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≪東日本大震災の報を台湾で聞く。帰国と地震後始末≫<br /><br />ANAハローツアー:台湾旅行(2011年3月11日~15日:4泊5日)から帰国し、羽田空港からリムジンバスを利用して、夜8時半ごろ千葉の自宅に帰宅しました。<br />震災の4日後、いまだに電車の混乱を聞いていましたから、リムジンで帰れたのは助かりました。<br />最終日の台北に居た時はTVでNHKを見ながら、東京に一泊することになるかなと思っていましたから・・・。<br /><br />写真は当時の台湾の新聞記事です。凄まじさが伝わってきます。<br /><br />

強烈な印象を与えた東日本大震災、もうあれから10年か!(台湾にて)

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2011/03/11 - 2011/03/15

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旅行記グループ jijidaruma家のこと

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jijidaruma

jijidarumaさん

≪東日本大震災の報を台湾で聞く。帰国と地震後始末≫

ANAハローツアー:台湾旅行(2011年3月11日~15日:4泊5日)から帰国し、羽田空港からリムジンバスを利用して、夜8時半ごろ千葉の自宅に帰宅しました。
震災の4日後、いまだに電車の混乱を聞いていましたから、リムジンで帰れたのは助かりました。
最終日の台北に居た時はTVでNHKを見ながら、東京に一泊することになるかなと思っていましたから・・・。

写真は当時の台湾の新聞記事です。凄まじさが伝わってきます。

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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  • 久し振りのツアーである。<br /><br />ANAハローツアーを利用して、台湾:台中・台南・高雄・台北の旅に出かけた。<br />普段は千葉県人なので、成田空港が便利なのだが、このツアーは羽田から出発し、台北・松山飛行場に着くという。<br /><br />台湾は長女一家が台北に5年ほど駐在して、台北で娘二人を生んだ。<br />生まれる時期に合わせて、台北に私共夫婦でお手伝いに行き、百日目の「お食い初め」の為にまた台北に行ってお祝いをした。<br />それで2X2、4度の台北訪問(2004~7年)をしたのだ。<br /><br />当時は主に市内と近郊に観光に行ったぐらいだったから、一度台湾新幹線に乗車して、南も観光したいものだと考えた。<br />2011年はもう長女一家も東京に帰任していたので、ANAハローツアーを利用し、費用もかかったが、十分納得した、満足した旅となった。<br /><br />我が家の「金(かね)の生る木」、珍しいことに花を咲かせたので、幸先も良い旅になると思ったのだったが。<br /><br />予想外であった「東日本大震災」が起きた事をのぞけば・・・。<br /><br />写真は出発前に写した「金の生る木の花」、珍しいことに花を咲かせた。

    久し振りのツアーである。

    ANAハローツアーを利用して、台湾:台中・台南・高雄・台北の旅に出かけた。
    普段は千葉県人なので、成田空港が便利なのだが、このツアーは羽田から出発し、台北・松山飛行場に着くという。

    台湾は長女一家が台北に5年ほど駐在して、台北で娘二人を生んだ。
    生まれる時期に合わせて、台北に私共夫婦でお手伝いに行き、百日目の「お食い初め」の為にまた台北に行ってお祝いをした。
    それで2X2、4度の台北訪問(2004~7年)をしたのだ。

    当時は主に市内と近郊に観光に行ったぐらいだったから、一度台湾新幹線に乗車して、南も観光したいものだと考えた。
    2011年はもう長女一家も東京に帰任していたので、ANAハローツアーを利用し、費用もかかったが、十分納得した、満足した旅となった。

    我が家の「金(かね)の生る木」、珍しいことに花を咲かせたので、幸先も良い旅になると思ったのだったが。

    予想外であった「東日本大震災」が起きた事をのぞけば・・・。

    写真は出発前に写した「金の生る木の花」、珍しいことに花を咲かせた。

  • <2011年台湾:台中・台南・高雄・台北の旅:費用><br />期間: 2011.03.11-03.15. (5日間)  <br />A)	ANAハローツアー代;142,800+2,880(145,680円x2)‐7,100        <br />                        284,260 円<br />B)	交通費 ;タクシー、リムジンバス、電車バス   13,521円<br />C)	食事代 ; 昼1;夜2回                10,345円<br />D)	お土産代 ;お茶他                                    17,193円<br />E)	その他 ;国際電話、ポーターチップなど     4,732円<br />                                                                                  <br />                  合計            330,051 円              <br /><br />写真はANAハローツアーの明細

