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新潟県北西部、佐渡島の全域を占める市である佐渡をバイクツーリングで訪れました。この旅行記では、島の中央部にあたる国中地区の訪問記となります。国中地区を含む国中平野には島の人口の8割が集中しており、古くから稲作が行われ集落も多かったので歴史ある社寺・史跡も多いエリアです。また、トキに関する施設も見逃せません。<br />★「トキの森公園」で絶滅危惧種のトキを間近に見る。<br />★佐渡奉行がもたらした能文化を伝える神社の能舞台や、佐渡へ流刑となった貴族や知識人にまつわる史跡や社寺を訪問。

佐渡(国中地区)_Sado (Kuninaka area) 『トキの森』!大佐渡と小佐渡の両山地に挟まれた美田地帯

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2020/08/11 - 2020/08/11

146位(同エリア687件中)

RAINDANCE

RAINDANCEさん

新潟県北西部、佐渡島の全域を占める市である佐渡をバイクツーリングで訪れました。この旅行記では、島の中央部にあたる国中地区の訪問記となります。国中地区を含む国中平野には島の人口の8割が集中しており、古くから稲作が行われ集落も多かったので歴史ある社寺・史跡も多いエリアです。また、トキに関する施設も見逃せません。
★「トキの森公園」で絶滅危惧種のトキを間近に見る。
★佐渡奉行がもたらした能文化を伝える神社の能舞台や、佐渡へ流刑となった貴族や知識人にまつわる史跡や社寺を訪問。

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
バイク
旅行の手配内容
個別手配
  • 2020年夏休み、狭い空間に閉じこもる公共交通機関は避け、バイクで佐渡島を訪れることにしました。フェリーで両津港から島に上陸後、県道45号(佐渡一周線)を左回りに周遊するツーリング、両津地区・相川地区を経て国中地区へ入ります。

    2020年夏休み、狭い空間に閉じこもる公共交通機関は避け、バイクで佐渡島を訪れることにしました。フェリーで両津港から島に上陸後、県道45号(佐渡一周線)を左回りに周遊するツーリング、両津地区・相川地区を経て国中地区へ入ります。

  • 国中地区は、大佐渡・小佐渡の両山地に挟まれた、S字型の島の中心部にあたり、平野に田園地帯が広がります。餌となるカエルなどが多かった田畑には、昔はトキもたくさん飛来していたのでしょう。

    国中地区は、大佐渡・小佐渡の両山地に挟まれた、S字型の島の中心部にあたり、平野に田園地帯が広がります。餌となるカエルなどが多かった田畑には、昔はトキもたくさん飛来していたのでしょう。

  • その中をまず向かったのはこちら、「トキの森公園」。

    その中をまず向かったのはこちら、「トキの森公園」。

  • 佐渡といえば朱鷺(トキ)です。トキにも色々種類がいるんですね。

    佐渡といえば朱鷺(トキ)です。トキにも色々種類がいるんですね。

  • 「トキ資料展示館」では”サドッキー”がお出迎え。

    「トキ資料展示館」では”サドッキー”がお出迎え。

  • 昭和56年(1981年)、人工繁殖のために捕獲された”ミドリ”のはく製。

    昭和56年(1981年)、人工繁殖のために捕獲された”ミドリ”のはく製。

  • 日本の野生の最後のトキ、”キン”のはく製。

    日本の野生の最後のトキ、”キン”のはく製。

  • 「トキふれあいプラザ」。

    「トキふれあいプラザ」。

  • 飼育されているトキを間近で見られます。

    飼育されているトキを間近で見られます。

  • トキは古来から日本やユーラシア大陸の広範囲に多く生息し、古くから食用にもされていたそうです。戦時中は食用以外にも羽毛を目的に乱獲され、田畑の農薬もあってエサが減り絶滅の危機を迎えると、一転して保護繁殖に努める...人間とは勝手なものですが、絶滅させない様に頑張っている方々には敬意。

    トキは古来から日本やユーラシア大陸の広範囲に多く生息し、古くから食用にもされていたそうです。戦時中は食用以外にも羽毛を目的に乱獲され、田畑の農薬もあってエサが減り絶滅の危機を迎えると、一転して保護繁殖に努める...人間とは勝手なものですが、絶滅させない様に頑張っている方々には敬意。

