。

  • 1番手前が八施黒石<br />真中が鞍馬石<br />奥が畑石

    1番手前が八施黒石
    真中が鞍馬石
    奥が畑石

  • 左が畑石<br />真中が鞍馬石(鞍馬川の「鞍馬石)<br />右が八施黒石

    左が畑石
    真中が鞍馬石(鞍馬川の「鞍馬石)
    右が八施黒石

  • 糸掛石

    糸掛石

  • 左が畚(ふご)下石<br />真中が紫貴船石(貴船川の「貴船石」)<br />右が紅加茂石

    左が畚(ふご)下石
    真中が紫貴船石(貴船川の「貴船石」)
    右が紅加茂石

  • 北中仕切門(重要文化財)<br /><br />内堀の南側にある南中仕切門と規模もほぼ同じで、対になっています。<br />寛永3年(1626年)頃の建築されました。<br />本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防御上重要な門です。<br /><br />門の上に立つ土塀と石垣に囲まれているため「埋門(うずみもん)」と呼ばれています。埋門の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあります。これは姫路城が有名で、高松城にもあるそうです。<br /><br />順路を間違えたので、逆行してます。(-_-;)

    北中仕切門(重要文化財)

    内堀の南側にある南中仕切門と規模もほぼ同じで、対になっています。
    寛永3年(1626年)頃の建築されました。
    本丸西櫓門への通路を塞ぐ、防御上重要な門です。

    門の上に立つ土塀と石垣に囲まれているため「埋門(うずみもん)」と呼ばれています。埋門の形はこの他に、石垣に囲まれて開口だけのものもあります。これは姫路城が有名で、高松城にもあるそうです。

    順路を間違えたので、逆行してます。(-_-;)

  • 西北土蔵(米蔵)<br /><br />本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっています。<br />1寛永3年(1626年)頃の建築です。江戸時代には10棟ありました。<br />現在は城内に、3棟の土蔵だけになりました。<br />でも、城に土蔵が残るのはここ二条城だけです。<br />土蔵は本来は穀物類を収納するのが目的ですが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴です。<br />寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝用2棟、火縄用1棟が描かれています。<br />ただ残念ながら、現存していません。

    西北土蔵(米蔵)

    本丸西橋を挟んで南の土蔵と対になっています。
    1寛永3年(1626年)頃の建築です。江戸時代には10棟ありました。
    現在は城内に、3棟の土蔵だけになりました。
    でも、城に土蔵が残るのはここ二条城だけです。
    土蔵は本来は穀物類を収納するのが目的ですが、武器をしまう蔵もあるのが城の特徴です。
    寛永期の絵図には、火縄銃で使う塩硝用2棟、火縄用1棟が描かれています。
    ただ残念ながら、現存していません。

  • 実はこの反対側に西門があります。<br />行き止まりになっていたので写真を撮らないでしまいましたが、重要文化財になっていたようです。<br />寛永3年(1626年)頃に建設され、江戸時代は二条城の通用門として使われましたが、天明8年(1788年)の大火で周辺の櫓門等が焼失してしまいました。<br />明治以降には外堀にかかる木橋も失われ、今では西門だけが残っています。

    実はこの反対側に西門があります。
    行き止まりになっていたので写真を撮らないでしまいましたが、重要文化財になっていたようです。
    寛永3年(1626年)頃に建設され、江戸時代は二条城の通用門として使われましたが、天明8年(1788年)の大火で周辺の櫓門等が焼失してしまいました。
    明治以降には外堀にかかる木橋も失われ、今では西門だけが残っています。

  • 西橋<br /><br />本来はこの門から出てくるはずでした。<br />ここまで逆行し、ここからは戻ります。<br />

    西橋

    本来はこの門から出てくるはずでした。
    ここまで逆行し、ここからは戻ります。

  • 和楽庵<br /><br />高瀬川一之船入の旧角倉了以屋敷から移築した数寄屋に、豊臣秀吉が名残の月を眺めたことから名づけられた「残月亭」をまねた茶室を表千家から寄贈されて、増築したものです。<br />秋の市民大茶会等を開催してます。

    和楽庵

    高瀬川一之船入の旧角倉了以屋敷から移築した数寄屋に、豊臣秀吉が名残の月を眺めたことから名づけられた「残月亭」をまねた茶室を表千家から寄贈されて、増築したものです。
    秋の市民大茶会等を開催してます。

  • 茶室です。

    茶室です。

  • こちらは茶房前田の茶室です。<br />

    こちらは茶房前田の茶室です。

  • 床の間<br />掛け軸には、二条城のお花が描かれているのでしょうか・・・。

    床の間
    掛け軸には、二条城のお花が描かれているのでしょうか・・・。

  • 茶室から、庭を眺めて

    茶室から、庭を眺めて

  • 和菓子だけでなく、ケーキもありました。

    和菓子だけでなく、ケーキもありました。

  • お抹茶体験もできます。<br />私はお茶を淹れていただきましたが、自分で点てることもできます。

    お抹茶体験もできます。
    私はお茶を淹れていただきましたが、自分で点てることもできます。

  • 和菓子セットです。<br />お抹茶か煎茶を選べます。

    和菓子セットです。
    お抹茶か煎茶を選べます。

  • 手水鉢は古く趣があります。<br />像のようなものが彫られているように見えます。<br />

    手水鉢は古く趣があります。
    像のようなものが彫られているように見えます。

  • 目の前は二条城の清涼園の景色が広がっています。

    目の前は二条城の清涼園の景色が広がっています。

  • なんとも落ち着いた空間です。

    なんとも落ち着いた空間です。

  • 香雲亭<br /><br />旧角倉了以屋敷から移築しました。<br />内部は非公開のようです。<br />ただ、期間限定で香雲亭内における食事ができるようです。<br />また、結婚式などにも活用されてます。

    香雲亭

    旧角倉了以屋敷から移築しました。
    内部は非公開のようです。
    ただ、期間限定で香雲亭内における食事ができるようです。
    また、結婚式などにも活用されてます。

  • 清流園<br /><br />昭和40年(1965年)に京都市が迎賓館として造った庭園です。<br />西半分は「和楽庵」「香雲亭」の建物が建てられています。<br />東半分は洋風で芝生が敷き詰められていて、全体的には和洋折衷の作りです。<br />建築部材や庭石や樹々の多くは、豪商・角倉家(京都)の屋敷から譲り受けました。<br />春には桜のトンネルも楽しめるようです。

    清流園

    昭和40年(1965年)に京都市が迎賓館として造った庭園です。
    西半分は「和楽庵」「香雲亭」の建物が建てられています。
    東半分は洋風で芝生が敷き詰められていて、全体的には和洋折衷の作りです。
    建築部材や庭石や樹々の多くは、豪商・角倉家(京都)の屋敷から譲り受けました。
    春には桜のトンネルも楽しめるようです。

  • 北大手門(重要文化財)<br /><br />この門は、道を挟んだ向かいに京都所司代屋敷があるので、その連絡用の門としても使われたと思われます。<br />東大手門に対する控えの門として、ふさわしい威容も備えている門です。<br />規模は東大手門より6m短く、門構えも一回り小さいのですが、奥行や高さは同じです。<br />正面の出格子窓に石落としがあるのも同じです。<br /><br />

    北大手門(重要文化財)

    この門は、道を挟んだ向かいに京都所司代屋敷があるので、その連絡用の門としても使われたと思われます。
    東大手門に対する控えの門として、ふさわしい威容も備えている門です。
    規模は東大手門より6m短く、門構えも一回り小さいのですが、奥行や高さは同じです。
    正面の出格子窓に石落としがあるのも同じです。

  • 被爆アオギリ<br /><br />広島平和記念公園内に生息する被爆アオギリの子孫です。<br />1.3mあった被爆アオギリは、原爆の熱線と熱風で大やけどを負いながらも生きながらえることができました。<br />その子孫は各地に植樹されました。<br />平成25年10月、福島県立会津高校と京都堀川高校の生徒たちの交流活動の一環で植樹されたそうです。

