2021/11/03 - 2021/11/03
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noelさん
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2021年秋、緊急事態宣言が解除されて、かねてから行きたかった姫路旅行を思い立ちました。
当初は姫路城と城崎温泉、または姫路城と竹田城、または姫路城と淡路島島・・・・・等々色々考えました。
日程が1泊2日と限られた期間だったため、結果的には姫路城と京都に決めました。
姫路では、姫路城とその西の御殿屋敷跡の庭園に絞って観光することに決めました。
しかも一人旅なので、自由気ままです。(*^-^*)
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- JALグループ 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
京都から姫路にやってきました。
到着したのは、午後7時頃です。
駅の北側の広場では、音と光のショーが行われていました。 -
姫路城がライトアップされていました。
駅前からお城まで、まっすぐに大手前通りが通っています。
そして姫路城が神々しい姿で光り輝いていました。
現在は林立するビルの間から見えるお城ですが、昔の城下の家々は平屋建て・・・せいぜい2階建てだったと思うので、本当に天空に聳えるように見えたことでしょう。 -
一旦ホテルにチェックイン
11階ですが、南側なのでお城は見えません。 (>_<) -
こんなものかな~と思える広さです。
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洗面所です。普通です。
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姫路駅南口のロータリーと日航ホテルです。
すぐ目の前で、姫路城の観光にとって立地は二重丸です。 -
早めに夕飯を食べたので、ホテルのバーラウンジで軽くお酒をいただこうと思っていたのですが、残念ながら新型コロナ感染防止のため、営業してませんでした。
そこで、ちょっと外へ。
再びライトアップを見ました。駅前では路上ライブもしてました。 -
「飛屋」さん
姫路おでんが食べたくて、駅前のお店に行ったところ、残念ながら本日の営業は終了でした。
そこで、少しブラブラ探して、看板を見たら・・・・・「ここにしよ~っと」
ちょっと一人では入りにくかったのですが、入ってみると、お店の方々はとても感じが良かったです。 -
この日は祝日前の平日で、割と混んでいました。
私はカウンター席に案内されました。
お通しとおでんです。
姫路おでん、おまかせ5品にしました。
生姜醤油でいただきました。 -
串揚げです。
珍しい穴子の串揚げもありました。初めていただきましたが、意外に美味しかったです。
ご馳走様でした。
ちなみに、ホテルには大浴場がありました。
ジムなどのフィットネスに付属しているようですが、宿泊客も使用できました。
本当は温泉に行きたかったこともあり、手足を伸ばせる大浴場はありがたかったです。
サウナもありました。 -
11月3日の朝
朝食です。
こちらはオールディ・ダイニングになっています。
種類は割と豊富でした。 -
一番端の席にしました。
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広めで席数は結構あります。
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朝食です。少な目にしたつもりです。
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でも、お粥も食べたくなりました。
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2階のレセプション付近
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こちらは1階のティーラウンジです。
吹き抜けになっています。
レセプションは2階です。 -
ホテルからの眺めです。
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姫路駅からホテルへのプロムナード
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駅のおみやげ館
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姫路駅の北口です。
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北口から姫路城方向です。
駅からはバスも出ているようですが、私はこの大手前通りを歩いて向かいます。 -
大手前通りは歩道も広く、無電柱化されているようで、とても歩きやすかったです。
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石垣が残っています。
江戸時代、この付近は家老クラスの居宅が並ぶ武家町で、大名町と呼ばれました。
そしてこの通りは、大名通りと呼ばれました。
明治時代になると姫路城の中曲輪にある侍屋敷は、陸軍の軍用地になり、このあたりは城南練習場となりました。
その後は軍用地は本町に転入されて、その全てが「68番地」となりました。
この「68番地」は今でも、皇居の次に広い番地です。 -
消火栓には白鷺が描かれています。
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姫路城跡は、国の特別史跡、そしてユネスコの世界文化遺産に指定されています。
区域は概ね中壕以内です。
南部の中壕は埋められて、国道になっていますが、豪、土塁、石垣は概ね原型をとどめています。 -
桜門橋
大手門の手前の内堀に架けられた木造の橋です。
この橋は発掘調査で出土した遺構を活かして再現されています。
平成19年(2007年)に築かれました。
この時間はまだ入城時間には少し早いのですが、観光客の姿が見られます。 -
姫路城は駅から見てもわかるように、少しだけ小高い場所に建てられています。
この山を「姫山」と言いました。
(播磨国風土記にあります。)
古名は、日女道丘(ひめじがおか)と呼ばれ、姫神たちが祀られていました。
元弘3年(1333年)、赤松則村(円心)は、護良親王の命により挙兵し、京に兵をすすめる途中、この姫山に砦を築きました。 -
大手門です。
本来は三重の城門からなり、最も格調高い厳重な門でした。
この門は昭和13年(1938年)に完成したものです。
位置や大きさは江戸時代のものとは全く異なっているようです。
高麗門です。
冠木門の上に切妻屋根をつけ、両側の門柱の後に控え柱を設け、ここにも切妻の小屋根をつけたものです。
近世の大名の城の城門は、このような門が多いようです。 -
大手門の左側の石垣です。
「史跡姫路城」・・・・・楽しみです。 -
大手門をくぐり抜ける際に、見上げた様子です。
五七の桐紋でしょうか。
