2020/01/03 - 2020/01/04
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☆☆☆ラオス最北部の観光都市ポンサーリーに到着した私は、この街に六泊することにしていた。到着の翌日と翌々日は、街をぶらぶらしてのんびり過ごした。そして、いよいよ滞在四日目に人生で二度目となるトレッキング(日帰り)に参加し、アカ族の村を目指した。☆☆☆
※表紙の写真は、私がポンサーリーへ行きたいと考えるきっかけとなったラオスの観光ポスターの一部。2019年8月下旬、ラオス南部のパークセー空港で目にしたものである。
タイ北部からラオス北部に入り、念願のポンサーリーを目指すことにした。
途中のルアンナムター、ウドムサイを訪れるのは、これが二度目である。チェンラーイに至っては、三度目の正直である。
恋も二度目なら少しは上手に愛のメッセージ伝えたい
に倣うなら、
旅も二度目なら少しは上手に街のいいところ見つけたい
なんちて。
(2020.01.07暫定版)
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☆☆☆客室のシャワー。私がラオス北部で泊まったゲストハウス等ではこれが一般的。電気式なので湯量が少ない。☆☆☆
【01月03日(金)、ポンサーリー3日目】
05時30分、アラームより前に目が覚めた。昨夜も割と良く寝られた。変な夢を立て続けに見ていた。
ベッドでうだうだした後、07時00分からシャワーを浴びる。 -
09時30分に外出した。
市場へ向かう。昨日のおねいさんの店でカオソーイを食べる。辛味調味料を抑え気味にしたが、今日も美味しかった。 -
☆☆☆ホテル前から出発。白いものが見えているのがプーファーの山頂。☆☆☆
四日目に参加したツアーのガイドMr.アルイ曰く、ポンサーリーの観光スポットは、プーファーと400年茶園の二箇所しかない。欧米人はトレッキングのためにこの街に来て、トレッキングが終わると一、二泊して(もしくは宿泊せずに)すぐに帰る、とのことである。
10時10分、宿泊しているViphaphone Hotelの前からプーファーPhou Phaの山頂を目指すことにした。 -
最初はずっと舗装された車道を歩き(上の写真)、プーファーへ至る道の登り口を目指す。
日本のガイドブックは、途中までバイクや自転車で行くことを勧めている。しかし、Google Mapで確認すると大した距離ではない。 -
プーファーへの登り口。バイク、自動車も通行できる。歩いている人には出会わなかった。
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途中から階段の旧道を使ったが、これがきつかった。
ほぼ直登で頂上の直下まで登った。車道は大きく迂回していて、旧道とは一度も交差しない。 -
頂上直下の平坦な場所に出た。この奥に頂上へ至る急な階段がある。
車両は左の迂回ルートで頂上まで行ける。 -
分かりやすい案内板。
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頂上手前のコンクリート製の階段。歩く人がほぼいないのだろう、手入れがされていない。
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10時52分山頂に到着。Viphaphone Hotelの前から42分で来られた。
観光パンフレットには標高1,625メートルと記されている。
山頂にはラオス人が20人くらいいた。全員、車かバイクで来たのであろう。
彼らは、一通り記念撮影などをすると皆バイクや車で帰って行く。 -
山頂に立つ仏塔。麓から白く見えていたものがこれである。
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ラオス人もタイ人と同じで山登りみたいなしんどいこと、汗をかくことは嫌いみたいだ。
余談になるが、昭和の時代に日本で学校教育を受け、また戦前生まれの両親からも厳しい躾を受けた私は、努力することの尊さや、経済的に恵まれなくても知恵と工夫で困難を乗り越えることの大切さを教えられて育った。
そんな私が、今の東南アジア諸国の若い世代や、ひいては日本の若い世代を見ていると、何やら心配になる。彼らからすれば、余計なお世話かもしれないが。