  • 続いてやってきたのは「牛尾神社」。参道入口。

    続いてやってきたのは「牛尾神社」。参道入口。

  • 「潟上の天王さん」の愛称で親しまれているそうです。

    「潟上の天王さん」の愛称で親しまれているそうです。

  • 奈良~平安時代の延暦11年(792年)、出雲大社より大国主命などを勧請(神仏の分身・分霊を他の地に移してまつること)して建てられたそうです。

    奈良~平安時代の延暦11年(792年)、出雲大社より大国主命などを勧請(神仏の分身・分霊を他の地に移してまつること)して建てられたそうです。

  • 境内社の天満宮。

    境内社の天満宮。

  • 再建された拝殿。

    再建された拝殿。

  • 目を凝らしてみてもよくわかりませんが、鯉の泳ぐ姿や順徳上皇の物語絵などの彫刻らしい。

    目を凝らしてみてもよくわかりませんが、鯉の泳ぐ姿や順徳上皇の物語絵などの彫刻らしい。

  • 精細な彫刻、見事です。

    精細な彫刻、見事です。

  • 拝殿前には樹齢約1千年の御神木。子授け・安産の杉として信仰されてるそうです。

    拝殿前には樹齢約1千年の御神木。子授け・安産の杉として信仰されてるそうです。

  • 明治34年(1901年)に再建されたという能舞台、県有形民俗文化財とのこと。「国仲四所の御能場」のうちの一つなのだそう。佐渡は室町時代に申楽(能楽の祖形)師だった世阿弥が流された島ですが、能文化は江戸時代の初代佐渡奉行の大久保長安がもたらしたとされています。

    明治34年(1901年)に再建されたという能舞台、県有形民俗文化財とのこと。「国仲四所の御能場」のうちの一つなのだそう。佐渡は室町時代に申楽(能楽の祖形)師だった世阿弥が流された島ですが、能文化は江戸時代の初代佐渡奉行の大久保長安がもたらしたとされています。

  • 室町期の能面「翁面」と「三番叟面」(県有形文化財)が社の宝物となっているということから、古くから能が演じられていたことがうかがえます。

    室町期の能面「翁面」と「三番叟面」(県有形文化財)が社の宝物となっているということから、古くから能が演じられていたことがうかがえます。

  • 場所は変わって、「本間家能舞台」に来ました。

    場所は変わって、「本間家能舞台」に来ました。

  • 佐渡宝生流家元の本間家は、佐渡の能の中心的地位を保ち当代で18代目だそうです。明治18年(1885年)に再建された能舞台は、県有形民俗文化財に指定されています...が、舞台は閉じられて見れませんでした。個人所有だし、しょうがないか...。

    佐渡宝生流家元の本間家は、佐渡の能の中心的地位を保ち当代で18代目だそうです。明治18年(1885年)に再建された能舞台は、県有形民俗文化財に指定されています...が、舞台は閉じられて見れませんでした。個人所有だし、しょうがないか...。

  • 次に向かったのは「長谷寺(ちょうこくじ)」。奈良の「長谷寺(はせでら)」を模したという古刹。佐渡上陸後の世阿弥が立ち寄り「金島書」に記したゆかりの地で、牡丹をはじめ“花の寺”としても知られている様です。

    次に向かったのは「長谷寺(ちょうこくじ)」。奈良の「長谷寺(はせでら)」を模したという古刹。佐渡上陸後の世阿弥が立ち寄り「金島書」に記したゆかりの地で、牡丹をはじめ“花の寺”としても知られている様です。

  • 平成30年(2018年)に建てられたという「ウサギ観音」。

    平成30年(2018年)に建てられたという「ウサギ観音」。

  • 2006年(平成18年)頃から、境内では草取りのためにウサギが放し飼いにされ、”ウサギ寺”で知られる様に。で、2018年に先述のウサギ観音を建立。休憩用のイスだと思いますが泥だらけです。餌もあちこちにばらまかれ...

    2006年(平成18年)頃から、境内では草取りのためにウサギが放し飼いにされ、”ウサギ寺”で知られる様に。で、2018年に先述のウサギ観音を建立。休憩用のイスだと思いますが泥だらけです。餌もあちこちにばらまかれ...

