2018/11/15 - 2018/11/16
330位(同エリア668件中)
クッキーさん
中津で1泊した後、早朝に 寺町界隈から中津城までのお勧めコースを歩きました。
その後は 現地ツアーで耶馬渓へ。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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特急にちりんシーガイアに乗って、中津駅17:39着。
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中津での宿泊は、グランプラザ中津ホテル。シングル、朝食込みで4,900円。
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ビジネス仕様で全てがコンパクトにまとまっており 使い勝手もまずまず。
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ホテルから少し歩いた先にある 割烹丸清で夕食。
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18:30
中津名物の唐揚げ定食。1000円とリーズナブルで美味。
もう一つの名物、鱧はお高めでした。 -
7:00
ホテルの朝食。
野菜サラダなども充実していました。 -
7:50
10時25分からのツアーを予約しているので、中津を観光できるのは それまでの2時間余り。 -
中津市ガイドマップ。
見どころは 駅向こうにあるようなので、駅の構内を抜けていきます。
緑のコースを歩くつもりです。
限られた時間で、定番散策ルートをどれほど回れるでしょうか? -
駅向こうに建つ 福沢諭吉像。
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大通りを右折し 寺町を目指す途中に見かけた 由緒ありげなお宅。
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あちこちに 城下町道案内地図があります。
史跡巡りコースの案内表示も。 -
中津城総曲輪内の東側に在り、外堀に沿って 城下町防御を目的に造られた町。
計十二の寺があるからの寺町なんですね。 -
朝早いせいか 小径は静まり返っています。
時折 ゴミ出しをする地元の方の姿を見かけるだけです。 -
小径の曲がり具合が 素敵です。
中津は、外堀と土塁に守られた惣構えの城下町で、戦略的な理由のため、城下内部の道路は、細い道、丁字路、食い違い路、曲がった道などが多く、現在でもそれらの道は多数残されているのだとか。 -
どの寺のものか分かりませんが、太子門、とあります。
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小径を左折。
石畳風に舗装された通りと、立ち並ぶ寺院の白壁との組み合わせが素敵です。 -
松巌寺(しょうがんじ)は 奥平家時代のもの。
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合元寺(ごうがんじ)
通称「赤壁」といわれるこの寺は、天正15年(1587年)、黒田孝高に従って姫路から中津に移り住んだ浄土宗西山派、開山空誉上人が開基したと伝えられています。
寺の壁がこれでもかと赤く塗られているのは ある悲惨な歴史的事件が発端となっているのです。
豊臣秀吉の九州統一によって、鎌倉時代から豊前に領有していた城井(豊前宇都宮)氏は四国へ転封となりましたが、領主の城井鎮房が拒否したため、新たに豊前に入封してきた黒田孝高と一戦を交えることとなりました。しかし頑強な抵抗にあった黒田氏は緒戦で敗れ、最終的に和議を結ぶこととなりました。
天正16年(1588年)、黒田氏は 和睦の酒宴に訪れた宇都宮鎮房を中津城内で斬殺しました。司馬遼太郎をして「生涯の汚点」と言わしめた事件です。 -
合元寺に留め置かれた家臣団も急襲されて奮戦し最期を遂げました。
合元寺の赤壁はその激戦の名残です。鮮血で染まった白壁を何度塗り替えても血が滲む為、ついに赤壁にしたと伝わっています。
当時の苛烈な戦いの痕跡は 庫裏(くり:住職の居間)の大黒柱に刀の痕が点々と残されているそうです。 -
人質の13歳になる鶴姫も磔になり殺害されました。
赤い壁だけでも異色なのに、そんな謂れを知ると 夜には歩きたくないかも。
