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新聞のチラシに混じって文京区の広報が入っていました(PHOのところは区境が近い為、台東区、文京区、荒川区の広報紙が届きます)。<br />其処で見つけたのが「1月23日に行われた金栗四三が毎日走って通った道を歩くスタンプラリー」後に行われた谷口浩美氏の講演などのイベントを小、中学生の記者が取材し、子供新聞を作成したと言う記事でした。<br />其処にはPHOの聞いた事の無い庭園と、今が盛りのお花見の名所が挙げられていました。<br />読んだ時点で既に3時半を廻っていましたが、電動チャリなら本郷台地も楽に越えられる(はず)と、勇んで出かけました。<br />そうなんです、中古では有りますがPHOは電動チャリを手に入れました。<br />結局、2週に分けて廻る羽目にはなりましたが、珍しく旬なテーマ(地味!)の旅行記が書けそうです

0円 ご近所散歩♪ 金栗四三 青春の地 スタンプ押さないラリー(?) part1

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2019/03/31 - 2019/03/31

12067位(同エリア85065件中)

PHOPHOCHANG

PHOPHOCHANGさん

新聞のチラシに混じって文京区の広報が入っていました(PHOのところは区境が近い為、台東区、文京区、荒川区の広報紙が届きます)。
其処で見つけたのが「1月23日に行われた金栗四三が毎日走って通った道を歩くスタンプラリー」後に行われた谷口浩美氏の講演などのイベントを小、中学生の記者が取材し、子供新聞を作成したと言う記事でした。
其処にはPHOの聞いた事の無い庭園と、今が盛りのお花見の名所が挙げられていました。
読んだ時点で既に3時半を廻っていましたが、電動チャリなら本郷台地も楽に越えられる(はず)と、勇んで出かけました。
そうなんです、中古では有りますがPHOは電動チャリを手に入れました。
結局、2週に分けて廻る羽目にはなりましたが、珍しく旬なテーマ(地味!)の旅行記が書けそうです

  • 簸川神社(ひかわじんじゃ)。<br />氷川神社の末社ですが、簸川と書く神社は珍しいのだそうです、って読めませんでした。<br />素盞嗚命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)の3神を祀っています。<br />歴史は古く、御殿坂付近にあった古墳上に第5代孝昭天皇の御世(473)年に創建されたと伝えられており、源義家が祈願をしたとも伝えられています。 <br />もとは南東の水源地(現小石川植物園内)に鎮座していましたが、承応元(1652)年に白山御殿造営のため原町に移されました。 さらに元禄12(1699)年、景勝の地を選び現在地へ鎮座しました。<br /><br />東大附属植物園の北西角側です。<br />って、いきなり由緒有り気な場所に通りかかっちゃったんで、チャリを停めて写真を撮りました。<br /><br />初めて通る不忍通りの南側の千石は道幅の狭い急坂が多く、慣れないチャリでちょっとハラハラしながら走りました<br />

    簸川神社(ひかわじんじゃ)。
    氷川神社の末社ですが、簸川と書く神社は珍しいのだそうです、って読めませんでした。
    素盞嗚命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)の3神を祀っています。
    歴史は古く、御殿坂付近にあった古墳上に第5代孝昭天皇の御世(473)年に創建されたと伝えられており、源義家が祈願をしたとも伝えられています。
    もとは南東の水源地(現小石川植物園内)に鎮座していましたが、承応元(1652)年に白山御殿造営のため原町に移されました。 さらに元禄12(1699)年、景勝の地を選び現在地へ鎮座しました。

    東大附属植物園の北西角側です。
    って、いきなり由緒有り気な場所に通りかかっちゃったんで、チャリを停めて写真を撮りました。

    初めて通る不忍通りの南側の千石は道幅の狭い急坂が多く、慣れないチャリでちょっとハラハラしながら走りました

  • 占春園。<br />徳川光圀の異母弟、松平頼元が万治2(1659)年に上屋敷を構え、その子頼貞は陸奥国守山藩主として2万石を領し、大学頭となっています。占春園はこの松平家の屋敷内の庭園の名残です。<br /><br />とは言え、今までその存在を全く知りませんでした。もっと言えば、文京区に大塚と言う町名が在る事さえ、知ったのはホンの数年前でした。それくらい隣の区ではあっても、本郷台地の下の谷中(上野の山とに挟まれてますからね)からは距離以上に遠かったところです

