2019/03/09 - 2019/03/09
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ドクターキムルさん
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鎌倉市長谷3にある行時山光則寺は文永11年(1274年)に日朗上人を開山、宿屋光則を開基として宿屋光則宅に創建された。日蓮上人の弟子である日朗上人(日蓮六老僧の一人)は、文永8年(1271年)、日蓮上人が佐渡に流罪となった際に、ここ宿屋光則邸にあった土牢(横穴墓(横穴古墳))に押込となった。それが日朗上人土牢である。
日朗上人土牢は光則寺の本堂裏手の北側にある。この北側には参道の石段が続き、日朗上人の墓と宿屋光則の墓が並んで建っている。日朗上人の墓はやぐらの中にあるようにも見えるが宿屋光則の墓はやぐらではないだろう。その上は広場になっており、崖にモルタルで固められた日朗上人土牢がある。広場の端には石碑は建てられている。この広場が横穴墓(横穴古墳)が造られた古墳時代末期にもあったのかは分からないが、中世にはお堂を建てるくらいの広さはある。
この広場から南に山道を上がって下がった場所にも横穴墓(横穴古墳)が残っており、大橋太郎通貞土牢(https://4travel.jp/travelogue/11467658)とされている。こちらの土牢は横穴墓(横穴古墳)と確認できる程度に形状を留めている。
この2つの穴の高さも同じで、距離も近いことより日朗上人土牢は元々は横穴墓(横穴古墳)であったものと考えられる。しかし、日蓮上人が佐渡に流罪となった文永8年(1271年)以降に、横穴墓(横穴古墳)内部が掘削され、広げられたものと思われる。日朗上人が押し込められた土牢は大橋太郎通貞土牢と同じ程度の大きさでアーチ形の天井であったと考えるべきである。また、奥には棚が掘られていたのだろう。
古墳時代は生前の地位や権力、財力でその墓の規模が決まっていたが、古墳時代の終末期にはその格差は縮小され、横穴墓(横穴古墳)でもその傾向が見られる。
日朗上人土牢は元々の横穴墓(横穴古墳)の内部を拡張する際にアーチ形天井を当時鎌倉ではどこにでも見られたやぐらの平天井のようにして高く掘削し、玄室の奥には棺や棺を置く台を削り出していたので、拡張した土牢の奥にも五輪塔や石仏などを安置する棚(あるいは、やぐらの中にもある五輪塔や宝篋印塔などを安置する棚)を新に設けたとすれば合点が行く。
1坪程度あれば人を押込められたであろうが、日朗上人の弟子には九老僧(朗門の九鳳)と呼ばれた僧侶がおり、日朗上人が権威付けされて行く間に次第に日朗上人土牢までもが広げられていったのではあるまいか?
(表紙写真は日朗上人土牢)
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日朗上人の墓。中世のやぐら跡か?
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宿屋光則の墓。中世のやぐらではないだろう。
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「宿屋左衛門光則古墳」。
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日朗上人土牢。入口はアーチ形の天井を残している。ただし、入口はモルタルで固められている。日朗上人土牢となった元々の横穴墓(横穴古墳)はこの入口がそのまま2m程度奥まで掘られていたのでは?
なお、土牢の内部は幅、奥行きともに入口の何倍もある、内部や広過ぎるのだが、当時造られたやぐらではこの程度の広さのものは何基もあった。 -
「日朗上人の土の牢」。断面図では平天井になっている。鎌倉郡に残っている横穴墓(横穴古墳)では平天井は見たことがない。
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石碑。
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土牢内部。
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土牢内部。
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土牢内部。
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土牢内部。天井は平天井?
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土牢内部。
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