    被爆アオギリ

    広島平和記念公園内に生息する被爆アオギリの子孫です。
    1.3mあった被爆アオギリは、原爆の熱線と熱風で大やけどを負いながらも生きながらえることができました。
    その子孫は各地に植樹されました。
    平成25年10月、福島県立会津高校と京都堀川高校の生徒たちの交流活動の一環で植樹されたそうです。

  • 番所<br /><br />寛永3年(1626年)の行幸を描いた寛永行幸絵図のこの位置に番所は描かれています。平時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警護していました。<br />1組50人の在番が2組常駐して、この番所は彼らの詰め所の1つのなっていました。<br />城内にはこの他、唐門、北大手門周囲、西門周囲等、計12棟の番所がありましたが、現在残っているのは、ここだけです。

    番所

    寛永3年(1626年)の行幸を描いた寛永行幸絵図のこの位置に番所は描かれています。平時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警護していました。
    1組50人の在番が2組常駐して、この番所は彼らの詰め所の1つのなっていました。
    城内にはこの他、唐門、北大手門周囲、西門周囲等、計12棟の番所がありましたが、現在残っているのは、ここだけです。

  • 二条城から御所までは、徒歩でも30~40分位ですが、地下鉄で来ました。<br />

    二条城から御所までは、徒歩でも30~40分位ですが、地下鉄で来ました。

  • 乾御門<br />地下鉄の「今出川」3番出口を出て、目の前の信号を渡り、烏丸通りを通ってきました。

    乾御門
    地下鉄の「今出川」3番出口を出て、目の前の信号を渡り、烏丸通りを通ってきました。

  • 京都御苑<br /><br />この中には京都御所の他、京都迎賓館、大宮御所、仙洞御所もあります。

    京都御苑

    この中には京都御所の他、京都迎賓館、大宮御所、仙洞御所もあります。

  • 御所が見えてきました。

    御所が見えてきました。

  • 清所門<br /><br />まずは、手荷物のチェックを受けます。<br />築地塀(ついじべい)で囲まれています。<br />築地塀とは泥土をつき固めて作った塀のことです。<br />西側に位置しています。<br />「きよどころもん」とも呼ばれることがあります。<br />日常の通用門になっています。<br />戦時中に疎開されて姿を消した御清所、大台所の建物の前に建っているため、その名前がつきました。

    清所門

    まずは、手荷物のチェックを受けます。
    築地塀(ついじべい)で囲まれています。
    築地塀とは泥土をつき固めて作った塀のことです。
    西側に位置しています。
    「きよどころもん」とも呼ばれることがあります。
    日常の通用門になっています。
    戦時中に疎開されて姿を消した御清所、大台所の建物の前に建っているため、その名前がつきました。

  • 宜秋門(ぎしゅうもん)<br /><br />清所門の南隣にあります。<br />四脚門、切妻屋根、平入。<br />唐の長安城の西内(大極宮)に見えます。<br />公家門の名があります。<br />摂政、関白、宮、大臣などで、公家の中でも特に「牛車の宣旨」を許された公家に限って、牛車に乗ったまま出入りすることが許されました。<br /><br />二条城もそうでしたが、こちらの塀も白線が5本入ってますので、最も高貴な塀です。

    宜秋門(ぎしゅうもん)

    清所門の南隣にあります。
    四脚門、切妻屋根、平入。
    唐の長安城の西内(大極宮)に見えます。
    公家門の名があります。
    摂政、関白、宮、大臣などで、公家の中でも特に「牛車の宣旨」を許された公家に限って、牛車に乗ったまま出入りすることが許されました。

    二条城もそうでしたが、こちらの塀も白線が5本入ってますので、最も高貴な塀です。

  • 御車寄<br /><br />儀式や天皇との対面のために参内した人を迎える玄関です。<br />公卿、殿上人などの限られた人だけが使用しました。

    御車寄

    儀式や天皇との対面のために参内した人を迎える玄関です。
    公卿、殿上人などの限られた人だけが使用しました。

  • 御所の案内図

    御所の案内図

  • 諸大夫の間<br /><br />参内した人のの控えの間です。<br />襖の絵にちなんで格の高い順に「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる三室が東から並びます。諸大夫の間は本来桜の間を指しますが、普通にはこの一棟三間の総称として用いられています。<br />身分に応じて部屋が決まっていました。<br />虎の間、鶴の間を使用する人は、御車寄から参入しますが、桜の間を使用する者については、左の沓脱石から参入しましました。

    諸大夫の間

    参内した人のの控えの間です。
    襖の絵にちなんで格の高い順に「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる三室が東から並びます。諸大夫の間は本来桜の間を指しますが、普通にはこの一棟三間の総称として用いられています。
    身分に応じて部屋が決まっていました。
    虎の間、鶴の間を使用する人は、御車寄から参入しますが、桜の間を使用する者については、左の沓脱石から参入しましました。

  • 諸大夫の間<br />桜の間(諸大夫の間)<br />名前どおり諸大夫が参内した際の控えの間でした。<br /><br />襖は桜が描かれています。<br />原在照作

    諸大夫の間
    桜の間(諸大夫の間)
    名前どおり諸大夫が参内した際の控えの間でした。

    襖は桜が描かれています。
    原在照作

  • 諸大夫の間<br />鶴の間(殿上人の間)<br />諸侯、所司代、高家などが参内した時の控えの間でした。<br /><br />襖には鶴が描かれています。<br />狩野永岳作

    諸大夫の間
    鶴の間(殿上人の間)
    諸侯、所司代、高家などが参内した時の控えの間でした。

    襖には鶴が描かれています。
    狩野永岳作

  • 諸大夫の間<br />虎の間(公卿の間)<br />参議以上の公家用の控えの間でした。<br /><br />襖には虎が描かれています。<br />岸岱作<br />

    諸大夫の間
    虎の間(公卿の間)
    参議以上の公家用の控えの間でした。

    襖には虎が描かれています。
    岸岱作

  • あまりよく見えませんが、襖絵がちょっとだけ見えました。

    あまりよく見えませんが、襖絵がちょっとだけ見えました。

  • 右に行くほど身分が高くなります。<br />「虎の間」が一番右です。<br /><br />公式行事などが執り行われる部屋の絵画は、金地に濃彩という豪華な色彩でしたが、それほど格式が高い部屋ではなかった諸大夫の間は、各絵師がそれぞれ個性的な筆を走らせることができたようです。

    右に行くほど身分が高くなります。
    「虎の間」が一番右です。

    公式行事などが執り行われる部屋の絵画は、金地に濃彩という豪華な色彩でしたが、それほど格式が高い部屋ではなかった諸大夫の間は、各絵師がそれぞれ個性的な筆を走らせることができたようです。

  • 新御車寄<br /><br />大正4年(1915年)、大正天皇の即位の礼が紫宸殿で行われるに際して、馬車による行幸に対応する玄関として新設されました。<br />天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえて南向きに建てられました。

    新御車寄

    大正4年(1915年)、大正天皇の即位の礼が紫宸殿で行われるに際して、馬車による行幸に対応する玄関として新設されました。
    天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえて南向きに建てられました。

  • 新御車寄<br /><br />造りは御車寄と似ています。<br /><br />ところで、京都の地名、この御所を中心に碁盤の目のように、通りをわかりやすくしています。<br />御所の方向は「上る」、御所から離れていくことを「下る」と表しています。<br />ただ御所より北側にある場所からでも、北へ向かうことを「上る」、南へ向かうことを「下る」と言います。<br />それは、後に御所より北まで街が大きくなっていったからです。<br />ただ、京都の北位置の方がが高い位置にあるという説もあるようです。<br />

    新御車寄

    造りは御車寄と似ています。

    ところで、京都の地名、この御所を中心に碁盤の目のように、通りをわかりやすくしています。
    御所の方向は「上る」、御所から離れていくことを「下る」と表しています。
    ただ御所より北側にある場所からでも、北へ向かうことを「上る」、南へ向かうことを「下る」と言います。
    それは、後に御所より北まで街が大きくなっていったからです。
    ただ、京都の北位置の方がが高い位置にあるという説もあるようです。