    占春園。
    徳川光圀の異母弟、松平頼元が万治2(1659)年に上屋敷を構え、その子頼貞は陸奥国守山藩主として2万石を領し、大学頭となっています。占春園はこの松平家の屋敷内の庭園の名残です。

    とは言え、今までその存在を全く知りませんでした。もっと言えば、文京区に大塚と言う町名が在る事さえ、知ったのはホンの数年前でした。それくらい隣の区ではあっても、本郷台地の下の谷中(上野の山とに挟まれてますからね)からは距離以上に遠かったところです

  • 筑波大学附属小学校の自然観察園になっています。<br />正直、占春園と言う名が似つかわしくなく、第一印象は「荒れた」「手入れされていない」としか

    筑波大学附属小学校の自然観察園になっています。
    正直、占春園と言う名が似つかわしくなく、第一印象は「荒れた」「手入れされていない」としか

  • 見事な枝ぶりの桂が3本在ると言ううちの1本でしょう

    見事な枝ぶりの桂が3本在ると言ううちの1本でしょう

  • 明治36(1903)年に東京高等師範学校(現在の筑波大学)が湯島から此処に移った事により、占春園は校地の一部となりました。<br />嘉納治五郎は東京師範学校の校長を務める傍ら、国際オリンピック委員としての功績も挙げ、また講道館柔道の創始者でもありました

    明治36(1903)年に東京高等師範学校(現在の筑波大学)が湯島から此処に移った事により、占春園は校地の一部となりました。
    嘉納治五郎は東京師範学校の校長を務める傍ら、国際オリンピック委員としての功績も挙げ、また講道館柔道の創始者でもありました

  • 「いだてん」が始まるまでは、講道館柔道についての面しか知りませんでした

    「いだてん」が始まるまでは、講道館柔道についての面しか知りませんでした

  • 木が鬱蒼と生い茂って風が通らないので、水面の映り込みが綺麗です

    木が鬱蒼と生い茂って風が通らないので、水面の映り込みが綺麗です

  • 「我が公の園は占春と名づく。その中見る所は、梅桜桃季、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景有らざるは莫し。」って庭園の素晴らしさを述べた碑なんだけど、無残<br />

    「我が公の園は占春と名づく。その中見る所は、梅桜桃季、林鳥池魚、緑竹丹楓、秋月冬雪、凡そ四時の景有らざるは莫し。」って庭園の素晴らしさを述べた碑なんだけど、無残

  • 延享3(1746)年に建てられた碑なので、270年以上が経っているとは言え・・。<br />てか、この説明板のポツポツも何だかなぁ★<br />当時は江戸の三名園(青山の池田邸、溜池の黒田邸)の一つだったそうですけどね

    延享3(1746)年に建てられた碑なので、270年以上が経っているとは言え・・。
    てか、この説明板のポツポツも何だかなぁ★
    当時は江戸の三名園(青山の池田邸、溜池の黒田邸)の一つだったそうですけどね

  • 昔は 皆登ったのでしょうけれど

    昔は 皆登ったのでしょうけれど

  • 山吹、で合ってますか?

    山吹、で合ってますか?

  • これ、小学校?

    これ、小学校?

