2018/11/15 - 2018/11/15
53位(同エリア212件中)
クッキーさん
福岡在住の仲間が 福岡での同窓会を設定してくれました。
折角九州まで出向くのですから、ついでにいくつかの観光地を回ろうと計画を練り始めましたが、福岡までの移動ルートが 思っていた以上に煩雑。
愛媛 八幡浜から対岸の臼杵に渡るルートを見つけたので、以前から気になっていた臼杵の石仏を見に行くことにしました。
その後 豊後水道に沿って北上し、中津へ。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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松山発の列車は 子供が喜びそうな アンパンマン列車です。
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八幡浜駅から接続する路線バスがありましたが、上手く乗り継げないようなので、タクシーで移動。
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フェリー船内は広々としています。
乗客はとても少ないので ゆっくり手足を伸ばせます。 -
乗る時には気が付かなかったのですが、こんなリビングスペースもありました。
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佐田岬がずっと延びています。
手前には 豊後水道の島々。 -
ずっと以前にも見た 佐田岬の風車群。
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途切れることなく 小さな島々が続きます。
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海風が冷たく感じますが、飽きることなく海を眺めていました。
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臼杵港が見えてきました。
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佐田岬の先端は 国東半島とつながっているかのよう。
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臼杵港からも路線バスが接続しているのですが、発車時刻までは まだ間があります。
タクシーに乗るつもりでいたら、肝心のタクシーが見当たらず、ちょうど港まで客を運び、折り返し乗客を乗せていこうとしたドライバーさんにお願いして、タクシーを呼んでもらいました。実は 携帯を持たない化石人間なのです。
臼杵駅でスーツケースをコインロッカーに預けて、そのまま臼杵石仏まで向かってもらうことにしました。 -
石仏観覧券発売所でチケットを買って、橋を渡り 川沿いの小径を辿っていき、観覧券集札所で チケットを渡します。
観覧券集札所を右折。 -
石仏までの参道。
ホキ石仏第三群は修復中なので、 -
その奥、右側の ホキ石仏第一群から回ります。
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摩崖仏と聞いていたイメージと ずいぶん違って、屋根のある立派な建物です。
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ホキ石仏第一群 第一龕
菩薩立像、伝薬師如来坐像、伝釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、観音菩薩立像
中尊の釈迦如来は 童顔で親しみやすい表情。
彫法は やや劣り 螺髪(らはつ)の刻み方など簡略化した跡がみられ、素朴な印象です。
平安末期頃の作。 -
ホキ石仏第一群 第二龕
愛染明王坐像、薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、伝釈迦如来坐像
ホキ石仏第一群の中心的な存在である 中尊の阿弥陀如来は、静まった顔で 眉、目、髪を墨で描き、量感あふれる姿をみせています。
平安後期の作といわれるもの。 -
ホキ石仏第一群 第三龕
伝勢至菩薩立像、阿弥陀如来坐像、大日如来坐像、伝釈迦如来坐像、伝観音菩薩立像
三尊とも膝前が長く広いのが特徴で、如来蔵の台座には、願文や経文を納めたであろう 円や四角の孔があります。
平安末期頃の作。 -
ホキ石仏第一群 第四龕
十王立像、地蔵菩薩半跏像、十王立像
中尊に地蔵菩薩をすえ、冥府にあって亡者の罪を裁き救済する十王像を左右に5体ずつ配しています。
錫杖を持たず、右足を座し左足を立てている地蔵菩薩は、古い様式で珍しく、光背の彩色唐草紋も残っています。