  • 月華門<br /><br />新御車寄方向の右手に、月華門が見えます。<br />回廊とともに、唐風に丹塗りです。

    月華門

    新御車寄方向の右手に、月華門が見えます。
    回廊とともに、唐風に丹塗りです。

  • 月華門<br /><br />この先には紫宸殿が、ちらりと見えます。<br />この朱色の門とは対照的で、紫宸殿は白木のままです。

    月華門

    この先には紫宸殿が、ちらりと見えます。
    この朱色の門とは対照的で、紫宸殿は白木のままです。

  • 月華門方向から承明門方向に向かっています。

    月華門方向から承明門方向に向かっています。

  • 建礼門<br /><br />この門は南向きにあり正門です。<br />かつては即位の礼などの重要な儀式の時に開かれました。<br />現在は天皇陛下及び国賓が来られた時にだけ使用されます。<br />格式の高い門です。

    建礼門

    この門は南向きにあり正門です。
    かつては即位の礼などの重要な儀式の時に開かれました。
    現在は天皇陛下及び国賓が来られた時にだけ使用されます。
    格式の高い門です。

  • 承明門<br /><br />この門は南庭の正面の門です。建礼門の背後に建っています。<br />6本の円柱の中央に三間がある五間三尺の12脚門です。<br />平安京内裏では檜皮葺きでした。

    承明門

    この門は南庭の正面の門です。建礼門の背後に建っています。
    6本の円柱の中央に三間がある五間三尺の12脚門です。
    平安京内裏では檜皮葺きでした。

  • 承明門<br /><br />瓦葺きで平入です。<br />高さは約6m、桁行は約16m、横長の門です。

    承明門

    瓦葺きで平入です。
    高さは約6m、桁行は約16m、横長の門です。

  • 天皇の住居であり、政の場でもあった御所ですが、日本の美と伝統の象徴でもあります。<br />桓武天皇が延暦13年(794年)、長岡京より遷都してから、明治天皇が東京に行幸するまで、常に歴史の舞台であり続けました。

    天皇の住居であり、政の場でもあった御所ですが、日本の美と伝統の象徴でもあります。
    桓武天皇が延暦13年(794年)、長岡京より遷都してから、明治天皇が東京に行幸するまで、常に歴史の舞台であり続けました。

  • 承明門から紫宸殿を臨んでいます。

    承明門から紫宸殿を臨んでいます。

  • 拡大した紫宸殿です。

    拡大した紫宸殿です。

  • 南庭(だんてい)<br /><br />紫宸殿です。少し傾いて撮ってしまいました。<br />ここが立ち入れるギリギリの所です。この先には入れません。<br />

    南庭(だんてい)

    紫宸殿です。少し傾いて撮ってしまいました。
    ここが立ち入れるギリギリの所です。この先には入れません。

  • 南庭の南東方向からの眺めです。<br />左掖門(さえきもん)から南庭に入ったところです。<br /><br />9間4面の素木(しらき)造りです。<br />屋根は檜皮葺(ひわだぶき),入母屋(いりもや)造りになっています。

    南庭の南東方向からの眺めです。
    左掖門(さえきもん)から南庭に入ったところです。

    9間4面の素木(しらき)造りです。
    屋根は檜皮葺(ひわだぶき),入母屋(いりもや)造りになっています。

  • 右側に見えるのは日華門です。<br />こちらも回廊とともに、唐風に丹塗りです。<br />紫宸殿に向かって右側ですが、つまり東側にあります。<br />推測ですが、日が昇る方向で名前を日華門としたのではないでしょうか・・・。<br />それと対照的に反対の西側が月華門でした。推測です。

    右側に見えるのは日華門です。
    こちらも回廊とともに、唐風に丹塗りです。
    紫宸殿に向かって右側ですが、つまり東側にあります。
    推測ですが、日が昇る方向で名前を日華門としたのではないでしょうか・・・。
    それと対照的に反対の西側が月華門でした。推測です。

  • 南庭<br />まるで宝石のような美しい玉砂利に、心も浄化されます。<br />

    南庭
    まるで宝石のような美しい玉砂利に、心も浄化されます。

  • 紫宸殿は京都御所において最も格式の高い正殿で、即位の礼などの重要な儀式がここで行われました。<br />平安時代の紫宸殿は寝殿造の原形として、数多くの貴族の住宅に影響を与えました。<br />この建物は安政2年(1855年)の造営ですが、伝統的な儀式が行えるように平安時代の復古様式で建設されています。<br />慶応4年(1866年)には「五か条のご誓文」の舞台にもなりました。<br />明治、大正、昭和の三代の天皇の即位の礼は、この紫宸殿内で行われました。<br />回廊に囲まれたこの南庭は、儀式の場として重要な役割をもっています。

    紫宸殿は京都御所において最も格式の高い正殿で、即位の礼などの重要な儀式がここで行われました。
    平安時代の紫宸殿は寝殿造の原形として、数多くの貴族の住宅に影響を与えました。
    この建物は安政2年(1855年)の造営ですが、伝統的な儀式が行えるように平安時代の復古様式で建設されています。
    慶応4年(1866年)には「五か条のご誓文」の舞台にもなりました。
    明治、大正、昭和の三代の天皇の即位の礼は、この紫宸殿内で行われました。
    回廊に囲まれたこの南庭は、儀式の場として重要な役割をもっています。

  • 左近の桜<br /><br />この桜は吉野桜(ヤマザクラ)です。元は梅でした。梅は唐から移入された木で、奈良朝以来の唐の文化への憧れが平安京内裏の造営にも受け継がれました。<br /><br />平安京五代目の仁明天皇(833-850年)の折に桜に植え替えられました。<br />それ以降しばしば植え継がれました。「古今著聞集」巻19に書かれています。<br />「南殿の桜は、村上の御時、式部卿重明親王の家の桜匂ことなりとて、うつしうえられけるとぞ」康保2(965年)・・・964年との説もあります。<br />

    左近の桜

    この桜は吉野桜(ヤマザクラ)です。元は梅でした。梅は唐から移入された木で、奈良朝以来の唐の文化への憧れが平安京内裏の造営にも受け継がれました。

    平安京五代目の仁明天皇(833-850年)の折に桜に植え替えられました。
    それ以降しばしば植え継がれました。「古今著聞集」巻19に書かれています。
    「南殿の桜は、村上の御時、式部卿重明親王の家の桜匂ことなりとて、うつしうえられけるとぞ」康保2(965年)・・・964年との説もあります。

  • 右近の橘<br /><br />平安京の造営時から植え継がれています。<br />なぜ梅とともに橘が植えられたのかは不明です。<br />一説に田道間守説話によるとも伝えられてます。<br />垂仁天皇の御時、田道間守が勅命を受け、「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を求めて全国を遍歴したのですが、この木を手に入れて帰った時、既に天皇は崩御されてました。<br />(※香りが良く、食べると不老不死になると言われていました。)<br />田道間守は、天皇の御陵に実を捧げ、悲しみのあまり命を終えてしまいました。<br />この「非時香菓」が橘で、美談を伝えて植えられたとの説があります。<br /><br />確かに橘は「ときじくのかくの木の実」と教わりました。

    右近の橘

    平安京の造営時から植え継がれています。
    なぜ梅とともに橘が植えられたのかは不明です。
    一説に田道間守説話によるとも伝えられてます。
    垂仁天皇の御時、田道間守が勅命を受け、「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を求めて全国を遍歴したのですが、この木を手に入れて帰った時、既に天皇は崩御されてました。
    (※香りが良く、食べると不老不死になると言われていました。)
    田道間守は、天皇の御陵に実を捧げ、悲しみのあまり命を終えてしまいました。
    この「非時香菓」が橘で、美談を伝えて植えられたとの説があります。

