新城旅行記(ブログ) 一覧に戻る
奥三河の続日本百名城巡りの続きです。坂東武者の流れを汲む奥平貞俊が、三河で再起を果たし、三河奥平家の初代となったのが、この作手郷です。そして最初に築いた城が川尻城です。その時75歳とされますが、86歳の長寿を全うしました。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイドブック)

2018秋、奥三河の続日本百名城(7/9):川尻城(1):創造の森城山公園、野仏、冠木門

23いいね!

2018/10/20 - 2018/10/20

51位(同エリア181件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

奥三河の続日本百名城巡りの続きです。坂東武者の流れを汲む奥平貞俊が、三河で再起を果たし、三河奥平家の初代となったのが、この作手郷です。そして最初に築いた城が川尻城です。その時75歳とされますが、86歳の長寿を全うしました。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイドブック)

交通手段
自家用車
  • 川尻城址がある城山の麓での撮影です。『創造の森城山公園案内図』のタイトルがあった説明看板の光景です。その公園の一角に川尻城址がありました。現在位置が、この地図の左下付近に記されていますが、北側方向が右斜め上になった地図です。(同上)

    川尻城址がある城山の麓での撮影です。『創造の森城山公園案内図』のタイトルがあった説明看板の光景です。その公園の一角に川尻城址がありました。現在位置が、この地図の左下付近に記されていますが、北側方向が右斜め上になった地図です。(同上)

  • 先ほど紹介した、『創造の森城山公園案内図』の右下部分のズームアップ光景です。『川尻城址』のタイトルの説明文がありました。先程立寄った、『作手歴史民俗資料館』から、一番近い場所にあったお城址です。続日本百名城の古宮城との距離も1キロほどの城址です。(同上)

    先ほど紹介した、『創造の森城山公園案内図』の右下部分のズームアップ光景です。『川尻城址』のタイトルの説明文がありました。先程立寄った、『作手歴史民俗資料館』から、一番近い場所にあったお城址です。続日本百名城の古宮城との距離も1キロほどの城址です。(同上)

  • 先程の案内図の現在地のすぐ右側に、ショートカットできる登山コースが記されていました。その入口になる階段光景です。道はある程度整備されているようでしたから、ショートカットコースを選びました。(同上)

    先程の案内図の現在地のすぐ右側に、ショートカットできる登山コースが記されていました。その入口になる階段光景です。道はある程度整備されているようでしたから、ショートカットコースを選びました。(同上)

  • 階段を登り切った後の、ショートカットコースの光景です。下草を刈ってありましたから、地道でも登るのに苦労はしませんでした。ただし、冬場で凍結すれば、ショートカットコースを登るのは、止めた方がよさそうです。あとで地図で確認しましたら、ショートカットできる距離は200メートル強、300メートル弱でした。(同上)

    階段を登り切った後の、ショートカットコースの光景です。下草を刈ってありましたから、地道でも登るのに苦労はしませんでした。ただし、冬場で凍結すれば、ショートカットコースを登るのは、止めた方がよさそうです。あとで地図で確認しましたら、ショートカットできる距離は200メートル強、300メートル弱でした。(同上)

  • ショートカットコースから、本道に合流した後で撮影した麓の光景です。川尻城址の南西側方面になるようです。刈入れが済んだ広い田圃の先に、作手の集落の町並みが見えていました。(同上)

    ショートカットコースから、本道に合流した後で撮影した麓の光景です。川尻城址の南西側方面になるようです。刈入れが済んだ広い田圃の先に、作手の集落の町並みが見えていました。(同上)

  • 登城路の脇の路傍に祀られていた石仏の紹介です。お地蔵様ではなく、観音様でした。頭を少し傾けて、合掌する姿の観音菩薩像でした。観音菩薩は、観世音菩薩の略称ともされます。また、日本語読みの『カンノン』は『観音』の呉音読みであり、連声によって『オン』が『ノン』になったものとされます。企業名の『キャノン』は、英語(米語)読みになります。(同上)

    登城路の脇の路傍に祀られていた石仏の紹介です。お地蔵様ではなく、観音様でした。頭を少し傾けて、合掌する姿の観音菩薩像でした。観音菩薩は、観世音菩薩の略称ともされます。また、日本語読みの『カンノン』は『観音』の呉音読みであり、連声によって『オン』が『ノン』になったものとされます。企業名の『キャノン』は、英語(米語)読みになります。(同上)