歩いてきた小径を振り返って。 -
円応寺(えんのうじ)
寺には、河童にまつわる話が残っており、それは、「江戸時代中期、寂玄上人が河童共を問答の末に仏門に入らせ、修行の末、河童の頭目三匹に戒名を授けた。河童達は、感謝の気持ちからか、その後、寺を火難から守った」というものです。境内には、河童の墓、河童の池と伝わるものも残っているのだとか。 -
円龍寺(えんりゅうじ)
閻魔様のお寺。 -
円龍寺にある閻魔像は、檀家の武士が旅先で閻魔大王への懺悔と信仰によって、仏道に帰依したため、山国川河畔に造立したものといわれ、のちに円龍寺に移されたと言われています。
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寺町の名の通り 次々に現れるお寺。
一つ一つのお寺に興味があるわけではありませんが、これだけ並ぶと壮観です。 -
浄安寺(じょうあんじ)
小笠原家の菩提寺。
この表示のところで右折しました。 -
大江医家史料館も外観だけ。
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寿福寺(じゅふくじ)
この辺りは お寺よりも一般の住居が多い通りです。 -
仲間町(ちゅうげんまち)です。
こんな 歴史が辿れる町名が残されているって、いいですね。 -
西蓮寺(さいれんじ)
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西蓮寺は 黒田官兵衛ゆかりの寺。
豊後町、新堀町と歩いて、 -
福沢諭吉旧宅へ。
ここへの入場は ツアーに含まれています。 -
街歩きマップを見ながら歩くと、珍しく迷いません。
二の丸公園には 武家屋敷跡の表示。 -
石垣のようなものが残されていますが…
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歩いてきた道の先 橋の袂の左手には白い塀が延びています。
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8:45
中津城が見えてきました。 -
中津城の開場時間はまだですから、川沿いの遊歩道へ下りていく坂道を下りてみると、
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石垣が見えてきました。
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河川敷公園より観る石垣。
角には大きな石が積まれています。
川沿いの石垣は 川上にある福岡県上毛町の7世紀の遺跡「唐原山城」の石を持ち出し石垣を築いたもの。
川沿いから北側にかけて、ほぼ7世紀の山城の石のみを使用した石垣ができあがりました。直方体で、一辺が断面L字にカットされているのが目印。 -
その間の石積みは 野積み。
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その上の建物は かなり新しいもののようです。
中津城は加藤清正、藤堂高虎とともに築城の名手といわれた黒田官兵衛孝高が 心血を注いで築いた城。山国川を天然の水堀とし、デルタ状の三角形の地域を城地として築かれた要害堅固な城でした。 -
中津城は福岡県と県境にある中津川の河口沿いに位置しており、北は周防灘、西は中津川に面し、東は二重、南は三重の堀をつくり、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁をめぐらせていました。
黒田孝高が築いた中津城は 方形の縄張りでしたが、細川忠興が山国川河口に向かって扇形に拡張したため、別名「扇城」とも呼ばれるようになったそう。 -
本丸跡北面に残る石垣は左右でその造り方がはっきりと異なっています。
向かって右側の石垣は黒田孝高が戦乱時に築いた堅牢な石組みであるのに対して、戦乱後に細川忠興が築いた左側の石垣は比較的粗く、両者の築城手法の違いを見ることができ、中津城跡の見どころの一つ。 -
本丸北側には、石垣にy字状に目字が通る場所があります。
向かって右側の 四角く加工された石が黒田時代の石垣で、その上に積まれている左側の 丸みを帯びた自然石で築かれた石垣が細川時代のものと言われています。 -
色合いや姿形は 松本城を思い出します。
現在の中津城天守閣は昭和39年(1964年)に建てられた模擬天守ですが、城の石垣は築城当時のものが残っています。 -