もう一つ、かなり以前から気になっていることがある。ゲームの影響だと思うが、いつの頃からか「勇気や元気(パワー)を他人から貰う」と言う言い方が広がって来た。
しかし、断じて勇気や元気は他人から貰うものではない。自らを奮い立たせ、自らのうちに湧き起こすべきものである。
前者の他力本願な言い方は、今の日本の比較的若い世代の少なからぬ者たちが抱いている「一生懸命努力すること、目標のために汗を流すことは、格好悪い、ダサい」とする価値観と重なって見えて仕方ないのである。 -
頂上から眺めた絶景。ポンサーリーの街が一望の下に。
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右手奥に大きな雲海がある。ポンサーリーが雲の上の街と言われる所以がよく分かる。
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下りは無理をせず車道をゆっくり歩いた。
ホテルの前に戻って来たときは、出発からまだ2時間経っていなかった。 -
手持ちのラオス通貨が心許なくなっていたので、銀行で両替をすることにした。Google Mapで検索しても、民間の両替屋は見当たらない。レートが悪いのは承知の上である。
プーファーから降りる途中にある大手のBCELの支店を見過ごしてしまい、市場の先まで別の銀行を探しに下りるも見当たらず、結局ホテルに一番近いAPB(農業振興銀行)の支店で両替した。
ルアンナムターの両替屋のレートよりもさらに悪かった。100ドルだけにしておいた。
12時30分にホテルに戻った。ずっと歩いていたので、けっこう疲れていた。 -
☆☆☆ホテル屋上からの眺め。南側。☆☆☆
17時過ぎに外出するとき、フロントにオーストラリア人の女性スタッフが二人ともいた。(彼女たちが不在のときも少なくない。)
ルアンパバーン行きバスのことを確認した。バスターミナルから08:00発、予約不要、ホテルからバスターミナルまでの迎えの車を頼むと30,000Kとのこと。
ついでに400年茶園へのタクシー・チャーターの件についても聞いてみた。
ホテルで依頼出来るのはドライバーのみ。ガイドをつけるならAmazing Lao travelに依頼しなければならない。
こちらは保留しておいた。ガイドは不要なようにも思えるし、私としてはあの会社に頼むのは気が進まない。 -
夕食へ出かける。昨日入った中華の店を覗くと、かなり混沌としていたのでパスする。
坂を下りて池の辺りにあるレストランの一軒The Som Viewという店に入る。 -
奥のケースの中に冷えたビアラオがある。メニューには10,000Kとある。
最初に出てきた若い女性スタッフには英語がまったく通じない。指差しでビアラオを注文した。料理も奥の写真パネルを見て指差しで注文した。 -
牛肉を香味野菜とともに炒めた料理。牛肉が固くて美味しくない。東南アジアあるある。
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☆☆☆店からの眺めは良いのだが。☆☆☆
この店は始終大音量で音楽を流している上、店内がかなり暗い。落ち着いて食事を楽しめる店ではなかった。 -
二品目は海老の入ったチャーハンを注文。味付けがくどい。
昨日買い物をした店で缶ビール二本、紅茶、クッキー、明日の朝ごはんにするマフィンを買って戻った。
【01月03日(金)、了】 -
☆☆☆ホテルの屋上から見たポンサーリーの街並み。☆☆☆
【01月04日(土)、ポンサーリー4日目】
午前05時00分のアラームで起床。すぐにシャワーを浴びる。
昨日買っておいたマフィンを食べて腹ごしらえをする。
出かける支度をして07時20分フロントへ。ランドリーを預けていると、ツーリズムオフィスの女性職員さん(広瀬香美に似ている)が登場した。
ここを発つ西洋人カップルと一緒にピックアップの車でバス・ターミナルへ行け、とのこと。
そこからバスで30分乗った先のバス停でガイドが待っている。英語を聞き取るのに苦労した。 -
ピックアップの車がホテル前に来て、西洋人カップルと一緒に乗り、07時50分バス・ターミナルに到着した。
そこで待っていると、間もなく先程の女性スタッフがバイクで来た。
彼女からバスの切符とガイドに渡す封筒を渡され、ウドムサイ行きの寝台バスに乗る。乗り心地が悪い。
ファイサーイから乗ったVIP寝台バスのいや~な記憶が蘇る。(詳細は私のこの旅行記グループの二番目を参照されたし。) -
バスは08時09分に発車した。不安が先立つ今日のツアーである。帰りのバスのことなど、今から心配しても仕方ない。