  • 一番奥まで行くと、こんな門が在りました。<br />筑波大学附属って言い方は何となくシックリ来ない年頃です。だって、筑波の卒業生って、ゴン中山、藤田俊哉、長谷川健太、風間八宏とかでしょ(全員静岡県でサッカー)。<br />だからPHOにとっては、明治5(1872)年に日本で最初に設立された師範学校を創基とする東京師範学校(のち東京教育大学)を前身とする大学で、昌平坂学問所(昌平黌)を一部引き継ぐ形で設立された経緯もあり、その創立は日本で最も古い大学群の一つ、って言う方がスッキリするんだよね

    一番奥まで行くと、こんな門が在りました。
    筑波大学附属って言い方は何となくシックリ来ない年頃です。だって、筑波の卒業生って、ゴン中山、藤田俊哉、長谷川健太、風間八宏とかでしょ(全員静岡県でサッカー)。
    だからPHOにとっては、明治5(1872)年に日本で最初に設立された師範学校を創基とする東京師範学校(のち東京教育大学)を前身とする大学で、昌平坂学問所(昌平黌)を一部引き継ぐ形で設立された経緯もあり、その創立は日本で最も古い大学群の一つ、って言う方がスッキリするんだよね

  • 自然のままに近い状態と言うのがコンセプトなのかもしれません

    自然のままに近い状態と言うのがコンセプトなのかもしれません

  • えっ、此処がマラソンコース?<br />路面凸凹だし、枯れ葉だらけで木の根っこが隠れて見えなかったり、安全なのかな?

    えっ、此処がマラソンコース?
    路面凸凹だし、枯れ葉だらけで木の根っこが隠れて見えなかったり、安全なのかな?

  • 落英池。<br />今年1月にかいぼりが行われました。TV東京「池の水全部抜く」企画にも申し込んだりしたんだそうです。<br />https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201901/CK2019012202000121.html

    落英池。
    今年1月にかいぼりが行われました。TV東京「池の水全部抜く」企画にも申し込んだりしたんだそうです。
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201901/CK2019012202000121.html

  • だから、園内の他の場所よりも綺麗な感じがしたのです。枯葉が一面に浮いて~とかではなくなってます☆

    だから、園内の他の場所よりも綺麗な感じがしたのです。枯葉が一面に浮いて~とかではなくなってます☆

  • 明日から午後7時まで開園してるのですが、暗くなったら居たくない場所だとは思います

    明日から午後7時まで開園してるのですが、暗くなったら居たくない場所だとは思います

  • 播磨坂。<br />占春園から急な坂を上ればホンの数分で播磨坂の中腹に出ます。<br />チャリを停め、中央の遊歩道を歩きます

    播磨坂。
    占春園から急な坂を上ればホンの数分で播磨坂の中腹に出ます。
    チャリを停め、中央の遊歩道を歩きます

  • お天気が今ひとつだし、日も陰ってるので桜らしい色が出ません

    お天気が今ひとつだし、日も陰ってるので桜らしい色が出ません

  • 坂の桜並木は、戦後間もない昭和22(1947)年、地元の方たちが植えたのが始まりだそうです。昭和28年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれました。その後、並木植樹帯の整備が進み、平成7(1995)年には装いを新たにした現在の桜並木が完成しました

    坂の桜並木は、戦後間もない昭和22(1947)年、地元の方たちが植えたのが始まりだそうです。昭和28年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれました。その後、並木植樹帯の整備が進み、平成7(1995)年には装いを新たにした現在の桜並木が完成しました

  • かなりの人出です。公園のような遊歩道の在る中央分離帯には宴会中の方も多数。<br />PHOはお酒が飲めないせいも有り、木の下でシート敷いてのお花見は好きでは無いのです。ついでに言うと、温泉宿でマッタリするのも苦手。生野菜や果物は食べたくないし、漬物類は大嫌いなど偏食の度合いも激しいので、自然1人行動が楽って結果に・・

    かなりの人出です。公園のような遊歩道の在る中央分離帯には宴会中の方も多数。
    PHOはお酒が飲めないせいも有り、木の下でシート敷いてのお花見は好きでは無いのです。ついでに言うと、温泉宿でマッタリするのも苦手。生野菜や果物は食べたくないし、漬物類は大嫌いなど偏食の度合いも激しいので、自然1人行動が楽って結果に・・

