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奥三河の続日本百名城巡りです。古宮城の続日本百名城のスタンプが置かれていた、新城市の作手歴史民俗資料館の紹介です。作手の歴史に関わりの深い、奥平氏に関する資料や、古宮城を始めとする古城関連関連や、作手の民俗資料などが展示してありました。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイドブック)

2018秋、奥三河の続日本百名城(5/9):作手歴史民俗資料館(1):古宮城縄張、亀山城縄張

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2018/10/20 - 2018/10/20

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旅人のくまさん

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奥三河の続日本百名城巡りです。古宮城の続日本百名城のスタンプが置かれていた、新城市の作手歴史民俗資料館の紹介です。作手の歴史に関わりの深い、奥平氏に関する資料や、古宮城を始めとする古城関連関連や、作手の民俗資料などが展示してありました。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイドブック)

交通手段
自家用車

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  • 作手(つくで)歴史民俗資料館の建物正面光景です。入場無料の資料館で、古宮城の続日本百名城の150番のスタンプも、こちらに置かれていました。新城市の教育委員会が管轄する資料館です。周辺に数多くの城址が存在することから、お城風の外観となっています。(同上)

    イチオシ

    作手(つくで)歴史民俗資料館の建物正面光景です。入場無料の資料館で、古宮城の続日本百名城の150番のスタンプも、こちらに置かれていました。新城市の教育委員会が管轄する資料館です。周辺に数多くの城址が存在することから、お城風の外観となっています。(同上)

  • 『歴史民俗資料館』の文字が墨書された、入口横に置かれていた表札の光景です。火曜日が休館日と表示されていました。最新のネット情報で、『当分の間、開館時間は10時から15時までです。休館日は毎週火曜日、火曜日が休日の場合は翌日となります』と紹介されていました。(同上)<br />

    『歴史民俗資料館』の文字が墨書された、入口横に置かれていた表札の光景です。火曜日が休館日と表示されていました。最新のネット情報で、『当分の間、開館時間は10時から15時までです。休館日は毎週火曜日、火曜日が休日の場合は翌日となります』と紹介されていました。(同上)

  • 『作手(つくで)歴史民俗資料館』のナシ部光景です。かつての作手村(つくでむら)は、愛知県北東部の南設楽郡に位置した村でしたが、2005年10月1日に、旧・新城市、南設楽郡鳳来町と合併し、新城市になりました。旧村域は全て『新城市作手xx』と呼称し、旧村名を残しています。 この資料館の地番は、『新城市作手高里字縄手上28番地』です。(同上)

    『作手(つくで)歴史民俗資料館』のナシ部光景です。かつての作手村(つくでむら)は、愛知県北東部の南設楽郡に位置した村でしたが、2005年10月1日に、旧・新城市、南設楽郡鳳来町と合併し、新城市になりました。旧村域は全て『新城市作手xx』と呼称し、旧村名を残しています。 この資料館の地番は、『新城市作手高里字縄手上28番地』です。(同上)

  • かつての作手村(つくでむら)の歴史年表には、1975年(昭和50年)に『郷土資料館開館』、1987年(昭和62年)、『作手村歴史民俗資料館開館』と記されていましたが、現在の資料館は、その後リニューアルされているようでした。映像などを使った立派な展示コーナーの光景です。林の中にタヌキ(狸)さんがいました。(同上)

    イチオシ

    かつての作手村(つくでむら)の歴史年表には、1975年(昭和50年)に『郷土資料館開館』、1987年(昭和62年)、『作手村歴史民俗資料館開館』と記されていましたが、現在の資料館は、その後リニューアルされているようでした。映像などを使った立派な展示コーナーの光景です。林の中にタヌキ(狸)さんがいました。(同上)

  • 同じく、1階展示室の紹介です。作手村の古民家が展示されていました。新築材ではなく、歳月を感じさせる古材でしたから、移築された民家のようでした。その民家の前にも中にも、実際に使われていたらしい多くの民芸品などが展示してありました。(同上)

    同じく、1階展示室の紹介です。作手村の古民家が展示されていました。新築材ではなく、歳月を感じさせる古材でしたから、移築された民家のようでした。その民家の前にも中にも、実際に使われていたらしい多くの民芸品などが展示してありました。(同上)

  • 戸口から覗いて撮影した、古民家の内部光景です。囲炉裏を中心に多くの展示品が置かれていました。展示スペースに余裕があれば、分けて展示をした方がよさそうな室内光景でした。(同上)

    戸口から覗いて撮影した、古民家の内部光景です。囲炉裏を中心に多くの展示品が置かれていました。展示スペースに余裕があれば、分けて展示をした方がよさそうな室内光景でした。(同上)