    確かに橘は「ときじくのかくの木の実」と教わりました。

  • 橘と言えば、<br />「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」<br />「古今和歌集」の和歌が有名です。<br />橘は本当にかぐわしい香りです。昔の人を思い出すのもわかります。<br />蛇足ながら、総じて「香り」は記憶や感情が蘇ります。<br />フランスの作家マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭にあるように、紅茶とマドレーヌの香りから幼少時代を思い出すというものです。

    橘と言えば、
    「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」
    「古今和歌集」の和歌が有名です。
    橘は本当にかぐわしい香りです。昔の人を思い出すのもわかります。
    蛇足ながら、総じて「香り」は記憶や感情が蘇ります。
    フランスの作家マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の冒頭にあるように、紅茶とマドレーヌの香りから幼少時代を思い出すというものです。

  • 高御座(たかみくら)の写真<br /><br />高さ6.4m、金色の金具と黒漆塗りで、三層の壇で組まれます。<br />下段は黒漆塗りの格狭間に金地に極彩色の麒麟が描かれています。<br />中段は八角形の屋根が据えられ、周りには朱色の勾欄をめぐらせます。<br /><br />高御座は、即位をはじめ朝賀の大礼や外国使節の引見などに天皇が突かれる玉座です。<br />

    高御座(たかみくら)の写真

    高さ6.4m、金色の金具と黒漆塗りで、三層の壇で組まれます。
    下段は黒漆塗りの格狭間に金地に極彩色の麒麟が描かれています。
    中段は八角形の屋根が据えられ、周りには朱色の勾欄をめぐらせます。

    高御座は、即位をはじめ朝賀の大礼や外国使節の引見などに天皇が突かれる玉座です。

  • 御帳台

    御帳台

  • 桧皮葺(ひわぶき)屋根実物模型

    桧皮葺(ひわぶき)屋根実物模型

  • 日華門<br /><br />先ほど月華門がこの反対の東にあります。<br />東の中門とも言うそうです。<br />また、左近衛府の陣に充てられたため、左近陣(さこんのじん)とも言うのだそうです。<br />実は、日華門は左近衛陣座に近いため、月華門よりも重要とされました。

    日華門

    先ほど月華門がこの反対の東にあります。
    東の中門とも言うそうです。
    また、左近衛府の陣に充てられたため、左近陣(さこんのじん)とも言うのだそうです。
    実は、日華門は左近衛陣座に近いため、月華門よりも重要とされました。

  • 春興殿<br /><br />大正4年(1915年)、大正天皇の即位の礼に際し、皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられました。<br />また、昭和天皇の即位の礼でも使用されました。<br />内部は板敷で、外陣・内陣・神鏡を奉安する内々陣に分かれています。

    春興殿

    大正4年(1915年)、大正天皇の即位の礼に際し、皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられました。
    また、昭和天皇の即位の礼でも使用されました。
    内部は板敷で、外陣・内陣・神鏡を奉安する内々陣に分かれています。

  • 清涼殿<br /><br />平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇の日常のお住まいとして定着した御殿です。<br />政事・神事などの重要な儀式も行われました。<br />天正18年(1590年)に、御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。<br />伝統的な儀式を行うために平安中期の建築空間や古制に則って伝えられています。<br />

    清涼殿

    平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇の日常のお住まいとして定着した御殿です。
    政事・神事などの重要な儀式も行われました。
    天正18年(1590年)に、御常御殿にお住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。
    伝統的な儀式を行うために平安中期の建築空間や古制に則って伝えられています。

  • 御池庭<br /><br />欅橋だったと思います。

    御池庭

    欅橋だったと思います。

  • 小御所<br /><br />鎌倉時代以降建てられるようになった御殿で、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用されました。<br />明治維新の際には、将軍に対する処置を定めた「小御所会議」が行われたことでも有名です。<br />上段・中段・下段の間3室のまわりに広い板敷(廂)がつき、様々な様式に対応できる実用的な建物でした。<br />現在の建物は昭和29年(1954年)に焼失したため、同33年(1958年)に復元されました。<br /><br />ちなみに御所は、ほとんど観光客はなく、この方々に会った程度です。

    小御所

    鎌倉時代以降建てられるようになった御殿で、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用されました。
    明治維新の際には、将軍に対する処置を定めた「小御所会議」が行われたことでも有名です。
    上段・中段・下段の間3室のまわりに広い板敷(廂)がつき、様々な様式に対応できる実用的な建物でした。
    現在の建物は昭和29年(1954年)に焼失したため、同33年(1958年)に復元されました。

    ちなみに御所は、ほとんど観光客はなく、この方々に会った程度です。

  • 皇太子の儀式や将軍、諸大名の引見の場として使用された小御所は、紫宸殿の北側に建てられて、御池庭に面しています。

    皇太子の儀式や将軍、諸大名の引見の場として使用された小御所は、紫宸殿の北側に建てられて、御池庭に面しています。

  • 小御所前の御池庭です。<br />樹々が少しだけ赤く染まっています。<br /><br />御池庭の造成のきっかけとなったのは、後水尾天皇の即位のあと、徳川家康がはじめて内裏の造営工事に着手した慶長16年(1611年)でした。<br /><br />「浮雲のかかると見えし月影は 雁の一村わたるなりけり」<br />宗隆が詠んだ御池庭は、精密な写生図とともに記した印象とおりの「花の春の御遊、月の秋の御舟遊びなど、そぞろに思い出されぬ」雅な姿で、今も名庭として変わりのない美観を広げています。<br />それにしても舟遊びなど風流です。<br />

    小御所前の御池庭です。
    樹々が少しだけ赤く染まっています。

    御池庭の造成のきっかけとなったのは、後水尾天皇の即位のあと、徳川家康がはじめて内裏の造営工事に着手した慶長16年(1611年)でした。

    「浮雲のかかると見えし月影は 雁の一村わたるなりけり」
    宗隆が詠んだ御池庭は、精密な写生図とともに記した印象とおりの「花の春の御遊、月の秋の御舟遊びなど、そぞろに思い出されぬ」雅な姿で、今も名庭として変わりのない美観を広げています。
    それにしても舟遊びなど風流です。

  • 蹴鞠の庭<br /><br />小御所と御学問所の間の小さな白砂の空間です。<br />広さは7間半四方です。<br />「懸かり」「鞠庭」「鞠壺」と称します。<br />蹴鞠は「しゅうきく」とも読み、白鞠、燻べ鞠(ふすべまり)と言った鹿革製の鞠を蹴る遊びです。<br />「古今著聞集」巻11に「鞠の逸雄は文武天皇701年(大宝元年)に始まる」とあります。<br />最盛期は鎌倉時代から南北朝時代、宮中だけでなく武家にも及びました。<br />飛鳥井流、難波流などの門流も生まれたそうです。<br />藤原忠実の批評によれば、当代の無双は加茂も神主・成平。名手はその門から出た大納言成通でした。鞠庭に立つこと連続2000日。鞠を蹴りながら清水寺の舞台の欄干を西から東へ往復したのだそうです。<br /><br />個人的な考えですが、まるでサッカーのリフティングのようです。(笑)<br /><br />

    蹴鞠の庭

    小御所と御学問所の間の小さな白砂の空間です。
    広さは7間半四方です。
    「懸かり」「鞠庭」「鞠壺」と称します。
    蹴鞠は「しゅうきく」とも読み、白鞠、燻べ鞠(ふすべまり)と言った鹿革製の鞠を蹴る遊びです。
    「古今著聞集」巻11に「鞠の逸雄は文武天皇701年(大宝元年)に始まる」とあります。
    最盛期は鎌倉時代から南北朝時代、宮中だけでなく武家にも及びました。
    飛鳥井流、難波流などの門流も生まれたそうです。
    藤原忠実の批評によれば、当代の無双は加茂も神主・成平。名手はその門から出た大納言成通でした。鞠庭に立つこと連続2000日。鞠を蹴りながら清水寺の舞台の欄干を西から東へ往復したのだそうです。

    個人的な考えですが、まるでサッカーのリフティングのようです。(笑)