    <2011年台湾:台中・台南・高雄・台北の旅:費用>
    期間: 2011.03.11-03.15. (5日間)  
    A) ANAハローツアー代;142,800+2,880(145,680円x2)‐7,100   
                            284,260 円
    B) 交通費 ;タクシー、リムジンバス、電車バス 13,521円
    C) 食事代 ; 昼1;夜2回           10,345円
    D) お土産代 ;お茶他    17,193円
    E) その他 ;国際電話、ポーターチップなど     4,732円

          合計            330,051 円

    写真はANAハローツアーの明細

  • ≪強烈な印象を与えた東日本大震災、もうあれから10年か!(台湾にて)≫<br /><br />地震当日の11日、ANA=NH-1185便は羽田9:40発、台北松山12:45着でした。時差は1時間なので、東京時間では13:45着になる。入国手続きをして、ガイドさんに出会う頃はもう「東北の大地震」は起こっていたでしょう。<br />松山飛行場に出迎えたガイドさんから、御挨拶当初に「東北の大地震」の話を聞いたが、ガイドさんもその被害の甚大さを知らず、詳細はその夜まで私共も知らずにいた。<br />てっきり東北の方面だけの限られたものだと思い、これほど大きく、福島の原子力発電所を巻き込んだ事や、恐ろしい大津波になっていたとは思いませんでした。<br /><br />また、千葉の市原のガスタンク爆発による火災や、九十九里沿岸の旭市地区も津波で罹災していた事も知りませんでした。<br /><br />第一目の台中のホテルで夕食後、就寝前の夜中にTVをつけて知りました。<br />TVニュースで報道された様子は東北地方が甚大、壊滅的な被害を被ったと伝えていて、その惨状には言葉も無し・・・・・。<br /><br />更に千葉の市原市では、コスモ石油のガスタンクが爆発して大火となっていた。その様子を台湾TVの画面で見る事となるとは、全く予想もしなかったのです。<br /><br />写真は台湾全図・・・北の台北から南の台南へ。

    ≪強烈な印象を与えた東日本大震災、もうあれから10年か!(台湾にて)≫

    地震当日の11日、ANA=NH-1185便は羽田9:40発、台北松山12:45着でした。時差は1時間なので、東京時間では13:45着になる。入国手続きをして、ガイドさんに出会う頃はもう「東北の大地震」は起こっていたでしょう。
    松山飛行場に出迎えたガイドさんから、御挨拶当初に「東北の大地震」の話を聞いたが、ガイドさんもその被害の甚大さを知らず、詳細はその夜まで私共も知らずにいた。
    てっきり東北の方面だけの限られたものだと思い、これほど大きく、福島の原子力発電所を巻き込んだ事や、恐ろしい大津波になっていたとは思いませんでした。

    また、千葉の市原のガスタンク爆発による火災や、九十九里沿岸の旭市地区も津波で罹災していた事も知りませんでした。

    第一目の台中のホテルで夕食後、就寝前の夜中にTVをつけて知りました。
    TVニュースで報道された様子は東北地方が甚大、壊滅的な被害を被ったと伝えていて、その惨状には言葉も無し・・・・・。

    更に千葉の市原市では、コスモ石油のガスタンクが爆発して大火となっていた。その様子を台湾TVの画面で見る事となるとは、全く予想もしなかったのです。

    写真は台湾全図・・・北の台北から南の台南へ。

  • 後から思えばのんきに、松山空港を出発し、台中のホテルに向かったのです。<br /><br />その夜は心配して電話を待っていた娘たちにあわてて国際電話をして、娘家族の状況・事情・無事を確認しました。<br />そう言えば、婿たちは地震当日、一人は川崎から世田谷の玉堤まで1時間半、もう一人は幕張から4時間の道を歩いたそうです。<br /><br />翌日、近所に住む次女が我が家を見てくれました。<br />私共の住む市は震度6弱だったのですが、特に2階の方が地震の揺れに弱く、書類やアルバムが書庫の棚から落ち、散乱していたようでした。<br />小物が壊れたものもあったとのことでしたが、家の瓦も壁も周辺の外観も全く見た目にも問題がないと、翌日夜の国際電話で次女にその事を聞いて安心しました。<br /><br />そして日本に帰国する選択はせず、5日間の短い旅であったので、そのまま旅を続けたのです。<br /><br />写真は台北松山飛行場をドイツ車VWのバンに乗って出発する。<br />差し入れの果物(ナツメ、グアバ、蓮霧など)、途中で見た台湾の桂花(金木犀のような香りがした)、オリーブの木。

    後から思えばのんきに、松山空港を出発し、台中のホテルに向かったのです。

    その夜は心配して電話を待っていた娘たちにあわてて国際電話をして、娘家族の状況・事情・無事を確認しました。
    そう言えば、婿たちは地震当日、一人は川崎から世田谷の玉堤まで1時間半、もう一人は幕張から4時間の道を歩いたそうです。