この城門は災害や失火や戦火などで消失したのではないようです。
明治時代に取り壊されたようです。
先ほど侍屋敷が軍用地になったと書きましたが、こちらも同じ理由で撤去されました。
海外でも似たような例があります。 -
三の丸広場
江戸時代、城の大手門は二重桝形門という厳重な構造でした。
内堀にかかる木製の太鼓橋を渡ると、高麗門の桜橋があり、その奥の現在の大手門のある場所には、桐二門が西向きに設けられ、その北には向きを反転して、東を正面とする櫓門の桐一門という3つの門からなっていました。
この桐一門を通れば、三の丸広場のほぼ中央に幅が約21mの大手道が大天守方向に向かっていたそうです。
道の南西には、武蔵野御殿、そして西の高台には、御本城と呼ばれる御殿がありました。
総面積約4000㎡にも及ぶ殿舎は、元和3年(1617年)に入封した本多氏が整備したとされてます。藩政の中心になっていました。
道の東側には向屋敷があり、藩主の娯楽や接客のため、数寄屋、築山、泉水などの広大な庭園を備えた御殿でした。
残念ながら、明治時代以降、これらの御殿や櫓、門などはことごとく撤去され、陸軍の施設が整備されました。
一方で失われてしまった建物を復興しようとする計画も進められ、昭和13年(1938年)には巨大な大手門が新たに整備されたのです。
この右の先の方には動物園もありました。
また、この広い空間でのんびり座っている方々もいました。 -
姫路城は400年もの長い歴史の中で、戦にまみえることなく、近代の戦災に遭うこともなかった、たぐいまれな城です。
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チケット売場です。
入城料は、姫路城・好古園(共通券)で1050円です。
別々に購入すると
姫路城入城料は1000円
好古園入園料は310円ですので、どちらにも行かれる方は、共通券がお得です。
クレジット、電子マネー、QRコード決済もできます。 -
石垣
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菱の門の東方石垣
石垣上部の塀は、白漆喰で塗りこめられ、防火作用もあります。
菱の門右側から上山里曲輪へ続く漆喰壁は、地形に沿って築かれているため、美しいカーブになっています。
石垣には奥行きがあります。そして兵が階段で登り、狭間から攻撃できる仕組みになっています。 -
菱の門
残念ながら工事中でした。
表玄関にふさわしい櫓門です。
片側だけ石垣に乗る珍しい安土桃山様式の城門です。
正面の冠木に名前の由来となっている木製の「花菱」が飾られています。
伏見城からの移築とも伝えられているようです。(真偽のほどはわかりませんが) -
菱の門をまっすぐに進むと、いの門があります。
見えてきました。 -
樹々の間から見える姿も美しいです。
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いの門
姫路城内の三国堀北西にあります。
菱の門同様に「筋鉄饅頭金物」や「八双金物」などの様々な装飾が施されています。
慶長期の古い様式で建てられた、脇戸付きの高麗門です。
「いの門」内部側は、門の柱の内側に控柱を2本立てそれぞれを貫でつなぎ、それぞれに小さな切妻屋根がかけられた高麗門様式となっています。 -
美しい姫路城は、どことなく女性のようにも見えます。姫神か、または城内の精霊のせいか、姫路城に住む女性は薄幸なイメージがします。
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千姫、富姫、お菊、お夏・・・・などの伝説もあります。
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ろの門
いの門の先にあります。
ご覧のように石垣と土塀があります。
そして土塀には狭間があります。
門を内部側から見ると、石垣で囲まれた
空間になっています。
埋門というほどではありませんが、
ゆるく傾斜し下がった部分に「ろの門」が設けられています。
土塀には狭間があります。 -
木製の扉です。
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左は西の丸
右が天守閣です。
右方向に向かいます。 -
縦長の長方形の形の狭間です。
これは弓や矢用の狭間です。 -
三角形の狭間は、鉄砲用です。
また、この他に正方形、丸形もあって、同様に鉄砲用でした。
4種類の狭間がありますが、現存するものは997か所あります。
開けられた位置によって立狭間、居狭間、寝狭間とも呼ばれるようですが、姫路城は片膝をついて鉄砲を撃つときに使われる居狭間が多いそうです。 -
三角の狭間から見た光景です。
少し奥行があって、外部から狙われにくくなっています。 -
石垣の上部にも三角の鉄砲用の狭間が見えます。
このように狭間は天守や櫓、土塀の壁面に開けられた穴で、城の防備のための重要な仕掛けでした。
実は私は狭間ばかり見ていたので、写真を撮り忘れましたが、ここは石段になっています。
実は、本当は姫路城なのですが、江戸城であることとして、「暴れん坊将軍」でも度々登場したそうです。そのため、「将軍坂」とも呼ばれてるようです。 -
はの門
天守への侵入を防ぐとても重要な門です。
堅牢な楼門で、門扉には石落としが備えられています。
また、有事の際には両側の石を崩して門を塞いでしまうという構造になっています。 -
この礎石部分を見ると、変わった石があります。
これは石灯籠の台座部分を転用してます。
築城にあたって、近隣にあった墓石や石仏、古墳、石棺などの石造品が、石垣や建物の礎石に転用されました。 -
実は「はの門」の内側から外側を眺めた光景は、画家である奥村土牛が「門」として描きました。作品は山種美術館にあります。
ちなみに土牛は「城」として姫路城も描いています。
個人的に、土牛の絵が好きです。「醍醐」や「吉野」・・・・等々。 -
姫路城の瓦は、平瓦と丸瓦を交互に組合わせた本瓦葺で、その継ぎ目には屋根目地漆喰が施されました。
そして瓦には歴代の城主の家紋が残っています。
現存するものだけでも8種類あるそうです。
このような瓦を軒丸瓦と言うそうです。
円筒状の瓦の先端に家紋が入ってます。 -
右の鯱に対して、左には烏がいます。(-_-;)(-_-;)
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テントまでが姫路城仕様になっていました。(^^♪
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姫路城には、櫓が27棟、門が21棟、井戸が11か所あります。
また、ご覧のように窓も敵の侵入や矢玉を防ぐために、太い格子がはめられ、幅半間の格子窓になっています。 -
瓦も種類が多いのですが、中には十字紋瓦もあります。
写真の瓦は違いますが、十字紋瓦は、黒田官兵衛の紋瓦と言われてます。
官兵衛は姫路出身の戦国武将ですが、キリスト教に入信しました。
ちなみに、これは剣酢漿(けんかたばみ)の紋のようです。 -
ここからの眺めも素晴らしいです。
姫路城は、見る方向によって、違った顔を見せてくれます。 -
石垣にぽっかり空いた穴。
狭間?・・・・・ではないですよね?
