2018/11/17 - 2018/11/17
38位(同エリア258件中)
クッキーさん
福岡の周辺で、近場の観光地を探していたら、吉野ケ里遺跡が見つかりました。縄文時代の代表、三内丸山遺跡を見てきたからには、弥生時代を代表する遺跡として、ここを訪れないわけにはいきません。
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代(紀元前10世紀頃~紀元後3世紀中頃)の前期から後期にかけてムラからクニへと発展した貴重な遺跡です。
吉野ヶ里遺跡の発掘調査は昭和61年に始まり、平成元年の2月に大々的に全国に報道され「邪馬台国の出現では?」と話題を独占しました。このフィーバーの最中、北墳丘墓に埋葬されていた大型の甕棺から 有柄銅剣やガラス製管玉が出土し、この出土品がきっかけとなり、平成3年に特別史跡に指定され、平成4年には、遺跡の保存と活用を目的に国営公園化が決定しました。
その恩恵に与り、弥生時代の人々の暮らしを想い、古代のロマンを味わってきました。
旅行記を作成するうちに面白くなって いろいろ調べていくにつれ、説明がくどくなってしまいました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ホームを上がって通路を歩いていると、コインロッカーが見えてきました。
ここで身軽になれて 一安心。 -
小さな駅ですが 付随した案内所が立派です。
中に入って 吉野ヶ里公園までの行き方を尋ねました。 -
案内所前の広場の向こうに見える 小さな橋の脇にも案内表示。
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農道のような小径ですが きれいに整備されています。
案内表示があちこちにあるので、迷いようがありません。 -
吉野ヶ里公園の中へ。想像していた以上に、立派な建物です。
旅行に出る数日前の天気予報では、この日は よくて曇り空、悪ければ雨、という予想。
雨であれば 柳川観光を先に終え、翌日 博多に戻る前に訪れるつもりでいたのですが、前夜に降ったおかげなのか 遺跡を歩き回るには絶好の晴天になりました。
時期が時期だけに、晴れ女パワーが炸裂したようです。 -
シルバー割引での入場。
遺跡の説明は、吉野ケ里歴史公園のホームページから引用しています。
詳しく解説されていて、とても参考になりました。 -
広大な敷地です。
この広大な敷地は 「入口ゾーン」「古代の原ゾーン」「環壕集落ゾーン」「古代の森ゾーン」という4つのゾーンからなっています。
「古代の原ゾーン」にある「遊びの原」には、子供が大好きな大型の遊具がずらりと並び、「遊びの原」の横にある芝生広場(弥生の大野)は、約6ヘクタールという驚きの広さ。
これから 青のコース・ひみかのみちを辿って甕棺墓列まで歩くつもり。 -
歴史公園センターに繋がった天の浮橋。
天の浮橋とは 仰々しい名前ですが、田手川という小川を渡るための小さな橋です。風景はのどかな田舎って感じです。
と、思ったら、北の方に 宮殿のようにも見える茅葺きの館が見えて興奮してきます。 -
橋を渡りきった先には 集落への入口の門があります。
吉野ヶ里遺跡の発掘調査は昭和61年に始まり、平成元年の2月に大々的に全国に報道され「邪馬台国の出現では?」と話題を独占しました。この吉野ヶ里フィーバーの中、北墳丘墓に埋葬されていた大型の甕棺から有柄銅剣やガラス製管玉が出土し、3ヶ月間で100万人もの人々が吉野ヶ里遺跡を訪れました。
吉野ヶ里歴史公園での弥生集落の復元・整備は、発掘調査によって明らかになった弥生時代終わりごろ(紀元後200年前後)の吉野ヶ里遺跡のありさまを再現しています。
発掘された祭殿や物見櫓、高床倉庫などの掘立柱建物跡、竪穴建物跡や環壕跡などの中から、弥生時代終わりごろに存在していたものを選び、発掘された場所の真上に復元しています。
復元に際しては、当時の集落の空間構成(構造)を調査成果に基づき、約40haの環壕集落を「吉野ヶ里のクニ」の中心集落ととらえ、それぞれの区域を構成しています。 -
門の左右は高い柵が建てられ、その裏には堀が掘られ、さらに侵入者を妨害する尖った杭(逆茂木・乱杭)が刺さっています。
