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2020年11月19日(木)11時、石清水八幡宮には山上の上院と山麓の下院があり、私も何度もお参りに来ており、いつもケーブルカーで上院に上がっていたのだが、今回はまずは下院へ。上院から歩いて降りて行ったことはあるが、最初に下院に向かうのは初めて。京阪電車の石清水八幡宮駅前のバスターミナルの東側の道を南に辿りすぐ。駅の出口からだと歩いて3分ほど。<br /><br />まずは下院への入口の一ノ鳥居。堂々と立つこの鳥居は高さ約9m、最大幅約11mで花崗岩製。江戸初期の1636年に、石清水八幡宮に入り出家した真言宗の僧侶で文化人でもあり、松花堂弁当に名前の残る松花堂昭乗の発案により木製のものから造り替えらた。<br /><br />この鳥居に掛かる、紺地に金文字で「八幡宮」と書かれた額は、元は平安中期の第66代一条天皇の勅額で、平安の三蹟と称えられる藤原行成が天皇の勅を奉じて筆を執ったものだったが、現在掛かるのは寛永の三筆と称された松花堂昭乗が1619年に行成筆跡の通りに書写したもの。「八」の字は、八幡大神様の神使である鳩が一対向かい合い、顔だけを外に向けた独特のデザインとなっている。<br /><br />鳥居の先、右手にあるのが放生池。270坪あるこの池は、平安初期の863年に放生会(ほうじょうえ)として始まった毎年9月15日に行われる石清水祭で魚鳥を放つ舞台だった。2000年からは下院の外を流れる放生川(大谷川)に舞台が変更されたのだが、昨年(2020年)はコロナ禍でこの池に戻された。夏には睡蓮や蓮、浅沙(アサザ)が花を咲かせる。<br /><br />放生会は奈良時代の720年の現在の鹿児島の隼人征討の時に大勢の隼人を殺した報いとして放生会を奉仕するようにとの宇佐八幡神の託宣により始められたと伝えられる。応仁の乱や明治維新などで幾度か延引、中絶していたが、1884年に勅祭として仏教色を排して再興された。<br /><br />池の先の門を抜けると頓宮。祭事における神輿の待機所で、他の神社での御旅所に相当するが、この神社は格式が高いので頓宮と呼ばれている。江戸時代までは頓宮殿の西側、現在は斎館・参集殿が建っているところに宿坊の極楽寺があった(883年の建立)。頓宮殿は幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失し、男山四十八坊の一つの岩本坊の神殿を移築して仮宮としていたが、1915年(大正4年)に新たに造営された。2011年に完了した平成の大修造で桧皮葺から銅板葺に葺き替えられた。<br /><br />入ってきた北門は元は昭和天皇の即位に際し京都御所にある春興殿の正門として建てられたもので、大礼終了後の1928年(昭和3年)に下賜されここに移されたものと云われている(下の写真1)。<br /><br />南門は1868年(明治元年)に兵火で焼失し、70年間再建されていなかったが、1938年(昭和13年)に山上にある本宮の南総門が新築されたのを機会に旧南総門をこの場所に移築したもの(表紙の写真)。頓宮殿と同様、平成の大修造で銅板葺屋根に葺き替えられた。回廊が付けられているが、頓宮を囲んでいるものではなく、L字型の不完全なもの。<br /><br />頓宮殿から西側200mほどに日本最大級、超ド級と称される石造りの五輪塔。高さ6m、地輪(球形の石材の下の方形の部分)の一辺は2.4mある鎌倉時代の五輪石塔で、国の重文に指定されている。頓宮の中庭から見ることは出来るが、近くに行こうとすれば一ノ鳥居を出て、ぐるっと回り込まなければならない。<br /><br />五輪塔は仏塔の一種で、平安時代後期から江戸時代まで主に供養塔やお墓として建立された。密教思想に基づき、「地・水・火・風・空」という「宇宙の五大要素」を形象化し、一番下の地輪は数個の石を方形に組み、その上の水輪は背が低く安定感のある球形、三段目の火輪は三角で軒が厚く形のよい反りをしている。その上に半月の風輪と宝珠の空輪が置かれ、五輪を合わせて「全ての徳を具備する」という意味を持つとされている。