もしくは色々な石を使ってますので、何かの石でしょうか? -
この家紋は五三の桐のようです。
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渦巻模様の瓦は、三つ巴です。
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にの門
本丸へと向かう最後の門です。
また、防衛、攻撃面でも城内屈指の櫓門です。
門柱、冠木、大戸からくぐり戸まで鉄板で覆われていることからもわかるように、最後の砦といってもいいかもしれません。 -
今度は四角い狭間があります。
これは鉄砲用かと思います。 -
狭間を覗いてみると、かなり奥行がある造りになっています。
しかも、心持ち若干下向きになっているようです。
つまり、防衛上、外部からの攻撃は困難になる造りです。 -
頭上注意
現在も天井が低くなっていて、頭上には注意しなければいけませんが、実は昔も内部への侵攻を防御するため、階上の櫓の床板をはずして、頭上に槍を突き立てる設計になっていたのです。 -
石垣は小さな石を間に詰めてます。
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実は後で知ったことですが、この姫路城が雲海に浮かぶ姿を見られることもあるようです。
11月頃、近くの男山付近から見えるようです。
今回の旅で、雲海に浮かぶ竹田城にも行けたら・・・と考えていたのですが、1泊2日だと難しいので諦めました。
参照:
「絶景 姫路城 世界遺産国宝」
大西義和氏の写真集です。 -
ほの門
これは埋門(うずみもん)と呼ばれるタイプの門です。
石垣、土塁、塀の下などに、非常用に用いられたトンネル状の隠し門のことです。 -
油壁
右側の壁の横の面が油壁です。
これは築地塀です。
真っ白な漆喰塗籠めの壁がほとんどの姫路城ですが、この茶色い壁は他とは違います。
山土に豆砂利を加え、餅米の研ぎ汁や粥などで練り合わせた土で作られているらしいのですが・・・。
実際には菜種油などを混ぜ込んでいるようでもあります。
池田輝政築城よりも前か、羽柴秀吉時代の遺構と推測されています。 -
水二門
棟門です。横幅が約3mほどしかない小さな門です。
西側にある櫓を見るとわかるように、通路がわざと狭くなるように、つまりは外部からの侵入のスピードを落とす狙いがあります。 -
この櫓は単層でカギ型に折れてますが、とても珍しいものです。
同じ姫路城のへの櫓と2つのみです。 -
水三門
二門よりも更に小さな門です。幅は二の門の半分位の50cmほどしかありません。 -
水五門
この写真には写っていませんが、実は二階建ての櫓です。
そして、この櫓部分は実は、大天守と西小天守をつなぐ渡櫓です。
4つの天守が4つの櫓でつながっていますが、その中でも重要な門です。
そのため、窓は鉄格子になっています。
また、門柱、冠木、扉なども鉄板で覆われたものです。 -
こちらからは靴を脱いで、いよいよ城内に入ります。
城の中は薄暗いです。 -
階段はかなり急勾配です。
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姫路市街は、城下町を基礎に発展しました。
そのため、現在でも一部の町名には、塩町、白銀町、魚町、紺屋町などの江戸時代の町名が残っています。 -
城内の様子です。
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軸組構造模型
昭和の大修理工事の際に大天守の解体修理のため、実物の1/20で製作されました。 -
小天守見取り図
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東小天守
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階段がありますが、天井部分は蓋のようなもので、封印されています。
これには引き戸タイプと開き戸タイプがあるようです。
下の階側から、鍵がかけられる仕組みだったようです。
戦闘時は上の階から閉めるようです。
ただ、上の階から異常がないか確認しながら降りて閉めていくものだそうです。 -
武具掛け
大天守には多くの武具掛けがありました。
ここには槍や火縄銃が掛けられていたようです。
天守が武器倉庫として使われていたことを示しています。 -
階段は結構きついです。
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六葉釘隠し
長押しなどに出ている釘の頭部を隠すための装飾です。
6枚の葉をデザインしていて、葉と葉の間に猪目と呼ばれるハート型の隙間ができます。
釘の跡が消えて、ちょっと心憎いです。 -
このように綺麗に並んでいます。
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窓の格子は厳重です。
これでは敵の侵入は困難です。また、矢玉からも防げます。 -
出格子窓
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大天守2階
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西大柱
東西2本の大柱が、地階から5階の梁まで通柱となっています。
柱が梁を受ける接合部分では、昭和の大修理の際に鉄板で補強しています。
入場制限がかかりました。
この日は、学生の修学旅行がありました。
他の観光客は少なかったのですが、一時的に人が多くなり、特にお城の階段は傾斜がきつく、ここでしばらく待つことになりました。 -
東大柱
本来の東大柱の中心線から東南方向に約37m傾いていました。(昭和の大修理の前)
江戸時代の初めは、大柱そのものが建物の重さなどで歪んで変位したようです。
次第に建物全体が傾いてきたため、多くの支柱を入れて補修をしてきました。 -
東大柱
この建物の中枢となるだけあって、存在感のある柱です。 -
大天守3階
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階段を登った所から下を見下ろした光景です。
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大天守4階
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高窓(煙出し)
籠城の際に射撃をすると、室内に硝煙が充満してしまいます。
それを排出するための高窓です。 -
破風の間
天守入口にかかる入母屋破風の屋根裏の空間になります。 -
大天守5階
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西大柱は、ここまで伸びています。
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東大柱もここまで伸びています。
そして最後の階段を登ります。 -
長壁(刑部)神社
姫山の地主神で、近代になって天守内で祀られるようになりました。
江戸時代には、とのニ門との三門の間の小高い場所に鎮座していました。
こちらは最上階になります。
実はこの天守については、泉鏡花の戯曲の「天守物語」で描かれています。
ここには異形の者たちが住むという伝説があります。
登場したのは亀姫でした。
おそらく「諸国百物語」の長壁姫(小刑部姫、刑部姫、小坂部姫)では・・と思われます。
姫路城天主閣で病に伏した池田輝政を治癒するために、比叡山の阿闍梨が祈祷をしていたところ、30歳ほどの妖しい女が現われました。
女は阿闍梨に城を出て行くように言いました。
阿闍梨は、治療をしていたため、その女を叱りつけました。
すると身の丈2丈(約6メートル)もの鬼神に変化し、阿闍梨を蹴り殺して消えてしまいました。なんとも不思議で怖いお話です。(◎_◎;) -
大天守6階
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素晴らしい眺めです。
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幻の窓
6階は壁面全てに窓が開けられる予定でした。
途中で設計が変更され、4個の窓を塞いだことがわかりました。 -
鯱の先に街並みが見えます。
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石打棚
東西に大千鳥があり、窓の位置が高くなっているため、窓が使えるように石打棚を設けています。 -
武者隠し
屋根裏を利用したスペースで、人が入れるようになっています。
内部には外に向けた狭間が設けられています。
実際に入るのはきつそうです。 -
大天守1階
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筋交(すじかい)
2本の柱の間を、斜めに渡す部材をいいます。
横の方向からの力に対して、補強することを目的として取り付けられています。
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武者隠しはたくさんあります。