吉野ヶ里遺跡が外敵からの脅威にさらされていた村であることを突きつけられる光景です。もっとのどかで和やかなイメージを持ってたのですが。
説明看板には米作りが盛んになって、水や土地を奪い合う争いが起こるようになり、集落を守るためにバリケードを築いていたことが記されています。 -
環壕入口。
吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所です。
木製の鳥形がのせられた門をくぐります。 -
外壕を埋め立てて土橋を造り、その内側には大きな門を備えていたようです。また門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛け(逆茂木)があったと考えられており、この場所の重要性がよく分かります。
逆茂木は 先を尖らせた杭や鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐバリケードの役割をはたしていたと考えられています。 -
小径の脇に顔を出す イノシシの親子。
ここだけ見ると、のどかな光景です。 -
南内郭へ。
南内郭は 吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられています。 -
櫓門
櫓の上には四方に盾が置かれ、兵士が出入りする人たちを見張っています。 -
南の「守り」
南内郭の南側の「守り」は、兵士が待機します。また、中に入れない人々が待っています。
門には、正門と脇門があり、正門は監視を厳重にするために、櫓門になっています。 -
周囲を環壕と城柵で囲まれ、敵を見張ると同時に吉野ヶ里集落の権威を示すシンボル的役割を持っていた物見櫓と考えられる建物跡が見つかっていること、人々が住む竪穴住居が中心であること、当時としては極めて貴重な一部の有力者しか持つことができなかったと言われている鉄製品が数多く見つかっていることなどから、このように考えられます。
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南内郭の居住者達の性格。
南内郭の近辺からは青銅器鋳型が発見されており、青銅器や玉などの祭具の制作や調達を担っていた可能性が考えられます。また、最高政治権者(王)は祭司者の統括者としての役割も担っていたと考えられます。 -
重要エリアだけに、各所には物見櫓が建てられ、櫓に上ってみると、遠くの山並みなど、周囲一帯を見渡すことができました。
見張り台の上からの眺望。向こうの住居群は一般の人達が暮らす「南のムラ」のようです。 -
見張り台の上からの眺望。
南内郭の入口の櫓。 -
南内郭の北側方面。北内郭へ向かう出口。
物見櫓が4つもあって、中央には広場があります。
右端手前の建物は、共同で煮炊きを行うための建物だそうで、どうやら各住居には煮炊きをした痕跡がないようです。 -
南内郭内の竪穴住居群。
南内郭は、竪穴建物(竪穴住居)主体の集落で、平屋の建物もいくつか存在します。南東部に2ヶ所出入り口があり、その近くに物見櫓と考えられる掘立柱建物跡が見つかっています。内部から出土する土器は日常的に使うものが多く、当時貴重であった鉄器を多く出土しています。
そこで、南内郭を実際にクニを運営する高階層の人々(大人)の居住かつ政治活動の場であったと考えられました。
高階層の人々(大人)の居住なら こうであろうと考えられて復元された竪穴住居が並ぶ 南内郭の様子。 -
西側に見える二重の柵が、南外郭の重要性を物語るかのよう。
柵の向こうは倉庫が並ぶ「倉と市」。 -
「大人(たいじん)」の妻の家。
ここは家事や土木工事を取り仕切る「大人」の妻の家です。中では母親が櫛で娘の髪を梳いています。 -
「大人(たいじん)」の家。
ここは家事や土木工事を取り仕切る「大人」と家族の家です。中では、道具の出来具合を見ています。
中はこのような状態。調理をするような場所はなさそうですね。 -
広場に面した小屋の中に置かれた展示物。
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これらの衣装を着て 記念写真は如何?