鎌倉期の作。 -
坂道を上がって 石造五輪塔へ。
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石造五輪塔。
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木立の中に ひっそりと佇んでいました。
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山道を下りて遊歩道に戻り 左手を見ると、木立の中に何か建物が見えています。
急こう配の石段を上がった先に、 -
山王山石仏
3体の石仏で、中尊には大きな如来坐像をすえ、その左右には脇尊としての如来坐像を配す珍しい形式をとっています。邪気のない童顔に 心が和みます。
「隠れ地蔵」とも呼ばれ、故安井曽太郎画伯が絶賛した石像だそう。
平安後期頃の作。 -
木立に包まれるホキ石仏第一群の建物がいい感じ。
左手に見ながら 坂道を下っていくと、 -
古園石仏が現れました。
ここに安置された 中尊大日如来像が、臼杵石仏のパンフレットの表紙を飾っています。 -
写真にあるように 以前は、落ちた仏頭が仏体下の台座の上に安置されており、頭部のみの姿で親しまれてきましたが、保存のための修復に合わせて 仏頭は胴と一体になりました。
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ここまで見てきた さまざまな如来像に比べ、彫りがくっきりとしており、切れ長の目に引きしまった口元が端正で 気品ある表情です。
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古薗石仏から下りてくると、その向こうに広がる広場は 臼杵石仏公園です。
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山裾に広がる田園風景に ほっこりします。
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石仏観覧券発売所に戻り タクシーの手配をお願いし、待つ間に 見どころや時間配分などを尋ねたところ、臼杵市の立派な観光パンフレットをいただきました。
稲葉家下屋敷を訪れる時間もありそう ということでお願いすると、追加料金で共通チケットに変更してもらえました。 -
タクシーで三重塔まで。
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この龍原寺の三重塔は、太子塔ともよばれ聖徳太子を祀る塔です。
荘厳で雰囲気があります。 -
臼杵の絵地図を見ながら。
今いるところは左下の三重塔。まずは 二王座歴史の道を目指して街歩き。
臼杵市は豊後水道に面した臼杵湾の最奥部に位置し、市の北方~西方~南方は山地が迫り、東方は海に面しています。
永禄5年(1562)大友宗麟が丹生島城(現在の臼杵城祉公園)を築いてから本格的な城下町が形成され、南蛮文化に彩られた国際都市として発展しました。 -
その後、慶長5年(1600)関が原の戦いの後、美濃の郡上八幡から稲葉氏が5万石で入封し、政治や経済の中心である近代城下町として整備され、再び発展する事となりました。現在も武家屋敷や町屋、寺院などが立ち並んでおり、江戸から昭和初期の雰囲気を色濃く残しています。
正面に見えてきた 見星寺。 -
田町の表示がユニーク。
寛永4年 城の周辺に住む商人や職人を転居させるために、塩田を埋め立てて造られた町で、後に鍛冶屋などの職人の町として木賃宿や馬宿もあり、農山村からの宿泊者で賑わいました。 -
ここはもう二王座歴史の道のようです。
左手の石垣沿いにあるのは 金毘羅水。
金毘羅社の土地の岩盤をくり抜いて掘られているところから 金毘羅井戸と呼ばれています。
現在 ほとんど使用されていませんが、この金毘羅水は、海沿いの山下水、市浜の近衛水と共に 臼杵名水の一つに数えられている とのこと。 -
くねくねとした石畳の小径に ワクワク。
切通し・甚吉坂。
9万年前の阿蘇山の噴火で形成された凝灰岩を掘り崩して造られた「切通し」の道。臼杵城下で切通しと言えば、この道を指したようです。臼杵城下形成期には、この道が城下へ入る主要道の一つでした。 -
甚吉坂は、切通しからの三差路と田町方面とを結ぶ坂道です。
甚吉とは、大友宗麟の家臣で 槍の名人として名をはせた吉岡甚吉のこと。彼は、島津氏との合戦で、この坂に立ちはだかり見事な働きを見せたと伝わっていることから、いつしかこの坂の名前が付いたと言われています。 -
二王座歴史の道。
左手が 旧真光寺。
