2019/05/03 - 2019/05/03
6位(同エリア146件中)
旅猫さん
元号が平成から令和に変わって三日目。
天気も良いので、ふらりと散歩に出かけることにした。
どこへ行こうかと悩んだが、ちょうど手元に日光道中粕壁宿の冊子があったので、春日部に行くことに決めた。
乗り換えでは何度も通った街だが、歩くのは今回が初めてだ。
かの芭蕉が、奥の細道で最初に草鞋を脱いだのが粕壁宿。
そこで、旅の名は『猫の細道』としよう。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
今回は、大宮駅を9:54に出る東武野田線(今はアーバンパークラインだが、ここでは野田線とする)の各駅停車に乗り、春日部駅を目指す。
10連休中で、牛島の藤も見ごろのようだから混んでいるかと思いきや、車内は嘘のように空いていた。 -
春日部駅には、20分ほどで着いた。
初めての街に降り立つ時の高揚感は、いつになっても変わらない。春日部駅 駅
-
とりあえず、大通りまで出てみる。
すると、角に『ぷらっと かすかべ』と言う観光案内所があった。
ここで、地図をいただき、散策を始める。ぷらっとかすかべ 名所・史跡
-
外へ出てすぐに目に付いたのがマンホール。
やはり描かれていたのは、牛島の藤だった。
先月歩いた騎西町のマンホールも藤の花だったな。 -
表通りから少し入った小路の紫陽花は、もう蕾を付けていた。
躑躅も散り始め、藤の花も満開のこの季節、次の主役はもう出番を待っている。 -
その小道に、変わった彫刻が置いてあった。
『おでかけ』と言う名が付いた作品で、心躍る出会いの為に、友情のために精いっぱい正装して出かけようとしているウサギだそうだ。
春日部の中心街には多くの彫刻が設置されているらしく、途中でいくつも見かけた。 -
そのおめかしした兎さんの前に、史跡案内板が建っていた。
読んでみると、加藤楸邨と言う俳人の旧居跡がここにあったそうだ。
今は何の変哲も無い町の片隅だが、案内板があるだけで、歴史に思いを馳せられる。
それに、そのおかげで新しいことを知ることもできる。 -
その案内板の近くにあった花壇に薔薇が咲いていた。
オールドローズ系の薔薇はやっぱり綺麗だな。 -
春日部の歴史を知ろうと、郷土史料館へ足を向ける。
ところが、行ってみると休館。
何と、連休中はずっと休みだそうだ。
ここは、観光地ではないと言うことか。春日部市郷土資料館 美術館・博物館
-
仕方が無いので、史料館のある通りから一本北側にある旧日光道中へと向かう。
その通りに出てみると、思ったよりも整備されていて、宿場町の風情はほとんど無かった。
それでも、歩道には脇本陣跡などの案内板が建っている。
ここ粕壁宿は、江戸から四番目の宿場町で、江戸を出た旅人が、最初に泊まるところだったらしい。 -
かつて、この辺りには街道を横切るように水路があり、三枚の板石の橋が架けられていたので、三枚橋と呼ばれていたそうだ。
今では水路も地名も無くなってしまったが、近くにあった建物に、その名が残されていた。
再開発などで由緒ある地名が次々と失われていく昨今であるが、大抵、建物や交差点名などに残されていたりする。 -
旧日光道中を江戸の方へと歩いて行くと、四つ辻に出た。
街道は、ここから東南の方へと進むが、その角に小さな社が建っている。
八坂神社であったが、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていたそうだ。
火災にあったため、詳しい由緒などはわからないようだが、粕壁宿の市神だったみたいだ。 -
八坂神社の北側の住宅街の中に、八幡様があるようなので行ってみる。
古地図にも描かれている長い参道が残っていて、なかなか良い。 -
境内に入ると、町のざわめきがふっと聞こえなくなり、何とも静かだ。
とは言え、子供たちが走り回り、そこそこ賑やかなのだが。
ここの八幡様は、京の石清水八幡宮から勧請したもので、東八幡神社と言う社だった。
ご神木は樹齢約600年の欅で、『東八幡大けやき』と呼ばれている。東八幡神社 (春日部市) 寺・神社・教会
-
拝殿前の狛犬には、文久3年(1863)の銘があった。
150年余りの時を経て、風格漂う姿になっている。
機械で造られた近頃の狛犬とは、やはり違った趣がある。 -
