1990/02/15 - 1990/02/20
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itaruさん
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トルコ、シリア、ヨルダンと巡って、次に向かったのがイスラエルのエルサレム。ユダヤの都で約束の地とされた場所。イエスが十字架に架けられたところ。ムハンマドが昇天したイスラム第3の聖地。3つの一神教を育んだ地であり、宗教的的な争いが絶えないところです。1990年のこの頃、東エルサレムを含むイスラエルの占領地では「インティファーダ」というパレスチナの抵抗運動が行われていました。欧米からの多くの巡礼者が訪れ、一軒平和なエルサレムの旧市街では、アラブ人地区の商店ではお昼を過ぎると一斉に商店が店を閉めていました。インティファーダの一環だったのでしょう。
日が暮れると、10代後半から20代前半の当時の私たちと同世代の若い兵士たち(イスラエルは女性も含め、皆兵制です)がライフルを手に通りを巡回しています。アラブ系、パレスチナ人の人たちが夜遅く、通りを歩くことはほとんどありません。こんな時間、通りを歩くのは旅行者、それも旧市街の安宿に泊まっているような若いバックパッカーたち。旅先で知り合った仲間の宿へ、決まったルートを歩いて行く。その道すがらに会う兵士たちはいつも同じ顔ぶれ。自然とすれ違うたびに「ハーイ」とか、声を交わすようになる。そこにいるのは自分と変わらない人たち。でも、彼らは命令があれば、持っている銃で人々を傷つけるかもしれない。
数千年の歴史に翻弄され続けてきたエルサレムでは多くの旅仲間と出会うことができました。夜遅くまでとりとめのない話をしたのも良い思い出です。一方で占領する側とされる側、ほんのわずかですが、その現実を肌感覚で体験できたのは貴重な経験でした
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ヨルダンのアンマンからイスラエルとの〝国境〟キングフセイン橋(アレンビー橋)までのJETバスは早朝の1便のみ。少しばかり寝坊したこともあって、重いバックパックを背負いながら走る羽目に。さてさて飛び乗ったバスは約1時間ほどで国境へ運んでくれます。さてヨルダン〝出国〟に関しては、ほとんど記憶にありません。何より出入国管理が厳しいイスラエル、どんな厳重な入国審査になるのだろうか。ってことばかりが気になっていました。が、拍子抜け。特別な検査は手持ちのカメラで天井に向けて空シャッターをきることくらい。入国審査も手荷物検査も特に厳しく調べられることもなく、緊張していて損した、ってくらい。ちなみに入国スタンプは何も言わずとも、別紙に押してくれました。というか、せっかくだからパスポートにイスラエルの入国印があるのも面白いと思っていたのですが。写真は入国の際に受け取った書類だと思うのですが、ヘブライ文字ばかりで何が書かれているのか、日付以外はさっぱり分かりません
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「国境」からバスでエルサレムへ。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地。せっかくだから数多の歴史を刻んできた旧市街の息吹を感じながら滞在したい。見どころも旧市街に集まっているし。「歩き方」に載っているYHを目指して旧市街に入ったら、「YHを探しているならこっち、こっち」と呼び込みが。その勢いに押されて1泊6シェケル(約450円)で泊まることになったけど、どうやらYHではなくて私設のホステル。とはいえ、陽気なBPの若者が集う宿。とりあえず荷物を置いて街歩きに出ましょうか(写真は新市街の市場)
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旧市街を歩いて感じたのは店が開いていないこと。その時はなぜだか分からなかったのだけれども、その日の夜に他の旅行者に教えてもらった。当時はパレスチナ人の抵抗運動「インティファーダ」が盛り上がっていた頃。抵抗運動の一環として、観光客が集まるエルサレム旧市街では商店が午前中に営業を終了して、抗議の意思を示していたんだそう。もっとも、こっそり裏口から客を入れて商売をしている店も多かった。背に腹はかえられないということ
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それはともかく、エルサレムの城壁沿いを軽く歩き
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城壁に登って旧市街の周囲や
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「嘆きの壁」や「岩のドーム」を眺めてから
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ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」へ