  • 野草を枕にお休み中になった、観音座像の光景です。両眼を軽く閉じて、瞑想される姿でした。左手前の花立は、真っ直ぐに立っていました。(同上)

    野草を枕にお休み中になった、観音座像の光景です。両眼を軽く閉じて、瞑想される姿でした。左手前の花立は、真っ直ぐに立っていました。(同上)

  • 観音菩薩の起源には、定説がないとされます。インド土着の女神が仏教に取り入れられたとする見解や、エローラ石窟群、サールナートなどインドの仏教遺跡においても観音菩薩像と思しき仏像が発掘されています。また、ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連も指摘されています。(同上)

    観音菩薩の起源には、定説がないとされます。インド土着の女神が仏教に取り入れられたとする見解や、エローラ石窟群、サールナートなどインドの仏教遺跡においても観音菩薩像と思しき仏像が発掘されています。また、ゾロアスター教においてアフラ・マズダーの娘とされる女神アナーヒターやスプンタ・アールマティとの関連も指摘されています。(同上)

  • 『観世音菩薩』は、『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっていて、日本でも人気が高い菩薩です。また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっています。『般若』は、梵語の音写であり、波若、般羅若、斑若、鉢若などとも記されます。漢訳は慧、智慧、明(みょう)などです。(同上)

    『観世音菩薩』は、『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっていて、日本でも人気が高い菩薩です。また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっています。『般若』は、梵語の音写であり、波若、般羅若、斑若、鉢若などとも記されます。漢訳は慧、智慧、明(みょう)などです。(同上)

  • 観世音菩薩は、阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多いとされます。その根拠は、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』とされますが、サンスクリット原典、 チベット語訳が発見されていないため、中国撰述説もあります。 日本では、法然により『仏説無量寿経』、『仏説阿弥陀経』とともに『浄土三部経』と称され、浄土教の根本聖典の一つとされます。(同上)

    観世音菩薩は、阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多いとされます。その根拠は、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』とされますが、サンスクリット原典、 チベット語訳が発見されていないため、中国撰述説もあります。 日本では、法然により『仏説無量寿経』、『仏説阿弥陀経』とともに『浄土三部経』と称され、浄土教の根本聖典の一つとされます。(同上)

  • 観音の在する浄土は、ポータラカ(補陀落)と呼ばれ、『華厳経』では、南インドの地であると説かれているようです。中国では六朝時代から霊験記の『観世音応験記』が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があります。現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている観世音菩薩です。中国の六朝とは、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称です。 六朝時代(222~589年)は、中国における宗教の時代とも呼ばれます。(同上)

    観音の在する浄土は、ポータラカ(補陀落)と呼ばれ、『華厳経』では、南インドの地であると説かれているようです。中国では六朝時代から霊験記の『観世音応験記』が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があります。現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている観世音菩薩です。中国の六朝とは、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称です。 六朝時代(222~589年)は、中国における宗教の時代とも呼ばれます。(同上)

  • 合掌姿の観世音菩薩立像のようです。後背にいくつもの手のレリーフがありましたから、『千手(せんじゅ)観音菩薩』でした。梵語ではサハスラブジャ、『千の手を持つもの』の意味とされます。ヒンドゥ教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々の異名ともされます。(同上)

    合掌姿の観世音菩薩立像のようです。後背にいくつもの手のレリーフがありましたから、『千手(せんじゅ)観音菩薩』でした。梵語ではサハスラブジャ、『千の手を持つもの』の意味とされます。ヒンドゥ教のヴィシュヌ神やシヴァ神、女神ドゥルガーといった神々の異名ともされます。(同上)

  • 模擬再建されたらしい冠木門の光景です。川尻城の中の数少ない城址らしい光景でした。冠木門の周りには、木柵が廻らしてありました。『冠木門』は、『二本の柱の上に冠木を貫き通し、屋根を かけた門』のことです。(同上)

    イチオシ

    模擬再建されたらしい冠木門の光景です。川尻城の中の数少ない城址らしい光景でした。冠木門の周りには、木柵が廻らしてありました。『冠木門』は、『二本の柱の上に冠木を貫き通し、屋根を かけた門』のことです。(同上)