拝殿で参拝。
ご挨拶と、いつもの大切なお願いを。
参拝後、背後にある本殿を脇から眺める。
本殿には、多くの彫刻が施され、文化財に登録されているそうだ。
近くで見てみたかったが、中にはもちろん入れない。
カメラの望遠で写し、帰宅してから拡大して観てみたが、なかなか見事な彫り物だった。 -
社殿の周囲には、それなりの規模の神社によくあるように、やはり近在から集められた他の神社が鎮座していた。
松ノ樹村の鎮守であった松の樹稲荷大明神、川久保地区の氏神であった川久保雷電神社などが、いずれも、明治の神社合祀令により遷座させられている。
集落の氏神を奪われた住民たちは、当時、どのように思ったのだろう。
南方熊楠などが体を張って反対した結果、何とか収束に向かった神社合祀であるが、この国に残した傷跡はとても深いと思う。 -
生き生きと若葉を茂らせているご神木を仰ぎ見ていると、熊楠先生が笑っているような気がした。
-
境内から出ようとした時、鳥居の脇に大きな石が三つ置かれているのに気付いた。
近寄ってみると、やはり力石だった。
ひと際大きなものは、三之宮卯之助と言う越谷生まれの若者が、文化4年(1807)に持ち上げたという、重さ300貫目(375kg)の石だった。
この卯之助、牛を載せた小舟を持ち上げたという話もあるそうだ。 -
東八幡神社を後にして、すぐ近くにある真蔵院へと向かう。
古地図にも描かれていた寺だったが、訪れてみると、何の変哲も無い佇まい。
却って、向かいにあったお店らしき建物のほうが興味を惹かれた。 -
そこから、小路を辿って大通へ出ると、その傍らに東陽寺と言う寺が建っていた。
この寺も古地図に載っている。
境内へ入ると、本堂へ登る階段の脇に大きな石碑があった。
芭蕉と曾良が、奥の細道の初日に泊まったことを記念するものらしく、曾良の日記の抜粋が刻まれていた。
芭蕉らが粕壁で泊った場所は諸説あるそうだが、この寺もそのひとつだそうだ。東陽寺 (春日部市) 寺・神社・教会
-
その狭い境内の片隅で、身を寄せ合うようにいくつもの花が咲いていた。
-
東陽寺から再び裏道へ入ると、見えてきたのは春日部市民文化会館。
この場所には、かつて、日本初の国立薬用植物栽培試験場があったそうだ。
施設はつくば市に移転したが、敷地跡には、試験場にあった木々の一部が残されていた。 -
入口近くには、紫蘭の花が咲き乱れ、てんとう虫が一休み中。
春らしい情景だ。 -
薬草園跡沿いに歩いて行くと、広い川に出た。
大落古利根川と呼ばれる川で、江戸時代より前は、この流れが利根川の本流だったそうだ。
ゆったりしたこの流れが、この街に大きな恵みを与えていたのだろう。 -
その畔に、小さな社祠建っていた。
碇神社と呼ばれる社で、名主を務めた多田家の屋敷稲荷だったそうだ。 -
祠の傍には、樹齢約600年と言うイヌグスの樹が立っている。
このイヌグスは、北限のものと言われ、埼玉県の天然記念物に指定されていた。
以前は高さ12mと言う巨木だったそうだが、台風の影響で傷つき、今は7mほど。
それでも何とも言えない雰囲気がある。
江戸時代には、古利根川にあった河岸の目印となっていたそうだ。 -
碇神社からすぐの場所に、平屋の食事処があった。
一目見ただけで惹かれてしまい、ちょうど昼時でもあったので、入ってみることにした。
暖簾は、蕎麦とラーメンが掛かり、蕎麦の暖簾があるところが入口かと思ったら、そこは勝手口だった。佇まいが秀逸 by 旅猫さんやぶそば グルメ・レストラン
-
開け放たれた硝子戸から店内へ。
中には小さな食卓が4つあるだけで、椅子は木製だ。
そこに、地元の方が二人。
座っていると、どこか懐かしさが込み上げてくる。
時間はゆったりと流れ、とても心地が良い。 -
注文したのは、中華そば。
飾り気のないさっぱりとした見た目が好ましい。
麺は、白さのある中太のやや縮れた手打風。
食べてみると少し柔らかめだったが、味はしっかりとしていた。
次に訪れる時には、蕎麦も食べてみたいし、地元の方が美味しそうに頬張っていたカツ丼も気になった。 -
お腹も心も満たされたので、再び散策を始める。
宿場だった通りに戻ると、そこは本陣跡だった。
と言っても、江戸時代を通じ、四度も変わっているため、ここはそのひとつと言うことになる。
その場所は、今、インド料理の店となっていた。 -