<br /><br />この五輪塔には、刻銘がないため、誰がどのような意図で制作したのか謎のままだが、平安末期の高倉天皇の御代に「宋と貿易をしていた尼崎の商人が、石清水八幡宮に祈り海難を逃れたため、その御礼と感謝のために建立した」との伝承から航海記念塔とも呼ばれる。<br /><br />その他にも、地元では「忌明塔」ともいわれ、「亡き父母の忌明けの日に喪中の穢れを清めるために参拝した」であるとか、「鎌倉時代の武士の霊を慰めるための武者塚である」、「石清水八幡宮を建立した行教律師の墓である」など、この石塔にまつわる伝説は様々なものがある。<br /><br />また、この塔を築く際、石を引いて運ぶ時に火花が出て網が焼き切れたので、竹で作った網で引いたと云う話も残る。<br /><br />頓宮南門を出てすぐ右手、山の麓にあるのが高良神社。摂社の一つで八幡地区の氏神様として篤い崇敬を受けている。創建は平安初期の860年もしくは869年と云われ、幕末1868年の鳥羽伏見の戦いの兵火によって焼失。1884年(明治17年)に再建され、その後1906年(明治39年)に、ほぼ元の位置にあたる現在の場所に移座された(下の写真2)。<br /><br />神社の名前はこの周辺の古い地名の「カワ(ハ)ラ」が由来と云う。毎年7月に行われる太鼓まつりでは各町内で太鼓神輿が豪壮に担がれる。徒然草に、仁和寺のある法師が山麓の極楽寺とこの神社などを本宮と勘違いして参詣して、山上まで上がらずに帰ってしまったという話がある。<br /><br />石段の見事に色付いた銀杏の奥にある照葉樹林の代表的樹種のひとつであるクスノキ科のタブノキは、樹齢約700年を越える御神木(下の写真3)。<br /><br />高良神社の石段を降りた先は石清水八幡宮の駐車場になっているが、そこを横切って境内を出て道を渡った大谷川沿いに能蓮法師歌碑がある。「石清水清き流れの絶えせねば やどる月さえ隈なかりけり」。平安末期の1185年に行われた石清水八幡宮の歌合せの際に詠まれた歌で千載和歌集に収められている。<br /><br />能蓮法師は平安時代の歌僧で、出家前は因幡守能盛と称し鳥取の国守として山陰地方を治めていた。千載和歌集は藤原俊成が西暦年間(990年から95年)から文治に至る約200年間の歌から収集し、1188年に世に出されたもの。<br /><br />そのすぐ南、大谷川に架かるのが安居橋(あんごばし)。江戸時代初期からあった橋で、当時は平橋だった。鳥羽伏見の戦いで焼失した後、川下にあった反橋(太鼓橋)の高橋と云う橋を偲ばせる形で再興された(下の写真4)。<br /><br />鎌倉時代から行われていた八幡宮武家の祭りの安居神事から名付けられたとも、かつて川下すぐにあった五位橋に相対する仮の橋として造られたので相五位橋(あいごいばし)と呼ばれ、それが訛ったとも云う。<br /><br />大谷川はこの辺りは放生会に因んで放生川とも呼ばれる(下の写真5)。橋中央の舞台は、その放生会を再現するため、1975年の改修時に作られ、2000年からは石清水祭の魚鳥を放つ舞台として使われている(2020年はコロナ禍で放生池に変更された)。<br /><br />境内に戻ると表参道と裏参道の合流点にあるのが頼朝公ゆかりの松。吾妻鏡によると頼朝公は石清水八幡宮に5度参詣しておられ、1195年に東大寺の大仏の落慶法要に出席するために上洛した公は、清和源氏の棟梁として石清水八幡宮に参詣。その折、鎌倉から持参した6本の松の苗木を境内に植え、逆に石清水八幡宮から持ち帰った松を鶴岡八幡宮に植えたと伝わる。現在の松は二代目で、昭和の半ばまで生き残っていた最後の一本が落雷で枯れてしまった後、1955年に植え替えられたもの。同い年やんか。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5689248584478452&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />表参道を登るが、続く