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かつてユダヤの神殿の跡地「嘆きの壁」。70年、後のローマ皇帝ティトスに攻められて破壊され、残っているのはこの壁だけ
嘆きの壁 史跡・遺跡
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壁に向かって熱心に祈るユダヤの人々。男性は壁に近づく際には頭を隠さないといけません。帽子を持っていなくても、入口でキッパーという小さな帽子を貸してくれます。が、信者たちの熱量に圧倒されたのか、この時は壁に近づくのを遠慮してしまい、遠目に記念の1枚を撮っただけ
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迷路のような旧市街。本当なら土産物屋などで賑やかなはずなんですが、商店は一切開いていないからちょっと怖い感じも。で、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かった道「ビア・ドロローサ」を辿って向かうのは
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ゴルゴダの丘の上に建てられたといわれる聖墳墓教会。キリスト教の聖地なんだから、もっと立派な教会を想像していたんだけど外から見る分には、何だかくたびれた感じで意外でした。教会に入ると、東洋系の司祭から「どこから来たの、韓国?」と声をかけられた。「日本から」と答えると少し残念そうな表情を浮かべるも、少しばかり話をした。当時、海外にでる東アジア系って圧倒的に日本人が多かったから、「韓国」って聞かれたのはちょっと不思議な気もした。まあ、韓国はキリスト教徒の比率が日本より高いから、それでかな。
ちなみに聖墳墓教会はカトリックをはじめ、複数の宗派の共同管理になっています。とはいえ、カトリック以外は東方教会、コプトなどの東アジアではマイナーな宗派。確認にはしていないけれど、話しかけた司祭はカトリックだと思います聖墳墓教会 寺院・教会
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ゴルゴダの丘に建てられたという聖墳墓教会。入口から階段を上ったところにある祭壇がまさにそのゴルゴダの丘とのこと。ここにイエスと2人の囚人が十字架に架けられたと伝わっています。でも、旧市街って、その昔のエルサレムの中心地ですよね。街の中心に刑場なんてつくったのかな
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そんな疑問が頭をよぎったりもするのですが、教会内には観光客とともに巡礼にきた熱心な信者が詰めかけています。その人たちの熱さに圧倒されるところもあったりします。イエスの墓と伝えられる「聖堂」がまさにそう。異教徒でも見学することもできますが、訪れる信者の真摯な態度に自然と背筋が伸びる感じです。まあ「墓」といっても、イエスは3日後に復活したわけですから、亡骸があるわけではないです
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聖墳墓教会ではエジプトからやってきた日本人BPの女性にも遭遇。体調が戻ってきたこともあり、「やっぱりエジプトに行こう」と思っていただけに貴重な現地の情報を得ることができました。
さて、この日の夜はホステルで新しくやってきた私たちの「歓迎会」? 主に欧米のBPが集まっているホステルは20代の旅行者でホントに賑やか。「日本の歌を聴かせて」とのリクエストに友人がギターを片手に「関白宣言」を披露。これにホステルのマネジャー?は「言葉は分からないけれど、エレジーだね。分かるよ」。え~と、関白宣言がエレジー? う~ん、まあいいか。さらに2人で東京音頭を踊ったら、マネジャーがパレスチナの伝統的なダンスを披露。何とも楽しい夜でした -
イスラエル2日目は恐怖の安息日となる金曜日。この日は夕方になると一店が閉まり、一切の公共交通機関が動かなくなります。なので、あまり大きな動きはできません。ということで、午前中は店が閉まる前の活気のある旧市街を歩き、午後は新市街に繰り出して店が閉まる時間になったら戻ってこよう
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さすがに店が開いていると旧市街も活気がある。狭い路地には多くの観光客が集まり、土産物屋をのぞいている。特に買うものはないけれど、こんな通りをぷらぷら歩くのも楽しい
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もちろん地元の人の食卓に直結する肉屋さんも営業中。日本にはこんな直接的な感じで肉を売ることなんてないので、ちょっと衝撃的
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旧市街を囲む城壁の中でも立派なダマスカス門。大勢の人で賑わうこのゲート。さぞかし古いものだろうと思いきや、今の城壁はオスマントルコの時代につくられたもの。考えてみれば、十字軍やらで争奪戦が繰り広げられた街なんで、イエスの時代の城壁が残っているわけない。それでも、土台の部分には2000年前のものもあるという
ダマスカス門 建造物
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この日は日本人BP4人で街をぶらぶら。左から2人目のSさん、現地の人の家を訪ねたりしながらビザを延長してシリアを1ヶ月旅しています。スマホ、携帯が普及していなかったこの頃、シリアから日本に国際電話をするのも一苦労。ついつい電話を入れ忘れ、心配した両親がシリアの日本大使館に捜索依頼?という事態に発展していたりしました。その話、シリア滞在中に聞いていたんですが、まさか当の本人に会うとはびっくりでした
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さてお昼で旧市街の商店が閉まったので午後から皆で新市街へ繰り出します。新市街は混沌とした旧市街とは別世界。完全に欧州の雰囲気漂う町並みに自分はどこにいるんだっけ、てな気分になったりしたものです。金曜日なので新市街も夕方には店が閉まってしまうので、お昼を食べたら自炊用の食材を購入しました
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さて翌17日の土曜日は安息日。この日は公共交通機関も全面的に止まっています。いい天気ですが、動ける場所は限られています
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旧市街を歩いているとイエスがゴルゴダの丘へ歩いた道、ヴィア・ドロローサでフランスの巡礼の人たちと遭遇。彼らは一般の観光客とは雰囲気が違い、聖書に書かれているイエスの足跡に従って道沿いに刻まれているレリーフを真摯なまなざしで見つめている。至る所で聖地というのを感じます。左の写真は第3留「イエスが最初に倒れる」右が第4留「母マリアに会う」です
ヴィア ドロローサ 散歩・街歩き
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ともかく、4人で旧市街をぷらぷら
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ダマスカス門と南のシオン門を結んでいたカルドを観ながら
カルド 史跡・遺跡
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最後の晩餐の部屋へ。といっても、殺風景でがらんとした空間があるだけ。原始キリスト教の集会所あとを12世紀に十字軍が再建し、その後はモスクにも使われていたらしい。いや、それじゃあイエスと弟子たちの「最後の晩餐」の部屋とはいえないんじゃ、なんてことをいったら野暮ですね
最後の晩餐の部屋 史跡・遺跡
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信仰に科学的な裏付けとかいらないか。当たり前ですが、レオナルド・ダビンチをはじめとする名画の舞台という趣はありませんが、みんなで記念の1枚を
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で、カフェでお茶してひと息ついたら
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男性陣3人で城壁に登って
エルサレムの旧市街とその城壁群 史跡・遺跡
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城壁から東エルサレムの姿を眺め
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Fさんと記念の1枚を撮ったら
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神殿の丘へ。今ではかなり入場には規制がかかっているようですが、当時は今と比べてかなり自由に訪問することができました。岩のドーム、アル・アクサ・モスク、イスラム考古学博物館の3カ所で3シェケル(学割)でした
神殿の丘 城・宮殿
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メッカ、メディナに次ぐ、イスラム教第3の聖地でもあるエルサレムの岩のドーム。691~692年にかけて建設されたモスクは改築を重ねて現在の姿に。金色に輝く屋根が印象的です
岩のドーム 寺院・教会
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現在はムスリムしか入場できないようですが、当時は異教徒でも自由に内部を見学することができました。ただ、カメラの持ち込みは禁止です。この時、ほかの2人は確認されなかったのに私だけカメラをチェックされました。挙動が怪しかった?
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でも、ある意味、世の中に宗教的な寛容さがあったのかもしれません。ユダヤとパレスチナという”民族的”な対立はあるにしても、宗教的な対立は先鋭化していなかった気がします。それが宗教的な対立も深まっているようで
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神殿の丘のもう一つの重要なモスク、アル・アクサ-・モスク。もともとビザンチンの教会だったものをモスクにつくりかえたもので、修復を繰り返して今の形になったそうです。こちらも当時は中に入れました。ともに当時の「歩き方 フロンティア」には内部の写真が載っています
アル アクサー モスク 寺院・教会
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神殿の丘の次は城壁を出てゲッセマネへ。聖書によると、ここでイエスと弟子たちが最後の晩餐のあとに祈りを捧げ、その後にイエスがイスカリオテのユダに裏切られ捕えられたという場所です。分かりにくいですが、木々の間に見えるタマネギ型のドームはマグダラのマリアの教会になります
ゲッセマネの園 文化・芸術・歴史
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で、ゲッセマネの園の隣にある万国民の教会に寄ってから
万国民の教会 寺院・教会
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イエスがエルサレムの将来を案じて泣いた、という聖書の記述に基づいて建てられた主の泣かれた教会へ。祭壇の窓から旧市街を観ると、祭壇の十字架と岩のドームの金色のドームが重なって見えるのですが、うまい具合には撮れませんでした
主の泣かれた教会 寺院・教会
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そして旧市街を見下ろすオリーブ山の見晴台へ
オリーブ山 山・渓谷
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ここでも記念の1枚を撮って
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旧市街へ戻ります。しかし店が閉まり閑散とした旧市街というのもねえ
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で、日が暮れた後にもう一度オリーブ山に登って夜景を観賞。その後は宿に戻ってとりとめなく話したっけ。2人が4年生だったこともあって、就職の話なんても聞いたりして
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翌18日、ホントは死海に行きたかったんですが、この日は朝は晴れていると思ったら雨模様に。風も強くて体感気温はかなり低い。死海方面の天気は違うのかもしれないけど、今のようにスマホで雨雲とか調べることができない。死海行きは諦め、午後からイエスの生誕の地、ベツレヘムに行くこととしました
降誕教会 (聖誕教会) / イエスの生誕地: ベツレヘムの聖誕教会と巡礼の道 寺院・教会
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ベツレヘムへ行くにはバスを使います。当時は半官半民のエゲットバスのほか、主にパレスチナ人が使う”アラブバス”の2種類。利用したのはアラブバスでしたが、これがなかなかの年代物。ちょっとした坂でもギアをローに入れてフルスロットル。エンジンが悲鳴を上げていたのを覚えています。料金はわずか0.5シェケルで、なぜか歩き方記載の料金の半額でした。その一方で、占領地である西岸のインフラの貧弱さも感じたものです。さて、カトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教会の3宗派が管理するこの聖地。ギリシャ正教の祭壇を見学した後に向かったのは
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階段を降りてイエスが誕生した場所へ。泊まる場所がなく、馬小屋で一夜を過ごしたマリアとヨセフ。この馬小屋で生まれたイエスは飼い葉桶に寝かされる。「ルカの福音書」の一説に描かれた降誕の舞台がここになります
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「マタイの福音書」では誕生後、東方三博士が聖母子を訪ねる場面があり、よく宗教画で描かれています。なんか不思議な気がします
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実はこの日、聖誕教会で結婚式が行われていました。ある意味、ものすごく格式の高い教会での結婚式ですよね。この時のカップル、今も幸せですよね。別れたりなんか、してないよね。そういえば、この時にお菓子を売っていた子どもから一つ買ったんです。そしたら、ほかの子どもたちに囲まれてしまって。いろいろ考えさせられた
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翌19日はまずまずの天気。ということで死海へ。バスで1時間20分ほどで死海へ
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死海での湖水浴はひとまず後にして
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ユダヤの歴史では忘れられないマサダの要塞を訪れることにします
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ケーブルカーを使うという手段もあるのですが
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学生BPは自分の足を使って登っていくとします
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岩山の周囲に広がる
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荒涼とした大地
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真冬のエルサレムではコートを着ていましたが
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マサダではTシャツ一枚で十分です。いやあ、暑くてコートなんて着てられません
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ここマサダは紀元前100年くらいに築かれた要塞で
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ヘロデ王の時代には冬の宮殿でもあった場所
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ただ、ここが有名なのはローマの支配に抵抗したユダヤ戦争の際、エルサレム陥落後も一部の人たちが抵抗を続けた地だから
マサダ国立公園 国立公園
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70年のエルサレム陥落から73年5月まで、女子どもを含めて967人がマサダ要塞に籠城し抵抗を続け
マサダ 史跡・遺跡
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ローマ軍が突入した際には女性2人、子ども5人を除く全員が自ら命を絶ったという悲しい歴史があります
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wikiによると、イスラエル国防軍将校団の入隊宣誓式はマサダで行われ、士官学校卒業生は山頂で「マサダは二度と陥落せず」と唱和するそうです。
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発掘され、一部は修復・復元されている場所もありますが、今は静寂があるだけ
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ってことで、最後は死海で浮遊体験。2月とはいえ、Tシャツ1枚で大丈夫なので泳ぐ分には寒くない。のですが、夕方になってきたことで風が冷たい……。湖から上がって30%を越える塩水をシャワーで洗い流そうとしたけれど、風が強い中で水シャワーはちょいときつい。軽く流すだけにとどめて、宿に戻って改めてシャワーを浴びよう。と思ったんですが、安宿はホットシャワーの利用可能時間は短い。結局、ぬるま湯&水シャワーで終わってしまいました
死海 (イスラエル) ビーチ
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翌20日はSさんがエジプト・カイロに向かう日。できれば私たちも一緒にエジプトに行きたかったのですが、旅行社に頼んでいたエジプトビザが予想外に時間がかかってしまい、手元にパスポートがない状態。この日にビザが手に入るということなので、朝早くにSさんを見送ったら、旅行社に電話で確認の上、ピックアップ。さて翌21日のカイロ行きのバスのチケットを購入したら、友人と相談の上でこの日は自由行動とすることに
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友人はバスに乗ってテルアビブへ。私は東エルサレムを歩いてみることにする
ケデロンの谷 史跡・遺跡
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古くから貴重な水源とされてきたギホンの泉に立ち寄ったときには、子どもたちが寄ってきて「give me money 1 IS」「give me pen」のオンパレード。それに遠目だったけれど、パレスチナの男性をイスラエルの警官?軍人?が手荒に尋問している場面にも遭遇。何だかやりきれない気分になったのも覚えています。
そして半年後、イラクがクウェートに侵攻。湾岸戦争につながる大混乱の中で、イラクのフセイン大統領が「イスラエルがエルサレムから徹底するなら、自分たちもクウェートから撤退する」とのむちゃぶり。真に受けたPLOがイラク支持を表明する中で、一部の人々の行動が過激化。エルサレムで20人のパレスチナ系の人が射殺される事件が発生、その事件を扱った「Newsweek」の表紙を見たときは、「なぜこんなことが……」と衝撃を受けたのを覚えています -
概要にも書きましたが、エルサレムの旧市街を警備しているのは自分たちと同世代の若者たち。泊まっている宿のマネジャーほか、従業員はパレスチナの若者たち。彼らは気のいい奴ら、でも対立している。その状態は月日が経った今でも変わっていないのが悲しい
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ケデロンの谷を散策した後は新市街のイスラエル博物館へ。目的はもちろん「死海文書館」。死海近くのクムランの廃墟で羊飼いの少年によって発見された死海文書はアニメの「エヴァンゲリオン」でも話題になったっけ。もちろん、アニメのような突飛なものではありませんが、何とも興味深い展示。もう少し、聖書の知識があればより面白かったのかも。ってなことで、イスラエルの旅を終え、今度はバスでカイロを目指します
イスラエル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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