この地区は、古く祇園社(現在の八坂神社)が鎮座し、その門として仁王門があったことから、現在は二王座と呼ばれるようになったと言われています。 -
廃寺を改修した 市民ギャラリー兼休憩所です。
入場無料なのが申し訳ないくらいに 趣のある建物。 -
二階に上がると、外の風景をご覧くださいとの 親切な添え書きと共に、窓が開け放たれています。
旧真光寺の二階から見える景色は 臼杵観光パンフレットで見た通りの趣き。 -
旧真光寺。
ネット検索していると 臼杵市観光交流プラザ主催の「古地図で歩く臼杵のまち」という、ツアーガイドコースが紹介されていました。でも第一土曜日のみで事前予約も必要とのこと。
臼杵市の立派なパンフレットの中に、現在の地図と比較できる古地図を見開きにして提示してくれたら さらに楽しめるのに、と 少しばかり残念な思い。 -
江戸時代の寺請制度(檀家制度)の発令により、臼杵藩では 寛永元年頃から多くの寺院が建立、移設され、寺町が形成されました。
その中心となったのが二王座の道筋です。
旧真光寺の奥にある 法音寺。 -
狭い路地には 城下町特有の面影が残されています。
二王座付近は、狭い路地のいたるところに どっしりとした量感溢れる門構えの武家屋敷跡が残されています。 -
毎年11月の第一土日には 二王座周辺で 臼杵竹宵という催しが開催されるのだそう。
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臼杵市のマンホール。
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白壁の土蔵や 宗派の異なる歴史ある寺院が軒を連ねています。
二王座歴史の道に面して設けられた筋塀が続き、5本の定規筋から格式の高さを感じる寺は 善法寺。 -
善法寺の山門は 重厚で風格のある二重門。
二重門は 入母屋造本瓦葺で、上層は組高欄付きの回縁が付いています。両側には袖塀を設けています。 -
壮麗な構えが目を引きます。
虹梁の上に2頭の霊獣獅子像、また頭貫上に獅子の彫り物があるとのこと、ですが…どれがどれやら? -
その先にある 稲葉家土蔵は、無料の休憩所になっています。
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稲葉家土蔵がある通りの右手奥にも 雰囲気のいい小径が続いています。
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サーラ・デ・うすき。
サーラ(sala)とはポルトガル語で「居間」や「サロン」を意味しています。
この施設は、南蛮資料や市民ギャラリーなど、中心市街地のにぎわいと地域情報発信の多目的交流施設として利用されているそうです。
時期外れのせいか、ほとんど 人を見かけませんでした。
この先にある観光交流プラザが 辻 と呼ばれるところで、寛永時代頃には、この辻を中心に 放射状の道が延びた町割りが完成したと考えられています。 -
八町大路という名の中央通り商店街。
昭和の面影を残しながらも、石畳の通りや統一された家並み、何より電線が邪魔しない すっきりした商店街です。
この本町筋は 臼杵城址がある丹生島の西端から旧来の切通し(現二王座)を経由した街道とは別に、市街地を貫いて大手筋が引かれ 城へ向かう路として永禄期に造られました。 -
衰退している商店街の生き残り策、商店街の活性化を目的として、整備されている中心市街地の歴史的景観とうまく調和を図ることで、“昔ながらの商店街”に 店舗の修景に取り組んでいるのだそう。
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その一環としてアーケードを全壊し、電線ソフト地中化、石畳敷設によるモール化を図っているのだとか。
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行政主導による いわゆる「町おこし」という事業なのでしょう。
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平成15年4月の商店街リニューアルに伴い、臼杵の伝統的な文化や歴史を大切にしたい、臼杵の街を好きになってほしい、臼杵で生まれ育ったことに誇りを持ってほしい、という気持ちから生まれた 公募で選ばれた「八町大路」という愛称だそうです。
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18世紀には 本町と畳屋町を以って市場とされました。今も 毎月第一土曜日には 市が開かれて、町の伝統が継承されているそうです。
お店を覗く時間もなく 通りの雰囲気を味わっただけでしたが、住んでいる人だけでなく 通りすがりの観光客の目を楽しませ、心和ませる街並みでした。 -