水門から海水が入って堀の水かさは潮の干満で上下する水城で、高松城、今治城とともに日本三大水城の1つに数えられています。
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城内への入り口。
門扉の痕跡の残る石垣です。 -
現在、中津城跡は中津公園として整備され、中津神社や奥平神社、城井神社などが鎮座しています。
手前は 三斎池。細川忠興は元和六年(1620)の隠居に際して中津城を整備しました。この時 城内の水不足を補うために川から水を引くという大工事を行い その水を貯めたのがこの池。忠興の号「三斎」の名が冠されました。 -
9:10
時間に余裕がありそうなので、天守閣のたもとにある 黒田官兵衛資料館へも入ってみました。 -
黒田官兵衛が治めた領地。テレビ放映でずいぶん認知度が上がっていますが、領地としては、とても小さいようです。現在の福岡県と大分県にまたがっています。
中津城で謀殺された 悲劇の戦国武将・城井鎮房について知りたくて 調べてみました。
「宇都宮鎮房」とも呼ばれるのは 城井氏の本家筋が宇都宮氏に当たるためです。本家は下野(栃木県)を本拠地としていますが、傍流が豊前(福岡県東部、大分県北部)に入り豊前宇都宮氏となりました。
宇都宮鎮房の城は、城井谷城ということですが、城井ノ上城辺りでしょうか? -
下剋上の戦国時代に 城井谷地域の領主として、大内義隆、大友義鎮、島津氏へと有力大名に転々と属して領地を守ってきましたが、秀吉の命による 伊予(愛媛県)への国替えを拒否し、不興を買ったのです。
鎮房はいったん城井谷城を明け渡しました。しかし、秀吉が 本領安堵を拒んだので、怒った鎮房は 城井谷城を奪回して反旗を翻し、鎮房に呼応した土着の豪族たちも蜂起。
城井谷城は天険の要害であり、周りは山に囲まれていました。鎮房は地の利を生かしてあちこちに陣を設け、長政の兵たちを待ち伏せして一気に叩きました。
ゲリラ戦を展開して 局地的に勝ったとはいっても、籠城戦になるわけです。
そのため、和議を結んだ方がお互いに得策だということで、鎮房は本領安堵と引き換えに娘の鶴姫を人質に出し、和睦が成立したのでした。 -
しかし 和睦が成立したにもかかわらず、中津城の中で騙し討ちに遭い 一族もろとも殺されました。
その後長政の子孫には急死やお家騒動など不幸が連続し、後々まで「これは鎮房の祟りだ」と囁かれたそうです。
孝高は、戦国の世とはいえ、勇将であった鎮房を謀略で殺害したことを悔い、中津城内に城井神社を創建し、その霊を祀りました。後に黒田氏の居城となった福岡城にも創建されているそうです。
祟りを恐れて その霊を祀るというと、太宰府天満宮のようですね。 -
一ツ戸城跡。
マニアックに こんな城跡を回るのも楽しそうです。 -
黒田時代の築城技術。
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川沿いで見た石垣の解説。
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官兵衛は、豊前入国当初、馬ヶ岳(うまがたけ)城(福岡県行橋市)を居城としたが、山城では城下町づくりができないため平地に移すことを考え、天生16(1588)年から中津城の築城を開始。
中津は、豊前の国のほぼ中央に位置し、周防灘に流れ込む高瀬川(山国川)に面しており、川を自然の堀として使える上、水陸交通の要地だったのです。また、広い平野により この地方有数の米どころでもあり、海運と商工業を押さえるにはうってつけの場所でした。 -
黒田官兵衛資料館を出て、本丸天守へ。
本丸跡上段の奥平神社のすぐ側に 1964年(昭和39年)に旧藩主奥平家が中心となり、市民らの寄付を合わせて 五層五階の模擬天守と二層の隅櫓が建てられました。 -
天守閣内には、奥平家歴史資料館として 奥平家歴代当主の武具や貴重な資料や家宝が展示されています。
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奥平家歴代当主の甲冑や武具。
徳川家康公から贈られたとされる、「白鳥鞘の鑓(やり)」や長篠の戦で使用されたとされる「法螺貝」などが有名だそう。 -
天守閣の最上階からの眺望。
こちらは西方面、吉富・豊前。 -
南には 中津市街地・耶馬溪・山国。
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北に見える 中津川・周防灘。本州も?