  • 模擬再建されたらしい冠木門を潜った先の光景です。一般的には、このような場所では、通路を狭くして大軍の移動を制限し、左手の土塁の上から横矢を放つ防御策などがとられるようですが、確認できる資料がありませんので、勝手な推測です。(同上)

    模擬再建されたらしい冠木門を潜った先の光景です。一般的には、このような場所では、通路を狭くして大軍の移動を制限し、左手の土塁の上から横矢を放つ防御策などがとられるようですが、確認できる資料がありませんので、勝手な推測です。(同上)

  • 内側から眺めた冠木門の光景です。中世から戦国時代の山城のイメージアップのための施設のようにも見えました。ただし、地形的には本丸の防御の要の場所のように見えますから、何らかの防御施設があったことは容易に想像が付きます。(同上)

    内側から眺めた冠木門の光景です。中世から戦国時代の山城のイメージアップのための施設のようにも見えました。ただし、地形的には本丸の防御の要の場所のように見えますから、何らかの防御施設があったことは容易に想像が付きます。(同上)

  • 道案内標識の光景です。左向きの矢印が、出発地点の駐車場方面、右向きの矢印が城址広場の表示でした。読み難くなっていた手前向きの表示は、公園施設の自然観察林方面のようです。(同上)

    道案内標識の光景です。左向きの矢印が、出発地点の駐車場方面、右向きの矢印が城址広場の表示でした。読み難くなっていた手前向きの表示は、公園施設の自然観察林方面のようです。(同上)

  • 落葉に足元が埋もれた観音菩薩立像の光景です。本丸の少し手前で見かけました。左手に『水瓶(すいびょう)』を持ち、右手は掌を表ににして上に向けた印相でした。『施無畏印(せむいいん)』と呼ばれ、『恐れなくてよい』と相手を励ますサインとされます。右手の施無畏印と、左手の『薬壷(やくこ)』の場合は、薬師如来とされるようです。(同上)

    落葉に足元が埋もれた観音菩薩立像の光景です。本丸の少し手前で見かけました。左手に『水瓶(すいびょう)』を持ち、右手は掌を表ににして上に向けた印相でした。『施無畏印(せむいいん)』と呼ばれ、『恐れなくてよい』と相手を励ますサインとされます。右手の施無畏印と、左手の『薬壷(やくこ)』の場合は、薬師如来とされるようです。(同上)

  • 本郭エリアに登ることができる石段のようでしたが、その先にも通路がありましたので、通り過ぎました。遺物の石段ではなく、明らかに後代に造られた石段のようでした。川尻城址には、基本的に石垣などは使われていないようです。(同上)

    本郭エリアに登ることができる石段のようでしたが、その先にも通路がありましたので、通り過ぎました。遺物の石段ではなく、明らかに後代に造られた石段のようでした。川尻城址には、基本的に石垣などは使われていないようです。(同上)

  • 本郭跡の端に建つ慰霊碑の光景です。本郭の広さは、東西75メートル、南北32メートルの楕円形とされ、慰霊碑の位置は、その西北方面になるようです。二群に分けて設置されていました。(同上)

    イチオシ

    本郭跡の端に建つ慰霊碑の光景です。本郭の広さは、東西75メートル、南北32メートルの楕円形とされ、慰霊碑の位置は、その西北方面になるようです。二群に分けて設置されていました。(同上)

  • 近寄ってズームアップした、本郭跡の端に建つ慰霊碑の光景です。『故陸軍兵長』、『故陸軍伍長』、『故海軍軍属』等の文字が読み取れました。(同上)

    近寄ってズームアップした、本郭跡の端に建つ慰霊碑の光景です。『故陸軍兵長』、『故陸軍伍長』、『故海軍軍属』等の文字が読み取れました。(同上)

  • 本郭跡の片隅にあった小高い場所の光景です。城址としての標識はありませんでしたが、物見櫓か天守が置かれていた場所かも知れません。今は、石碑類が林立していました。(同上)

    本郭跡の片隅にあった小高い場所の光景です。城址としての標識はありませんでしたが、物見櫓か天守が置かれていた場所かも知れません。今は、石碑類が林立していました。(同上)