    翌日、近所に住む次女が我が家を見てくれました。
    私共の住む市は震度6弱だったのですが、特に2階の方が地震の揺れに弱く、書類やアルバムが書庫の棚から落ち、散乱していたようでした。
    小物が壊れたものもあったとのことでしたが、家の瓦も壁も周辺の外観も全く見た目にも問題がないと、翌日夜の国際電話で次女にその事を聞いて安心しました。

    そして日本に帰国する選択はせず、5日間の短い旅であったので、そのまま旅を続けたのです。

    写真は台北松山飛行場をドイツ車VWのバンに乗って出発する。
    差し入れの果物(ナツメ、グアバ、蓮霧など)、途中で見た台湾の桂花(金木犀のような香りがした)、オリーブの木。

  • この旅はANAのハローツアーでしたが、お客は私共2人だけでした。<br />これに流暢な日本語を話すガイドの50代女性とVWのバンを運転するドライバーの2人が付くという、何やら申し訳ないような旅でした。<br />台中、日月譚、台南、高雄、台北を周り、さらに1日台北で延泊の旅でした。<br /><br />途中観光しながら、2時間40分のドライブで台中に着いた。<br /><br />写真は台中:宝覚寺の大仏、慰霊碑、精明一街という台中の街、店頭で90%値引き!の商品を購入した家内、台中のホテル「清新温泉」1106号・B棟の部屋と温泉のお風呂付き。

    この旅はANAのハローツアーでしたが、お客は私共2人だけでした。
    これに流暢な日本語を話すガイドの50代女性とVWのバンを運転するドライバーの2人が付くという、何やら申し訳ないような旅でした。
    台中、日月譚、台南、高雄、台北を周り、さらに1日台北で延泊の旅でした。

    途中観光しながら、2時間40分のドライブで台中に着いた。

    写真は台中:宝覚寺の大仏、慰霊碑、精明一街という台中の街、店頭で90%値引き!の商品を購入した家内、台中のホテル「清新温泉」1106号・B棟の部屋と温泉のお風呂付き。

  • レストランはA棟の地下2階にあり、まだ新しくモダンなホテルでした。<br />夕食を食べている時も日本の地震の事は全く話題に上らず、のんきに香港の旅以来久しぶりに正餐を楽しんだのです。<br /><br />写真は台中:ホテル「清新温泉」・≪天地一家≫と言うレストランで夕食(前菜、スープ、魚料理、肉料理)・・・家内は店頭で90%値引き!の商品を早速着ています。

    レストランはA棟の地下2階にあり、まだ新しくモダンなホテルでした。
    夕食を食べている時も日本の地震の事は全く話題に上らず、のんきに香港の旅以来久しぶりに正餐を楽しんだのです。

    写真は台中:ホテル「清新温泉」・≪天地一家≫と言うレストランで夕食(前菜、スープ、魚料理、肉料理)・・・家内は店頭で90%値引き!の商品を早速着ています。

  • 写真は台中:ホテル「清新温泉」・≪天地一家≫と言うレストランで夕食(チャーハン、デザート)

    イチオシ

    写真は台中:ホテル「清新温泉」・≪天地一家≫と言うレストランで夕食(チャーハン、デザート)

  • 翌12日にホテルからもらった現地新聞の強烈な画面を見て、これは容易ならぬ規模の震災であり、吃驚して、にわかに余震の事も頭によぎったものです。<br /><br />事実、宮城沖の最初の地震M9は14時46分に発生し、その後15時8分に岩手沖でM7.4が発生、更に茨城沖で15時15分にM7.6の大きな地震が、余震として連続して発生していた。<br /><br />写真は当時の台湾の新聞記事です。凄まじさが伝わってきます。<br />(茨城沖で15時15分にM7.6の時のものか不明だが、大きな渦に巻き込まれて漂う漁船の運命はどうなったのだろう)

    イチオシ

    翌12日にホテルからもらった現地新聞の強烈な画面を見て、これは容易ならぬ規模の震災であり、吃驚して、にわかに余震の事も頭によぎったものです。

    事実、宮城沖の最初の地震M9は14時46分に発生し、その後15時8分に岩手沖でM7.4が発生、更に茨城沖で15時15分にM7.6の大きな地震が、余震として連続して発生していた。

    写真は当時の台湾の新聞記事です。凄まじさが伝わってきます。
    (茨城沖で15時15分にM7.6の時のものか不明だが、大きな渦に巻き込まれて漂う漁船の運命はどうなったのだろう)

  • 写真は当時の台湾の新聞記事です。凄まじさが伝わってきます。<br />(ここでは福島原発の危機、千葉県市原市のコスモス石油のガス爆発の記事が見られる)