子供が喜びそうです。 -
農耕社会。
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「大人(たいじん)」の家。
ここは祭祀、儀礼を取り仕切る「大人」と家族の家です。中では、祭りの相談をしています。 -
「王」の家。
ここは「王」と家族が暮らしている家です。「王」の力を示す品々が枕元に置かれています。
外観は、どの竪穴住居も ほとんど同じに見えます。身分の差が生まれた時代ですが、さほどの差はなかったのかも・・・ -
「王」の娘夫婦の家。
ここは「王」が 結婚した娘のために建てた家です。 -
「王」の妻の家。
ここは「王」の妻の家です。外で機織りをすることもあります。
こうした住居を復元するにあたり、考古学者たちの豊かな想像力が必要ですね。 -
集会の館。
ここは「王」や「大人」たちが集まり、儀式や話し合いをする建物です。 -
北内郭に向かう前に、南内郭横にある「展示室」へ寄り道。
遺跡から発掘された出土品が展示されています。
弥生時代に特徴的な 食料貯蔵用の素焼きの土器などの日常使われていた道具。 -
稲穂を摘む石包丁など。
縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されています。
ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられています。最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されています。 -
腹部に10本の矢を射込まれた人骨の写真、首なし人骨など、犠牲者の資料もあり、当時の戦いが ちょっとしたいざこざという感じではなく、生死にかかわるような戦闘であったことが見て取れます。
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墓の様子。
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位の高い人が葬られた墳丘墓から出土した管玉(くだたま)などのアクセサリー類まで展示品は100点以上。
実際に出土したものや 復元された模型などが展示されています。 -
「弥生の衣服」
上層人の衣服に使われていた絹。
植物の日本茜による草木染めや、巻貝の分泌液を用いた貝紫染めが確認されており、弥生人が 高度な染色文化を持っていたことがわかりました。
貝紫の染料は、アッキガイ科の巻貝の分泌液を使いますが、ひとつの貝から少量しか採れないため、染めるためには大量の貝を必要とします。 -
古代の染色方法での復元でしょうね。
驚くほど鮮やかで きれいな色合いです。貝紫、西洋ではロイヤルパープルと呼ばれる高貴な色の象徴。洋の東西を問わないようです。
貝紫染めなどに使われた貝類。
アカニシ、レイシ、イボニシなどの 色素の採れる貝は 有明海に生息していました。 -
一方、貝製の腕輪は 奄美大島以南にしか生息していない大型の巻貝でつくられています。この 琉球弧と九州のあいだで行われていた貝交易は、「貝の道」と呼ばれています。
貝と取引されたのは、弥生土器に入れられた 米や酒などだと考えられています。
弥生時代前期後半、稲作農耕を基盤とする農耕社会が全国に浸透しはじめていた時期、北九州地方を中心に南海産大型貝類を用いた貝製腕輪が突然に使用されはじめました。
農社会の成立と機をいつにして「貝の道」は始まったのです。 -
ここ吉野ケ里遺跡だけにとどまらない歴史の流れは 知れば知るほど興味が湧きます。
展示室を出て、北内郭へ。 -
北内郭は まつりごとの場所。
北内郭エリアの配置です。主祭殿と北墳丘墓を結んだ直線上に立柱と祀堂があるように見えます。
吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられています。 -
田植えや稲刈りの日取りを決めたり、季節ごとのお祭りの日を決めたり、また大きな「市」を開く日取りを決めるなど、吉野ヶ里を中心とするクニ全体の重要な物事についての儀礼的な話し合いと 祖先への祀りが行われていた場所と考えられています。
また当時は、重要な物事が話し合いでは決まらない時には 最高司祭者(祖先・神の声を聞くことができる特殊な能力を持った人)に祖先の声を聞いてもらい、その声に従って決定していったと考えられています。 -
これは「北内郭」の発掘当時の状況です。
ここだけでなく、当時と同じ場所に建物などを復元するというコンセプト。 -
「南内郭」が政治なら、宗教的な性格を持つのが「北内郭」です。入口は南内郭よりも厳重にピッタリと木で埋められた壁になっていて、真っすぐ入ってこられないように、中が簡単に見えないように 鍵形に折れ曲がった鍵形構造になっています。司祭や巫女などの神性さを保つために、一般人からは見えないようにしていたのかもしれません。
こうした造りは古代中国の城郭都市に多く見られ、吉野ヶ里が大きな影響を受けていることを示しています。 -
鍵形の壁の向こうに 主祭殿が建っています。
吉野ケ里のまつりごとを司る最重要施設です。
主祭殿は 吉野ヶ里環壕集落内で最大規模の建物であり、その主軸が北墳丘墓と南墳丘墓を結ぶ南北軸に一致する建物であることから、北内郭でも祭祀性が高く、北内郭の祭祀の中心となる建物と推定しています。
柱の太さ・間隔から3層2層建ての高床建物となると考えられ、古代中国の建物に関する記録や民族(俗)例等から、中層と上層は異なる機能を持っていたと想像できます。
中層部分は政治の場と想定し、また、祭りの際には直会の場としても利用された物として、共同体にとっての重要な決定を行う際の支配層の集会を行う場としました。
上層部分は南北の主軸が一致する建物はもっとも祭祀性の高い場であったことが考えられるため、最高祭祀権者が祖霊に安寧と豊饒の祈りをささげる場として復元しました。 -
主祭殿2階。
吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りのイメージ。吉野ヶ里の王やリーダー、周辺のムラの長も集合しています。中央にいるのが王。
ここでは指導者たちが重要な事柄を話し合ったり、最高司祭者が祖先の霊に祈りを捧げる儀式などが執り行われていたようです。発掘調査の成果や古代中国の事例などを参考に高さ16.5mで復元しています。 -
主祭殿3階。最高司祭者の神がかりの様子。
最高司祭者(巫女)が、祖霊からお告げを授かるために、蔓を頭や身体に巻き、手に小笹を持って、琴の音に合わせて神がかりしようとしています。
巫女が祈っている方角に北墳丘墓があります。
巫女の発するお告げを聞き分ける従者が控えており、この結果は2階で会議を行っている王やリーダーたちに伝えられます。
鏡や玉、剣は、巫女が 祖霊と交信するための祭具です。 -
斎堂。
斎堂は主祭殿と東祭殿との間に位置することから、まつりの時に身を清めたり、まつりの儀式に使う道具などが置かれていた施設と推定しています。 -
竪穴住居(従者の住まい)。
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北内郭で唯一の竪穴住居です。これは最高司祭者の最も身近に仕え、その世話に当たる従者の住居であったと推定しています。
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高床住居。
神聖な区域の中にあり、高床倉庫とは違って ほぼ正方形に近い形をしていることから、吉野ケ里の最高司祭者の住まいだったと考えられています。 -
最高司祭者は一般の人々の前にはほとんど姿を現さなかったと考えられており、まさしくプライベートな空間だったと思われます。
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最高司祭者の生活空間の様子。
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東祭殿。
東祭殿は北内郭の中心線である夏至の日の出と当時の日の入りを結ぶ線上にあることから、季節ごとのまつりの儀式が行われた施設と考えられています。また、何度も建て替えられた跡があることから、まつりなどが行われるたびに建て替えられたのかもしれません。 -
主祭殿を振り返って。
弥生人の衣装をまとっているのは スタッフの方々。
柱を16本使用した高床建物で、内側にある柱で床を支える構造になっていて、柱の配置や平面形態から 楼閣のような建物だったと考えられています。 -
北内郭を振り返って。
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北墳丘墓・立柱・祠堂・墓道の案内図。
位置関係がよく分かります。 -
祀堂と立柱です。
祀堂は歴代の王の祖霊を祈る建物、柱は霊が宿る柱として信仰の対象になっていたのでしょう。 -
祀堂は 歴代の王の祖霊へお供えを捧げ、お祈りをする建物です。
墳丘墓に眠る祖先の霊に毎日お供え物を捧げ、お祈りをするための施設と考えられています。
その背後に見える 台形の丘のようなところが、北墳丘墓です。
青森の三内丸山遺跡で見た ドーム型の建物よりも、周りの風景に溶け込んでいます。 -
墓道です。北墳丘墓にお参りするための道で、環濠の外まで延びているので、周辺集落の人々もお参りしていたのかもしれません
「十三のいま昔を歩こう : 佐賀・吉野ヶ里遺跡」から画像をお借りしました。 -
北墳丘墓の北側にぽっかりと開いた入口。(画像はお借りしたもの)
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墳丘墓とは 土あるいは石を積み重ねて丘のような形(墳丘)とした墓。吉野ヶ里遺跡の環壕集落北部に位置する北墳丘墓は弥生時代中期前半~中頃にかけてつくられ、南北約40m、東西約27mの長方形に近い形態で、その高さは4.5m以上あったと考えられています。
ここは、歴代の王が葬られた場所の上に建物を立てて保存展示している場所。
実は、南のムラなどの遺構では、実際の遺跡の上に土の層を作って、そこに復元した竪穴住居や高床式倉庫などを建てていますが、ここは本物の遺構面を生で見られる場所。 -
北墳丘墓の内部は、このように発掘された状態で保存されています。