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真っ暗です。地階です。
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ほとんど見えませんが、東大柱の一番下の部分です。
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大天守地階
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流し
そして、この先に厠もありました。 -
外に出たら眩しいくらいのお天気です。
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本丸(備前丸)
真正面から見上げた光景です。
こちらではライトアップが行われるようです。
さぞや美しいでしょう。
駅前から見ても綺麗でしたが、目の前だと迫力がありそうです。 -
備前門方向です。
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帯の櫓(腹切丸)
最も高い高石垣の上に建つ櫓です。約23mあります。
南側の長屋1棟だけだったものを、櫓を増設しました。
平面はコの字型になっています。
どうしても名前が気になるところです。
ここで切腹でも行われたのか・・・・・と考えてしまいますが、そのようなことはないそうです。 -
正方形の狭間です。
奥行もしっかりあります。 -
お菊井戸
本丸の下、上山の里と呼ばれる場所です。
「播州皿屋敷」のヒロインのお菊が責め殺されて投げ込まれたといわれる井戸です。
元は釣瓶取(つるべとり)井戸と呼ばれていました。 -
永正年間(1500年年頃)、姫路城主小寺則職の執権青山鉄山は、町坪段四郎と語らい、城を奪おうと企ててました。則職の忠臣である衣笠元信は、お菊を青山家の女中として住み込ませ、その企てを探らせました。則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路)に逃げ込んで、殺されずにすみましたが、城は鉄山に乗っ取られました。
お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。
元信を慕うお菊はそれを拒みました。弾四郎はそんなお菊を憎んで、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせて責め上げました。
それでも弾四郎を拒むお菊は、ついに切り殺され井戸に投げ込まれました。
・・・・・・・
その後、夜毎この井戸から「1枚、2枚、3枚・・・・・」と9枚まで何度も数えるお菊の声が聞こえたといいます。やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神」として、十二所神社内に祀られました。 -
大名行列と書いてました。
とりあえず行ってみました。 -
足軽
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殿様
紋付羽織には、家紋が錦糸で刺繍されています。 -
大名行列の道具
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鞍覆
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姫路用具
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小馬印
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明治時代の鯱
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昭和時代の鯱
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平成時代の鯱
つまり現在は令和時代の鯱になっているんでしょうね。
ところで、お城の天守閣などの屋根にある鯱は、通常は対になっていて、オスとメスがあります。
口をあけた方がオスの阿です。
口を閉じた方がメスの吽です。
ただ、姫路城にある11の鯱はすべて口を閉じたものなので、全てメスです。
今ご覧いただいた物を見ると確かにそうなっています。 -
ぬの門の右側に「人面石」と呼ばれる「鏡石」があります。
-
この「鏡石」という大きな石を意図的に配置するのは、城主の威厳を示していたり、また、呪術的な意味合いなどもあるようです。
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井戸がありました。
城を築く際にはいかにして水を確保するか、とても需要なことです。
城外に水源を求めると、籠城戦となった場合、攻め手に水路を絶たれたり、汚物や語句物を投入されつ危険があるので、安全な水源は城内の井戸になります。 -
姫路城では内曲輪だけで33か所の井戸がありました。
現在では11か所が残っています。
中には深さ約20-30mのものもあります。
この深さは姫山の岩盤に届く深さになります。
ちなみにここの井戸は深さ8.8m、水深2.7mです。 -
明治時代の鳥瞰図です。
-
西の丸に向かいます。
鷺山と呼ばれる丘を削って整地した所です。 -
坂道の真ん中に正方形の礎石が残っています。
坂道の西端にもいくつか残っています。
ここにはかつて西の丸への南入口の門がありました。 -
武者だまり
門の東側にありました。門に接続して細長い建物がありました。
菱の門から向かってくる敵に対して射撃するための石打棚のような施設、あるいは番所があったとも言われています。
この空間は集団で軍事行動をする兵士を一時駐屯させる場所とも言われます。 -
左は化粧櫓入口
右は百間廊下入口
この曲輪は、姫路城主本多忠政が大阪夏の陣の後、将軍徳川秀忠の長女千姫をめとった息子忠刻のために、元和4年(1618年)に御殿を建てたところで「中書丸」とも言われてきました。中書とは、忠刻の官職中務大輔の唐名です。
御殿を囲むように築かれた長屋は通称「百聞廊下」ともいい約300mの長さになります。
そのうちヨの渡櫓から北の部分が長局です。小さな部屋が廊下に面して並んでいて、西の丸の御殿で働く女中が住んでいたとみられます。
長局の北端に化粧櫓があります。大きく開かれた窓や床の間、畳敷きなど、他の無骨な櫓に比べると、人が居住できる拵えになっています。千姫が男山にある天神神社を拝むため西の丸に来た際に、身づくろいをしたり、休息した場所と言われています。 -
秀吉時代の姫路城
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姫路城鳥瞰図
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軒瓦
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五三の桐の家紋
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軒瓦
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四半瓦
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池田輝政
関ヶ原合戦の後、慶長5年(1600年)に徳川家康の娘婿である池田輝政は播磨一国52万石の大名として播磨姫路藩初代藩主となりました。
姫路城を現在の姿に大規模に修築しました。
それ以前は、美濃池尻城主、同大垣城主、同岐阜城主、三河吉田城主でした。
輝政の息子たちも備前国、淡路国の大名に取り立てられ、父子で100万石を擁する畿内の西を押さえる最大の大名となりました。
西国の外様大名との取次ぎの役割を果たすことになります。そのため「西国将軍」と呼ばれました。
五重七階連立天守を持つ城郭は西国支配の要となりました。 -
西の丸櫓群
ワの櫓から化粧櫓まで約240mあります。
この長い廊下が続いている長屋群を「百聞廊下」と呼んでいます。
千姫ゆかりの櫓群です。 -
百間廊下
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元和3年(1617年)池田家に替わって、本多忠政、嫡男忠刻が伊勢桑名城から姫路城に入りました。この時、西の丸が造成されて忠刻の居館「中書丸」が築かれました。「化粧櫓」が建てられたのもこの時です。
さらに忠刻と結婚していた2代将軍、徳川秀忠の娘千姫のため、大手門内に千姫の居城「武蔵御殿」が築かれました。 -
松平(奥平)家・松平(結城)家
寛永16年(1639年)、徳川家康の外孫にある松平忠明が、大和郡山から姫路に入りました。忠明は徳川一門の筆頭格に相当する家柄で、秀忠死後は3代将軍家光を江戸において補佐したほどの人物です。
忠明の姫路城入城は、島原の乱の終わった翌年で、南蛮船の長崎襲来が危惧されていました。九州と上方を結ぶ重要な経路に位置する姫路には、南蛮の軍勢に対抗できる軍事力、さらに西国大名動員できる権威を備えた大名の配置が不可欠でした。
そのため、徳川一門で、かつ実戦経験のある忠明が姫路城主となったのです。 -
鬼瓦(本多家)
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桐紋鬼瓦
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榊原忠次
慶安2年(1649年)、榊原忠次が陸奥白河から姫路へ国替となりました。
忠次は河川改修や新田開発、塩田開発などを積極的に行い、後の姫路城の財政基盤を確立しました。姫路藩主きっての名君と言われて、庶民からも「万年様」と親しまれます。
ところが寛保17年(1732年))に城主となった榊原政岑は、江戸・吉原の高尾太夫を3000両で落籍するなどの行為で、8代吉宗の推進する緊縮政策と対立しました。そして幕府から隠居を命じられ、同時に越後高田へ国替させられました。 -
分限帳
この帳面は、本多忠国の家臣の名前、録、役職などを記したもの。
天和2年(1682年)から寛永元年(1704年)の時期の本だけの家臣団構成がわかります。 -
酒井忠以
寛永2年(1749年)、酒井忠恭が上野前橋から姫路に入りました。姫路は経済的に豊かな土地ですが、1800年大には藩の財政状態が危機的状況となり、ときの藩主忠道は財政改革を断行します。例えば特産の木綿の生産・流通では藩札による決済を促すことで、藩の金庫から正金の流出を止め、藩財政を安定させました。
財政改革を軌道にのせた姫路藩は、畿内周辺の海防や一揆鎮圧に藩兵を動員するなどの任を担いました。酒井家は明治維新までの120年以上、姫路城主を務めました。 -
焜炉
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玄武日記
酒井忠以が安永5年(1776年)正月1日から死ぬ1カ月前の寛政年(1790年)6月20日までの出来事をつづった日記。当時の政治や家中、世相などを知ることができる貴重な史料です。 -
酒井忠恭日記
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石落し
石落しは、櫓、城門、土塀などに設けられる防御のための設備で、下に迫る敵の監視や攻撃を行うための防御設備です。建造物の外壁や塀の一部を張り出し、床面の開口部には蓋を設けて、主に鉄砲、槍、矢塔で攻撃することができます。 -
廊下は真っすぐだけでなく、このようにカーブしている箇所もあります。
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格子から見える眺め
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狭間
こんな所にも狭間がありました。
正方形なので鉄砲狭間(銃眼)です。この西の丸の櫓群には、長方形、正方形の狭間が設けられ、外側に漆喰を塗った木の蓋がつけられています。 -
廊下の大戸
建物の扉とは思えない頑丈な造りです。この扉の内側には女性が居住していた場所であったため、毎夜閉ざして厳しい守りとしていたと考えられます。 -
雨水抜き
天守、櫓の窓の下部に、斜め下向きに筒状の突起物が並んでいるのが見られます。
これは薄井を外部に排出するための雨水抜き(パイプ)です。敷居にたまった雨水を速やかに排水することで、木部を乾燥させ、腐食から守る役割を果たしています。 -
海藻や白砂(寒水石)、砂(川砂)
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忠刻との幸せを願い、千姫が日々祈りを捧げました。
千姫天満宮
ここから見える千姫天満宮は、千姫が夫・忠刻との幸せを願って建立したもので、千姫は朝夕ここから祈りを捧げていたそうです。 -
千姫天満宮のある男山方向です。
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清水瓦と軒丸瓦
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窓があれば360度パノラマ展望
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まっすぐに進む廊下
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ここからは女中の暮らしがわかります。
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奥女中
奥女中とは、御殿の奥向きで城主やその家族を世話する仕事に携わった女性たちです。宮中や大奥では御殿の奥に隣接して長局が設けられ、長局では廊下に面して8畳ほどの部屋がいくつも連なり、その部屋で起居してました。
千姫の奥女中は西の丸長局で起居していたと言われています。
千姫には女中23人と下働きの下女16人がついており、娘の勝姫には女中が3人ついていました。 -
羽子板(水尾神社像、複製)
千姫が男山天満宮(天神社に寄進したと伝わる羽子板) -
彩色のある羽目板
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本多平八郎姿絵屏風(徳川美術館蔵)
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千姫絵姿(弘経寺蔵 姫路文学館提供)
千姫と忠刻のなれそめとして、彼女が大坂から江戸へ戻る途中、本多家の船で桑名宿から尾張の宮宿へ渡ったとき、船団を指揮していた美男の忠刻を千姫が見初めたという話が伝わります。これには、大阪城から救出すれば千姫を妻にすることが約束されていた板崎出羽守が顔に大やけどを負ったため、千姫が嫌って破断になり、約束反故を恨んだ坂崎が婚姻当日に千姫を奪おうと企てたという尾鰭がつく事もあります。 -
見学が終わり、外に出てきました。
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ここからの眺めも美しいです。
城壁の上に白く輝く姿は美しい。 -
官兵衛普請の石垣
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姫路城跡上山下段石垣について
上山里下段の石垣は天正8年(1580年)、羽柴秀吉の姫路城改築により摘まれたと推定されるⅠ期の古式な石垣です。
信長の安土城とほぼ同時期のもので、ほとんど加工しない凝灰岩やチャートなどの石材を使用した野面積みと呼ばれる積み方です。
姫路城の石垣は、羽柴秀吉の築城から明治時代以後の修理によるものまで、5基に区分されます。 -
上山里下段石垣
この石垣は、上山里下段で、現存する姫路城の石垣の中で、その特徴からみて16世紀後半の天正期に築かれた石垣、すなわち天正8年(158)~9年に羽柴秀吉によって築かれたと考えられます。
羽柴秀吉は、中国(毛利)攻めのため小寺(黒田)官兵衛の姫路城を拠点とし、当時としてはめずらしい三重の天守を持つ新しい城を築きました。その後、姫路城は池田氏や本多氏による大改修を経て、大きく進化しました。
現在の天守は、池田輝政が秀吉の三重天守を撤去して新たに建てられたものですが、天守のある姫山には秀吉によって築かれたとみられる石垣が数多く残っており、上山里下段石垣もその一つです。
当時、秀吉が官兵衛に宛てた書状によると、秀吉は最も頼りとする重臣で地域の事情に精通している官兵衛にも築城を命じており、この石垣も官兵衛がかかわった可能性があり、現在の姫路城にも官兵衛時代の名残が存在しています。 -
下山里
この地は、二の丸上山里の下に位置し、西、南側は石垣組に土塀をめぐらして東方に門を開いていました。
昭和8年、東北側の崖沿い通路が整備され、昭和30年までは下山里展望台として市民に親しまれました。
現在では、この下山里に五輪塔などの仏石が祀られています。これは姫路城の修築工事の際に石垣の中から出てきたものを集めて五輪の形に積み上げて供養したものです。
姫山には康治2年(1143年)に称明寺が建立され、この地方を治めた豪族や役人の墓が多くあったと言われています。その後、城を築く時、寺を麓に移し、その時の墓石など多くの仏石を石垣に組み込んだともいわれます。称明寺は正明寺と改名されて五軒邸に現存します。
また、五輪塔の前にある石燈籠は、谷中の姫路城主酒井家墓地から平成2年に移しました。この燈籠は、最後の城主として僅か1年余りの在住ではありましたが、名君の誉れ高かった酒井忠邦公を惜しみ、旧姫路藩士等3227人が浄財を寄せて、明治13年3月、忠邦公の一周忌に公の墓前に建立したものです。
姫路城を守る会では、毎年春、秋の彼岸と旧盆に正明寺住職を招いて、この仏石ゆかりの人をはじめ、築城にかかわった人や藩主、藩士の供養を営んでいます。 -
こちらでご供養されてるようです。
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さて、そろそろ好古園に行こうと思っていると、不思議な乗り物が近づいてきました。
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ロボットが走っています。
お城とロボット、不思議な組合せです。 -
姫路城をバックにピクニック、いいですね!