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東方面は 宇佐・国東半島の方向。
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この真下が y字の石垣がある辺り。
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左奥が この後訪れる耶馬渓のようです。
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臼杵市とオランダのつながり。
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中学社会で習った解体新書が、角館以来 ここにも登場。
翻訳にかかわった前野良沢は、中津藩の藩医でした。 -
一つの事を成し遂げるのには 多くの人の関わりがあったんですね。
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長篠の戦を描いた「長篠合戦図六幅掛軸」。
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本丸から見る二重櫓。
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9:50
石垣を 一周したいところですが、この辺りで満足して退散。 -
中津カトリック教会は 童話の世界のよう。
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大手門跡。
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大手門跡の石垣。
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御用屋敷遺跡。
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色彩鮮やかなマンホール。
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駅には 10時過ぎに到着しました。
このツアーは大分、中津 それぞれからの乗車で、福沢諭吉の生家、青の洞窟、耶馬渓を巡るというもの。個人で 耶馬渓には行きにくいので、どうしようと思い検索していて見つけたツアーです。
中津駅発着で3,450円とリーズナブル。 -
10:59 福沢諭吉の旧家にて。
ツアーバス乗り場には 既に多くの人たちが待っており、予約客だけでなく当日券を求める人の姿も。チケット売り場はかなり混雑しており、さらには 一向にツアーバスが到着しません。
実は 大分からツアー参加者を運んできているはずのバスにトラブルが発生したとのこと。中津から参加する人たちは タクシーに分乗して福沢諭吉記念館まで行き、そこで待機してほしいという事情が判明。 -
待っている人たちの中で 海外からの参加者は半数ほど。
そうした事情が伝わっていないようなので、拙い英語ですが 何とか説明して タクシーで向かいました。 -
この 木造瓦葺2階建の土蔵の2階を覗いてみると、天井の低い薄暗い小部屋に 諭吉の座像がありました。
駐車場で待つように、ということでしたが、待てど暮らせどツアーバスは現れません。おまけに座れるベンチもなく…
どうせツアーで入場することは分かっているのだからと、チケット売り場のスタッフに声を掛けて、中の広場にある休憩所で待たせてもらえるようお願いしました。 -
でも そうなると、広場のすぐ左手には諭吉の生家があるわけですから…
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ガイドさんの到着を待たずに 三々五々 見学が始まってしまいました。
質素な造りで、幕末から明治にかけての先覚者であった福沢諭吉の幼年時代の清貧ぶりがうかがえます。
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事故とは言え、ガイドさんなり 責任者の方はなかなか到着せず。
ツアーの後の移動のための時刻を気にする方(海外からの参加者)も多く、その相談にのったり 雑談をしたりで、参加者の皆さんと すっかり打ち解けることができました。
順調に運んだツアーよりも、こんな 訳ありになったツアーの思い出の方が しっかり記憶に残るものですね。 -
11:20
結局、福沢記念館内への入場も ガイドさん抜きで、三々五々 スタート。
咸臨丸の模型。 -
長崎から大坂への足跡。
豊前中津藩士の子であった福沢諭吉は 若くして大坂の緒方洪庵の「適塾」に学び、安政5年(1858)には 藩の命令で、江戸の中屋敷の蘭学塾の教師になりました。これが慶應義塾のはじまりです。 -
開港を迎える直前の横浜の様子を描いた図。
諭吉は 開港直後の横浜を訪れ、オランダ語だけでは世界の事情を理解できないことを知り、英語学習を決心したのでだそうです。 -
幕末には徳川幕府に用いられ、使節に随行して欧米に渡ること3回。
諭吉のヨーロッパでの足跡。ここでも 懐かしい地名が。 -
諭吉関連の資料。
醒めた目で時代の推移を眺め、明治維新後は明治政府に仕えず、民間で活動し、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』などの名著を残しました。 -
この後訪れる耶馬渓の保存に尽力したのが 諭吉だそうです。
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12:02
館内の見学も終えた頃、ようやくガイドさんと大分からの参加者が到着しました。
大分から参加した人たちは 超特急で見学を終えていました。
まだ新人さんのようなガイドさんは 恐縮しきり。
これから ツアーバスで耶馬渓に向かいます。
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