2020/02/01 - 2020/02/01
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ドクターキムルさん
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源頼朝(正治元年(1199年)没)墓の東隣のやや低い平地に北条義時(元仁元年(1224年)没)法華堂跡がある。しかし、北条義時法華堂は8.4m四方の広さとされ、その横にある大江広元墓参道の石鳥居までの後背地は北条義時法華堂跡としては広過ぎる。この後背地までを含めると、元々は墓石が建つ場所にあったとされる源頼朝法華堂の何倍もの広さになってしまうからだ。
岸本覚「鎌倉薩長藩祖廟と明治維新」(吉川弘文館 田中彰『幕末維新の社会と思想』所収1999年11月)によると、薩摩藩では寛永12年(1635年)から墓所修復を行っており、慶安元年(1648年)の源頼朝(白幡大明神)450回忌や延宝4年(1676年)の島津忠久450回忌には藩主あるいは名代が参拝・代参していた。島津家では家祖・忠久が頼朝の庶子であることを盛んに言い始めた時期に当たろうか。そして、安永8年(1779年)には薩摩藩主の島津重豪(しげひで)が頼朝墓と忠久墓を建てている。文化14年(1817年)に萩藩士の村田(のちの清風)が大江広元墓所と毛利季光墓所を調査しに来たときに、忠久墓所の根拠は「相承院之伝説而巳」と指摘し、広元墓所の伝承も相承院が提供したものである。それらが、どうやら古代の横穴墓であったということのようだ。江戸時代になると、伝承された義時墓もそうである。しかし、広元(嘉禄元年(1225年)没)、忠久(嘉禄3年(1227年)没)の墓を建立するのは500年余り後のことである。おそらくは、この頼朝法華堂跡の東側にこうした人たちの墓が営まれたという伝承があったことのようだ。
北条義時(元仁元年(1224年)没)が法華堂に埋葬され、源実朝(建保7年(1219年)没)や北条政子(嘉禄元年(1225年)没)が法華堂に埋葬されていたこの頃は、広元も法華堂に埋葬されたはずだ。あるいは、忠久も法華堂に埋葬されていても不思議ではないだろう。
江戸時代に道営された忠久墓、その手前に広元墓が道営されて東西に並んでいるが、忠久法華堂の手前に広元法華堂、その手前に義時法華堂が(南北に、建てられた順に)並んでいたとしても不思議ではない。その後、その山腹にこれら4棟の法華堂が建つ大蔵山が法華堂山と呼ばれるようになった可能性はないのか?
(表紙写真は北条義時法華堂跡の後背地)
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