  • ちなみに蹴鞠は、鞠を地面に落とすことなく、蹴り続ける球技だそうです。<br />蹴鞠は勝敗を争うものではなく、いかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかという精神のもと行われるものです。<br />蹴鞠の庭で行われた催しを、御学問所から天皇がご覧になったという記録があるそうです。

    ちなみに蹴鞠は、鞠を地面に落とすことなく、蹴り続ける球技だそうです。
    蹴鞠は勝敗を争うものではなく、いかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかという精神のもと行われるものです。
    蹴鞠の庭で行われた催しを、御学問所から天皇がご覧になったという記録があるそうです。

  • 御学問所<br /><br />慶長18年(1613年)に清涼殿から独立した御殿で、御読書始や和歌の会などの学芸の他、対面にも用いられました。<br />慶応3年(1867年)、ここで明治天皇が親王・諸臣を引見され、勅諭を下して王政復古の大号令を発せられました。<br />上段・中段・下段を含む6室からなる総畳敷の建物です。

    御学問所

    慶長18年(1613年)に清涼殿から独立した御殿で、御読書始や和歌の会などの学芸の他、対面にも用いられました。
    慶応3年(1867年)、ここで明治天皇が親王・諸臣を引見され、勅諭を下して王政復古の大号令を発せられました。
    上段・中段・下段を含む6室からなる総畳敷の建物です。

  • 御池庭の欅橋を御学問所先から撮りました。

    御池庭の欅橋を御学問所先から撮りました。

  • 上段・中段・下段の間のそれぞれの襖絵です。

    上段・中段・下段の間のそれぞれの襖絵です。

  • 御内庭<br /><br />この庭には遣水が流れ、土橋、石橋、木橋などが架かっています。

    御内庭

    この庭には遣水が流れ、土橋、石橋、木橋などが架かっています。

  • 陵王納曽利図

    陵王納曽利図

  • 曲水(宴)図

    曲水(宴)図

  • 御常御殿<br /><br />京都御所 の中で最も大きな建物です。<br /><br />

    御常御殿

    京都御所 の中で最も大きな建物です。

  • 蹴鞠図<br /><br />

    蹴鞠図

  • 立派な松の木です。

    立派な松の木です。

  • 龍泉門かと思います。<br />牡丹の花を透かし彫りした門があります。

    龍泉門かと思います。
    牡丹の花を透かし彫りした門があります。

  • 高宗夢賚良弼図(左)<br />大禹戒酒防微図(中)<br />尭任賢図治図(右)<br />

    高宗夢賚良弼図(左)
    大禹戒酒防微図(中)
    尭任賢図治図(右)

  • 御常御殿<br /><br />新たに天皇の生活の場として、16世紀以降に建てられました。<br />(清涼殿は儀式の場に使われるようになったため)<br />1855年、現在の御常御殿が再建されました。<br />

    御常御殿

    新たに天皇の生活の場として、16世紀以降に建てられました。
    (清涼殿は儀式の場に使われるようになったため)
    1855年、現在の御常御殿が再建されました。

  • 明治天皇は東京へ移るまで、この御常御殿で生活していたそうです。<br />南側は寝殿造り様式が残っています。

    明治天皇は東京へ移るまで、この御常御殿で生活していたそうです。
    南側は寝殿造り様式が残っています。

  • 上段の間には、天皇の象徴の桐・竹・が描かれました。<br />また、襖の後ろには、剣と勾玉を納めるの間があります。<br />これは皇位継承のしるしの三種の神器です。<br />

    上段の間には、天皇の象徴の桐・竹・が描かれました。
    また、襖の後ろには、剣と勾玉を納めるの間があります。
    これは皇位継承のしるしの三種の神器です。

  • 上段の間「朝賀図」(右)<br />中段の間「賀茂祭群参図」(中)<br />下段の間「駒引図」(左)

    上段の間「朝賀図」(右)
    中段の間「賀茂祭群参図」(中)
    下段の間「駒引図」(左)

  • ちらりと見えました。

    ちらりと見えました。

  • 御三間<br /><br />豊栄年(1709年)に御常御殿の一部が独立したもので、七夕などの内向きの行事に使用されました。<br />万延元年(186年)祐宮(後の明治天皇)が8歳の時、成長を願うための儀式「深曽木」がここで行われました。

    御三間

    豊栄年(1709年)に御常御殿の一部が独立したもので、七夕などの内向きの行事に使用されました。
    万延元年(186年)祐宮(後の明治天皇)が8歳の時、成長を願うための儀式「深曽木」がここで行われました。

  • それでは御所にお別れをして、移動します。

    それでは御所にお別れをして、移動します。

  • 井戸がありました。<br /><br />縣井(あがたい)<br />昔この井戸のそばに縣宮という社があり、地方官吏として出世を願う人は、井戸の水で身を清めて祈願をして宮中にのぼったと言われています。<br />この付近は江戸時代あで、五摂家の1つ一条家の屋敷地内となっていて、井戸水は明治天皇の皇后となられた一条美子の産湯に用いられたとも言われています。<br />大和物語では病気を治す水とも紹介されてます。

    井戸がありました。

    縣井(あがたい)
    昔この井戸のそばに縣宮という社があり、地方官吏として出世を願う人は、井戸の水で身を清めて祈願をして宮中にのぼったと言われています。
    この付近は江戸時代あで、五摂家の1つ一条家の屋敷地内となっていて、井戸水は明治天皇の皇后となられた一条美子の産湯に用いられたとも言われています。
    大和物語では病気を治す水とも紹介されてます。

  • 今出川駅に向かっているところです。烏丸通りです。<br />この後は京都市役所前駅まで行きます。<br />ちなみに、御所から南に下った所に、お香の「松栄堂」があります。姫路に行かなければ、寄って行きたいところでした。<br />実はこの後、「鳩居堂」には当初から行く予定でしたので、松栄堂は諦めました。

    今出川駅に向かっているところです。烏丸通りです。
    この後は京都市役所前駅まで行きます。
    ちなみに、御所から南に下った所に、お香の「松栄堂」があります。姫路に行かなければ、寄って行きたいところでした。
    実はこの後、「鳩居堂」には当初から行く予定でしたので、松栄堂は諦めました。

  • 本能寺の境内の案内<br /><br />実は山門から入ろうと思っていたのですが、御池門から入りました。<br /><br />

    本能寺の境内の案内

    実は山門から入ろうと思っていたのですが、御池門から入りました。

  • こちらは寺町商店街の方向で、三門付近です。

    こちらは寺町商店街の方向で、三門付近です。

  • 本能寺の三門です。<br />寺町商店街から撮りました。<br />そうです。本能寺の変で有名なお寺です。

    本能寺の三門です。
    寺町商店街から撮りました。
    そうです。本能寺の変で有名なお寺です。

  • 日隆聖人を御開山とし、日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門流の大本山でもあります。

    日隆聖人を御開山とし、日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門流の大本山でもあります。

  • 本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」という寺名を使っていました。<br />1433年から現在まで「本能寺」と言われています。<br />それは「本門八品相応能弘之寺」の言葉より変えました。<br /><br />

    本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」という寺名を使っていました。
    1433年から現在まで「本能寺」と言われています。
    それは「本門八品相応能弘之寺」の言葉より変えました。

  • 大寶殿<br /><br />本能寺にまつわる書巻や寺宝、信長が集めた茶道具類など、<br />たくさんの宝物が展示されています。

    大寶殿

    本能寺にまつわる書巻や寺宝、信長が集めた茶道具類など、
    たくさんの宝物が展示されています。

  • 本堂<br /><br />享保4年(1719年)徳川吉宗の八代将軍襲職を祝賀する目的で、江戸時代に入って9度目の朝鮮使節(通信使)475名が来日しました。このうち大阪どまりとなった129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に、同年9月12日に鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊しました。

    本堂

    享保4年(1719年)徳川吉宗の八代将軍襲職を祝賀する目的で、江戸時代に入って9度目の朝鮮使節(通信使)475名が来日しました。このうち大阪どまりとなった129名を除く346名が護衛の対馬藩主などと共に、同年9月12日に鳥羽実相寺を経て入洛、本寺に一夜宿泊しました。