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堀を渡って向かいます。
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桜門橋
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姫路城を出て桜門橋を渡り、右側に向かって行きます。
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好古園
「姫路城西御屋敷跡庭園好古園」が正式な名称です。
姫路城西御屋敷跡で発掘調査で確認された西御屋敷、武家屋敷等の遺構をそのまま生かして作庭された池泉回遊式庭園群です。 -
こちらから入場します。
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御屋敷の庭の地図
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屋敷の門です。
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紅葉が徐々に始まっています。
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大池
活水軒先から大池を見た様子です。 -
小さな滝があり、涼やかです。
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お花が活けてありました。
地元の高校生の作品です。 -
好古園 高校生いけばな展
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渡り廊下から大池を眺めてます。
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鯉がたくさん集まってきました。
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苗の庭
大賀ハスです。
元東京農工大教授の故大賀一郎先生が、昭和26年(1951年)千葉県剣見川下流の泥炭層の下の青泥中、地下約6mよりハスの第3粒を発掘しました。
その1粒が発芽成長したものです。名前は博士に因んでつけられました。
姫路市では平成5年(1993年)、6年に地下茎を譲り受けました。(昭和32年鳥取市が譲り受けたもの) -
茶の庭へは、この門から入ります。
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茶室「双樹庵」
裏千家第十五代家元千宗室氏の設計・監修で建てられました。
姫路城の天守閣に向かって建てられています。
本格的な数寄屋建築の茶室で、玄関前の庭、広間の庭、小間の庭、飛び石、中門、蹲踞(つくばい)、灯籠、腰掛け待合などが配置されています。
また、春と秋には、大茶の湯会が催され、「小間三畳台目」を特別公開するそうです。
気軽に抹茶がいただけるようですが、まだ開いていませんでした。 -
後ろを振り向いてみました。
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流れの平庭
四季折々の花を楽しむことができます。 -
静かに穏やかに水が流れています。
岸辺に四阿「流翠亭(りゅうすいてい)」があります。 -
松の庭
小さいですが、水蛍型燈籠があります。
瀬戸内海地方のアカマツ林をイメージしているのだそうです。 -
築山池泉の庭
典型的な日本庭園です。
池の北側に亀、南側には鶴をイメージしたという岩島があります。 -
竹の庭
どことなく山水画を思わせます。
中央には、四阿「聞竹亭(もんちくてい)」があります。
足を休めて、無の境地を味わうのも良いかもしれません。 -
井戸
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一見、お風呂の入口かと思ってしまいましたが、こちらはレストラン「活水軒」です。
庭園を眺めながらお食事できるため、結構混んでいました。
11時台の時間でしたが、既に並んでいました。 -
こちらで少し待ちました。
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姫路膳にしようとしたのですが、既に売り切れでした。
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「いろどり活水軒官兵衛弁当」1780円 にしました。
これも数量が限定されていて、私が最後でした。
お味は、まあまあでした。
私の席は窓側ではないので、お庭はあまりよく見えませんでした。
見えないわけではありませんが、他の方が写ってしまうので写真は撮りませんでした。 -
お城が臨めます。
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お堀の水面に石垣が映りました。
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とっても可愛い自動運転ロボットの「CISCO」
お顔がなんとなく、ユニークで可愛いです。
VR体験ができるようです。 -
ここは大手前通りですが、歩道が広いので、2階建てのような席があります。
ここでご飯を食べてる人もいました。 -
姫路駅に戻ってきました。
時間には、まだ余裕があります。
下記のように帰路につきました。
姫路駅→三ノ宮→神戸三宮(阪急神戸線特急)→十三(阪急宝塚線)→蛍池(モノレール)→伊丹空港→羽田空港
ようやく旅行記を書き終えましたが、年を越してしまいました。
そして令和4年(2022年)を迎えました。
白鷺にも勝る美しさの姫路城が今も目に残っています。
ただ、新型コロナはオミクロン株に変異し、収束するのはいつのことやら・・・・。
まだまだ心配な日々が続きそうですが、どうぞご自愛ください。
そして皆様にとって良い年になりますようにお祈りいたします。
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この旅行記へのコメント (8)
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- sanaboさん 2022/01/06 23:33:13
- 明けましておめでとうございます。
- noelさん、
今年もよろしくお願いいたします!
姫路編の旅行記、楽しみにしていました。
姫路城って駅前広場の真正面にあるとは知りませんでした。
当初はお城だけが唯一の巨大建築物で威風堂々とした佇まいを
誇っていたのでしょうけど、今やビル群が聳えてしまったのですね。
でもその分、ライトアップで十分に存在感をアピールできていますね^^
姫路おでんが名物なのですね。
生姜醤油でいただくとはちょっと意外でした。
姫路城はnoelさんも仰ってましたが、見る角度により様々な顔を
見せてくれて本当に美しいですね~。青空に白いお城が映えますね。
詳しく調べられていていつもながら感心しながら拝読しましたが
「頭上注意」のお写真の解説が特に興味深かったです。
壮麗な姿とは言え、お城ですものね。敵の侵入を防ぐために
階上の櫓の床板をはずして頭上に槍を突き立てる設計だったとは
忍者屋敷もびっくりのからくりですね(*'ω'*)
小高い場所に建てられている故に、11月頃には雲海に浮かぶ姿も
見られるそうですが、幻想的な美しさなのでしょうね~
釘の頭部を隠すための『六葉釘隠し』はnoelさんも心憎いと
仰ってましたけど、たしかに戦国の城とはいえその心遣いには
日本の心を感じました。
最上階の天守内には地主神が祀られているそうですけど
泉鏡花の「天守物語」の舞台にもなったのですね。
祈祷をしていた阿闍梨が殺されてしまい、池田輝政はどうなって
しまったのかしら?@@ ←独り言ですので気にしないで下さいね(笑)
「1枚、2枚、3枚…」と数えるお菊のお話は遥か昔に聞いた記憶が
ありましたが、なんとそのお菊が責め殺され投げ込まれた井戸が
この場所にあったとは驚きでしたし、お話の詳細も初めて知りました。
好古園は池泉回遊式庭園だそうですね。
お庭を散策されて、いざお風呂へ♪、ではなかったのですね~(笑)
「お風呂の入口」とのコメントに妙に納得してしまいました(´艸`*)
一人旅ってやっぱりいいですよね。私もどこかに出かけたいなぁと
ずっと思いながら旅行記を拝見していました。
年が明けてからの感染の急拡大が恐ろしいですね。
お互いになんとか無事に乗り切りましょう!