  • 現在の新城志、作手地区の地形や施設紹介の縮小モデルの光景です。主な施設には、名札が添えてありました。『作手(つくで)』の名の由来は諸説あるようです。荘園時代に『作手権』と称する私有権が認められた水田があった名残りとする説、古代にあった湖が干上がって広大な湿原と化し、その湿原を意味する『くて』がなまったとする説などです。(同上)

    現在の新城志、作手地区の地形や施設紹介の縮小モデルの光景です。主な施設には、名札が添えてありました。『作手(つくで)』の名の由来は諸説あるようです。荘園時代に『作手権』と称する私有権が認められた水田があった名残りとする説、古代にあった湖が干上がって広大な湿原と化し、その湿原を意味する『くて』がなまったとする説などです。(同上)

  • 出入口近くに置かれていた、『作手の歴史と(?)民俗』のタイトルがあった展示物です。手書きの柄の下には『道しるべ』が置かれていました。新城市のHPには、次の5点の展示が紹介されていました。①サギ草の彫刻、茅葺き住宅を再現、②湿原のジオラマ、鹿児島の姶良火山の火山灰、③亀山城跡(奥平氏の居城)の模型、④歌舞伎(地芝居)、舞台、衣裳、人形、⑤有形民俗資料コーナー(凧、コマ、カルタ、農林業用道具など)です。(同上)

    出入口近くに置かれていた、『作手の歴史と(?)民俗』のタイトルがあった展示物です。手書きの柄の下には『道しるべ』が置かれていました。新城市のHPには、次の5点の展示が紹介されていました。①サギ草の彫刻、茅葺き住宅を再現、②湿原のジオラマ、鹿児島の姶良火山の火山灰、③亀山城跡(奥平氏の居城)の模型、④歌舞伎(地芝居)、舞台、衣裳、人形、⑤有形民俗資料コーナー(凧、コマ、カルタ、農林業用道具など)です。(同上)

  • 作手の地質紹介の補足展示の紹介です。『沼から湿原への移りかわり』のタイトルがありました。4コマのイラストで紹介されていました。タイトルだけを紹介しますと、1.浅い沼、2.低層湿原、3.中間湿原、4.高層湿原の段階の説明でした。最後の『高層湿原』の段階では、沼が泥炭となって消え去り、その泥炭の厚みで、湿原が凸レンズ状になることが紹介されていました。(同上)

    作手の地質紹介の補足展示の紹介です。『沼から湿原への移りかわり』のタイトルがありました。4コマのイラストで紹介されていました。タイトルだけを紹介しますと、1.浅い沼、2.低層湿原、3.中間湿原、4.高層湿原の段階の説明でした。最後の『高層湿原』の段階では、沼が泥炭となって消え去り、その泥炭の厚みで、湿原が凸レンズ状になることが紹介されていました。(同上)

  • 『姶良火山灰』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『姶良Tn火山灰(あいらてぃーえぬかざんばい)』は、約2万9千年前~2万6千年前に鹿児島の姶良カルデラの巨大噴火で噴出した大量の火山灰です。以前は約2万5000年前~2万年と考えられていました。Tnは丹沢を示します。当初は丹沢山地に分布していることから丹沢軽石(丹沢パミス)と名付けられ、その後1970年代に姶良カルデラが起源であることがわかり、『姶良丹沢火山灰』と呼ばれるようになりました。(同上)

    『姶良火山灰』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『姶良Tn火山灰(あいらてぃーえぬかざんばい)』は、約2万9千年前~2万6千年前に鹿児島の姶良カルデラの巨大噴火で噴出した大量の火山灰です。以前は約2万5000年前~2万年と考えられていました。Tnは丹沢を示します。当初は丹沢山地に分布していることから丹沢軽石(丹沢パミス)と名付けられ、その後1970年代に姶良カルデラが起源であることがわかり、『姶良丹沢火山灰』と呼ばれるようになりました。(同上)

  • 『作手の泥炭(ピート)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『泥炭』は、植物遺体が堆積したもので、作手の泥炭地(湿原)は、太平洋側で日本最大規模と紹介されていました。昔は炭団(たどん)の材料とされましたが、現在は土壌改良の材料とされていることが紹介されていました。(同上)

    『作手の泥炭(ピート)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『泥炭』は、植物遺体が堆積したもので、作手の泥炭地(湿原)は、太平洋側で日本最大規模と紹介されていました。昔は炭団(たどん)の材料とされましたが、現在は土壌改良の材料とされていることが紹介されていました。(同上)

  • 『地層剥ぎとりによる下位段丘の断面』のタイトルがあった説明パネルの光景です。地下1.5メートルの一の赤い地層が『姶良火山灰層』です。その他には、『木の根』と『粘土層』が表示されていました。推測ですが、『木の根』は後代に侵入したものかもしれません。(同上)