目的地までバスで30分と言われていた。08時45分頃、前方にいるバスのスタッフに促されてバスを降りる。 -
☆☆☆バスを降りた場所からの眺め。☆☆☆
今日のツアーのガイド、Mr.ALOUYアルイがバスの前で待ち構えていた。まだ若い男性である。
挨拶を交わし、女性スタッフから託された封筒を彼に渡した。
バスを降りた場所の道路沿いに家が数軒あった。彼は一軒の家の横にバイクを停めていた。
Mr.アルイに最初に会った時から、誰かに似ていると思った。後で調べると、NHKの朝ドラにも出ていた波岡一喜という俳優に少し似ていた。 -
☆☆☆谷の向こう側が霧で霞んでいる。☆☆☆
08時50分、トレッキングに出発。畑になっている斜面を下りていく。 -
しばらくは傾斜が緩やかだったが、その先は急な下りだった。
下りる途中で、焼畑を行なった場所があった。ここは境界の小川の手前なので、アカ族ではなくプノイ族の村の畑である。
※政府の働き掛けにより、アカ族の人々は焼畑と芥子(アヘンの原料)の栽培を止め、定住するようになったと言われている。 -
アカ族の村と私がバスを降りた場所にある村との境界になっている小川。ここが谷底である。
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小川を越えると、その先はブルドーザーらしき重機で切り開かれた土の道が続く。
最初見たときは、頭の中は「???」だった。
中国資本の会社が岩石の採掘のためにアカ族の村の外れから重機で無理無理に切り開いた道のようだ。 -
歩いて行く途中、こんな場所に出くわした。
パワーショベルで抉ったのであろう。地質調査が目的か?
この先のアカ族の村の手前には、採取した岩石を砕石(道路などに使われる)に加工する工場があった。 -
重機で均された赤土の道をてくてく上る。もはやトレッキングとは言えない。
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アカ族の村で飼っている牛の群。人は誰もついていない。
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08時55分アカ族の村に到着した。思ったよりも早い到着であった。
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☆☆☆青丸が村の位置。☆☆☆
帰るときにわかったのは、この村はポンサーリーからブンヌアBoun Neuaへ至る幹線道路(私がウドムサイから乗車したポンサーリー行きのバスが通った道路)となっている尾根筋と谷を挟んで向かい側の尾根筋の東向きの斜面に位置していること。
従って、この日のトレッキングで辿ったように、一度谷底の小川まで下りて登り返すのが徒歩で村へ行く最短経路である。
しかも、幹線道路から村までの直線距離はさほどないので、ポンサーリーからブンヌアへ向かう幹線道路の上からは、村の姿がよく見えている。
(私は、帰るときにバイクの後部座席からしげしげと村の姿を眺めた。) -
☆☆☆村外れにある共同の水くみ場。☆☆☆
しかも、村に着いてわかったのは(Google Mapでもかろうじて確認出来た)、ポンサーリーからかなり離れた場所を経れば車やバイクを使ってこの村に来られること。
村では何台か自動車も見かけた。ムアン・シンからバイタクで連れて行ってもらったアカ族の村の方が素朴な印象であった。 -
村に着くと、子どもたちが遠くから手を振ってくれたりと、なかなかフレンドリーである。
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☆☆☆ガイドのMr.アルイ。☆☆☆
Mr.アルイの話では、アカ族の新年の祝いは1月だったり、2月だったりと村によってまちまちとか。
実際、この村(正式な名称を確認出来なかった。ツーリズム・オフィスの説明書ではAkha Puxo Villageと表記されている)には、新年のお祝いを表すような飾り付けの類は一切なかった。
また、伝統衣装を身に着けた女性たちに会ったり見たりしたが、彼女たちは正装ではなく普段の格好をしていた。
写真等で見たアカ族の新年の盛大な儀礼等とは無関係な静かな村の佇まいである。 -
ヤギの群。ミャンマーの中部、ラオス北部でよく見かけた。