    写真は当時の台湾の新聞記事です。凄まじさが伝わってきます。
    (ここでは福島原発の危機、千葉県市原市のコスモス石油のガス爆発の記事が見られる)

  • 写真は当時の台湾の新聞記事です。凄まじさが伝わってきます。<br />(中国時報の一面の漢字は第一報という事で、数字はまだ正確ではない。途中経過の数値だ)

    写真は当時の台湾の新聞記事です。凄まじさが伝わってきます。
    (中国時報の一面の漢字は第一報という事で、数字はまだ正確ではない。途中経過の数値だ)

  • 15日、台北・松山空港をANA=NH-1186便13時45分に発ち、羽田空港には17時40分に到着した。<br />家に帰っても食事もままならないと思い、羽田空港で軽食を食べてから、午後6時10分羽田発のリムジンバスを利用して千葉に向かった。道は順調で、途中高速が通行止めで一般道も走りましたが、夜8時半ごろ千葉の自宅に戻れた。<br /><br />家の中に入って、恐々と見てみると、ドイツ土産のクリスタルの小物飾りが、落下して一部が割れていて、残念な思いもしました。<br />ともあれ自宅の食器、グラス類、花瓶、ワインなど一番心配していたものは、動いた様子がありましたが、何事もなかったのは誠に幸いでした。<br />中でも最悪なケースを予想したワイン棚は、さすがに揺れで前に20cmも動いていましたが、一本も落ちる事がなかったのは驚きました。<br /><br />さらに翌日は、家の周囲をチェックし、瓦が落ちたり、外壁に損傷もなかったので、漸く一安心でした。<br /><br />唯、電話が不通でしたので、PHSかPCのメールで対応していました。<br />実は我が家の電話は地震で多機能ファクシミリの機械が落ちて、NTT回線が切れてしまった為に不通となっていた。<br /><br />写真は次女が撮影したものだが、二階の絵や母の写真、電灯なども傾き、写真・アルバム・書類が棚から落ちて散乱している様子でした。

    15日、台北・松山空港をANA=NH-1186便13時45分に発ち、羽田空港には17時40分に到着した。
    家に帰っても食事もままならないと思い、羽田空港で軽食を食べてから、午後6時10分羽田発のリムジンバスを利用して千葉に向かった。道は順調で、途中高速が通行止めで一般道も走りましたが、夜8時半ごろ千葉の自宅に戻れた。

    家の中に入って、恐々と見てみると、ドイツ土産のクリスタルの小物飾りが、落下して一部が割れていて、残念な思いもしました。
    ともあれ自宅の食器、グラス類、花瓶、ワインなど一番心配していたものは、動いた様子がありましたが、何事もなかったのは誠に幸いでした。
    中でも最悪なケースを予想したワイン棚は、さすがに揺れで前に20cmも動いていましたが、一本も落ちる事がなかったのは驚きました。

    さらに翌日は、家の周囲をチェックし、瓦が落ちたり、外壁に損傷もなかったので、漸く一安心でした。

    唯、電話が不通でしたので、PHSかPCのメールで対応していました。
    実は我が家の電話は地震で多機能ファクシミリの機械が落ちて、NTT回線が切れてしまった為に不通となっていた。

    写真は次女が撮影したものだが、二階の絵や母の写真、電灯なども傾き、写真・アルバム・書類が棚から落ちて散乱している様子でした。

  • 16日、YAHOOのBBフォンでしたので、電話をしてその指示でいろいろチェックしました。そうしている内にNTT電話回線がファクシミリの機械の差し込み口で、見事にケーブルが切れていたのが分かりました。<br />ファクシミリの機械が落ちた衝撃で切れてしまったようです。<br />YAHOOのアドバイスに従い、ケーズデンキに行き、ケーブルを購入し、夕方に電話も回復しました。<br /><br />写真は次女が撮影したものだが、二階の絵がこんな格好になっていた。

    16日、YAHOOのBBフォンでしたので、電話をしてその指示でいろいろチェックしました。そうしている内にNTT電話回線がファクシミリの機械の差し込み口で、見事にケーブルが切れていたのが分かりました。
    ファクシミリの機械が落ちた衝撃で切れてしまったようです。
    YAHOOのアドバイスに従い、ケーズデンキに行き、ケーブルを購入し、夕方に電話も回復しました。