  • 通信使の正使らは、本堂に泊まり、塔頭の蓮頭の蓮承院は上官、吉祥院は、通訳官、本行院は五山僧などが利用しました。その間、貫首以下の一山の僧侶たちは、一時他寺などへ立ち退いたことが当時の記録の「両山歴譜」に記されています。この夜、京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の令による饗宴の席が設けられました。この時通信使の随員であった製述官・申維翰が著した見聞記「海游録」では本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べています。<br />江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在しました。<br />また、護衛役の対馬藩主 宋氏の一行やその他の護衛の日本人たちば本寺の周辺の寺院や武家にも分宿しました。<br /><br />ちなみに、このすぐ隣にはホテル本能寺がありました。

    通信使の正使らは、本堂に泊まり、塔頭の蓮頭の蓮承院は上官、吉祥院は、通訳官、本行院は五山僧などが利用しました。その間、貫首以下の一山の僧侶たちは、一時他寺などへ立ち退いたことが当時の記録の「両山歴譜」に記されています。この夜、京都所司代の松平忠周らが挨拶に来て、将軍の令による饗宴の席が設けられました。この時通信使の随員であった製述官・申維翰が著した見聞記「海游録」では本能寺のことを「壮麗なことは比すべきものがない」と述べています。
    江戸からの帰路もまた11月1日より3日まで本寺に滞在しました。
    また、護衛役の対馬藩主 宋氏の一行やその他の護衛の日本人たちば本寺の周辺の寺院や武家にも分宿しました。

    ちなみに、このすぐ隣にはホテル本能寺がありました。

  • 織田信長公の供養塔

    織田信長公の供養塔

  • おおいちょう<br /><br />蛤御門の変の火災の時に、この銀杏の木から水が噴き出して、火を消したという逸話があります。<br /><br />

    おおいちょう

    蛤御門の変の火災の時に、この銀杏の木から水が噴き出して、火を消したという逸話があります。

  • 京都市指定で保存樹になっています。<br />

    京都市指定で保存樹になっています。

  • 天正10年(1582年)6月21日の早朝、この本能寺に滞在中の織田信長を明智光秀が突如謀反を起こして襲撃した事件です。

    天正10年(1582年)6月21日の早朝、この本能寺に滞在中の織田信長を明智光秀が突如謀反を起こして襲撃した事件です。

  • 信長公卿廟所<br /><br />信長の三男の織田信孝は明智光秀が討たれてすぐに燼骨収集の作業を行ないました。<br />本能寺の変から1ヶ月後の天正10年7月4日(1582年)に本能寺跡地を信長の墓所と定めています。<br />そして本能寺の廟所には信長が所持していた太刀が納められています。<br />

    信長公卿廟所

    信長の三男の織田信孝は明智光秀が討たれてすぐに燼骨収集の作業を行ないました。
    本能寺の変から1ヶ月後の天正10年7月4日(1582年)に本能寺跡地を信長の墓所と定めています。
    そして本能寺の廟所には信長が所持していた太刀が納められています。

  • 手水舎

    手水舎

  • 信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち切腹しました。<br /><br />織田信長は上洛中の宿所は、妙覚寺を使用することが多く、この本能寺を宿所とすることはこれまで3回と少なかったのです。<br />ただ、この日は息子の織田信忠が妙覚寺に逗留していたため、信長は本能寺を宿所としていました。

    信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち切腹しました。

    織田信長は上洛中の宿所は、妙覚寺を使用することが多く、この本能寺を宿所とすることはこれまで3回と少なかったのです。
    ただ、この日は息子の織田信忠が妙覚寺に逗留していたため、信長は本能寺を宿所としていました。

  • 本能寺の御朱印

    本能寺の御朱印

  • 京都鳩居堂<br />寺町通りに面しています。

    京都鳩居堂
    寺町通りに面しています。

  • 向い側のお店

    向い側のお店

  • 高瀬川<br /><br />江戸時代初期(1611年)、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河です。<br />この川は小さなかわですが、鴨川の西側を併走しています。<br /><br />

    高瀬川

    江戸時代初期(1611年)、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河です。
    この川は小さなかわですが、鴨川の西側を併走しています。

  • この界隈はかつて土佐藩、長州藩の屋敷跡地もあり、幕末の舞台になった場所でもあります。

    この界隈はかつて土佐藩、長州藩の屋敷跡地もあり、幕末の舞台になった場所でもあります。

  • 三条河原<br />実は昔処刑場でした。<br />この景観の良い場所ですが、三条から六条(七条)では早くは平安時代末期から行われていました。<br />特に六条河原では多く行われました。<br />政治の中心地でもあっただけに、反逆者は見せしめになっていたのでしょう。<br />

    三条河原
    実は昔処刑場でした。
    この景観の良い場所ですが、三条から六条(七条)では早くは平安時代末期から行われていました。
    特に六条河原では多く行われました。
    政治の中心地でもあっただけに、反逆者は見せしめになっていたのでしょう。

  • 処刑された歴史上の人物<br /><br />平将門(さらし首にされました)<br />豊臣秀次とその妻子<br />石川五右衛門と家族<br />石田三成<br />切支丹信者多数<br />近藤勇(さらし首)・・・・・。<br />ここに上げてるのはほんの一部です。<br />源平合戦、山崎の合戦、関ヶ原の合戦、大阪夏の陣、蝦夷運動等々の関係者が多く処刑され、もしくは他で処刑された後、河原にさらされました。

    処刑された歴史上の人物

    平将門(さらし首にされました)
    豊臣秀次とその妻子
    石川五右衛門と家族
    石田三成
    切支丹信者多数
    近藤勇(さらし首)・・・・・。
    ここに上げてるのはほんの一部です。
    源平合戦、山崎の合戦、関ヶ原の合戦、大阪夏の陣、蝦夷運動等々の関係者が多く処刑され、もしくは他で処刑された後、河原にさらされました。

  • 鴨川はゆっくりと流れてます。<br />先ほどの生臭い歴史はなかったかのようです。

    鴨川はゆっくりと流れてます。
    先ほどの生臭い歴史はなかったかのようです。

  • 川床のお店が立ち並び、暑い夏の京都では、涼を感じる風流な場所でもあります。

    川床のお店が立ち並び、暑い夏の京都では、涼を感じる風流な場所でもあります。

  • 三条大橋<br /><br />江戸時代に作られた五街道の一つである東海道の終点の地でもあります。<br />夕方人々が集まって来ていました。<br />綺麗な京都の夕景を眺めに来たのでしょう。

    三条大橋

    江戸時代に作られた五街道の一つである東海道の終点の地でもあります。
    夕方人々が集まって来ていました。
    綺麗な京都の夕景を眺めに来たのでしょう。

  • こちらは御池大橋です。

    こちらは御池大橋です。

  • 玉石が敷かれていました。

    玉石が敷かれていました。

  • さて、それではそろそろ京都駅に戻ろうかと、てくてくと歩き始めました。<br /><br />おや、「龍馬通り」と表示されています。<br />ここには材木屋「酢屋」があります。<br />これは坂本龍馬の海援隊屯所だった場所です。<br />そのため、この通りを「龍馬通り」と呼ぶようになりました。

    さて、それではそろそろ京都駅に戻ろうかと、てくてくと歩き始めました。

    おや、「龍馬通り」と表示されています。
    ここには材木屋「酢屋」があります。
    これは坂本龍馬の海援隊屯所だった場所です。
    そのため、この通りを「龍馬通り」と呼ぶようになりました。

  • 大黒橋<br /><br />高瀬川にかかっている橋です。<br />この界隈を坂本龍馬も闊歩したことでしょう。

    大黒橋

    高瀬川にかかっている橋です。
    この界隈を坂本龍馬も闊歩したことでしょう。

  • 高瀬川には枯れ葉が舞い落ちていました。<br />ちょっと風情があります。<br />時間に余裕があったら、この近隣のお店にも立ち寄りたかったです。

    高瀬川には枯れ葉が舞い落ちていました。
    ちょっと風情があります。
    時間に余裕があったら、この近隣のお店にも立ち寄りたかったです。

  • さて、この先で「池田屋騒動」が起きました。<br /><br />元治元年6月5日(1864年7月8日)、三条木屋町(三条小橋)の旅籠である池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、治安維持組織である新選組が襲撃した事件です。