今年もnoelさんのご健勝とお幸せを心よりお祈りしています♡
sanabo
- noelさん からの返信 2022/01/07 22:53:18
- 明けましておめでとうございます。
- sanaboさん、こんばんは
そして、遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
> 姫路編の旅行記、楽しみにしていました。
> 姫路城って駅前広場の真正面にあるとは知りませんでした。
ありがとうございます。
そうなんです。
駅からも近く、何よりわかりやすいんです。
> 当初はお城だけが唯一の巨大建築物で威風堂々とした佇まいを
> 誇っていたのでしょうけど、今やビル群が聳えてしまったのですね。
> でもその分、ライトアップで十分に存在感をアピールできていますね^^
そうですね。イメージとは違いました。
もっと静かな所だと思ってました。
兵庫県の中では、神戸のイメージが強くて、姫路はもっと小さな街だと勝手に思ってました。(-_-;)
でもライトアップは遠くからでも、光り輝いて綺麗でした。
> 姫路おでんが名物なのですね。
> 生姜醤油でいただくとはちょっと意外でした。
確かに。普通のおでんのようにも食べられますが、生姜醤油がついてきて、つけて食べるように言われました。
結構美味しかったです。
ただ普通に食べて、味に変化がほしい時に、この食べ方はいいかも・・・・と思ってしまいました。
あとで兵庫県出身の人から聞いたところ、饂飩も美味しいそうです。
> 姫路城はnoelさんも仰ってましたが、見る角度により様々な顔を
> 見せてくれて本当に美しいですね?。青空に白いお城が映えますね。
日本のお城ですが、他にも美しいお城もたくさんあるのですが、やはり潔いくらいの白さは、白鷺城と言われるだけあって、白鷺のようでした。
でも豪華さでいったら、ヨーロッパのお城にはかないませんね。
今も時々テレビで放映していると魅入ってしまいます。
sanaboさんのお宝写真ありそうですね。
また何かの機会に見ることができると嬉しいです。
> 「頭上注意」のお写真の解説が特に興味深かったです。
> 壮麗な姿とは言え、お城ですものね。敵の侵入を防ぐために
> 階上の櫓の床板をはずして頭上に槍を突き立てる設計だったとは
> 忍者屋敷もびっくりのからくりですね(*'ω'*)
色々な仕掛けがあって感心しました。
やはり戦国時代を生き抜いたお城だけに、要所に戦のための仕掛けが見られました。
個人的には狭間から外を見るのが好きです。
> 小高い場所に建てられている故に、11月頃には雲海に浮かぶ姿も
> 見られるそうですが、幻想的な美しさなのでしょうね?
そうなんです。
写真集で見て初めて知りました。
ただ姫路城の場合は雲海の中で見ると、白さが際立たないのかなぁ〜とも思ってしまいました。
たまたま四季を通じて美しい姿を撮っていた中に雲海の写真もあったんです。
おそらく、タイミングもあるので、雲海を見られるのは確立的には低いのではないかと思います。
> 釘の頭部を隠すための『六葉釘隠し』はnoelさんも心憎いと
> 仰ってましたけど、たしかに戦国の城とはいえその心遣いには
> 日本の心を感じました。
やはりそう思いますよね。
無骨な武士の世界の中に、見つけた時には、日本の真髄に触れた気がしました。
> 最上階の天守内には地主神が祀られているそうですけど
> 泉鏡花の「天守物語」の舞台にもなったのですね。
> 祈祷をしていた阿闍梨が殺されてしまい、池田輝政はどうなって
> しまったのかしら?@@ ←独り言ですので気にしないで下さいね(笑)
そうですよね〜。気になりますよね、
池田輝政は刑部神社を作り、刑部大神を移したにもかかわらず、本人は亡くなってしまうんです。
泉鏡花の作品は怪奇的で幻想な独特の世界ですが、姫路城は舞台にぴったりだったと思いました。
> 「1枚、2枚、3枚…」と数えるお菊のお話は遥か昔に聞いた記憶が
> ありましたが、なんとそのお菊が責め殺され投げ込まれた井戸が
> この場所にあったとは驚きでしたし、お話の詳細も初めて知りました。
確かに私も井戸を見て、sanaboさんと同じように思いました。
> 好古園は池泉回遊式庭園だそうですね。
> お庭を散策されて、いざお風呂へ♪、ではなかったのですね?(笑)
> 「お風呂の入口」とのコメントに妙に納得してしまいました(´艸`*)
> 一人旅ってやっぱりいいですよね。私もどこかに出かけたいなぁと
> ずっと思いながら旅行記を拝見していました。
せっかくの庭園なのに、もう少し趣のある入口の方がいいですよね。
中は庭園に面しているので、そんなにひどくはなかったのですが。
本当に感染が急拡大して、新年早々心配ですね。
たまたま緊急事態宣言が解除直後だったので、人も少なくラッキーでした。
寒さも厳しいので、温泉で温まりたいたいなぁ〜とも思いますが、いつになることやら・・・。
今年もどうぞよろしくお願いします。
sanaboさんも、どうぞお気をつけて、素敵な年にしてくださいね。
noel
-
- jijidarumaさん 2022/01/05 01:21:00
- 姫路城の詳細な旅行記に驚きながら、じっくりと拝見しました。
- noelさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
おめでとうございます。
本年も宜しくお願いします。
新年からの大作、姫路城の詳細な旅行記に驚きながら、じっくりと拝見しました。
年寄りには大作過ぎて、何度か見ることなりました(苦笑)。
私の記憶では大阪単身の際に改装前の姫路城を見ています。・・・が、こんな風に見て回った記憶がありませんから、いろいろと目新しくとても勉強になりました。
さて「西丸御殿を囲むように築かれた長屋は通称「百間廊下」ともいい約300mの長さ」の写真と文章を拝見し、かつて母の日記を読みつつも百間廊下がどのようなものか分からず、姫路城の百間廊下の写真を検索して参考にした事を思い出しました。
・・・
(母は父と結婚するまで多量の日記や手紙を残したのです。3歳で母を亡くした私は70歳を過ぎてから、一念発起して!漸く気になっていた資料を読みだしたのです。内容は昭和生まれでも良く読めないし、理解できない言葉が多く、形にするのに時間がかかりました。以下は抜粋ですが、ある同人誌に先年、4年にわたり寄稿した)
<母、親友Mさんへの手紙の下書き2編を残す:満17歳>
大正14年(1925年)xxx月(秋口)初御所入りの様子の下書きでした。
M子様
ひっそりとした*紅葉山(もみじやま)のふもと、静かなあかるい
お二階のお部屋で久久(ひさびさ)に御なつかしき貴女に筆を取りました。
遠く電車の*軋(きし)りがきこへて来るばかりの静けさです。
御かわり御座いませんか、御伺(おうかがい)申上げます。
私はおかげ様で恙なく御つとめして居りますから、他事ながら御安心下さいませ。
めくるましい(めまぐるしい?)旅行から十四日帰京。その夜るの九時十分着すぐに、ゆめにも思わなかった雲ふかき九重(ここのえ:御所)の奥に移ることになりました。
何もかもがお芝居の様ですの、見て居る様な、又その中に居る人の様な、ほんとに夢としか思えません。
今度ははきものも傘も何もいらづ、いらないと云ふってもスリッパはいりますが、昔かしの百間廊下を毎日毎日通ひます。
昔かし美しいおひな様のようなお方が、お通ひになった御廊下を今はぎこちない私が変な洋服でスリッパを引きずりながら通ひます。