建物は、大空間を一望できる空間を確保するためにオクタゴン形状(八角形)で平面形状を作り出し、底面にはプレストレスコンクリート梁(PC緊張材)を用いるなどの工夫がなされています。
この北墳丘墓の出土品がきっかけとなり、平成3年に特別史跡に指定され、平成4年には、遺跡の保存と活用を目的に国営公園化が決定しました。 -
発掘調査中は 遺構面まで掘り下げられましたが、その後に遺構の保存のため一旦埋め戻されました。遺構面の保護処理方策、管理方法等の実験等、検討が重ねられ、発掘当時の状況を公開する施設として設備が進められ、平成20年2月に再び公開されました。
発掘され保管されていた甕棺14基は 再び北墳丘墓の遺構面に設置されています。 -
墳丘墓の築造方法を説明したパネル。
北墳丘墓は、人工的に造られた丘で、違う種類の土で「土まんじゅう」を作り、それを何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっています。
この技法は 当時日本では他に例のない高度な盛土技法です。 -
様々なパネルによる解説は、
甕棺墓列模型、 14基の甕棺の配列の図、
埋葬の様子、 墓道を通って 北墳丘墓にお参りする様子など。
調べていくと、ちょっとした勘違いが分かりました。
ピラミッドとか古墳をイメージしていたのですが、まずは 大きな墳丘墓を造り、その頂部に穴を掘り、埋葬していたようです。 -
埋葬手順を説明したパネル。
1. 墳丘の頂部から2m程穴を掘り、さらに掘り下げた穴から横穴を設けます。
2. 掘った横穴に甕棺をひとつに据えます。甕棺の中に死者を埋葬します。
3. 蓋となる甕棺をかぶせ継ぎ目を粘土でふさいで埋め戻します。
甕棺による埋葬方法は現在、日本では佐賀や福岡を中心とする北部九州で多く発見されている特徴的な方法です。 -
本物の遺構を露出展示するために、ポリシロキサン系樹脂を遺構面に散布し、ヒビ、カビ、コケの発生を防いでいます。
遺構面にとって よりよい高湿度状況を維持し、見学者も快適な状況で見学できるように、遺構面と見学回廊部は独立した空調を持つ、ハイテク仕様です。 -
見学デッキは、北墳丘墓の中央に入り込むように造られているため、遺構面や甕棺の状況等を 間近に見ることができます。
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弥生時代の真上に立って、版築構造がわかる地層断面をじっくりと見学。
とはいうものの いまいちよく分からない層の重なり具合。 -
一般の甕棺墓地と比べて、ここでの埋葬の特徴として、
子供用はなく、大人用の甕棺のみ、外側・内側が黒色顔料(漆または炭化物)で真っ黒く塗られていること、銅剣や管玉、絹など高い身分を示す副葬品が出土、甕棺の埋葬密度が低いこと、などが挙げられます。
14基中、6基から歯と骨片が少量出土しています。
このお墓は弥生時代の中頃、紀元前1世紀のものですが、その後はお墓としては使われなくなり、その代わり祖先の霊が眠る場所として人々から大切にされていたようです。 -
銅剣やガラスの管玉は複製。
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甕棺の中に 死者を埋葬した様子。
外側・内側は 真っ黒く塗られています。
甕棺による埋葬方法は、佐賀や福岡を中心とする北部九州で多く発見されている特徴的な方法だということです。 -
墳丘墓の配置の妙。
北墳丘墓と南祭壇の中心を結んだ線は、北内郭の主祭殿の中心を通り、同じ線上に北墳丘墓前面の祠堂、立柱が並ぶことから、集落の聖なる中軸線ともいうべき重要な線であること。また、北内郭の中軸線は夏至の日の出、冬至の日の入りの線と一致することが図で解説されています。
最高権力者に 夏至・冬至の知識があるということは、季節の移ろいが分かるということ、そのため田植えや稲刈りの時期が判断できたんでしょうか。 -
甕棺墓列は 一般の人々の墓地。
大型の素焼きの土器に 亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようです。
吉野ヶ里では丘のいろいろな場所にまとまって埋葬されており、想定では15,000基を超える数が埋められていると考えられます。 -
中でも、墳丘墓の北側には、真ん中に道(お参りするための道であるとも、左右に埋められている人々の身分の違いを表すための区別の線とも考えられています)が設けられていて、その両側に全部で2,000基を超す甕棺が長さ600mにわたって整然と並べられています。
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甕棺に葬られた人々の中には頭部がないもの、肩や腕に刀傷(かたなきず)を受けた跡があるもの、腹部に10本もの矢を打ち込まれているものなど、当時の社会の様子を知る手がかりとなるものが見つかっています。一般的には戦争の犠牲者と言われていますが、例えば10本の矢を打ち込まれた人は腹部に集中しており、激しく動き回る状況の中で これほど正確に集中して打ち込むことは不可能だと思われること、打ち込まれた10本の鏃(やじり)が様々な材質や技法で作られたものであることなどから、戦争の犠牲者とは思えないという考え方もあります。