大友宗麟の時代には 畳屋町の一角には、キリスト教会や修練院があったといわれています。江戸時代になると商人の町になり商家が軒を並べていました。
その街角に立つ「石敢當」の大きな文字が刻まれた石塔。臼杵では せっかんとう、沖縄では いしがんとう、と呼ばれる この石塔は、古代中国の武将にあやかった魔除けの石塔。その名を石に刻んで守り神としたとも云われています。
戦国時代、大友宗麟によって丹生島城が築かれ、臼杵は明の船や南蛮船が行き交う交易地として大いに栄えていました。そんな中で度々起こる取引上の諍いを治める法として 明から伝わったこの石敢當を建てたところ、以後諍いが治まったという話が伝わっています。
大きく上品で整っている文字は 筆跡に大陸的な風格があると、案内にありますが
どちらかといえば 子供が描いた文字のようにも思えます。 -
畳屋町から北へ歩き 横町辺りで左折すると見えてきた久家の大蔵。
ここは1868年(江戸時代末期)に棟上げされた古い蔵で、造り酒屋の『久家本店』がかつて貯蔵庫として使用していた酒蔵です。
心持ち 酒の匂いが感じられるような気が…
現在は改修してギャラリーとして開放されており、蔵の外壁や内部には、アズレージョの壁画が装飾されています。 -
この壁画は、ロジェリオ・リベイロ氏により制作された ポルトガル独自のアズレージョと呼ばれるパネルで構成されたものです。
ポルトガルのアズレージョに比べて、簡素化された絵柄は やや現代風。
天使や聖職者などが描かれたパネルの中には大友宗麟も描かれたパネルもあり、往時のキリシタン文化を彷佛とさせる絵柄。 -
八町大路に立ち並ぶ建物に比べて 年季が感じられますが 古色蒼然とした趣き。
この辺りの、横町、浜町は、江戸時代 町のほとんどが魚を扱う店でしたが、江戸時代の末期になると、酒や醤油の醸造も盛んとなり、町の店先での販売が拡大し、城下町の経済が活性化したと言われています。
途中で臼杵川へ向かえば 対岸にフンドーキン醤油の倉庫群が見られるのは、その頃の名残なのでしょう。
途中には野上弥生子文学記念館もあるのですが、何しろ時間が少なすぎます。 -
浜町、唐人町と北へ進むと、左手に建つ 稲葉家下屋敷。
正面入り口の御門は 外塀と一体となって 見るからに武家屋敷の風情を醸し出しています。 -
稲葉家別邸は、廃藩置県に伴って東京へ移住した旧臼杵藩主・稲葉家の臼杵滞在所として明治35年(1902年)に建築されました。建築は近代に入ってからのものですが、武家屋敷の様式を色濃くとどめた屋敷です。
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屋敷内を素通りして、その奥にある庭園へ。
下駄が置かれていて、それを履いて、お庭に出られます。 -
庭から見える 大書院のある建物。
踏み石の風情が素敵。 -
お庭を抜けていくと、「旧平井家住宅」へとつながっています
旧平井家住宅は、稲葉家別邸に隣接している江戸時代の建築様式を残す上級武士住宅です。 -
上級武士住宅とは言うものの、どこかひっそりとした離れ屋敷風の建物です。
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離れ棟。
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大書院、玄関先の式台、天井の高い広間など。
どの部屋の設えも立派。
気がせいているので わずか20分余りでの見学でした。 -
外塀は、下見板張りの姿を受け継いだもので、土塀の支柱と基礎部分には、地元産とみられる「灰石(阿蘇溶結凝灰岩)」が用いられています。
基礎部分の石積は 全高の3分の1を占め、独特の意匠を凝らしています。
外塀の周りには水路が通っていて、土塀との調和が素敵です。
そこから歩いて数分、 -
臼杵城跡です。
臼杵城の城主・大友義鎮(よししげ)は法名・大友宗麟(そうりん)として知られる戦国武将。大友氏代々の本拠地・府内(大分市)から臼杵へ本拠地を移したのは1556年、まさに戦国時代の後半。
正面から。ここは大手口にあたり、古橋の左右は水堀となっています。橋の左側は黒い岩肌の島の岩盤そのままを利用しており、右側には平櫓が建っていたそう。
かつての城門跡には 今では鳥居が立ち、手前には大きな石灯籠が設置されています。
右端に見えているのが畳櫓。 -
この丹生島と呼ばれる島は、海に囲まれ、干潮のときに西側の一か所だけ砂州ができて陸地と繋がる、まさに陸の孤島。この島全体を城にしたのですから、これは難攻不落の天然の要塞です。
明治になって周囲が埋め立てられるまで、城は海に浮かんでいたのです。
埋め立てをしないで 天守などが残されていたら、日本のモンサンミッシェルと呼ばれていたかもしれませんね。 -