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Mr.アルイに導かれて一軒の大きな家に入った。ご主人はこの村の村長とのこと。
ここでしばらく休憩し、お茶を一杯ご馳走になった後(ご主人は焼酎も出してくれた)、この家の主婦と覚しき女性(民族衣装を着ている)とやや若いお嫁さん?に導かれて、昼食の食材を取りに出かけた。 -
行った場所は、先程私とMr.アルイが登って来たブルドーザーが切り開いた道を下った先にあった。上の写真の作業小屋?の隣に小さな畑があった。
(ツーリズム・オフィスのツアーの説明書にも、アカ族の女性に従って食材を取りに行くことが明記されていた。) -
小屋の隣に小さな畑があり、そこで主婦の女性はこの後の昼食の材料となる菜っ葉を摘み取った。
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その畑のすぐ隣は、中国資本の会社が泥炭?を採掘する大きな作業場となっていた。
アカ族の村に隣接するかなり広い土地の開発の利権を中国系企業が握っているようである。 -
食材を取って帰ったあとは、Mr.アルイも手伝って昼食の支度をしてくれた。
私は、食事の準備を待つ間と食後の一時もぼんやりしてしまった。
アカ族の村に来たからには、村の入り口にあるはずのスピリチュアル・ゲートと、各村に必ずあるブランコを見ておくべきであった。
村に着いたとき、Mr.アルイにスピリチュアル・ゲートのことを尋ねたが、要領を得ない返事だった。
毎年新年に作り直されるスピリチュアル・ゲートは、昨年10月にムアン・シンから訪れたアカ族の村でも、草むらに埋もれていた。
私に見せる必要はないとMr.アルイは考えたのだろうか。
※ムアン・シンから訪れた四つの村(詳細は私のムアン・シン旅行記を参照されたい)に比べ、この村は活気が乏しかった。主要な産業は農業であることに変わりがないが、それ以外に現金収入の手段が何か確認出来なかった。 -
この家のキッチンで四人(主婦の女性、お嫁さん、私、Mr.アルイ)で食事をした。
菜っ葉を煮込んだスープが一番のご馳走のようだった。
全体的に辛い味付けのおかずがほとんどであった。 -
村の学校。この日は土曜日なので休業とのこと。
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最後に村の中を少しだけ歩き回ってから出発した。スピリチュアル・ゲートにもブランコにも案内してもらえなかった。
小川からの登り返しがややきつかったが、私を先に歩かせてくれたので楽だった。時々休憩した。 -
☆☆☆トレッキングに出発した道路側の斜面からアカ族の村を見る。☆☆☆
14時03分、バイクを停めてある場所に戻って来た。トレッキングが無事に終わり、ほっとする。
Mr.アルイが近くの民家のおばさんに水を分けてもらう。私もその水を飲んだ。
(このとき飲んだ水が翌日の腹痛~下痢の原因かもしれないと後で思い当たった。) -
休憩中、明日の400年茶園へのバイクでの往復とガイドをMr.アルイに依頼することにした。料金300,000LAK、09時00分にホテルでピックアップ。
14時30分過ぎ、ポンサーリーへ向けてバイクで出発した。
路面の状態が良く、思ったほどバイクは怖くなかった。
15時10分ホテルに到着した。仕上がっていたランドリーを受け取る。
Mr.アルイは比較的最近までViphaphone Hotelに勤めていたとのこと。
私を送り届けたあと、顔見知りのスタッフさんたちと旧交を温めていた。
(私が夕方の外出から戻る時にも、ロビーの片隅でスタッフさんたちとミニ宴会?の最中だった。
私も誘われたが、疲れていたので辞退した。) -
18時00分頃外出へ。一昨日入った中華食堂に寄ったが受け入れを拒否された。理由は不明。
大通りにある別の中華食堂Loajhean Restaurantという店に入った。 -
店員に出されたメニューを見て、豚肉のスライスという料理をオーダーしたところ、薄切り豚バラ肉の炒め物が来た。
油がギトギトな上、野菜はわずかで味付けが極度に塩っぱくて不味い。
ビアラオ大を2本しか飲んでいない割に、請求額75,000LAKはかなり高いと感じた。
昨日買い物をした店で明日の朝食用にビスケットとマフィンを買う。
缶ビール2本目の途中でベッドの上で寝落ちした。相当疲れていたものと思われる。
【01月04日(土)、了】
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