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2020年11月19日(木)14時半前、男山散策路こもれびルートを降りて来て、神應(神応)寺に到着する。男山の北側山腹に位置する禅宗の一つの曹洞宗の寺院で山号は糸杉山(ししんざん)。<br /><br />平安時代前期の860年、石清水八幡宮を勧請した行教が應神(応神)寺として創建。応神天皇の位牌所として建てられたと云われる。創建当初は、仏教の4つの宗派の教義を併せて広く学ぶ四宗兼学の道場で、石清水八幡宮を管理する別当寺(神宮寺もしくは神護寺、宮寺)だった。<br /><br />鎌倉時代以降に天皇の号をはばかって神應寺と改称され、さらに室町時代に足利将軍家によって禅宗に改められた。安土桃山から江戸時代にかけて、曹洞宗の弓箴善疆(きゅうしんぜんきょう)が住持となり現在の愛知県小牧市の正眼寺の末寺として再興した。善疆は豊臣秀吉と同郷といわれ、征韓の役では肥前名護屋陣所まで随従した人物。また、1607年には秀吉の正室・北政所の菩提寺・高台寺を創建した。<br /><br />秀吉に関しては他のエピソードも残る。征韓の役の際、秀吉は石清水八幡宮に参詣し、軍の先鋒に神官を望んだが断られる。秀吉は機嫌を損ねたが、神應寺の住僧の機転で、征韓に出陣するにはまず応神天皇の御寺に参詣すべきだと進言すると機嫌を直し、神應寺に止宿して参拝、その後寺領200石を寄進した。<br /><br />秀吉の死後、豊臣秀頼は衣冠束帯姿の秀吉木像を寄進して寺を擁護した。江戸時代には、5代将軍・徳川綱吉が帰依、以後、徳川家が代々帰依し、江戸、大坂、堺などでの托鉢勧化の免許を得て寺は隆盛した。<br /><br />ケーブルのトンネルの上を越えた斜面に墓地があり、その先には神應寺本堂の屋根が見え、さらに京阪本線の木津川鉄橋から京滋バイパス、京都競馬場から伏見方面が望まれる(下の写真1)。<br /><br />墓地には江戸時代の豪商淀屋の5代目辰五郎、淀城主の永井家、飛行神社を創建した二宮忠八とその一族、江戸城大奥総取締の右衛門佐局(えもんのすけのつぼね)などの墓がある。淀屋は中ノ島を開拓、淀屋橋をかけ、米市を開くなど大阪の発展に貢献し、特に5代目辰五郎の時には幕府や西国33ヵ国に総額15億両も貸しつけ、その威力は百万石の大大名も凌ぐと云われていた。<br /><br />坂を降りて行くと鐘楼があるが、その手前の谷の下から上がってきた道との合流点がある。この分岐の先が奥の院(杉山谷不動堂)と案内があるので、先にそちらにお参りする。谷を下って、ケーブルの鉄橋の下を過ぎると様々なお堂が並ぶ奥の院が見えてくる。この場所は、鎌倉時代から江戸時代まで続いた石清水八幡宮が将軍家のために行った安居神事で祭主が禊を行う場所だった。<br /><br />坂道を5分足らず降りて行くと不動明王像のところで、奥の院参道に合流する(下の写真2)。その奥に卍地蔵尊(下の写真3)と豊川陀枳尼眞天が並ぶ。豊川陀枳尼眞天はインド伝来の神、陀枳尼天(だきにてん)を祀るが、真言密教では陀枳尼天は稲荷神と同一であるとしているので、神應寺稲荷と幟にある。<br /><br />正面奥のお堂が杉山谷不動堂。谷不動とも云われ、厄除け不動として信仰されている。本堂には、行教作と伝えられる悪魔降伏のために憤怒の形相をした神應寺旧本尊の南無大聖不動明王が座し、両脇には善悪を掌る矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか) の2童子が控えている。いずれも八幡市指定文化財。また、徳川綱吉が奉納したお堂を飾る調度である帽額(もこう)と戸帳(とちょう)がある。本尊は秘仏で、60年に一度開帳される。近年では2010年春に開帳された。<br /><br />深く切れ込んだ谷の一隅に建てられた堂は、1935年(昭和10年)8月の大雨による山津波で本堂と観音堂が倒壊・流出した。以来、不動明王は仮堂に安置されていたままであったが、1972年7月に今の堂舎が再建された。<br /><br />その再建された左の観音堂には、平安時代に空海作とも伝えられる十一面観世音菩薩をはじめ、弁財天、弘法大師、波切不動明王、水子地蔵菩薩が祀られている。杉山谷不動堂を挟んだ反対側の山際には石仏も祀られている(下の写真4)。<br /><br />降りて行かなかったが不動明王像から奥の院参道を降りて行くと不動明王像の先は厄除延命地蔵尊。その先に手水舎が見えるが、その石段横手の鳥居を下るとひきめの瀧(霊泉瀧)のお滝場。安居神事の禊の際にはここに湯屋が設けられ、寺社への案内ガイドである御師や祭壇での司会者である壇所太夫が同道して塩湯掛を行った。現在は小さな小屋があり、滝行の場所になっている(下の写真5)。この小さな鳥居の先には二の丸引面の額が掛かる二の鳥居もある。<br /><br />来た道を上り、境内に戻る。鐘楼は本瓦葺、切妻造。元禄5年(1692年)の棟札がある。本堂は銅瓦葺、寄棟造で1795年の再建。堂内にはご本尊の薬師如来、聖観世音菩薩像、厩戸王(聖徳太子)像、束帯姿の豊臣秀吉坐像があり、さらに特異な風貌を現した行教律師座像も安置されている。<br /><br />豊臣秀吉坐像は像高約40㎝のヒノキの寄木造で江戸時代の作。行教律師座像は像高約80㎝の一木造で、平安時代前期の作で、もともと石清水八幡宮の開山堂に安置されていたが、廃仏毀釈の際にこのお寺に移された。<br /><br />160段とも180段とも云われる長い石段を降りると本瓦葺、切妻造で薬医門の山門。建立年は不明。山門の南側には石清水八幡宮の五輪塔を挟んで大聖不動明王の扁額が掛かる奥の院の一の鳥居がある。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5778083835594926&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />ついでに背割堤の紅葉を見に行くが、続く

京都 八幡 神應寺(Jinno-ji Temple, Yawata, Kyoto, JP)

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2020/11/19 - 2020/11/19

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旅行記グループ 石清水八幡宮

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月19日(木)14時半前、男山散策路こもれびルートを降りて来て、神應(神応)寺に到着する。男山の北側山腹に位置する禅宗の一つの曹洞宗の寺院で山号は糸杉山(ししんざん)。

平安時代前期の860年、石清水八幡宮を勧請した行教が應神(応神)寺として創建。応神天皇の位牌所として建てられたと云われる。創建当初は、仏教の4つの宗派の教義を併せて広く学ぶ四宗兼学の道場で、石清水八幡宮を管理する別当寺(神宮寺もしくは神護寺、宮寺)だった。

鎌倉時代以降に天皇の号をはばかって神應寺と改称され、さらに室町時代に足利将軍家によって禅宗に改められた。安土桃山から江戸時代にかけて、曹洞宗の弓箴善疆(きゅうしんぜんきょう)が住持となり現在の愛知県小牧市の正眼寺の末寺として再興した。善疆は豊臣秀吉と同郷といわれ、征韓の役では肥前名護屋陣所まで随従した人物。また、1607年には秀吉の正室・北政所の菩提寺・高台寺を創建した。

秀吉に関しては他のエピソードも残る。征韓の役の際、秀吉は石清水八幡宮に参詣し、軍の先鋒に神官を望んだが断られる。秀吉は機嫌を損ねたが、神應寺の住僧の機転で、征韓に出陣するにはまず応神天皇の御寺に参詣すべきだと進言すると機嫌を直し、神應寺に止宿して参拝、その後寺領200石を寄進した。

秀吉の死後、豊臣秀頼は衣冠束帯姿の秀吉木像を寄進して寺を擁護した。江戸時代には、5代将軍・徳川綱吉が帰依、以後、徳川家が代々帰依し、江戸、大坂、堺などでの托鉢勧化の免許を得て寺は隆盛した。

ケーブルのトンネルの上を越えた斜面に墓地があり、その先には神應寺本堂の屋根が見え、さらに京阪本線の木津川鉄橋から京滋バイパス、京都競馬場から伏見方面が望まれる(下の写真1)。

墓地には江戸時代の豪商淀屋の5代目辰五郎、淀城主の永井家、飛行神社を創建した二宮忠八とその一族、江戸城大奥総取締の右衛門佐局(えもんのすけのつぼね)などの墓がある。淀屋は中ノ島を開拓、淀屋橋をかけ、米市を開くなど大阪の発展に貢献し、特に5代目辰五郎の時には幕府や西国33ヵ国に総額15億両も貸しつけ、その威力は百万石の大大名も凌ぐと云われていた。

坂を降りて行くと鐘楼があるが、その手前の谷の下から上がってきた道との合流点がある。この分岐の先が奥の院(杉山谷不動堂)と案内があるので、先にそちらにお参りする。谷を下って、ケーブルの鉄橋の下を過ぎると様々なお堂が並ぶ奥の院が見えてくる。この場所は、鎌倉時代から江戸時代まで続いた石清水八幡宮が将軍家のために行った安居神事で祭主が禊を行う場所だった。

坂道を5分足らず降りて行くと不動明王像のところで、奥の院参道に合流する(下の写真2)。その奥に卍地蔵尊(下の写真3)と豊川陀枳尼眞天が並ぶ。豊川陀枳尼眞天はインド伝来の神、陀枳尼天(だきにてん)を祀るが、真言密教では陀枳尼天は稲荷神と同一であるとしているので、神應寺稲荷と幟にある。

正面奥のお堂が杉山谷不動堂。谷不動とも云われ、厄除け不動として信仰されている。本堂には、行教作と伝えられる悪魔降伏のために憤怒の形相をした神應寺旧本尊の南無大聖不動明王が座し、両脇には善悪を掌る矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか) の2童子が控えている。いずれも八幡市指定文化財。また、徳川綱吉が奉納したお堂を飾る調度である帽額(もこう)と戸帳(とちょう)がある。本尊は秘仏で、60年に一度開帳される。近年では2010年春に開帳された。

深く切れ込んだ谷の一隅に建てられた堂は、1935年(昭和10年)8月の大雨による山津波で本堂と観音堂が倒壊・流出した。以来、不動明王は仮堂に安置されていたままであったが、1972年7月に今の堂舎が再建された。

その再建された左の観音堂には、平安時代に空海作とも伝えられる十一面観世音菩薩をはじめ、弁財天、弘法大師、波切不動明王、水子地蔵菩薩が祀られている。杉山谷不動堂を挟んだ反対側の山際には石仏も祀られている(下の写真4)。

降りて行かなかったが不動明王像から奥の院参道を降りて行くと不動明王像の先は厄除延命地蔵尊。その先に手水舎が見えるが、その石段横手の鳥居を下るとひきめの瀧(霊泉瀧)のお滝場。安居神事の禊の際にはここに湯屋が設けられ、寺社への案内ガイドである御師や祭壇での司会者である壇所太夫が同道して塩湯掛を行った。現在は小さな小屋があり、滝行の場所になっている(下の写真5)。この小さな鳥居の先には二の丸引面の額が掛かる二の鳥居もある。

来た道を上り、境内に戻る。鐘楼は本瓦葺、切妻造。元禄5年(1692年)の棟札がある。本堂は銅瓦葺、寄棟造で1795年の再建。堂内にはご本尊の薬師如来、聖観世音菩薩像、厩戸王(聖徳太子)像、束帯姿の豊臣秀吉坐像があり、さらに特異な風貌を現した行教律師座像も安置されている。

豊臣秀吉坐像は像高約40㎝のヒノキの寄木造で江戸時代の作。行教律師座像は像高約80㎝の一木造で、平安時代前期の作で、もともと石清水八幡宮の開山堂に安置されていたが、廃仏毀釈の際にこのお寺に移された。

160段とも180段とも云われる長い石段を降りると本瓦葺、切妻造で薬医門の山門。建立年は不明。山門の南側には石清水八幡宮の五輪塔を挟んで大聖不動明王の扁額が掛かる奥の院の一の鳥居がある。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5778083835594926&type=1&l=223fe1adec


ついでに背割堤の紅葉を見に行くが、続く

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  • 写真1 神應寺墓地

    写真1 神應寺墓地

  • 写真2 奥の院 不動明王像

    写真2 奥の院 不動明王像

  • 写真3 奥の院 卍地蔵尊

    写真3 奥の院 卍地蔵尊

  • 写真4 奥の院 石仏

    写真4 奥の院 石仏

  • 写真5 奥の院参道

    写真5 奥の院参道

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