しばらく歩くと、明治初期に建てられたという蔵が二棟建っていた。
中宿と呼ばれたこの辺りは、旅籠や商家が建ち並んでいたそうだ。 -
そんな蔵の前に、石柱が建っていた。
天保5年(1834)に建てられた道標で、元はこの先の三叉路にあったそうだ。
刻まれていたのは、日光、岩槻、江戸の三つの地名。 -
通の向こうに小さなお堂が見えたので行ってみる。
そのお堂は、山中観音堂と呼ばれるもので、千手観音を祀っているそうだ。
昔は、山中と言う場所にあったらしい。
江戸時代の俳諧師、増田眠牛がこの地で生涯を終えた際、背負っていたという千手観音を祀って現在に至るようだ。
お堂の前に、眠牛の墓も残っていた。 -
さらに西へ歩くと、商家の佇まいを残す建物があった。
江戸時代から米穀商を営む永嶋庄兵衛商店の店蔵で、明治初期に建てられたものだそうだ。
今でも営業している唯一の店だそうだ。
こんな店で米を買いたいものだな。 -
屋根の上には、魔除けの鍾馗様が睨みを利かせていた。
-
そのすぐ先の交差点の角にも蔵があった。
黒漆喰が特徴的な重厚な佇まいが、新建材ばかりの町の中でひときわ目立っている。
浜島家と言う個人の住宅のようだが、国登録有形文化財に指定されていた。
浜島家も、佐渡屋と言う屋号で米穀商を営んでいたそうだ。 -
その蔵が建つ交差点が、かの道標が元々建っていた三叉路。
現在は、明治22年に開通した岩槻新道が交わり四つ辻となっている。
江戸時代には、高札場もこの辻にあったそうだ。 -
この三叉路で、日光道中は北へと進路を変える。
そして、すぐに大落古利根川を新町橋で渡り、粕壁宿を離れていくのだ。
橋の上から眺める景色は、心が洗われるようだった。
風も無く、水面は鏡の様。
空が映り込み、とても綺麗だ。 -
橋の上流には、上喜蔵河岸があり、水量が増える夏期には、小さな高瀬舟も上がって来たそうだ。
その河岸の石垣の一部も残っていた。 -
四つ辻へ戻り、寺町通りへ。
突き当りに、最勝寺と言う寺がある。
地図に、春日部重行の墓と書いてあったので、立ち寄ることにした。最勝院 寺・神社・教会
-
本堂にお詣りした後、その墓を探してみる。
すると、大きく枝を広げた樹が立つ小さな塚があった。
これが春日部重行の墓とのこと。
春日部重行は、南北朝期に南朝の新田方として活躍し、京都で討死したとされ、遺骨が地頭職を与えられていたこの地に埋葬されたと云われているそうだ。
春日部市では、地名の由緒を、この重行としているそうだが、諸説ありよくわからない。
だが、ある意味、わからないから面白いともいえる。
歴史に思いを馳せるのは、旅する者にとって、とても楽しいことでもある。 -
最勝寺の並びに、立派な門構えの寺があった。
成就院と言う寺で、墓地には、粕壁宿の問屋・差配役を務め、水害や飢饉の際、救済や復興に尽力したと言う見川喜蔵の墓と一族の五輪塔が残されていた。 -
宿場の外れまで歩いたので、駅へと戻ることにする。
その途中で、雰囲気のある街並みがあったので歩いてみる。
そこにあった『おかやす』と言う商店には、立派な大谷石造りの蔵もあった。
店先に氷の旗を見つけたので食べたいと思ったが、人気が無く諦めた。 -
その隣にも、唐破風の玄関を備えた木造の民家があった。
こちらも以前は商家だったのであろうが、店の方は閉めているらしい。
門構えも良く、空き家だったら手に入れたいところだ。 -
その民家と『おかやす』の間の小道に入ってみる。
その先にも、風情のある街並みが待っていた。
鉄砲火薬店を掲げる店があったが、需要はあるのだろうか。
まあ、店を閉めてから時が経っているようだったが。 -
その先で、黄色い花が咲く植物に覆われた喫茶店のようなものがあり興味を惹かれたが、17時からの営業と言うことで断念。
-
駅の近くまで来ると、小さなお社が見えた。
神明社と言う社で、宿場の守り神だったそうだ。
今回は、ここで旅はお仕舞。
ふらりと訪れた春日部の街だったが、思ったよりも楽しめた。
春日部、いつかまた訪れることがあるかもしれない。
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この旅行記へのコメント (4)
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- 墨水さん 2019/05/26 22:47:19