  • 上ばっかり見て歩いてます

    上ばっかり見て歩いてます

  • 播磨坂と呼ばれる坂道はかつて常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷の跡地で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」と言われた田圃が在りました。第二次世界大戦後に東京都の戦災復興計画で計画決定されて出来たこの坂は、「播磨田圃」へ下る坂なので播磨坂と呼ばれるようになりました。<br />繋がってないけど、環状3号線の一部です。外苑東通りとか言問通りも

    播磨坂と呼ばれる坂道はかつて常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷の跡地で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」と言われた田圃が在りました。第二次世界大戦後に東京都の戦災復興計画で計画決定されて出来たこの坂は、「播磨田圃」へ下る坂なので播磨坂と呼ばれるようになりました。
    繋がってないけど、環状3号線の一部です。外苑東通りとか言問通りも

  • 無量山伝通院寿経寺。<br />伝通院(でんづういん)って名前はPHOが小さい頃から聞き覚えてましたが、実際に足を運んだのは今回が初めてです(半世紀?)。<br />江戸幕府初代将軍徳川家康の母,於大の方の諡号が伝通院でした。<br />2代将軍秀忠の長女・千姫、3代将軍家光の次男・亀松、正室・鷹司孝子など徳川家の子女の墓所も在り、徳川家の菩提寺とも言える寺院です

    無量山伝通院寿経寺。
    伝通院(でんづういん)って名前はPHOが小さい頃から聞き覚えてましたが、実際に足を運んだのは今回が初めてです(半世紀?)。
    江戸幕府初代将軍徳川家康の母,於大の方の諡号が伝通院でした。
    2代将軍秀忠の長女・千姫、3代将軍家光の次男・亀松、正室・鷹司孝子など徳川家の子女の墓所も在り、徳川家の菩提寺とも言える寺院です

  • 昭和20(1945)年5月25日、アメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失しました。昭和24年に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年に再建されたものです。<br />平成24(2012)年3月には山門が再建されました

    昭和20(1945)年5月25日、アメリカ軍による空襲で小石川一帯は焼け野原となり、伝通院も江戸時代から残っていた山門や当時の本堂などが墓を除いてすべて焼失しました。昭和24年に本堂を再建。現在の本堂は、昭和63年に再建されたものです。
    平成24(2012)年3月には山門が再建されました

  • 覗きました。<br />御本尊は平安時代の僧・源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来像です

    覗きました。
    御本尊は平安時代の僧・源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来像です

  • 少し歩き回ってみましたが、柴田錬三郎の墓は見つけられず

    少し歩き回ってみましたが、柴田錬三郎の墓は見つけられず

  • 伝通院と言う通り名は於大の方の法名からなので、一番扱いが丁寧で詳しいです

    伝通院と言う通り名は於大の方の法名からなので、一番扱いが丁寧で詳しいです

  • 於大の方は享禄元(1528)年、三河刈谷城主水野忠政の娘として生まれました。<br />そして、天文10(1541)年に岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(後の徳川家康)を出産しました。<br />しかし、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属した為、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13(1545)年、於大を離縁して刈谷に帰す事となり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されました。<br />その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁しましたが、於大の方は、家康が織田方の人質となってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やす事が無かったと伝えられています。<br />かなり意外☆<br />また、家康が今川義元の人質となって駿府にいた際にも、於大の方も使いを送ってひそかに日用品を届けたと言われています。<br />於大の方は、久松俊勝との間に子供を3人もうけました。<br />家康は、天下統一の後には、久松家を親戚として尊重しました。<br />これが、久松松平家です。<br />久松松平家は伊予松山藩や幕末の桑名藩の藩主です。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子となりました。<br />於大の方は、夫の久松俊勝が、天正10(1582)年に亡くなると、天正16年に髪をおろし「伝通院」と号しました