  • これまで目にしたことがなかった、平和の象徴の鳩を手にした観世音菩薩の立像光景です。戦後に建立されたものでしょうか、近代のデザインのようでした。手を下げて掌を前に向けた印相は、『与願印(よがんいん)』と呼ばれ、相手に何かを与える仕草を模したものとされます。(同上)

    これまで目にしたことがなかった、平和の象徴の鳩を手にした観世音菩薩の立像光景です。戦後に建立されたものでしょうか、近代のデザインのようでした。手を下げて掌を前に向けた印相は、『与願印(よがんいん)』と呼ばれ、相手に何かを与える仕草を模したものとされます。(同上)

  • 平和の象徴の鳩を手にした観音立像のズームアップ光景です。花崗岩のような地肌の石材でした。飾りが付いた被り物を着けられていました。女性より、男性をイメージしたように見える顔立ちでした。(同上)

    平和の象徴の鳩を手にした観音立像のズームアップ光景です。花崗岩のような地肌の石材でした。飾りが付いた被り物を着けられていました。女性より、男性をイメージしたように見える顔立ちでした。(同上)

  • 歴史の小径の『川尻城址』の標識です。『?城山頂上(城山コース)』の表示もありました。順路の作手中学(0.7キロ・20分)の表示もありました。標識の上には、足軽のように見えた、赤い顔の人形が乗せてありました。(同上)

    イチオシ

    歴史の小径の『川尻城址』の標識です。『?城山頂上(城山コース)』の表示もありました。順路の作手中学(0.7キロ・20分)の表示もありました。標識の上には、足軽のように見えた、赤い顔の人形が乗せてありました。(同上)

  • 『川尻城址』のタイトルがあった説明看板の光景です。所在地の記載の後に、応永年間(1394~1428年)の間に奥平貞俊によって築城されたことが記されていました、本郭の広さは、東西75メートル、南北32メートルの楕円形であることも紹介されていました。(同上)

    『川尻城址』のタイトルがあった説明看板の光景です。所在地の記載の後に、応永年間(1394~1428年)の間に奥平貞俊によって築城されたことが記されていました、本郭の広さは、東西75メートル、南北32メートルの楕円形であることも紹介されていました。(同上)

  • 本郭の周りの小高い場所の光景です。『土塁址』のようにみえました。その土塁に石段が設けられ、小さな祠が祀られていましたが、これは後代の造作のようです。川尻城の縄張図では、本郭の東端に土塁が設けられていたようです。(同上)

    本郭の周りの小高い場所の光景です。『土塁址』のようにみえました。その土塁に石段が設けられ、小さな祠が祀られていましたが、これは後代の造作のようです。川尻城の縄張図では、本郭の東端に土塁が設けられていたようです。(同上)

  • 『水と土と樹がおりなす杜』のタイトルがあった説明パネルの光景です。イラスト主体で説明されたお子さん達の学習用のパネルでした。小学生が描いた絵も2点紹介されていました。(同上)

    『水と土と樹がおりなす杜』のタイトルがあった説明パネルの光景です。イラスト主体で説明されたお子さん達の学習用のパネルでした。小学生が描いた絵も2点紹介されていました。(同上)

  • 本郭エリアに造られていた休憩所の建物光景です。壁がない吹き抜け構造でした。耐震補強でしょうか、バツ印の筋交い柱が目立つ東屋でした。(同上)

    本郭エリアに造られていた休憩所の建物光景です。壁がない吹き抜け構造でした。耐震補強でしょうか、バツ印の筋交い柱が目立つ東屋でした。(同上)

  • 本郭の東側方面の光景です。右手に土塁らしい造作が見えていました。本郭の東側の土塁か、二の郭の西側の土塁か判断が付きませんでした。この通路にも、観音像が置かれていました。(同上)

    本郭の東側方面の光景です。右手に土塁らしい造作が見えていました。本郭の東側の土塁か、二の郭の西側の土塁か判断が付きませんでした。この通路にも、観音像が置かれていました。(同上)

  • 道案内標識の光景です。右向きの矢印が『城址広場』、左向きの矢印が『自然観察林』の表示でした。文字が詠み難くなった手前向きの矢印が、『縄文の森』でした。(同上)

    道案内標識の光景です。右向きの矢印が『城址広場』、左向きの矢印が『自然観察林』の表示でした。文字が詠み難くなった手前向きの矢印が、『縄文の森』でした。(同上)

23いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP