1990/02/12 - 1990/02/14
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itaruさん
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スティーブン・スピルバーグ監督の「インディ・ジョーンズ」シリーズ第3作の「最後の聖戦」の舞台となったヨルダンのペトラ。映画の公開が1989年でヨルダンを旅したのが1990年ですから、とてもタイムリーでした。ヨルダン一の観光地とはいっても、まだまだヨルダンを訪れる観光客が少なかったこの頃、遺跡の入場料も当時は非常にリーズナブルでした。映画の気分に浸りながらの雄大な古の遺産を見て歩くのは楽しいもの。
また、最初の中東の国で衛生面に不安いっぱいだったシリアを抜けたことで気持ちが楽になったのか、苦しんでいた腹痛も治まり旅を楽しむ余裕もかなり回復してきました。少ないとはいっても、旅行者の数もシリアに比べれば段違いに多いし、街中に西洋的な要素もあったのが気持ちの面でも良かったのでしょう。ともあれ、この旅3カ国目、ヨルダン巡りのスタートです
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩 飛行機
- 航空会社
- ロイヤルヨルダン航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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シリアのダマスカスからヨルダンのアンマンまでは180kmほど。バスなら4時間半、乗り合いタクシーなら3時間ほどの距離なんですが、当時は陸路の国境越えがなかなかリスキーでした。「地球の歩き方 フロンティア」には、この国境でヨルダンの入国拒否にあった体験談が載っていて、通過できるかは係官次第だけれども拒否される可能性が高い。中東で悪名を轟かせた日本赤軍の影響?みたいなことも書かれていました。中東で赤軍が事件を起こしたのは1970年代前半、「日本赤軍なんて、ずいぶん昔の話なのに」などと、思ったりしたものですが、リスクを冒して入国拒否にあっては目も当てられない。65ドル払って、ロイヤルヨルダンの航空券を購入しました。さて、当日は空港まで大使館の車で送ってもらいました。何から何まで助けていただき感謝しか有りません。空港で受け取った搭乗券。座席がシールというのが時代を感じさせます。今では当たり前のノンスモーキングのフライトもこの頃は珍しいものでした
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ヨルダンのビザは日本で取得。いろいろ面倒だったシリアと違い、必要書類などを確かめに大使館に赴いたら、日本人の職員に申請用紙を渡されて簡単に取れたのでびっくりしたのを覚えています。ビザ代4500円は学生にとっては、いいお値段でしたが。で、このビザのページ、ヨルダンの入国印しか押されていません。理由は当時は国交がなかったイスラエルに向かったからです
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ヨルダンの入国は簡単で拍子抜け。空港からアンマン市内に向かうバスはボロボロの年季の入ったものでしたが、街を走る車はシリアに比べて新しく、街の雰囲気もそこそこ近代的な都会。ここが中東の街、想像とは違う街の雰囲気にびっくりしたのを覚えています。ただ、この頃は街中の写真って撮ってないんですよね。撮っておけば良かったとは思うんですが。(写真はジェラッシュの遺跡)
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何はともあれ、さっさと目星をつけていた宿にチェックインしたら、イスラエルに向かうための手続きをする必要があります。といって、国交がない時代にイスラエルの大使館や領事館なんてものはありません。そうはいっても、建前とは違う現実というものがあって。ヨルダンの内務省に赴けばヨルダン川西岸に向かう許可書「West Bank Permission」を簡単に発行してくれます
ジェラシュ遺跡 史跡・遺跡
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内務省で手続きをしていたら、1人の日本人旅行者受け取りにやってきた。ダマスカスでカシオン山や豆売りの教授宅に一緒にお邪魔したNさん。彼は午後からジェラッシュに向かうという。ここで再開したのも何かの縁だし、3人で古代ローマの遺跡に向かうということで意見は一致
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アンマンから北へ50kmのジェラッシュへはバスで1時間弱の距離。広大な遺跡だけれども荒廃が進んでいたパルミラと比べて保存、修復は明らか。列柱回廊など古代ローマらしい、はっきりした特徴を残した遺跡に自然とテンションが上がってしまう
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ニンファエウムはギリシア神話に出てくる精霊、ニンフに捧げられた泉の神殿。その前には水盤が置かれているのですが……。すいません、若気の至りというか、座っての記念撮影はまずいです
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ほぼ完璧な形で残っていた南劇場は収容人員3000人。古代ローマの中核都市の一つとして栄えたジェラッシュ。劇場などは2世紀頃に建てられたものが多いとか。2000年たっても十分、今でも使えます
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劇場の上部から外を見渡せば、イオニア式の列柱に囲まれた卵形のフォーラム(広場)が見えてくる。いやはや、古代の遺跡初心者だったので「おおっ」って圧倒されてしまう。こんな景色日本では観られないもの
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今は道なのか分かりませんが、当時は遺跡上部もかなり自由に歩き回ることができました。観光客が少ない分、地元の人を含めてみな自由に動き回る
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なので、こんなところに座って記念の一枚を撮ったりもしました。多分、今はこの辺りとか立ち入り禁止になっているのでは
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コリント式の柱が特徴的なのは「月の女神」アルテミスの神殿。そういえば、ジェラッシュには中国語を話す団体がいたっけ。この頃の中国は海外に旅するような経済状態ではなかったので、台湾か香港かな。それにしても、中東のこんな場所で中国語を耳にするとは思わなかった
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翌13日はヨルダン最大の観光地ペトラへJETバスで向かいます。早朝発の1往復というのは当時も今も変わりません。料金は片道3ディナール(約600円)でした
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荒涼とした大地を進んでペトラまでは途中1回のトイレ休憩を挟んで3時間強
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今では世界一高い観光地とさえ言われるペトラですが、1990年代初めは脚光を浴び始めたばかり。チケットに書かれている1000フィルスは1ディナールのこと。わずか200円で世界的な遺産を見学できたのです
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遊牧民のナパテア人による中継都市として古代より栄えたペトラ。なんてことは、旅を計画するまで一切知りませでした。ある程度、アラブ地域に興味はあったものの、エジプトのピラミッドのようなメジャーな遺跡ではないし、ヨルダンって何があるんだっけ、に近かったんです。そうしたら、旅に出る前年に公開された映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」の舞台になった場所っていうじゃないですか。俄然興味がわいてきたわけです
ペトラ 史跡・遺跡
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ペトラのゲートから15分ほど歩くと、大きな岩壁が目の前に。その岩壁を切り裂いたように幅の狭い道「シーク」が続いている
シーク (ぺトラ) 山・渓谷
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この頃は道も舗装などはされてはおらず、荒々しい光景にテンションが上がります
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場所によっては高さ60~100mにも達するという岩の間を歩いて行く
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映画ではインディ役のハリソン・フォード、父のシニア役のショーン・コネリーが馬に乗ってシークを駆け抜けていきましたが、今では観光客たちが馬に乗ったり、らくだに乗ったり。確か、この頃は馬車はなかったと思います
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岩に囲まれた細い道の先に古代の大商業都市があったなんて
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20分くらい歩いた先に待っているのが
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イチオシ
エルハズネ。映画では聖杯が隠されている場所で奥には様々な仕掛けがしてあるのですが、もちろん、実際の遺跡には仕掛けなど有りません。中にはがらんとした空間が広がっているだけ。宝物殿とはいわれていますが、何に使われていたのかは定かではなく、王家の墓ではなかったかといわれているそうです
エル ハズネ 史跡・遺跡
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それにしても、近代的な工具など何もなかった2000年前。以前、CSの海外ドキュメンタリーで特集をやっていましたが、崖を削り取ってこれだけのものを作り出したナパテアの人々の技術の高さには驚くばかりです
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記念の1枚を撮ってもらったんですが、中途半端になってしまいました(笑)
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ゴツゴツした岩肌、乾いた大地。こんなところに古代の商業都市があったなんて驚きです。この頃はアメリカに足を踏み入れたことがなかったことから、何となくアメリカ西部のグランドキャニオンも、こんな風景があるのかな、なんて思ったりもしました。ラスベガスという、砂漠の摩天楼もあることだし
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エルハズネの美しさに圧倒されましたが、広い範囲の遺跡が散らばっているペトラ。見どころはたくさんあります。エルハズネから街の中心部だった場所に向かう道沿いには岩を削り出した墳墓が並んでいます
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まだまだマイナーな観光地だったこともあり、人でごった返すなんてことはなし。そうは言っても、パルミラやジェラッシュに比べれば相当な人の数。日本人だったのか、中国系だったのかは分からないけれど、2組の東アジア系のツアー客はいたし、欧米ではドイツの観光客が多かったのを覚えている。まあ、個人で旅しているアジア人はまず、日本人しかいませんでしたが
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硬い岩を刳り抜いて、これだけ多くの建造物をつくりあげるのは高度な技術と多くの労働力が欠かせない。紀元前から繁栄を続けていたペトラは歴史の教科書で学んだ、ローマの将軍ポンペイウスとの和平やユダヤのヘロデ王の侵略などを経験しながら、この地方の中心都市として機能し続けていたからこそ可能だったのでしょう
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そんな古代の文明都市も2世紀初頭にローマに併合されてからは帝国の1都市として、ローマ風の文化も受け入れた。写真は撮っていませんが、いかにもローマという感じの劇場や浴場などもペトラには残っています
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その後363年に大地震が起こって多くの建物が倒壊し、命綱の水路網も破壊されると街は衰退の一途を辿ったそうで、8世紀に再び大きな地震に見舞われると、ペトラは街としての機能を失い、人々はいなくなりました。ヨーロッパ人にペトラが「再発見」されたのは1812年のこと。その分、多くの遺跡が昔の姿をとどめているのかもしれません。ところどころ露出しているカラフルな縞模様の岩も印象的でした
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こちらは確かアーンの墓。2000年前の姿を想像してみたくなります
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遺跡とは反対方向に目を向けるとこんな風景が
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ペトラの街を背景に記念の1枚。やや右に見える塔の辺りが確か列柱通り
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ホントは修道院といわれるエドディルまで行きたかったのですが、ゆっくり観ていたら時間がなくなってしまった。当時は帰りのバスが15時発と比較的早め。最初にエドディルまで行ってから戻ってくれば良かったのですが、後悔先に立たずな訳で
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ペトラを往復するJETバスに乗っていた日本人は私たちの他に3人もいた。そのうちの1人は学生で、一緒に遺跡を歩き回ったのですが、もう1人の社会人の人とも話をするうちに夕食を食べようという話になった。その人はNHKのカイロ支局の駐在員で前年の8月に赴任したのだという。日本とはまるで文化の違うアラブ圏、長期間の滞在は相当にストレスも貯まるそうで、私たちを食事に誘ったのは日本語で気兼ねなくしゃべりたかったのかもしれない。おかげで高級そうなレストランでの食事をおごってもらいました。ここなら大丈夫だろうと生野菜も食べたけれど、「注意はした方がいいよ」とのアドバイス。でも、シリアではあれほどお腹の調子を崩したのに、ヨルダン入り後は基本的に快調そのもの。やはり初のアラブで緊張しすぎていたのが悪かったのでしょう。あの頃は繊細?でした。食事後は高台に登ってアンマンの夜景を堪能しました
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ヨルダン3日目、この日はイスラエルに向かうためのウエストバンク・パーミッション受け取りに内務省へ。ただ受け取るだけのはずが、係官から「いつ戻ってくるんだ」と問いかけ。間髪入れず、友人が「もう戻ってこない」との答え。その時、係官の動きが止まったように見えた。本音はともかく、敵国のイスラエルが占領しているヨルダン川西岸から戻ってこないって。その時、背筋に冷たいものが……。でもそれは一瞬のこと。呆れたのか、よくあることだったのか、何事もなかったように係官は許可書を渡してくれました。これでイスラエルに行ける。早速翌日の「国境」へ向かうバスのチケットを購入。その後はアンマン市内を散策。まずはローマ劇場へ
ローマ劇場 史跡・遺跡
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きれいに修復されたローマ劇場は収容人員6000人。この写真、実はネガの端っこに写っていたもの。古い写真のネガのデジタル化を依頼したときにデータとしてもらいました。黄色く変色した部分がありますが、これは保存状態が良くなかったためにネガにカビが繁殖したためです
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この日はシリアからヨルダンへ、一人旅を続けていたIさんと3人で街歩き。彼女はシリアを2週間も旅したらしく、初の中東の旅に心が折れかけていた私には「強者」に見えました。彼女はシリアから陸路で何の問題もなく国境を越えたそうで「綺麗な格好をしていれば大丈夫」
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ローマ劇場を見学したら隣接する民族博物館やアルフセインモスク、ゴールドスークなどを見て回ったのですが、この辺りの写真はなし
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イスタンブールに1週間も沈没していたものの、シリアからヨルダンにかけては、それぞれ実質4日、3日と駆け足の旅となりました。今思えば、もう少しゆっくりといろいろな場所を訪れておけば良かったと思うのですが、最初の中東の旅で当時は気持ちに余裕がありませんでした。まだ、この時点ではイスラエルからエジプトには向かわず、イスラエルから中東を脱出しようと思っていたわけですから。でも、旅の中身は無茶苦茶濃くて、振り返ってみても本当に印象深い旅でした。そして、この先のイスラエル、エジプトはさらに記憶に残るものとなるのでした
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