    於大の方は享禄元(1528)年、三河刈谷城主水野忠政の娘として生まれました。
    そして、天文10(1541)年に岡崎城主松平広忠と結婚しました。於大の方は14歳、広忠は16歳でした。結婚の翌年、於大の方は竹千代(後の徳川家康)を出産しました。
    しかし、於大の方の父水野忠政が病死した後、刈谷城を継いだ兄信元は織田方に属した為、今川氏の保護を受けていた広忠は、天文13(1545)年、於大を離縁して刈谷に帰す事となり、於大の方は3歳になった竹千代を岡崎に残して、刈谷に帰されました。
    その後、阿久比城主久松俊勝に再嫁しましたが、於大の方は、家康が織田方の人質となってからも常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やす事が無かったと伝えられています。
    かなり意外☆
    また、家康が今川義元の人質となって駿府にいた際にも、於大の方も使いを送ってひそかに日用品を届けたと言われています。
    於大の方は、久松俊勝との間に子供を3人もうけました。
    家康は、天下統一の後には、久松家を親戚として尊重しました。
    これが、久松松平家です。
    久松松平家は伊予松山藩や幕末の桑名藩の藩主です。寛政の改革で有名な松平定信は、田安家から久松松平家に養子となりました。
    於大の方は、夫の久松俊勝が、天正10(1582)年に亡くなると、天正16年に髪をおろし「伝通院」と号しました

  • 徳川家子女の墓所は本堂北側ですが、於大の方の墓は本堂の西に在り、東を向いています

    徳川家子女の墓所は本堂北側ですが、於大の方の墓は本堂の西に在り、東を向いています

  • 伝通院殿

    伝通院殿

  • 千姫の墓。<br />千姫は2代将軍秀忠の長女で、慶長2(1597)年に伏見で生まれました。母は、織田信長の妹・お市の方の次女の江(崇源院)です。<br />この頃は、豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見に居たのでした。<br />慶長3(1598)年、病床にあった豊臣秀吉は秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。秀吉が死んだ後もこの約束は守られ、慶長8年、7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎました。2人は従兄弟関係(母親が姉妹)にありました。<br />家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣に千姫は大坂城に籠っていましたが、元和元(1615)年5月、落城の前夜脱出して家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。<br />翌元和2年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻に再嫁しました。千姫20歳、忠刻21歳でした。 <br />元和3年に忠政が姫路へ転封となったので忠刻とともに姫路城に住む事となりました。<br />千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、長男・幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。<br />寛永3(1626)年、30歳の千姫は勝姫と再び江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫と2人で江戸城内の竹橋御殿に住みました。<br />寛永5年に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)は一人暮らしとなりました。<br />正保元(1644)年、3代将軍家光の側室のお夏の方(後の順性院)が三男綱重を懐妊しました。この時、家光は厄年にあたっていた為、災厄を避けるため千姫が養母となりました。<br />その為、お夏の方と綱重と暮らすようになります。<br />落飾して天樹院となった千姫は、寛文6(1666)年に70歳で亡くなりました。<br />法事は、千姫が養母となっていた綱重が執り行ったそうです。<br /><br />そう言えば綱重の正室(隆崇院)の墓石も近くに在りました<br />

    千姫の墓。
    千姫は2代将軍秀忠の長女で、慶長2(1597)年に伏見で生まれました。母は、織田信長の妹・お市の方の次女の江(崇源院)です。
    この頃は、豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見に居たのでした。
    慶長3(1598)年、病床にあった豊臣秀吉は秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。秀吉が死んだ後もこの約束は守られ、慶長8年、7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎました。2人は従兄弟関係(母親が姉妹)にありました。
    家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣に千姫は大坂城に籠っていましたが、元和元(1615)年5月、落城の前夜脱出して家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。
    翌元和2年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻に再嫁しました。千姫20歳、忠刻21歳でした。 
    元和3年に忠政が姫路へ転封となったので忠刻とともに姫路城に住む事となりました。
    千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、長男・幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。
    寛永3(1626)年、30歳の千姫は勝姫と再び江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫と2人で江戸城内の竹橋御殿に住みました。
    寛永5年に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)は一人暮らしとなりました。
    正保元(1644)年、3代将軍家光の側室のお夏の方(後の順性院)が三男綱重を懐妊しました。この時、家光は厄年にあたっていた為、災厄を避けるため千姫が養母となりました。
    その為、お夏の方と綱重と暮らすようになります。
    落飾して天樹院となった千姫は、寛文6(1666)年に70歳で亡くなりました。
    法事は、千姫が養母となっていた綱重が執り行ったそうです。