    写真は次女が撮影したものだが、二階の絵がこんな格好になっていた。

  • 16日の午前中、次女宅に台湾の土産を持参し、地震当時の話を聞きながら、お茶をしてきました。近所に娘がいる事のありがたみを感じたものでした。<br />今日は婿殿も在宅仕事に切り替えていました。<br /><br />その後、銀行に寄り、スーパーに買物に行き、電話を回復させ、慌ただしい一日が終えました。<br />日にちが変わりましたが、計画停電が終わり、PCに向かっています。<br />明日から、旅行の整理です。<br /><br />また、停電も日頃から、常備食、水、電池、懐中電灯も用意していますので、特に慌てる事はありませんでした。まだ油断は禁物だと、銀行に寄って、手持ち現金は少し多めにしました。<br />旅行中、心配した兄弟姉妹・友人・知人からの電話があったようですが、電話も通じて、その応対も順次行った。<br /><br />それに5月半ばからのドイツの旅もやることが多く、差し迫ってはホテルの予約があり、そんなことでバタバタと時は過ぎて行ったのです。<br /><br />写真は次女が撮影したものだが、二階の部屋の電灯が傾いていた。

    16日の午前中、次女宅に台湾の土産を持参し、地震当時の話を聞きながら、お茶をしてきました。近所に娘がいる事のありがたみを感じたものでした。
    今日は婿殿も在宅仕事に切り替えていました。

    その後、銀行に寄り、スーパーに買物に行き、電話を回復させ、慌ただしい一日が終えました。
    日にちが変わりましたが、計画停電が終わり、PCに向かっています。
    明日から、旅行の整理です。

    また、停電も日頃から、常備食、水、電池、懐中電灯も用意していますので、特に慌てる事はありませんでした。まだ油断は禁物だと、銀行に寄って、手持ち現金は少し多めにしました。
    旅行中、心配した兄弟姉妹・友人・知人からの電話があったようですが、電話も通じて、その応対も順次行った。

    それに5月半ばからのドイツの旅もやることが多く、差し迫ってはホテルの予約があり、そんなことでバタバタと時は過ぎて行ったのです。

    写真は次女が撮影したものだが、二階の部屋の電灯が傾いていた。

  • 思えば、旅先でまず浮かんだのは、家が崩壊するというイメージでした。<br />築30年で耐震構造でもない在来工法の家です。退職前にリフォーム(もう9年が過ぎた)をしましたが、完璧なものでもないので、心配をした。<br /><br />ただ、遠く離れてしまうと、生来の楽観主義がでてきて、後は出たとこ勝負!?と思ったものです。<br />次女が素早くチェックしてくれた事で安心感を得ましたが。<br /><br />昨日も千葉は震度4、3と余震が続き、在宅していると、気分の良いものではありません。<br /><br />ともかく全ての地域で地震と原発のトラブルの終息を祈るのみです。<br /><br />写真は「東日本大震災」の纏めた記事(産経・2011年12月27日被災の記録①)

    思えば、旅先でまず浮かんだのは、家が崩壊するというイメージでした。
    築30年で耐震構造でもない在来工法の家です。退職前にリフォーム(もう9年が過ぎた)をしましたが、完璧なものでもないので、心配をした。

    ただ、遠く離れてしまうと、生来の楽観主義がでてきて、後は出たとこ勝負!?と思ったものです。
    次女が素早くチェックしてくれた事で安心感を得ましたが。

    昨日も千葉は震度4、3と余震が続き、在宅していると、気分の良いものではありません。

    ともかく全ての地域で地震と原発のトラブルの終息を祈るのみです。

    写真は「東日本大震災」の纏めた記事(産経・2011年12月27日被災の記録①)

  • 東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)は、2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。<br />東日本各地での大きな揺れや、大津波、火災などにより、2020年(令和2年)12月10日時点で、東北地方を中心に12都道府県で震災による死者・行方不明者は1万8426人が発生した。<br />最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村で震度6強を観測した最大遡上高40.1 mにも上る巨大な津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害が発生した(Wiki)。<br /><br />写真は「東日本大震災」の纏めた記事(産経・2011年12月27日被災の記録②)

    東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)は、2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。
    東日本各地での大きな揺れや、大津波、火災などにより、2020年(令和2年)12月10日時点で、東北地方を中心に12都道府県で震災による死者・行方不明者は1万8426人が発生した。
    最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村で震度6強を観測した最大遡上高40.1 mにも上る巨大な津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害が発生した(Wiki)。

    写真は「東日本大震災」の纏めた記事(産経・2011年12月27日被災の記録②)

  • 段々近所の様子も耳に入ってきた。<br />お隣の家は新建築方式で建て直した家でしたが、家内が奥様に聞いたところでは風呂の水があふれて、何故かなかなか止まらず、一階は水浸しになったそうです。<br />その奥様の話では、地震の揺れ(震度6弱)の凄さに這いつくばったままだったそうです。<br />この震度を体験しなかった私共は良かったのか?悪かったのか・・・。<br /><br />我が家のこの程度の結果は、むしろ「金の生る木の花」のお蔭だったか・・・。<br /><br />写真は「東日本大震災」の纏めた記事(産経・2011年12月27日被災の記録③)

