2023/10/21 - 2023/10/21
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nanochanさん
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この旅行記スケジュールを元に
大河ドラマも終盤に差し掛かり、秀吉が「くたばって」いよいよ家康の天下取りが始まります。東三河の本宮山の「御朱印Trip」のついでと言ってはなんですが、近くにある「設楽原」と「長篠城」を訪ねました。どちらも、家康にとって忘れられない武田との戦いの舞台です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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-
1<見えてきた物は>
山の下に柵のような物が見えてきた。あれが馬防柵に違いない。 -
2<馬防柵>
ズームすると、はっきりと馬防柵が見えた。馬防柵 名所・史跡
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3<駐車場なし>
駐車場が見当たらず、「生活道路なのでこの付近駐車禁止」 という看板もあったため、仕方なく近くの主要道の路肩に駐車し、急いで見に行くことにしました。観光資源なんだから、小さくてもいいから駐車場を整備した方がいいのに・・・。長篠 設楽原決戦場跡 名所・史跡
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4<説明書き>
当時、戦国最強をうたった武田の騎馬隊を破った織田・徳川連合軍による設楽原の戦いは、今年の大河ドラマの中でもゲームチェンジの戦の一つでした。 -
5<よいお金の使い方>
この馬防柵は、地域振興事業の一環として、地元の人々の手によって再現されたもの。お金は、こういうことに有効に使いたいものです。 -
6<細い・・・>
ドラマで見た太い丸太をイメージしていたため、その細さにちょっと驚きました。予算がなかったのかな? -
7<鉄砲3000挺>
設楽原の戦いでは、号令のもと織田・徳川連合軍が鉄砲の三段撃ちをして武田軍を撃退した、と学生の時には習いましたが、現在では、各々準備ができた者から入れ替わって撃っていた、という説が有力らしいです。
しかし、高価な鉄砲を3000挺も調達できる信長の力はたいしたもの。 -
8<土屋昌次>
土屋昌次は武田方の武将。馬防柵までたどり着き勇猛果敢に戦い散った敵方の武将をたたえる「いろはかるた」のパネルもありました。 -
9<鉄砲構え>
馬防柵と一言に言っても用途によって作りが違ったようです。 -
10<鉄砲構え>
馬防柵の手前に乾掘、後ろに身隠しのある「鉄砲構え」です。 -
11<押し出し口>
柵の中に籠もってばかりではなく、形勢によっては打って出ることも必要。馬防柵の所々にこんな「押し出し口」がありました。 -
12<合戦屏風絵図>
この絵図を見ると、織田・徳川の連合軍の鉄砲隊も馬防柵の前に出て戦っていたようです。 -
13<うろこ雲>
空にはうろこ雲。秋だなあ…。 -
14<設楽原歴史資料館>
馬防柵の見学後に、近くの丘の上にある「設楽原歴史資料館」へ。設楽原歴史資料館 美術館・博物館
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15<設楽原の戦い>
館内の展示のイチオシは、やはり武田の騎馬隊と織田・徳川連合軍の鉄砲の戦いとなります。 -
16<大筒>
館内には、多くの火縄銃が展示されていました。外国から火縄銃が伝わり、それを分解・研究して日本人に合った火縄銃を瞬く間に作り上げた当時の職人のすごさがうかがえます。これは、大筒(おおづつ)。 -
17<てつはう>
「てつはう」は、元寇で使われた元軍が使用した火薬武器。火薬を使った武器と言うことで、形とは全く違いますが「てつはう」→「てっぽう」となったそうな。 -
18<家康押し>
三河の大スターと言えばもちろん徳川家康。フォトスポットがありました。 -
19<設楽原>
資料館に御城印ならぬ「古戦場印」があったので記念にいただきました。 -
20<信玄塚>
資料館の南側には、この戦でなくなった双方の将兵を弔う供養塔や武田軍の将兵を弔う「信玄塚」がありました。戦が終われば双方を懇ろに弔うというのは日本人の美徳の一つだと思います。信玄塚 名所・史跡
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21<閻魔大王>
近くに石造りの閻魔大王を祀った「閻魔堂」がありました。石閻魔は江戸時代の作。お参りするとみんな極楽浄土にいけるそうです。 -
22<長篠城>
設楽原から車で10分ほどで長篠城跡に到着しました。長篠城は、宇連川と寒峡川が合流して豊川となる地点にあり、三方が崖という地形を巧みに利用して築かれた堅固な城でした。長篠城址 名所・史跡
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23<長篠城趾史跡保存館>
城のような建物は「長篠城趾史跡保存館」です。残念ながら、天守はもちろん、櫓や門などの遺構は一切残っていません。長篠城址史跡保存館 美術館・博物館
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14<長篠城本丸>
ここは、本丸跡。1575年、徳川側の武将・奥平信昌以下約500人の将兵がこの城に籠もって、武田の大軍と長期間戦い、後の設楽原での織田・徳川連合軍勝利のきっかけをつくりました。 -
25<武田軍の砦>
対岸の山には武田軍の五つの砦が築かれました。今は、そこを新東名が走ります。 -
26<鳥居強右衛門(とりいすねえもん)>
「長篠の戦い」と行ったら大将の奥平信昌よりも先に語られるのが「鳥居強右衛門」でしょう。この人物、単なる足軽なのですが、援軍要請の密使として城を脱出し 岡崎城にたどり着き家康・信長から即時出陣の返事を得ます。しかし、帰城途中で武田軍に捕らえ、「援軍は来ない」と言わされそうになりますが、死を覚悟して「各々方、御味方がすぐ参りますぞ!」と大声で叫び城内に籠もる味方を勇気づけます。このあと、強右衛門は磔の刑になって果てます。このことから、彼はこの地の大ヒーローとなったのです。鳥居強右衛門磔の跡 名所・史跡
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27<さかさ桑>
駐車場の横に下に向かって枝を伸ばす変わった木がありました。これは、武田勝頼と関わりのある木でした。 -
28<長篠城 御城印>
長篠城の御城印を拝領。新城には7つも名城があるんだ。調べて今度行ってみよう。
Petit Voyage! 東海道53次ぶらり旅2023②「設楽原の戦い」は、以上です。最後までごらんいただきありがとうございました。
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