この城は丹生島に築城されたこと、また、島の形が亀の姿に似ていたところから別名、丹生島城とも亀城とも呼ばれていました。
薩摩の国の島津氏の侵攻の際には、周辺の領民を全て避難させたと伝わりますから、その規模は想像を絶するほど。
現在の地形と見比べるために、回転してみました。
稲葉家下屋敷から歩いてきたところが、島が二か所で陸地とつながっているうちの下の部分です。 -
現在、埋め立てにより海の孤島の雰囲気は失われつつあります・・・というよりほとんどその面影はありませんね。
川を挟んだ下側が 先ほどから歩いてきた八町大路や、二王座歴史の道。
現在の臼杵城下町の形成は 大友宗麟が構築した市街地を基礎として、稲葉家によってなされました。
臼杵藩の城下町プラン(町割り)は、慶長13年の 堀川の造成から始まり、17世紀の後半には、南から伸びた舌状大地と、海浜や入り江を埋め立てて造成した低地からなる狭い地形の上に、三の丸、町人町、寺町、侍町が配置され、今に残されている町割りが完成したのです。
臼杵城下町の特徴は、城に近い位置に町人町があり、その周囲を寺町と侍町がとりまいていることだそうです。 -
かつては臼杵湾に浮かぶ島に築かれた城だった臼杵城は、現在はすっかり埋め立てられ「都会の小山」の上に建つ城と化しています。こちらはかつて城の西側に築かれていた九州本土との接続点側になります。北と南と東側は海でした。
廃藩置県後、明治6年(1873年)明治政府は 臼杵城の廃城を決定し、取り壊され「公園地」に指定され、現在は臼杵公園として市民の憩いの場となっています。 -
橋を渡って中へ。
外敵を防ぐために岩を掘り切って造った狭い道は、馬の鐙(あぶみ)に似ていることから「鐙坂」と呼ばれています。この坂は周囲を取り巻く白壁と高く積まれた石垣のコントラストがとても美しく、これほど綺麗なカーブを描いた坂は全国的にも珍しいものだとか。
ヨーロッパから布教に訪れた宣教師たちも驚いたそうです。
天保年間に建てられた「畳櫓」までこの坂が続きます。
岩場の曲がりくねった鐙坂と、その奥にそびえる櫓群が一望の場所が 定番写真スポットだそうですが、どうしたことかカメラに収めていません。石垣をフォーカスしすぎたのかも。
櫓門の向こう側が二之丸にあたります。 -
きれいに積まれた石垣。
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巨大で立派な 大門櫓。こちらは昭和の復元。
現存しているのは先程の畳櫓と、本丸の奥に建つ二層の卯寅口門脇櫓の二棟のみ。 -
大門櫓から少し奥へ行ったところに残る 二の丸の巨大な石垣の土台。
城主居館の庭園の一部「西の丸居館庭園跡」が「臼杵護国神社(城址内)」に残されており、戦国時代の名残りを残す江戸初期の庭園は、戦国武将の猛々しさを見せつける 一見の価値のある遺構・・・
さほど興味が湧かなかったのか 写真に収めていませんでした。 -
本丸と二の丸の間は土橋でつながれており、左右は削り込まれた空堀になっています。
土橋向かって右側の空堀。深く掘り込まれた箱堀で、周囲を石垣で固めています。左側は本丸で、奥の出張ったところは「武具櫓」跡。
本丸跡手前にある「武具櫓跡地」に残る空堀の石垣は、海に囲まれた要塞ならではの景観を愉しめるスポットの一つだそう。 -
本丸虎口の櫓台の石垣は じっくりと眺めます。
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現代風に 山の法面が補強されていますが、ここはかつて島だったんですね。
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本丸の南側にある もう1つの現存櫓である卯寅口門脇櫓。
卯寅口を見下ろす 岩盤の上に築かれた監視タワーの雰囲気。 -
本丸奥に鎮座する卯寅稲荷神社は狛犬が狐でした。
伏見稲荷大社にも似た鳥居の中をくぐって下へ。このまま本丸奥の下部へ下りてきて、入り組んだ路地を抜けて 住宅街の中を急ぎ足で駅に向かいました。
古地図で確認すると、駅へ向かう道を 少し海側へ行くと、かつて島だった端の崖辺りの様子が見えたのですが、この時は全く気が付かず見逃してしまいました。 -
大手門公園から入って 城跡を歩き、駅に着くまで30分。まだ15:45です。
もう少し臼杵城跡について調べていれば 見どころを見逃すこともなかったはず。
列車を1便遅らせてもいいつもりで もう少しゆっくり城跡を歩けばよかったと 一抹の後悔。
駅前にある巨大石仏は 優しいお顔。
臼杵17:10発の 特急にちりんシーガイアで中津駅へ向かい、一泊します。
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