    段々近所の様子も耳に入ってきた。
    お隣の家は新建築方式で建て直した家でしたが、家内が奥様に聞いたところでは風呂の水があふれて、何故かなかなか止まらず、一階は水浸しになったそうです。
    その奥様の話では、地震の揺れ(震度6弱)の凄さに這いつくばったままだったそうです。
    この震度を体験しなかった私共は良かったのか?悪かったのか・・・。

    我が家のこの程度の結果は、むしろ「金の生る木の花」のお蔭だったか・・・。

    写真は「東日本大震災」の纏めた記事(産経・2011年12月27日被災の記録③)

  • 写真は「東日本大震災」の纏めた記事(産経・2014年3月9日日本の自然災害の記録)・・・これを見ると、三陸沖地震は多い事が分かる。<br /><br />1896年(明治29年)6月15日の明治三陸地震(めいじさんりくじしん)、<br />1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震(しょうわさんりくじしん)、<br />そして2011年(平成23年)3月11日の地震は言わば平成三陸地震(東日本大震災)である。

    写真は「東日本大震災」の纏めた記事(産経・2014年3月9日日本の自然災害の記録)・・・これを見ると、三陸沖地震は多い事が分かる。

    1896年(明治29年)6月15日の明治三陸地震(めいじさんりくじしん)、
    1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸地震(しょうわさんりくじしん)、
    そして2011年(平成23年)3月11日の地震は言わば平成三陸地震(東日本大震災)である。

  • 前述の明治三陸地震は、1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度)を震源として起こった地震である。<br />マグニチュード8.2~8.5の巨大地震であった。<br />さらに、東北地方太平洋沖地震前まで本州における観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えた(Wiki)。 <br /><br />なお、当地震を機に「三陸海岸」という名称が広く使用され始めた<br /><br />写真は1896年(明治29年)6月15日「明治三陸沖地震」:M8.2・大津波38.2m、死者2万1959人と大惨事を出した。

    前述の明治三陸地震は、1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmの三陸沖(北緯39.5度、東経144度)を震源として起こった地震である。
    マグニチュード8.2~8.5の巨大地震であった。
    さらに、東北地方太平洋沖地震前まで本州における観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えた(Wiki)。

    なお、当地震を機に「三陸海岸」という名称が広く使用され始めた

    写真は1896年(明治29年)6月15日「明治三陸沖地震」:M8.2・大津波38.2m、死者2万1959人と大惨事を出した。

  • 我が家の親族(母の年長の従姉)である*萩原タケ女史(1873~1936年)は23歳の時に、1896年(明治29年6月15日)に発生した明治三陸沖地震の救援に赴き、日本赤十字社看護婦の救護隊の一員として現地入りし、都合39日間の救護(傷病者は5千人余)活動を行ったと記録に残っている。<br /><br />*萩原タケ女史は明治26年4月満20歳(1893年)の春、日本赤十字社の看護婦生徒募集に際し、第7回生として入学を果たした。<br />明治27年の日清戦争、明治29年の三陸大津波、明治33年北清事変、明治37年の日露戦争などで看護婦活動に従事した。<br />明治36年(1903年)30歳で日本赤十字社看護婦副取締となり、全看護婦を統括するとともに生徒の教育養成に当たる。<br />明治37年(1904年)の日露戦争中には一時看護婦取締代理を務めている。<br />明治40年から42年(1909年)にかけて2年間の欧州滞在を経験し、ICN(国際看護婦協会)名誉副会長に推薦され、ケルン・モントリオールなどの看護婦の各種国際会議で活躍した。<br />大正9年(1920年)には、タケ女史は第1回フローレンス・ナイチンゲール記章(ナイチンゲール生誕100周年を記念して、1920年に第1回の記章が世界の52名に授与された)を山本ヤヲ女史、湯浅うめ女史と共に受賞する。<br />昭和11年(1936年)5月27 日、享年63歳で死去。日本赤十字社は盛大な病院葬をもって永年の功績に報いた。<br />タケ女史は明治43年(1910年)の日本赤十字病院看護婦監督就任から、昭和11年(1936年) 日赤病院にて死去するまで、28年間を監督として2700人あまりの看護婦の養成・指導にあたった。<br />(東京都あきる野市デジタルアーカイブ;あきる野市ゆかりの人々より)<br /><br />写真は1896年(明治29年6月15日)明治三陸沖地震M8.2・津波:日本赤十字社看護婦の救護隊・・・23歳の萩原タケ女史は右端の赤丸印の方。(あきる野市五日市郷土館の展示)