当時は、王もリーダー層も一般の人々も皆 甕棺に葬られていると考えられますが、甕棺の大きさや副葬品、葬られている場所などに違いがあったり、朱が塗られているものもあり、こうした違いが身分の差を表していると考えられています。 -
土まんじゅうのようなものが 見えてきました。
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その先へ行くと、素焼きの甕棺が ゴロゴロ、という感じで置かれています。
一族の集まり。
長大な墓列も よく見ると墓列の長さが、おおむね長さ20mから40mごとに、ひとかたまりになっています。血縁関係のある一族の集まりと考えられています。 -
甕棺墓とは、弥生時代に北部九州で盛んに行われた埋葬で、高さが1メートルほどもある大きな甕形の素焼きの土器を棺とします。
多くの甕棺墓は、二つの土器の口を合わせてカプセル状態にした棺に遺体が入れられていて、弥生人の骨も約300体が発見されています。 -
甕棺には大きく2つの種類があります。同じ形のものを上下に組み合わせた「合わせ口甕棺」と大きくて平らな石などを蓋の代りに使った「単棺(たんかん)」です。
この大量の甕棺は、いったい誰がどこでどうやって作ったのでしょうか。大きさもさることながら、薄く作られていて、今でも同じように作ることは難しいといわれており 実に謎の多い甕棺墓です。(吉野ケ里ガイド・福田幸夫さんのコメント) -
吉野ケ里遺跡は南北約4・5キロの小高い丘陵地にあり、その尾根部分に列をなすように列埋葬の墓地が作られました。その列埋葬の中で最も長くつながっていた場所は、約600メートルにも及びます。
現在 公園では、その一部の約300メートル、約千基の列埋葬の様子を再現しています。 -
再現は甕棺の模型を使っての一部再現と、甕棺墓の上にあったであろう、土盛りで行われています。
この列埋葬再現地区は、まだ地下に埋まったままの甕棺墓が多く、今でも墓地となっています。
全く人の姿の見えない中、厳粛な気分になりました。 -
甕棺墓列から戻る途中に。祀堂越しに見る北内郭。
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北内郭が見える辺り、甕棺墓列がありました。祀堂の前にある ボロボコとした場所です。
北内郭に近い所にあることから、比較的身分の高い人が葬られた場所だったと思われます。
行くときには 見落としていました。 -
この辺り、オレンジの線・やよいの道を歩いています。
北内郭の外側にある建物群の中の一つ、高床倉庫です。
北内郭のすぐ外側に配置されていることから、この倉庫群には、北内郭と深く関係のある祭祀の道具や宝物などの品々が納められていたとされています。 -
供物倉(お供え物の倉)。
祭りや儀式のときに、お供えする食物などを収める倉です。 -
稲穂の倉。
その年に初めて収穫し、秋の祭りで特別にお供えする稲穂を収める倉です。 -
道具の倉。
農作業など、様々な仕事で使う道具を収める倉です。 -
少し下ると 中のムラ へ。
吉野ヶ里の最も重要な場所である北内郭で行われる祭りや儀式、政事に使ういろいろなものを 神に仕える司祭者たちが作っていた場所と考えられています。神に捧げるお酒を造ったり、蚕を飼って絹糸を紡ぎ、絹の織物を作ったり、さらには祭りに使う道具なども作られていたと考えられています。
なお、現地にはありませんが、こうした作業に携わる司祭者たちが住んでいた住居もこの近くにあったものと考えられます。
機織りの家。
司祭者に仕え、中のムラで暮らす女性たちが糸を紡ぎ、祭りや儀式で使う絹織物を織る家です。 -
酒造りの家。
女性たちが、その年に収穫した米を蒸して 祭りや儀式で使う酒をつくる家です。
この時代から 酒造りがされていたとは驚きです。 -
南内郭の西側にある 環壕と土塁。
こんなに堅固な防御施設を造らなければいけないほどに、戦いの機会が多かったとは 思いもよらないことでした。
大きな濠を削り、削った土を外側に高め、土塁として敵の侵入を防いでいます。土塁の上には木の柵を設け、城柵としていたと考えられています。こうした構造から「城=土から成る」という言葉の語源となったと考えられています。 -
倉と市 ~倉庫群、市も開かれていた~
海外との交易品や日本各地のクニグニの特産品などが集まり、盛大な市が開かれたり、市で取引される品々が保管されていたと考えられる倉庫群などが集まった、吉野ヶ里を支える重要な場所であると考えられています。
レンガなどに描かれた古代中国の市の様子とよく似た構造をしており、また当時の交易の重要な交通手段と考えられている「舟」が利用できる大きな川がすぐ近くを流れていたこと、さらにはこの地域全体が大きな壕で厳重に囲まれていることなどが、こうした考え方の基になっています。
稲穂の倉、雑穀の倉、市の倉には、吉野ケ里の「国」の各地から税として納められたものが 収められています。 -