    そう言えば綱重の正室(隆崇院)の墓石も近くに在りました

  • 天樹院殿

    天樹院殿

  • 家光正室・孝子の墓。<br />鷹司孝子は初めて摂関家から将軍正室に迎え入れられた人です。<br />3代将軍家光は「生まれながらの将軍」であった為、大名より位の高い摂関家から正室を求めたのです。これ以降、将軍の正室は摂関家または宮家から選ばれるようになりました。<br />孝子は慶長7(1602)年に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。<br />元和9(1623)年12月に西の丸に入り、寛永2(1625)年に将軍家光と正式に婚礼し、御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。<br />しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はありませんでした。<br />孝子は大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住んで「中の丸殿」と呼ばれました。<br />幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。<br />この為、当然のごとく、家光との間に子供はありませんでした。<br />このように、夫婦仲が円満でなかったのは、家光と孝子の間に子ができ朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が作為的に不仲にしたという説や家光が男色(当初)であった為という説があります。<br />慶安4(1651)4月に、家光が48歳で亡くなると、孝子は落飾し「本理院」と名乗りました。<br />延宝2(1674)年に73歳で亡くなりました。<br />本理院のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に南に面して建っています。<br /><br />孝子の弟、鷹司信平は、姉を頼って江戸に下り、旗本に取り立てられ天寿松平の苗字を名乗る事が許されました。信平の家系は鷹司松平家と呼ばれ、上野吉井藩の藩主として幕末まで続きました。 <br /><br />於大の方と千姫の墓は1基独立して囲われていましたが、それ以外は五輪塔がズラリと並んでいました。<br />って事は、墓石動かされてますよね。当時はこんな立て込んだ並べ方する訳無いですもんね。<br />増上寺の将軍墓所もそうそう広くは場所取れないので、集められちゃってますからね(あっちは有料)

    家光正室・孝子の墓。
    鷹司孝子は初めて摂関家から将軍正室に迎え入れられた人です。
    3代将軍家光は「生まれながらの将軍」であった為、大名より位の高い摂関家から正室を求めたのです。これ以降、将軍の正室は摂関家または宮家から選ばれるようになりました。
    孝子は慶長7(1602)年に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。
    元和9(1623)年12月に西の丸に入り、寛永2(1625)年に将軍家光と正式に婚礼し、御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。
    しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はありませんでした。
    孝子は大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住んで「中の丸殿」と呼ばれました。
    幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。
    この為、当然のごとく、家光との間に子供はありませんでした。
    このように、夫婦仲が円満でなかったのは、家光と孝子の間に子ができ朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が作為的に不仲にしたという説や家光が男色(当初)であった為という説があります。
    慶安4(1651)4月に、家光が48歳で亡くなると、孝子は落飾し「本理院」と名乗りました。
    延宝2(1674)年に73歳で亡くなりました。
    本理院のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に南に面して建っています。

    孝子の弟、鷹司信平は、姉を頼って江戸に下り、旗本に取り立てられ天寿松平の苗字を名乗る事が許されました。信平の家系は鷹司松平家と呼ばれ、上野吉井藩の藩主として幕末まで続きました。

    於大の方と千姫の墓は1基独立して囲われていましたが、それ以外は五輪塔がズラリと並んでいました。
    って事は、墓石動かされてますよね。当時はこんな立て込んだ並べ方する訳無いですもんね。
    増上寺の将軍墓所もそうそう広くは場所取れないので、集められちゃってますからね(あっちは有料)

  • 11代将軍家斉の15女や20男の墓石も在りました。<br />それ以外の子女たちは何処に葬られているのか?逆に気になりました。<br /><br />もう5時半を廻っているので帰ります。<br />残りは来週、ですね<br />