    『地層剥ぎとりによる下位段丘の断面』のタイトルがあった説明パネルの光景です。地下1.5メートルの一の赤い地層が『姶良火山灰層』です。その他には、『木の根』と『粘土層』が表示されていました。推測ですが、『木の根』は後代に侵入したものかもしれません。(同上)

  • 『まぼろしの作手川』のタイトルがあった説明パネルの光景です。今から2000~1600万年前に作手高原に存在したと推定されている『まぼろしの作手川』の紹介です。左下の部面に、かつての作手川のあった位置と、現在の巴川の位置が記された、作手高原の推定の東西断面図が紹介されていました。(同上)

    『まぼろしの作手川』のタイトルがあった説明パネルの光景です。今から2000~1600万年前に作手高原に存在したと推定されている『まぼろしの作手川』の紹介です。左下の部面に、かつての作手川のあった位置と、現在の巴川の位置が記された、作手高原の推定の東西断面図が紹介されていました。(同上)

  • イラストと文章で紹介された、『原始:縄文・弥生時代』のタイトルがあった説明パネルの光景です。少し拾い読みしますと、日本列島が大陸と陸続きの時代から人が住み着き、旧石器時代から、縄文時代を経過して弥生時代に入った、標準的な歴史解説が紹介されていました。弥生時代からの米作に適した、沼地と湿原の作手には、多くの人が暮らしていたと推測されていました。(同上)

    イラストと文章で紹介された、『原始:縄文・弥生時代』のタイトルがあった説明パネルの光景です。少し拾い読みしますと、日本列島が大陸と陸続きの時代から人が住み着き、旧石器時代から、縄文時代を経過して弥生時代に入った、標準的な歴史解説が紹介されていました。弥生時代からの米作に適した、沼地と湿原の作手には、多くの人が暮らしていたと推測されていました。(同上)

  • 『ちょっと昔の新城・古写真に見る懐かしの新城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。展示館の『特別展』の添書きがありました。壁に展示された24枚の写真は、建物紹介が主でしたが、その下には記念写真が立て掛けられていました。(同上)

    『ちょっと昔の新城・古写真に見る懐かしの新城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。展示館の『特別展』の添書きがありました。壁に展示された24枚の写真は、建物紹介が主でしたが、その下には記念写真が立て掛けられていました。(同上)

  • 同じく、『ちょっと昔の新城・古写真に見る懐かしの新城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左から2列目の最上段が『新城~大和田開通の一番バス』、右から二列目の2上から2枚目には『作手村最初の乳牛』のタイトルがありました。(同上)

    同じく、『ちょっと昔の新城・古写真に見る懐かしの新城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。左から2列目の最上段が『新城~大和田開通の一番バス』、右から二列目の2上から2枚目には『作手村最初の乳牛』のタイトルがありました。(同上)

  • 12枚纏めて展示してあった『錦絵』の紹介です。『錦絵』は、『江戸絵』とも呼ばれる日本絵版画です。かつての作手村では、村芝居の影響もあり、雛飾りの背景に錦絵が飾られたようです。旅の土産とも紹介されていました。(同上)

    12枚纏めて展示してあった『錦絵』の紹介です。『錦絵』は、『江戸絵』とも呼ばれる日本絵版画です。かつての作手村では、村芝居の影響もあり、雛飾りの背景に錦絵が飾られたようです。旅の土産とも紹介されていました。(同上)

  • 桜の花が咲く風景画をバックに展示された、機織り機の数々です。右端に『裂き織り教室開催中』の表示がありましたから、実際に使用されている機織り機のようでした。(同上)

    桜の花が咲く風景画をバックに展示された、機織り機の数々です。右端に『裂き織り教室開催中』の表示がありましたから、実際に使用されている機織り機のようでした。(同上)

  • 『裂き織り(さきおり)作品』のタイトルがあった展示コーナーの光景です。『裂き織り』は、たて糸は普通の糸、よこ糸代わりに細くひも状に裂いた布を織り込む織物のことです。盛んになったのは江戸時代とされ、贅沢禁止令が発令され新しい布地を使えなくなった人々が古い布を裂いてよこ糸としました。リサイクル精神から始まったとされています。(同上)

    『裂き織り(さきおり)作品』のタイトルがあった展示コーナーの光景です。『裂き織り』は、たて糸は普通の糸、よこ糸代わりに細くひも状に裂いた布を織り込む織物のことです。盛んになったのは江戸時代とされ、贅沢禁止令が発令され新しい布地を使えなくなった人々が古い布を裂いてよこ糸としました。リサイクル精神から始まったとされています。(同上)

  • 懐かしい電化製品の数々です。下の壇が、右からレコード・プレーや、テレビとその上のラジオ、一番左が蓄音機(ラジオ?)です。上の段には、富山の薬売りが持ち歩いた、トンプクなどの薬が置かれていました。(同上)