西方倉庫群は 平成11年度の調査で、大きく四郡に分かれるさらに多くの高床倉庫群や竪穴建物が発見され、その配置などから、現在のところ具体的な遺構は指摘できませんが、「クニ」の倉、「廷閣」としての機能の他に『魏志』倭人伝にみえる「市」的な施設空間が存在した可能性があります。
高床倉庫の足元の はるか向こうにも、城柵が見えています。 -
倉と市のエリアを出て南のムラに向かう途中、ふと気が付くと 南のムラから遠ざかっていくような気が・・・振り返ると 南内郭の櫓が見えています。
その右手に 南のムラへと続く柵が見えます。
集落を一周 ちゃんと囲わないと安心できなかった当時の情勢が浮かんできます。 -
途中で引き返して 無事 南のムラへ。
環濠集落の南部にある「南のムラ」は 「下戸(げこ)」と呼ばれる一般の人々が住んでいた区域。
人々は農耕や 生活に必要な道具作りを行いながら、北内郭や南内郭の支配層の生活を支えていました。 -
北内郭や南内郭と違い、この区域を囲むような壕などの特別な施設がないこと、竪穴住居3~4棟に対し共同の高床倉庫1棟が付くという、日本全国で見つかっている一般的な集落のあり方と良く似ていること、北が上位で南が下位という古代中国の考え方に影響を受けて作られていると見られる吉野ヶ里集落全体の中で 一番南に位置していること、などが こうした考え方の基になっています。
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南のムラの居住者達は 一般身分であったものの、他の集落とは性格を異にする吉野ヶ里環壕集落内に居住していたことを考えると、「国」社会では比較的高い位置にいるが、一方、吉野ヶ里環壕集落内では 支配者層(大人層)に従事する役割があったと考えられます。
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南内郭を遠望。
電線とか一般住居など 一切見えないので、そのまま弥生時代にワープしているような感覚。 -
どこからか弥生人が現れてきそうな 南のムラ。
高床建物や竪穴住居など、合わせて27棟の建物が復元されています。
吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測されるそうですから、下層の一般住民は この一帯のさらに外側に住んでいたのでしょうか。 -
こうして見ると、竪穴住居の大きさや形などは 南内郭にあるものと ほとんど同じようです。
南のムラから戻る途中には 弥生くらし館があり、勾玉づくりや 火おこしなどの体験プログラムに参加できるのですが、時間もなく 横目で見るだけでしたが、子供が喜びそうな体験工房です。 -
歴史公園センター内の展示物。
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城柵について。
前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始め、南のほうの集落に環濠が出現し始めます。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現します。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっていきました。 -
環壕について。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎えます。
古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまい、集落はほぼ消滅して離散してしまいます。
また、高地性集落も消滅します。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や 高地性集落の必要性がなくなったからです。
古墳時代になると 吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれました。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになったのです。 -
広大な敷地が 見て取れます。
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吉野ケ里歴史公園に すっかり満足しました。
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この旅行記へのコメント (1)
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- churros さん 2020/05/05 17:39:08
- ご訪問ありがとうございます。
- !Hola!クッキーさん、ひまですねぇ~。
以前吉野ヶ里の近くに居を構えていました、佐賀県三養基郡基山町けやき台と言う久留米から近い所です、吉野ヶ里はよく行ったものです、懐かしかったのでついつい書き込んでしまいました。
churros
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