    11代将軍家斉の15女や20男の墓石も在りました。
    それ以外の子女たちは何処に葬られているのか?逆に気になりました。

    もう5時半を廻っているので帰ります。
    残りは来週、ですね

  • 澤蔵司稲荷。<br />縁起によると元和4戌午(1618)年4月、伝通院の学寮(今でいう全寮制仏教専門学校)主、極山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね、入門しました。http://www.jodo.or.jp/ <br />大変に才識絶倫優秀にして僅か3年余りで浄土教の奥義を修得し、元和6庚申年5月7日の夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立ち、「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。<br />今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」<br />と残し暁の雲に隠れたと記されています。<br />その為、この慈眼院が別当寺となり元和6(1620)年、澤蔵司稲荷が建立され現在に至っているのだそうです<br /><br />

    澤蔵司稲荷。
    縁起によると元和4戌午(1618)年4月、伝通院の学寮(今でいう全寮制仏教専門学校)主、極山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね、入門しました。http://www.jodo.or.jp/
    大変に才識絶倫優秀にして僅か3年余りで浄土教の奥義を修得し、元和6庚申年5月7日の夜、方丈廓山和尚と学寮長極山和尚の夢枕に立ち、「そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年の大望ここに達せり。
    今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし。」
    と残し暁の雲に隠れたと記されています。
    その為、この慈眼院が別当寺となり元和6(1620)年、澤蔵司稲荷が建立され現在に至っているのだそうです

  • お狐様がこんな所にいらっしゃいました。<br />実はこの時、PHOと相前後して拝観してたのはインド人のシク教一家でした。<br /><br />坂を下って白山通りへ出れば地図無しでも帰れます。てか伝通院は春日通りから直ぐなので方向的にどの辺りに居るかは判ってます。テキト~にチャリを走らせても帰れるのがご近所の良いところです。<br />続きはまた来週(^^ゞ

    お狐様がこんな所にいらっしゃいました。
    実はこの時、PHOと相前後して拝観してたのはインド人のシク教一家でした。

    坂を下って白山通りへ出れば地図無しでも帰れます。てか伝通院は春日通りから直ぐなので方向的にどの辺りに居るかは判ってます。テキト~にチャリを走らせても帰れるのがご近所の良いところです。
    続きはまた来週(^^ゞ

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この旅行記へのコメント (4)

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  • まーやんさん 2019/05/12 15:19:53
    ニアミス
    PHOPHOCHANGさん、こんにちは

    おっ、播磨坂…!桜!いつ頃だろう?と思って、自分の旅行記見たら、同じ日に播磨坂に行ってました!多分、数時間違いかと。
    播磨坂の真ん中の遊歩道はレジャーシートいっぱいで歩けませんでしたよね(^_^;)

    小石川後楽園を4時半前位に出て、ケーキ屋寄り道して春日駅周辺に5時すぎまでいましたから、結構近い所にいたかもです。

    真っ白なお狐様のお稲荷さん、印象に残りました。
    行ったことのない神社やお寺、色々ご紹介いただきありがとうございます。
    参考に行ってみようと思います~♪

    まーやん

    PHOPHOCHANG

    PHOPHOCHANGさん からの返信 2019/05/12 21:59:56
    Re: ニアミス
    そうだったのですか!
    自分は4時20分過ぎから20分ちょい、播磨坂をウロウロしてました。
    皆さん盛り上がってました♪

    お狐様、たまたま立ち寄った(コース外)のですが、珍しいなと思ったもので。気に入っていただけて良かったです☆

    まーやん

    まーやんさん からの返信 2019/05/13 00:19:55
    Re: ニアミス
    すみません。
    今気が付いたら、小石川植物園のことを、間違えて小石川後楽園と書いてました。後楽園じゃ別方向(汗)
    PHOさんが播磨坂に着いた頃に小石川植物園を出る位でした!
    長々失礼しました。

    PHOPHOCHANG

    PHOPHOCHANGさん からの返信 2019/05/13 08:34:23
    Re: ニアミス
    いえいえ。
    じゃあホントに自分が廻ったコースとかぶってるんですね。
    占春園に着く前に植物園の脇かすめて走りましたから♪

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