    さて、この先で「池田屋騒動」が起きました。

    元治元年6月5日(1864年7月8日)、三条木屋町(三条小橋)の旅籠である池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、治安維持組織である新選組が襲撃した事件です。

  • 佐久間象山、大村益次郎、遭難之碑<br /><br />佐久間象山は信州の松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。<br />彼の塾からは勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を輩出しています。<br />元治元年(1864年)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年7月11日に刺客に惨殺されました。<br /><br />大村益次郎は、長州藩出身で医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵性樹立に尽力しました。<br />しかし、配当論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年杯決勝で亡くなりました。

    佐久間象山、大村益次郎、遭難之碑

    佐久間象山は信州の松代藩の出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力しました。
    彼の塾からは勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を輩出しています。
    元治元年(1864年)に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年7月11日に刺客に惨殺されました。

    大村益次郎は、長州藩出身で医学を梅田幽斎に学び、さらに緒方洪庵の適塾でも学んで兵学者となりました。長州藩の軍事指導者として活躍し、その功績から維新後、兵部大輔に任命され、近代兵性樹立に尽力しました。
    しかし、配当論で士族の反感を買い、明治2年に三条木屋町にて反対派士族に襲われ、同年杯決勝で亡くなりました。

  • 高瀬川

    高瀬川

  • ちりめん洋服発祥の地<br />武市瑞山先生寓居の跡<br /><br />「ちりめん洋服」とは、伝承織物・縮緬の布を使用して、洋服に仕立てたものを言います。<br />縮緬布は、天正年間(安土・桃山時代1573-92年)に中国「明」から泉州・堺の織工によって強撚糸の織法が伝えられ、京都西陣にて縮緬として完成したそうです。<br />その撚糸は、紀元前メソポタミア文明で撚糸技術が発祥し、西洋へはイタリアに伝承され、東洋へは中国を経由して日本に伝承されたと伝えられています。<br />昭和47年(1972年)田村佐起三が、縮緬布を素材にしたレディ・メイド(既製品)のブラウスやドレスを、他に先駆けてこの木屋町通りから発表したのを顕彰し、「ちりめん洋服・発祥の地」の石碑及び銘盤を平成11年(1999年)発起人<br />150余名の浄財にて、この地に建立されました。

    ちりめん洋服発祥の地
    武市瑞山先生寓居の跡

    「ちりめん洋服」とは、伝承織物・縮緬の布を使用して、洋服に仕立てたものを言います。
    縮緬布は、天正年間(安土・桃山時代1573-92年)に中国「明」から泉州・堺の織工によって強撚糸の織法が伝えられ、京都西陣にて縮緬として完成したそうです。
    その撚糸は、紀元前メソポタミア文明で撚糸技術が発祥し、西洋へはイタリアに伝承され、東洋へは中国を経由して日本に伝承されたと伝えられています。
    昭和47年(1972年)田村佐起三が、縮緬布を素材にしたレディ・メイド(既製品)のブラウスやドレスを、他に先駆けてこの木屋町通りから発表したのを顕彰し、「ちりめん洋服・発祥の地」の石碑及び銘盤を平成11年(1999年)発起人
    150余名の浄財にて、この地に建立されました。

  • 三之船入<br /><br />高瀬川には他に一之船入り・二之船入等の船入がありますが、現存するのは一之船入のみです。<br />一之船入手前の高瀬川には高瀬舟が再現されています。

    三之船入

    高瀬川には他に一之船入り・二之船入等の船入がありますが、現存するのは一之船入のみです。
    一之船入手前の高瀬川には高瀬舟が再現されています。

  • 水の堰止めの石<br /><br />船の往来のため木の板をはめ込んで水位を調節した堰止めの石のことです。<br />高瀬舟は荷を満載すれば沈んでしまいます。<br />そのため堰で水位を上げることで、舟底をこすらずに通り抜けることができるようにしました。<br />この石標は高瀬川の水の堰止め石を示すものです。

    水の堰止めの石

    船の往来のため木の板をはめ込んで水位を調節した堰止めの石のことです。
    高瀬舟は荷を満載すれば沈んでしまいます。
    そのため堰で水位を上げることで、舟底をこすらずに通り抜けることができるようにしました。
    この石標は高瀬川の水の堰止め石を示すものです。

  • お昼ご飯を食べていなかったので、時間的には少し早いのですが、京都で夕ご飯を食べる事にしました。<br />まずは、ビールを。<br /><br />

    お昼ご飯を食べていなかったので、時間的には少し早いのですが、京都で夕ご飯を食べる事にしました。
    まずは、ビールを。

  • この後18時過ぎの新幹線で姫路へ向かいます。<br />「くらま」<br />ニュートーキヨー京都くらま店<br />京彩弁当ビールセットです。<br />

    この後18時過ぎの新幹線で姫路へ向かいます。
    「くらま」
    ニュートーキヨー京都くらま店
    京彩弁当ビールセットです。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • sanaboさん 2021/11/27 01:08:12
    のびのび一人旅♪
    noelさん、こんばんは

    行き先の選択肢でたくさん迷われ、京都と姫路に行ってらしたんですね^^
    自由気ままに軽やかに楽しまれてるお姿が目に浮かぶようでした。
    緊急事態宣言解除後でも、まだそれほど混みあっていなくて
    ゆっくりとご覧になれて良かったですね。
    私は随分と京都にご無沙汰しているので、二条城も御所もむか~し行ったと
    思うけどほとんど忘却の彼方で(笑)、noelさんの旅行記で知ることばかりでした。
    まず二条城の唐門ですけど、鶴亀、松竹梅、蝶に牡丹に加え龍に虎、唐獅子等の
    霊獣と、これでもかっていうくらいの盛沢山で本当に貴賓を迎えるに相応しい
    豪華絢爛さですね~!
    大政奉還という歴史の舞台であり、障壁画などの宝庫でもあり
    御殿と豪華な庭園を鑑賞できる唯一のお城であることなどを教えていただき
    改めてそのような観点で訪問してみたいなと思いました。
    お茶室の床の間の掛け軸の絵はnoelさんが仰るように二条城で見られる
    お花なのかもしれませんね。風流な趣があって素敵だなと思いました。
    二条城から御所までは徒歩でも30~40分位だそうですけど、限られた
    お時間を有効に使うにはやはり地下鉄利用になりますよね。
    御所では(当然かもしれませんが)身分によって使用できる門や控えの間が
    定められていたり、天皇の馬車による行幸専用の玄関があったりなど、
    階級制度の中で今の世と変わらぬ出世競争があったのでしょうね~。
    そして回廊に囲まれた南庭の奥に佇む紫宸殿は天皇陛下の即位の礼が
    執り行われた場所だとお聞きしたせいか、厳かな風格を感じました。
    ところで橘の薫りですが、、私はよく解らなくてググったら柑橘の薫り
    なのですね。
    プルーストの引用はいかにもnoelさんらしいと感心しました☆
    蹴鞠は確かに動作はリフティングに似ていますけど
    「勝敗を争うものではなく、いかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかという
    精神のもと行われるもの」とのことで、ふ~む、単なる遊びではなく
    精神性の高いものだったのですね。
    noelさんでしたら「松栄堂」もいらっしゃりたかったでしょうに
    そこを諦めていらした「鳩居堂」で何を買われたのか、気になりました^^

    感染者数が激減しましたね。年末年始もこのままだといいのですけど、
    南アの変異株のことが気になりますね(>_<)
    寒さに向かい、お気をつけてお元気でお過ごし下さいね。
    姫路編も楽しみにお待ちしています♪

    sanabo

    noel

    noelさん からの返信 2021/11/27 21:34:02
    RE: のびのび一人旅♪
    sanaboさん、こんばんは

    ご覧いただき、ありがとうございます。

    > 行き先の選択肢でたくさん迷われ、京都と姫路に行ってらしたんですね^^
    > 自由気ままに軽やかに楽しまれてるお姿が目に浮かぶようでした。

    はい、そのとおりです。
    そしたら、先をいそぐあまり、京都ではコインロッカーに荷物を預けるのも忘れて、ずっと荷物を持ったまま観光していました。(-_-;)

    > 私は随分と京都にご無沙汰しているので、二条城も御所もむか?し行ったと
    > 思うけどほとんど忘却の彼方で(笑)、noelさんの旅行記で知ることばかりでした。

    そんな〜sanaboさんだけじゃないですよ。
    確かに私もだいぶ久しぶりでした。
    子どもの頃の記憶は「鴬張り」ぐらいでした。

    > まず二条城の唐門ですけど、鶴亀、松竹梅、蝶に牡丹に加え龍に虎、唐獅子等の
    > 霊獣と、これでもかっていうくらいの盛沢山で本当に貴賓を迎えるに相応しい
    > 豪華絢爛さですね?!