  • 暑いので車の下でバテてます。毛並みが悪いですね。

    暑いので車の下でバテてます。毛並みが悪いですね。

  • ウサギ小屋も汚く、付近にはゴルフグラブやボールなども散らかって、とにかく全体的に雑然とした雰囲気。

    ウサギ小屋も汚く、付近にはゴルフグラブやボールなども散らかって、とにかく全体的に雑然とした雰囲気。

  • 寺の方へ。こちらは「仁王門」。

    寺の方へ。こちらは「仁王門」。

  • 観音堂へ向かう石段。

    観音堂へ向かう石段。

  • 石段の脇には「不動堂」と「鐘堂」。

    石段の脇には「不動堂」と「鐘堂」。

  • 「本堂」。

    「本堂」。

  • 「観音堂」。寺の方は、雑草は目立つものの雑然とはしていません。

    「観音堂」。寺の方は、雑草は目立つものの雑然とはしていません。

  • 「五智堂」。心静かに参拝...といきたかったところですが、どうも気持ちが落ち着きません。

    「五智堂」。心静かに参拝...といきたかったところですが、どうも気持ちが落ち着きません。

  • 「経堂」。この訪問から約半年後、寺はウサギの飼育崩壊で保健所の指導を受け、飼育を断念しました。このニュースを聞いたときは驚きませんでした。歴史ある古刹なのに残念です。

    「経堂」。この訪問から約半年後、寺はウサギの飼育崩壊で保健所の指導を受け、飼育を断念しました。このニュースを聞いたときは驚きませんでした。歴史ある古刹なのに残念です。

  • お昼になり、暑さが増してきました。続いて訪れたのは...

    お昼になり、暑さが増してきました。続いて訪れたのは...

  • ...「大膳(だいぜん)神社」。

    ...「大膳(だいぜん)神社」。

  • このあたりの地頭(じとう=領主のようなもの)だった本間山城守によって、佐渡に流刑された日野資朝(鎌倉後期の公卿)をめぐる仇討に関わる祟りを恐れて関係者が合祀された神社とのこと。その正殿。

    このあたりの地頭(じとう=領主のようなもの)だった本間山城守によって、佐渡に流刑された日野資朝(鎌倉後期の公卿)をめぐる仇討に関わる祟りを恐れて関係者が合祀された神社とのこと。その正殿。

  • 弘化3年(1846年)に再建されたという茅葺き寄棟造りの能舞台(県有形民俗文化財)。ここも「国仲四所の御能場」の一つだそうで、佐渡に現存する最古の能舞台とのこと。

    弘化3年(1846年)に再建されたという茅葺き寄棟造りの能舞台(県有形民俗文化財)。ここも「国仲四所の御能場」の一つだそうで、佐渡に現存する最古の能舞台とのこと。