    我が家の親族(母の年長の従姉)である*萩原タケ女史(1873~1936年)は23歳の時に、1896年(明治29年6月15日)に発生した明治三陸沖地震の救援に赴き、日本赤十字社看護婦の救護隊の一員として現地入りし、都合39日間の救護(傷病者は5千人余)活動を行ったと記録に残っている。

    *萩原タケ女史は明治26年4月満20歳(1893年)の春、日本赤十字社の看護婦生徒募集に際し、第7回生として入学を果たした。
    明治27年の日清戦争、明治29年の三陸大津波、明治33年北清事変、明治37年の日露戦争などで看護婦活動に従事した。
    明治36年(1903年)30歳で日本赤十字社看護婦副取締となり、全看護婦を統括するとともに生徒の教育養成に当たる。
    明治37年(1904年)の日露戦争中には一時看護婦取締代理を務めている。
    明治40年から42年(1909年)にかけて2年間の欧州滞在を経験し、ICN(国際看護婦協会)名誉副会長に推薦され、ケルン・モントリオールなどの看護婦の各種国際会議で活躍した。
    大正9年(1920年)には、タケ女史は第1回フローレンス・ナイチンゲール記章(ナイチンゲール生誕100周年を記念して、1920年に第1回の記章が世界の52名に授与された)を山本ヤヲ女史、湯浅うめ女史と共に受賞する。
    昭和11年(1936年)5月27 日、享年63歳で死去。日本赤十字社は盛大な病院葬をもって永年の功績に報いた。
    タケ女史は明治43年(1910年)の日本赤十字病院看護婦監督就任から、昭和11年(1936年) 日赤病院にて死去するまで、28年間を監督として2700人あまりの看護婦の養成・指導にあたった。
    (東京都あきる野市デジタルアーカイブ;あきる野市ゆかりの人々より)

    写真は1896年(明治29年6月15日)明治三陸沖地震M8.2・津波:日本赤十字社看護婦の救護隊・・・23歳の萩原タケ女史は右端の赤丸印の方。(あきる野市五日市郷土館の展示)

  • 前述の昭和三陸地震(しょうわさんりくじしん)は、1933年(昭和8年)3月3日午前2時30分48秒に、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖約 200 km(北緯39度7.7分、東経145度7.0分)を震源として発生した地震。<br />気象庁の推定による地震の規模はM8.1。<br />死者1522名。大津波は28.7m。最大震度5(Wiki)。<br /><br />写真は1933年(昭和8年)3月3日「昭和三陸沖地震」における釜石湾の惨状:M8.1・大津波28.7 m、死者1522名。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />強烈な印象を与えた東日本大震災、もうあれから10年が経った。<br />当時旅行中だった台中にて、そして帰国後の千葉にて体験した<br />ことなどを備忘録として纏めてみた。<br /><br />今もなお、日本は地震に驚く日々がある。

    前述の昭和三陸地震(しょうわさんりくじしん)は、1933年(昭和8年)3月3日午前2時30分48秒に、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖約 200 km(北緯39度7.7分、東経145度7.0分)を震源として発生した地震。
    気象庁の推定による地震の規模はM8.1。
    死者1522名。大津波は28.7m。最大震度5(Wiki)。

    写真は1933年(昭和8年)3月3日「昭和三陸沖地震」における釜石湾の惨状:M8.1・大津波28.7 m、死者1522名。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    強烈な印象を与えた東日本大震災、もうあれから10年が経った。
    当時旅行中だった台中にて、そして帰国後の千葉にて体験した
    ことなどを備忘録として纏めてみた。

    今もなお、日本は地震に驚く日々がある。

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この旅行記へのコメント (6)

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  • cookieさん 2021/03/14 15:20:47
    凄い地震でしたよね!
    こんにちは jijidarumaさん

    台湾に いらしたのですね?
    気が 気じゃなかったのでは?


    あれから 10年早いようで、、、
    忘れてはならないと思ってます。
    あの時は 一番助けてくださったのは 台湾。個人では eva green airの故会長 張榮發さん 本当に ありがたい国 国民だと思いました。

    福島は あれから 世界でモ有名になって、 アンチ原発になってきてますし、
    いま現在も あちらこちらで 地震が あって
    他人事じゃありません。

    それに 最近 異常な天気ですよね。
    それと。
    このコロナ!
    早く 普通の生活にもどりたい物です。

    それでは また 遊びに来まーすね
    cookie



    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2021/03/14 19:51:15
    Re: 凄い地震でしたよね!
    cookieさん、
    今晩は。いつもありがとうございます。

    当初、てっきり東北の方面だけの限られたものだと思い、
    これほど大きく、福島の原子力発電所を巻き込んだ事や、
    恐ろしい大津波になっていたとは思いませんでした。