    本当にさすが、としかいようのない豪華さでした。
    縁起がよいおめでたいものばかりです。

    > 大政奉還という歴史の舞台であり、障壁画などの宝庫でもあり
    > 御殿と豪華な庭園を鑑賞できる唯一のお城であることなどを教えていただき
    > 改めてそのような観点で訪問してみたいなと思いました。

    ありがとうございます。
    そういう私も、昔は大政奉還の重要性でさえ、今ほど考えていませんでしたし。
    (-_-;)(-_-;)

    > 二条城から御所までは徒歩でも30?40分位だそうですけど、限られた
    > お時間を有効に使うにはやはり地下鉄利用になりますよね。

    当初は歩こうかと考えてました。
    ただ、結果的には電車の乗り換えを考えると、たいして変わらなかったかもしれません。体力を温存しようとも考えてましたが、体力は十分余っていました。

    > 御所では(当然かもしれませんが)身分によって使用できる門や控えの間が
    > 定められていたり、天皇の馬車による行幸専用の玄関があったりなど、
    > 階級制度の中で今の世と変わらぬ出世競争があったのでしょうね?。

    はい、そのとおりでした。
    そして造りが全体的に本当に広々していると感じました。

    > そして回廊に囲まれた南庭の奥に佇む紫宸殿は天皇陛下の即位の礼が
    > 執り行われた場所だとお聞きしたせいか、厳かな風格を感じました。

    本当に厳かでした。
    南庭から紫宸殿を仰いだ時、近くでありながら遠い存在に感じました。
    整然と敷き詰められた玉砂利を見ると、気持ちが引き締まり神聖な気を感じました。


    > ところで橘の薫りですが、、私はよく解らなくてググったら柑橘の薫り
    > なのですね。
    > プルーストの引用はいかにもnoelさんらしいと感心しました☆

    そうなんです。
    私自身、柑橘系の香りは大好きです。
    ひょとすると食べるよりも香りの方が好きなのかもしれません。
    プルーストの「失われた・・・」は長すぎて疲れてしまいますが・・・・汗

    > 蹴鞠は確かに動作はリフティングに似ていますけど
    > 「勝敗を争うものではなく、いかに蹴りやすい鞠を相手に渡すかという
    > 精神のもと行われるもの」とのことで、ふ?む、単なる遊びではなく
    > 精神性の高いものだったのですね。

    そうなんですよ。
    そこが日本文化の奥の深い部分でしょうか。
    〇〇道というスポーツ全般も精神性が重要視されます。

    > noelさんでしたら「松栄堂」もいらっしゃりたかったでしょうに
    > そこを諦めていらした「鳩居堂」で何を買われたのか、気になりました^^

    購入したのは、お香です。
    「龍賓香」という沈香です。
    名前が「龍涎香」(まっこうくじらの腸内の結石で、貴重なものです。)と似ていたので、気になっていました。
    それと白檀の香木も買いました。
    香りは好みが分かれますが、とてもリラックスした時間を過ごせます。

    > 感染者数が激減しましたね。年末年始もこのままだといいのですけど、
    > 南アの変異株のことが気になりますね(>_<)

    そうですね。
    ホッとした半面、海外の状況をみると、ブレークスルー感染などなど、まだまだ心配は残りますね。
    そうはいいながらも、もうすぐ12月になります。

    sanaboさんも、どうぞお気をつけてお過ごしください。



    noel

    sanabo

    sanaboさん からの返信 2021/11/28 22:35:27
    RE: RE: のびのび一人旅♪
    noelさん、こんばんは〜

    > そしたら、先をいそぐあまり、京都ではコインロッカーに荷物を預けるのも忘れて、ずっと荷物を持ったまま観光していました。(-_-;)

    あら〜ん、そうだったのですね〜。京都に到着されて少しでも早く観光に出かけたいお気持ちが強かったのでしょうね。で、気づいたら荷物を持っていた!? 冷静沈着なイメージのnoelさんらしからぬエピソードに共感しつつ、フフッとしてしまいました^^

    > ただ、結果的には電車の乗り換えを考えると、たいして変わらなかったかもしれません。体力を温存しようとも考えてましたが、体力は十分余っていました。

    なるほど、時間的には歩いてもそれほど変わらなかったのですね。ずっとお荷物を持って歩いて大変だったのでは?と心配したけれど、体力が有り余っていたとお聞きして安心しました(´艸`*)

    > 私自身、柑橘系の香りは大好きです。
    > ひょとすると食べるよりも香りの方が好きなのかもしれません。

    私はベルガモットの薫りが大好きで、アールグレイティーも好きだし、ハンドクリームやトワレなどもベルガモットの薫りを見つけるとついつい買ってしまいます。

    > 〇〇道というスポーツ全般も精神性が重要視されます。

    確かにそうですね。それにスポーツに限らず、茶道や香道などもそうですよね?

    > 購入したのは、お香です。
    > 「龍賓香」という沈香です。
    > 名前が「龍涎香」(まっこうくじらの腸内の結石で、貴重なものです。)と似ていたので、気になっていました。
    > それと白檀の香木も買いました。
    > 香りは好みが分かれますが、とてもリラックスした時間を過ごせます。

    やはりお香を買われたのですね。お香は奥が深そうですね〜。noelさんのお宅はきっと良い薫りに包まれているのでしょう☆彡 我が家は生活臭でいっぱいかも(^^ゞ

    たまにはお香を焚いてみたいsanaboより

    noel

    noelさん からの返信 2021/12/02 20:42:16
    RE: RE: RE: のびのび一人旅♪
    sanaboさん、こんばんは!

    お返事いただきありがとうございます。
    書きそびれてしまいました。m(_ _)m

    > 私はベルガモットの薫りが大好きで、アールグレイティーも好きだし、ハンドクリームやトワレなどもベルガモットの薫りを見つけるとついつい買ってしまいます。

    ベルガモット、いいですよね〜!
    私も大好きです。
    ついつい買ってしまうお気持ち、よくわかります。

    > やはりお香を買われたのですね。お香は奥が深そうですね〜。noelさんのお宅はきっと良い薫りに包まれているのでしょう☆彡 我が家は生活臭でいっぱいかも(^^ゞ

    はい、そうです。買ってしまいました。
    本当は香道のお稽古が発端だったのですが、今はあらゆる香りが気になってます。
    しかもコロナ禍で家で過ごす時間も長いですし。
    ただ、主人には理解を得られず、ブーブー言われてます。

    sanaboさんのお宅の方が、ベルガモットで統一されてて、いい薫りかと思います。
    うちは時と場合でコロコロ変わってますので。汗汗
    しかも生活臭は、我が家の方が強烈かもしれません。
    特に主人が作るにんにくたっぷりの料理とか‥‥。

    勝手に好きでお返事させいただきましたので、どうぞ読み流してくださいね。
    お返事はいいですよ。

    では、今年もいよいよ師走、どうぞご自愛ください。

    noel

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