    懐かしい電化製品の数々です。下の壇が、右からレコード・プレーや、テレビとその上のラジオ、一番左が蓄音機(ラジオ?)です。上の段には、富山の薬売りが持ち歩いた、トンプクなどの薬が置かれていました。(同上)

  • 写真と文で紹介された『村芝居』のタイトルがあった説明パネルの光景です。パネルの周りには、芝居で使ったらしい小道具類が展示してありました。江戸時代の終りから明治時代にかけて、神社に奉納された村芝居の紹介でした。(同上)

    写真と文で紹介された『村芝居』のタイトルがあった説明パネルの光景です。パネルの周りには、芝居で使ったらしい小道具類が展示してありました。江戸時代の終りから明治時代にかけて、神社に奉納された村芝居の紹介でした。(同上)

  • 新城市作手清岳に位置する、古宮城の縄張り模型です。戦国時代に武田氏による城郭と考えられている平山城です。武田氏の築城術の多くの遺構が残っています。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城の150番に選定されました。(同上)

    イチオシ

    新城市作手清岳に位置する、古宮城の縄張り模型です。戦国時代に武田氏による城郭と考えられている平山城です。武田氏の築城術の多くの遺構が残っています。2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城の150番に選定されました。(同上)

  • 作手盆地の南東部に位置する、亀山城の縄張り模型です。上野国から作手地方に移住した奥平貞俊は、当初、川尻城を本拠としましたが、応永31年(1424年)に亀山城を築き、移りました。駿河の今川氏や尾張の織田氏など、主家を変えて生き延びてきた奥平氏の本拠地でした。(同上)

    作手盆地の南東部に位置する、亀山城の縄張り模型です。上野国から作手地方に移住した奥平貞俊は、当初、川尻城を本拠としましたが、応永31年(1424年)に亀山城を築き、移りました。駿河の今川氏や尾張の織田氏など、主家を変えて生き延びてきた奥平氏の本拠地でした。(同上)

  • 作手地区の衛星写真のようです。中央に古宮城址が位置していました。その右上に『賽ノ神城』、左下方面に『亀山城』も記されていました。『賽ノ神城』は、古宮城の出城と考えられています。旧くは米福長者の城があったようです。『亀山城』は、奥平氏の起源となる本城です。(同上)

    作手地区の衛星写真のようです。中央に古宮城址が位置していました。その右上に『賽ノ神城』、左下方面に『亀山城』も記されていました。『賽ノ神城』は、古宮城の出城と考えられています。旧くは米福長者の城があったようです。『亀山城』は、奥平氏の起源となる本城です。(同上)

  • 『四耳壷(しじこ)』<br />製作年不明<br />(古墓から出土) (同上)

    『四耳壷(しじこ)』
    製作年不明
    (古墓から出土) (同上)

  • 『広口瓶』<br />製作年不明<br />(米長者屋敷跡とその周辺出土) (同上)

    『広口瓶』
    製作年不明
    (米長者屋敷跡とその周辺出土) (同上)

  • 『甕(かめ)』<br />鎌倉~室町時代<br />(米長者屋敷跡の隣地出土) (同上)

    『甕(かめ)』
    鎌倉~室町時代
    (米長者屋敷跡の隣地出土) (同上)

  • 『庚申(こうしん)の膳』と題された展示品です。漆塗りらしい4種の椀と湯呑が『高足膳』の上に載せられていました。『庚申講(こうしんこう)』で使われる膳のようです。庚申講は、平安時代以降に陰陽師によって広まり、経などを読誦し、食事、歓談しながら夜を明かすものです。(同上)

    『庚申(こうしん)の膳』と題された展示品です。漆塗りらしい4種の椀と湯呑が『高足膳』の上に載せられていました。『庚申講(こうしんこう)』で使われる膳のようです。庚申講は、平安時代以降に陰陽師によって広まり、経などを読誦し、食事、歓談しながら夜を明かすものです。(同上)

  • 2個の『ワニグチ(鰐口)』の展示です。左が安永8年(1779年)に三州菅沼村の弁財天に奉納された鰐口、右が三州富永庄の大明神宮に奉納された鰐口です。鰐口は、仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種です。神社の社殿で使われることもあります。(同上)

    2個の『ワニグチ(鰐口)』の展示です。左が安永8年(1779年)に三州菅沼村の弁財天に奉納された鰐口、右が三州富永庄の大明神宮に奉納された鰐口です。鰐口は、仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種です。神社の社殿で使われることもあります。(同上)

  • 右に見える埴輪(はにわ)には、特別の憑依がありませんでしたから、レプリカのようです。左は巨木の根っこを使ったオブジェのようでした。(同上)

    右に見える埴輪(はにわ)には、特別の憑依がありませんでしたから、レプリカのようです。左は巨木の根っこを使ったオブジェのようでした。(同上)

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