(後略)
(注)
*皇居の紅葉山(もみじやま・楓山)は江戸城の西丸の東北にある丘である。
江戸城の本丸と西丸のほぼ中間にあたり、古くは「鷲の森」とも呼ばれた。
*軋(きし)りとは電車がカーブを通過する際に生じるキシキシ、ギーという音。
・・・
昨12月に生誕から114歳になった亡母は祖母の従姉であった萩原 タケ女史(明治六年~昭和十一年、享年六十三歳:日本赤十字社看護婦取締(監督)のお世話で御所奉公にあがった。皇后宮に7年(満17歳~24歳、最終的に女嬬(にょじゅ)で退官)奉職したので、大正天皇の崩御、昭和天皇の即位、御所や御用邸の様々を書き残した。
長くなりました。それではまた。
jijidaruma
- noelさん からの返信 2022/01/05 21:06:12
- RE: 姫路城の詳細な旅行記に驚きながら、じっくりと拝見しました。
- jijidarumaさん、こんばんは
私の方こそ、いつもありがとうございます。
そして、おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。
姫路城の旅行記、丁寧にご覧いただき、ありがとうございました。
それにしても、お母様からお友達に宛てられたお手紙は、もうその後の文献として後世にに残せそうなものですね。
お手紙や日記、かなり膨大な量のようですので、読み解くまで大変ですね。
時代が違うので、お言葉自体も現在とは全然違いますし。
お母様が、最近の日本語を耳にされたら、さぞやお嘆きになることでしょう。
> ひっそりとした*紅葉山(もみじやま)のふもと、静かなあかるい
> お二階のお部屋で久久(ひさびさ)に御なつかしき貴女に筆を取りました。
> 遠く電車の*軋(きし)りがきこへて来るばかりの静けさです。
> 御かわり御座いませんか、御伺(おうかがい)申上げます。
> 私はおかげ様で恙なく御つとめして居りますから、他事ながら御安心下さいませ。
> めくるましい(めまぐるしい?)旅行から十四日帰京。その夜るの九時十分着すぐに、ゆめにも思わなかった雲ふかき九重(ここのえ:御所)の奥に移ることになりました。
> 何もかもがお芝居の様ですの、見て居る様な、又その中に居る人の様な、ほんとに夢としか思えません。
お母様は、御所での御奉公をなさっていらしたんですね。
当時の様子が、詳細にわたって明記されてますので、貴重な文献になりますね。
抜粋していただいたこの文章だけでも、様々な事がわかります。
電車の軋りが聞こえるほどの静かさ・・・・。
また、「雲深き九重の奥に移ることに・・・・」というような表現も、殺伐とした現代の世界では、考えられない表現です。
やはり寄稿されて良かったと思います。
> 今度ははきものも傘も何もいらづ、いらないと云ふってもスリッパはいりますが、昔かしの百間廊下を毎日毎日通ひます。
> 昔かし美しいおひな様のようなお方が、お通ひになった御廊下を今はぎこちない私が変な洋服でスリッパを引きずりながら通ひます。
>
なんだか微笑ましいですね。
お母様のご様子が、目に浮かぶようです。
ただし私が勝手に想像してですが。(-_-;)
このお手紙は、お母様を思い出せる貴重な資料ではありますが、同時に後世に残しておきたくもありますね。
御所については、なかなか情報が得られませんが、大正から昭和のご様子を残していただいて、本当にありがたく思います。
貴重なことまで教えていただき、ありがとうございました。
私も昔の美しいおひな様のような方を思い浮かべながら、百聞廊下を思い出しました。
寒さも厳しくなりそうです。
どうぞご自愛ください。
そして本年もよろしくお願いします。
noel
-
- たらよろさん 2022/01/04 11:16:21
- 通りの向こうに輝く姫路城
- こんにちは、noelさん
あけましておめでとうございます♪
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
あっという間に3がにちも終わり明日からまたお仕事か…。
主人は一足早く今日から出勤しましたが、本当に休んでしまうと長期休みって直ぐに経ちますよね。
何もしないで過ごした食べて寝ただけの休息のお休みでしたー笑
姫路城、白くなってから、行きたいね行きたいねと言いつつ、
結局まだ行けてなくて。
通りの向こうに輝く姫路城が素敵ですねー。
こんなふうに街並みから見えるようにライトアップされているのが素敵。
京都からだと本当に簡単に行けるので、近々行ってこようかなー。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
たらよろ
- noelさん からの返信 2022/01/04 21:19:49
- RE: 通りの向こうに輝く姫路城
- たらよろさん、こんばんは
そして、あけましておめでとうございます。
私の方こそ今年もどうぞよろしくお願いします。
> あっという間に3がにちも終わり明日からまたお仕事か…。
本当にお正月休みもあっという間に終わってしまいましたね。
実をいうと私は明日まで休みですが・・。
> 何もしないで過ごした食べて寝ただけの休息のお休みでしたー笑
そうだったんですね。実は私も同じです。
初詣に行ったくらいです。(-_-;)
> 姫路城、白くなってから、行きたいね行きたいねと言いつつ、
> 結局まだ行けてなくて。
> 通りの向こうに輝く姫路城が素敵ですねー。
私は今回初めてだったのですが、まさに白鷺のようでした。
しかも緊急事態宣言が解除されてすぐに行ったため、空いていました。
> こんなふうに街並みから見えるようにライトアップされているのが素敵。
> 京都からだと本当に簡単に行けるので、近々行ってこようかなー。
姫路城は駅からも近く、案外と簡単に行けました。
どうぞ行ってらしてくださいね。
たらよろさんの旅行記は、美味しそうな物がたくさんで、行ってみたくなります。
今年も素敵な旅をしてくださいね。
どうぞ今年もよろしくお願いします。
noel
-
- バモスさん 2022/01/02 06:54:59
- 姫路城☆
- noelさんへ
あけましておめでとうございます
姫路城の詳しい説明をありがとうございます!
意外と観光客が少なかったのですね。
私は2回姫路城を訪れましたが、入城へは長蛇の列(>_<)
2回目は入城を諦めて、熊本から来ていた”くまモン”相手に遊んでました。
今年もよろしくお願いいたします。
バモス
- noelさん からの返信 2022/01/02 16:17:53
- RE: 姫路城☆
- パモスさん
新年あけましておめでとうございます。
いつもありがとうございます。
そしてコメントもありがとうございます。
それにしても姫路城には、2度足を運ばれたんですね。
> 意外と観光客が少なかったのですね。
> 私は2回姫路城を訪れましたが、入城へは長蛇の列(>_<)
> 2回目は入城を諦めて、熊本から来ていた”くまモン”相手に遊んでました。
なんと、そうだったんですね。
パモスさんは、せっかく行ったのに残念でしたね。
信じられないくらい空いていました。
おそらく緊急事態宣言が解除された直後だったお陰かと思います。
でもパモスさんの明石も良かったですよね。
夏の明石焼き、美味しそうでした。
冷たい出汁はいいですね。
時間に余裕があったら寄りたい所でした。
どうぞ今年もよろしくお願いします。
noel
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