- 文久3年。
- 旅猫さん、今晩は。
なかなか、趣の有る旅行記ですね。(個人的に好き。笑)
文久3年は、幕末のターニングポイントの年ですね。
個人的に思うのは、文久3年で大政奉還して明治を迎えていれば、違った明治に為って居たと感じてます。
当時の幕府は最後の意地を見せて、延命策に出ますけどね。
「合祀」ね~~っ。
関東では、幕末から明治期に掛けて「加波山事件」が有り、これが結構尾を引く・・・。
そんな関係で、扱いに窮する神社が続出したので、合祀した事案が多数有ります。
江戸時代には、お寺だったのに、神仏分離令で「神社」に変身し、加波山事件に絡んだとか噂が立つと、管理者が放棄したりと・・・。
色々有って、結果的に合祀と為ってます。
明治政府に楯突いたのが、加波山事件なので、此の後始末が大変だった様で「有耶無耶」です。
幕府を倒す原動力は「水戸藩」で、水戸藩が始めたから結果として「明治新政府」の時代が来た。
最大の功労者は「水戸藩」なんですよ、水戸藩の扱いに窮した明治政府の犯した失敗が「加波山事件」として、世に現れてしまった。
ここが、明治政府のアキレス腱ですね。(笑)
確かに「合祀」は、深い傷を付けた事には間違いないんですがね。
墨水。
- 旅猫さん からの返信 2019/05/28 14:53:13
- RE: 文久3年。
- 墨水さん、こんにちは。
書き込みありがとうございます。
幕末は、未だにあまり好きじゃないです。
明治維新とか志士と言う言葉も嫌い。
薩長の起こした戊辰戦争で、死ななくても良い人がたくさん亡くなったし。
神仏分離令と神社合祀は、明治政府の犯した大罪でしょうね。
どれほどの文化財が失われたことか。。。
そうそう、水戸藩も好きじゃないです。
水戸学なるもののおかげで、ある意味日本が暴走したとも言えますしね。
「加波山事件」と合祀が関係あるとは知りませんでした。
旅猫
- 墨水さん からの返信 2019/05/28 21:13:28
- RE: RE: 文久3年。
- 旅猫さん、今晩は。
> 薩長の起こした戊辰戦争で、死ななくても良い人がたくさん亡くなったし。
薩摩藩は、今で言うと「ソフトランディング」して、新政府へ持って行こうと考えて居たが、長州藩は「幕府憎し!、幕府族滅!!。」是しか頭に無いんですね。
大政奉還で「幕府が無くなった。」にもかかわらず、長州藩の強引な押しで「倒幕軍」を編成し、戊辰戦争となった。
確かに、死ななくて良い人々を死なせた。
> 神仏分離令と神社合祀は、明治政府の犯した大罪でしょうね。
> どれほどの文化財が失われたことか。。。
元々、社寺が持っていた領地を没収して、国民に再分配する事を目的としていたが、現場では混乱が生じた例ですね。
社寺領地が日本の歴史にとって、なかなかの曲者なんですね〜ッ。
社寺領地の没収は、奈良時代以来の改革と言えます。
> そうそう、水戸藩も好きじゃないです。
> 水戸学なるもののおかげで、ある意味日本が暴走したとも言えますしね。
確かにね〜ッ、暴走した。(笑)
でも、是に続く帝国史観の基礎となって居るのが、皮肉と言えば皮肉かな。(笑)
暴走の、最終局面が「加波山事件」なんですよ。
で、関東地域に深い影を落とす結果となってます。
加波山事件は、或る意味「タブー」なんですよ。(笑)
だから、消された部分も多く、此所が逆に人々に恐怖を与える結果となってます。
個々の神社と、加波山事件は絡み方は色々ですので、一言では言えない事案ですね。
ただ「加波山事件絡み」は、忌み嫌われた時代が有ったので、結果として合祀と為ってます。
墨水。
- 旅猫さん からの返信 2019/06/03 20:31:29
- RE: RE: RE: 文久3年。
- 墨水さん、こんばんは。
薩摩藩は、会津藩を裏切ったので、どうにも好きになれませんね。
坂本竜馬の暗殺にも、裏で一役買ってそうですし。
寺社領が減ったおかげで、全国でかなりの貴重な森が消えたのも悲しい。
熊楠らが立ち上がらなければ、大変になっていたと思います。
水戸学の先に、日本陸軍ありで。
加波山事件も奥が深そうですね。
旅猫
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