    娘に状況を聴き、余震の不安はありましたが、
    旅が始まってしまうと、生来の楽天的な私共、初めての
    台湾南部の諸都市の景観やそれぞれ自慢の料理を楽しんで
    満足したものです。帰国と共に現実に戻されましたが・・・。

    長女一家の駐在もあって、台湾好きともなりましたが、
    この大震災時、台湾から驚きの支援には感謝感激でしたね。

    大事に保存してきた台湾の新聞記事、日本の新聞記事や資料、
    こうした機会(本章)に役立つ事が出来ました。
    それはさておき、≪地震、雷、火事、親父(大風ともいうらしい)≫
    という諺は知られていますが、今では豪雨(洪水)も、コロナ禍も
    入れねばなりません。

    又お立ち寄りください。ありがとうございました。
    jijidaruma
  • M-koku1さん 2021/03/14 05:55:22
    台湾にいらしたのですか!
    jijidarumaさん

    あの時日本にいらっしゃらなかったのですね! 
    あんな怖い思いはしなくて幸いだったんじゃないでしょうか。
    皆それぞれ あの日の記憶は残っていると思います。
    計画停電だったり、電車が動かなかったりしていた最中、無事に帰国されて、お家までたどり着けたのは、奇跡です。
    お花のおかげなのかもしれませんね。

    アメリカの9.11同時多発テロも怖かったけれど、現場にいたわけではなかったから、この地震の時とは怖さのレベルが違いました。
    東京ですらひどい揺れでしたから、現地の方々の恐怖は想像もつかないレベルだったでしょう。
    未だに行方不明の方の数が二千人を超えている事実は、本当に悲しいし、お気の毒に思います。
    十年経っても何も終わってないですね!

    私はちょうど会議中で、会議室にいました。地震の激しさに驚いて、9階でしたが窓を開けました。子供の頃から地震が来たら窓を開けるように教育されて育ちましたから。あとで若い人達からその行為をおかしいと指摘されました。逃げ道確保とかが必要のない時代になっていたようです。でも万が一、ビルが倒壊とかしたら、やはり逃げ道確保は最低限しておくべきなのに、と私は考えます。
    もう古い人間なんでしょうか。

    あっという間の十年でした。
    色々考えさせられました。

    Mより

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2021/03/14 19:28:15
    Re: 台湾にいらしたのですか!
    M-koku1さん 、
    今晩は。いつもありがとうございます。

    あの日、出発前であれば、一日早い地震の発生だったら、
    私共は台北出発を止めただろうか?と自問自答してみましたが、
    結論は出ませんでしたね。

    その時、9階の窓を開けたMさん、私もいつも、揺れが来ると
    反射的に玄関を開け、あるいは居間の窓を開け、直ぐに飛び出す
    用意をします。何事も備えですよ。(ドイツでは階下の隣人の
    危急に慌てて下駄を履いてしまいましたから・・・(苦笑)

    ともあれ、こうした≪纏め≫をしてみると、私もそうですが、
    あの日の大震災は其々の体験とその記憶で、将来にわたって
    其々の心の中に生き続けることでしょう。

    「金の生る木の花」はその後咲いておりません。
    だから一層不思議な思いが残りますね。

    それではまた。
    jijidaruma

    (アメリカの9.11同時多発テロでは、大変優秀だった知人が
    亡くなっています。その日が来ると、彼を思うのです)

    M-koku1

    M-koku1さん からの返信 2021/03/15 00:09:53
    Re: 台湾にいらしたのですか!
    jijidarumaさん

    知人を亡くされたとは、言葉もありません。
    私は営業職だったので、技術者を残して、一足先に帰国。帰国した翌日の事件でした。技術者はかわいそうに帰国もできず、ご親切な取引先の方のご配慮で、しばらく現地に足止めでした。でも命には関わらなかったので、jijidarumaさんのお知り合いのような目にはあわずに済みました。

    時の運なんでしょうが、世の中残酷ですね。

    ではまた
    Mより

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2021/03/15 01:59:33
    Re: 台湾にいらしたのですか!
    M-koku1さん 、
    今晩は。再度のコメント恐縮です。

    あのテロで会社も個人もいろいろと影響があったのでしょうが、
    大きなトラブルとならなかったのは幸いでしたね。

    自然の驚異であった地震や大津波の災害とは違って、
    人為的なテロ行為(一種の宗教戦争の行き着くところ)の
    恐ろしさ、理不尽さは実にむごいものでした。
    今年の9月でもう20年、当時の知人の死を伝える記事も
    色も変わり、怒りや不条理を感じた人々の記憶も
    徐々に薄れてきています。

    ありがとうございました。
    jijidaruma

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