八幡 石清水八幡宮下院(Lower Palace, Iwashimizu Shrine, Yawata, Kyoto, JP)

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2020/11/19 - 2020/11/19

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旅行記グループ 石清水八幡宮

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年11月19日(木)11時、石清水八幡宮には山上の上院と山麓の下院があり、私も何度もお参りに来ており、いつもケーブルカーで上院に上がっていたのだが、今回はまずは下院へ。上院から歩いて降りて行ったことはあるが、最初に下院に向かうのは初めて。京阪電車の石清水八幡宮駅前のバスターミナルの東側の道を南に辿りすぐ。駅の出口からだと歩いて3分ほど。

まずは下院への入口の一ノ鳥居。堂々と立つこの鳥居は高さ約9m、最大幅約11mで花崗岩製。江戸初期の1636年に、石清水八幡宮に入り出家した真言宗の僧侶で文化人でもあり、松花堂弁当に名前の残る松花堂昭乗の発案により木製のものから造り替えらた。

この鳥居に掛かる、紺地に金文字で「八幡宮」と書かれた額は、元は平安中期の第66代一条天皇の勅額で、平安の三蹟と称えられる藤原行成が天皇の勅を奉じて筆を執ったものだったが、現在掛かるのは寛永の三筆と称された松花堂昭乗が1619年に行成筆跡の通りに書写したもの。「八」の字は、八幡大神様の神使である鳩が一対向かい合い、顔だけを外に向けた独特のデザインとなっている。

鳥居の先、右手にあるのが放生池。270坪あるこの池は、平安初期の863年に放生会(ほうじょうえ)として始まった毎年9月15日に行われる石清水祭で魚鳥を放つ舞台だった。2000年からは下院の外を流れる放生川(大谷川)に舞台が変更されたのだが、昨年(2020年)はコロナ禍でこの池に戻された。夏には睡蓮や蓮、浅沙(アサザ)が花を咲かせる。

放生会は奈良時代の720年の現在の鹿児島の隼人征討の時に大勢の隼人を殺した報いとして放生会を奉仕するようにとの宇佐八幡神の託宣により始められたと伝えられる。応仁の乱や明治維新などで幾度か延引、中絶していたが、1884年に勅祭として仏教色を排して再興された。

池の先の門を抜けると頓宮。祭事における神輿の待機所で、他の神社での御旅所に相当するが、この神社は格式が高いので頓宮と呼ばれている。江戸時代までは頓宮殿の西側、現在は斎館・参集殿が建っているところに宿坊の極楽寺があった(883年の建立)。頓宮殿は幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失し、男山四十八坊の一つの岩本坊の神殿を移築して仮宮としていたが、1915年(大正4年)に新たに造営された。2011年に完了した平成の大修造で桧皮葺から銅板葺に葺き替えられた。

入ってきた北門は元は昭和天皇の即位に際し京都御所にある春興殿の正門として建てられたもので、大礼終了後の1928年(昭和3年)に下賜されここに移されたものと云われている(下の写真1)。

南門は1868年(明治元年)に兵火で焼失し、70年間再建されていなかったが、1938年(昭和13年)に山上にある本宮の南総門が新築されたのを機会に旧南総門をこの場所に移築したもの(表紙の写真)。頓宮殿と同様、平成の大修造で銅板葺屋根に葺き替えられた。回廊が付けられているが、頓宮を囲んでいるものではなく、L字型の不完全なもの。

頓宮殿から西側200mほどに日本最大級、超ド級と称される石造りの五輪塔。高さ6m、地輪(球形の石材の下の方形の部分)の一辺は2.4mある鎌倉時代の五輪石塔で、国の重文に指定されている。頓宮の中庭から見ることは出来るが、近くに行こうとすれば一ノ鳥居を出て、ぐるっと回り込まなければならない。

五輪塔は仏塔の一種で、平安時代後期から江戸時代まで主に供養塔やお墓として建立された。密教思想に基づき、「地・水・火・風・空」という「宇宙の五大要素」を形象化し、一番下の地輪は数個の石を方形に組み、その上の水輪は背が低く安定感のある球形、三段目の火輪は三角で軒が厚く形のよい反りをしている。その上に半月の風輪と宝珠の空輪が置かれ、五輪を合わせて「全ての徳を具備する」という意味を持つとされている。

この五輪塔には、刻銘がないため、誰がどのような意図で制作したのか謎のままだが、平安末期の高倉天皇の御代に「宋と貿易をしていた尼崎の商人が、石清水八幡宮に祈り海難を逃れたため、その御礼と感謝のために建立した」との伝承から航海記念塔とも呼ばれる。

その他にも、地元では「忌明塔」ともいわれ、「亡き父母の忌明けの日に喪中の穢れを清めるために参拝した」であるとか、「鎌倉時代の武士の霊を慰めるための武者塚である」、「石清水八幡宮を建立した行教律師の墓である」など、この石塔にまつわる伝説は様々なものがある。

また、この塔を築く際、石を引いて運ぶ時に火花が出て網が焼き切れたので、竹で作った網で引いたと云う話も残る。

頓宮南門を出てすぐ右手、山の麓にあるのが高良神社。摂社の一つで八幡地区の氏神様として篤い崇敬を受けている。創建は平安初期の860年もしくは869年と云われ、幕末1868年の鳥羽伏見の戦いの兵火によって焼失。1884年(明治17年)に再建され、その後1906年(明治39年)に、ほぼ元の位置にあたる現在の場所に移座された(下の写真2)。

神社の名前はこの周辺の古い地名の「カワ(ハ)ラ」が由来と云う。毎年7月に行われる太鼓まつりでは各町内で太鼓神輿が豪壮に担がれる。徒然草に、仁和寺のある法師が山麓の極楽寺とこの神社などを本宮と勘違いして参詣して、山上まで上がらずに帰ってしまったという話がある。

石段の見事に色付いた銀杏の奥にある照葉樹林の代表的樹種のひとつであるクスノキ科のタブノキは、樹齢約700年を越える御神木(下の写真3)。

高良神社の石段を降りた先は石清水八幡宮の駐車場になっているが、そこを横切って境内を出て道を渡った大谷川沿いに能蓮法師歌碑がある。「石清水清き流れの絶えせねば やどる月さえ隈なかりけり」。平安末期の1185年に行われた石清水八幡宮の歌合せの際に詠まれた歌で千載和歌集に収められている。

能蓮法師は平安時代の歌僧で、出家前は因幡守能盛と称し鳥取の国守として山陰地方を治めていた。千載和歌集は藤原俊成が西暦年間(990年から95年)から文治に至る約200年間の歌から収集し、1188年に世に出されたもの。

そのすぐ南、大谷川に架かるのが安居橋(あんごばし)。江戸時代初期からあった橋で、当時は平橋だった。鳥羽伏見の戦いで焼失した後、川下にあった反橋(太鼓橋)の高橋と云う橋を偲ばせる形で再興された(下の写真4)。

鎌倉時代から行われていた八幡宮武家の祭りの安居神事から名付けられたとも、かつて川下すぐにあった五位橋に相対する仮の橋として造られたので相五位橋(あいごいばし)と呼ばれ、それが訛ったとも云う。

大谷川はこの辺りは放生会に因んで放生川とも呼ばれる(下の写真5)。橋中央の舞台は、その放生会を再現するため、1975年の改修時に作られ、2000年からは石清水祭の魚鳥を放つ舞台として使われている(2020年はコロナ禍で放生池に変更された)。

境内に戻ると表参道と裏参道の合流点にあるのが頼朝公ゆかりの松。吾妻鏡によると頼朝公は石清水八幡宮に5度参詣しておられ、1195年に東大寺の大仏の落慶法要に出席するために上洛した公は、清和源氏の棟梁として石清水八幡宮に参詣。その折、鎌倉から持参した6本の松の苗木を境内に植え、逆に石清水八幡宮から持ち帰った松を鶴岡八幡宮に植えたと伝わる。現在の松は二代目で、昭和の半ばまで生き残っていた最後の一本が落雷で枯れてしまった後、1955年に植え替えられたもの。同い年やんか。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.5689248584478452&type=1&l=223fe1adec


表参道を登るが、続く

  • 写真1 頓宮北門

    写真1 頓宮北門

  • 写真2 高良神社本殿

    写真2 高良神社本殿

  • 写真3 高良神社タブノキ

    写真3 高良神社タブノキ

  • 写真4 安居橋

    写真4 安居橋

  • 写真5 放生川

    写真5 放生川

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