  • もちろん補修はされているのでしょうが、その構造は歴史を感じさせてくれます。

    もちろん補修はされているのでしょうが、その構造は歴史を感じさせてくれます。

  • 国中地区には歴史ある社寺がまだまだあります。続いては、日蓮上人ゆかりの名刹「妙宣寺」へ。

    国中地区には歴史ある社寺がまだまだあります。続いては、日蓮上人ゆかりの名刹「妙宣寺」へ。

  • 佐渡へ流された日蓮に仕えた遠藤為盛(阿佛房日得上人)が、建治4年(1278年)に開いた寺が始まりと伝わっているそうです。こちらは「仁王門」。

    佐渡へ流された日蓮に仕えた遠藤為盛(阿佛房日得上人)が、建治4年(1278年)に開いた寺が始まりと伝わっているそうです。こちらは「仁王門」。

  • 仁王門の仁王像。

    仁王門の仁王像。

  • 日光東照宮を模したとされる「五重塔」。

    日光東照宮を模したとされる「五重塔」。

  • 「山門」。

    「山門」。

  • 「番神堂」。

    「番神堂」。

  • 「宝蔵」。昭和元年(1926年)の再建。

    「宝蔵」。昭和元年(1926年)の再建。

  • 「祖師堂」。明治13年(1880年)の再建。

    「祖師堂」。明治13年(1880年)の再建。

  • 「本堂」と「庫裡」。本堂は文久3年(1863年)の再建。

    「本堂」と「庫裡」。本堂は文久3年(1863年)の再建。

  • 本堂前の庭園。田舎の寺にありがちな鬱蒼とした森ではなく、手入れされた開けた空間に端正な建物が佇む個性的な寺でした。

    本堂前の庭園。田舎の寺にありがちな鬱蒼とした森ではなく、手入れされた開けた空間に端正な建物が佇む個性的な寺でした。

  • 移動の途中、明治25年(1892年)創業の日本酒の酒蔵「真野鶴(まのづる)」の蔵元の前でワンショット。時間の関係で酒蔵の中には入りませんでしたが、日本最高峰の全国新酒鑑評会において金賞を2001年から10回受賞している酒蔵です。私たちも日ごろ愛飲の日本酒。

    移動の途中、明治25年(1892年)創業の日本酒の酒蔵「真野鶴(まのづる)」の蔵元の前でワンショット。時間の関係で酒蔵の中には入りませんでしたが、日本最高峰の全国新酒鑑評会において金賞を2001年から10回受賞している酒蔵です。私たちも日ごろ愛飲の日本酒。

  • 国中地区で最後に訪れたのが「真野御陵(まのごりょう)」。

    国中地区で最後に訪れたのが「真野御陵(まのごりょう)」。

  • こちらが観光センター。

    こちらが観光センター。

  • 佐渡で産出される”赤玉石”。皇居や伊勢神宮にも置かれているそうです。

    佐渡で産出される”赤玉石”。皇居や伊勢神宮にも置かれているそうです。

  • 「真野御陵」は正式には「順徳天皇御火葬塚」なのだそう。その塚はこちらです。

    「真野御陵」は正式には「順徳天皇御火葬塚」なのだそう。その塚はこちらです。

  • 鎌倉時代の”承久の乱”にて、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐へ、その第三皇子の順徳上皇はここ佐渡へ島流しとなりました。順徳上皇は仁治3年(1242年)46歳で崩御した翌日に火葬され、その跡に松と桜を植えたのがこの火葬塚ということです。

    鎌倉時代の”承久の乱”にて、首謀者の後鳥羽上皇は隠岐へ、その第三皇子の順徳上皇はここ佐渡へ島流しとなりました。順徳上皇は仁治3年(1242年)46歳で崩御した翌日に火葬され、その跡に松と桜を植えたのがこの火葬塚ということです。

  • この火葬塚は御陵と同格扱いで宮内庁の管理で、入ることはできません。

    この火葬塚は御陵と同格扱いで宮内庁の管理で、入ることはできません。

  • 奈良時代から既に流刑地として定番となっていた佐渡は、順徳上皇のほかにも、722年に皇室批判を行った万葉歌人、1271年に鎌倉幕府を批判した日蓮聖人、1434年に足利将軍を怒らせた能楽者の世阿弥など、色んな貴族や知識人が流されてきました。この塚はそんな痕跡の代表格といえそうです。

    奈良時代から既に流刑地として定番となっていた佐渡は、順徳上皇のほかにも、722年に皇室批判を行った万葉歌人、1271年に鎌倉幕府を批判した日蓮聖人、1434年に足利将軍を怒らせた能楽者の世阿弥など、色んな貴族や知識人が流されてきました。この塚はそんな痕跡の代表格といえそうです。

  • 真野御陵の近くに「佐渡歴史伝説館」がありますが、時間の関係もありパス。

    真野御陵の近くに「佐渡歴史伝説館」がありますが、時間の関係もありパス。

  • 国中地区は、真野湾から上陸した人による古墳が多くあるなど、佐渡の中でも古くから人の営みがあったことから歴史ある社寺・史跡が多いエリアです。また、朱鷺に関する施設も、佐渡に来たなら見逃せないと思います。さて、続いては南佐渡地区へ向かいます。

    国中地区は、真野湾から上陸した人による古墳が多くあるなど、佐渡の中でも古くから人の営みがあったことから歴史ある社寺・史跡が多いエリアです。また、朱鷺に関する施設も、佐渡に来たなら見逃せないと思います。さて、続いては南佐渡地区へ向かいます。

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