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奥三河の続日本百名城巡りです。川尻城址は、比高40メートル程の城山に築かれ、現在は城山公園として整備されています。遺構は、本郭や腰曲輪などのほか、土塁と堀切です。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイドブック)

2018秋、奥三河の続日本百名城(8/9):川尻城(2):創造の森城山公園、野仏、本郭

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2018/10/20 - 2018/10/20

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旅人のくまさん

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奥三河の続日本百名城巡りです。川尻城址は、比高40メートル程の城山に築かれ、現在は城山公園として整備されています。遺構は、本郭や腰曲輪などのほか、土塁と堀切です。(ウィキペディア、続日本百名城公式ガイドブック)

交通手段
自家用車
  • 本郭の東側に回り込んだ時の光景です。最近の台風で倒れてしまったのでしょうか、小さな木が通せんぼをしていました。通れないこともありませんでしたが、この場所で引き返しました。(同上)

    本郭の東側に回り込んだ時の光景です。最近の台風で倒れてしまったのでしょうか、小さな木が通せんぼをしていました。通れないこともありませんでしたが、この場所で引き返しました。(同上)

  • 同じく、本郭の東側に回り込んだ時の光景です。土塁跡らしい造作が確認できました。縄張図にも、本郭の周りには、何箇所か土塁跡が記されていました。川尻城址の遺構は、曲輪(郭)、土塁と空堀です。(同上)

    同じく、本郭の東側に回り込んだ時の光景です。土塁跡らしい造作が確認できました。縄張図にも、本郭の周りには、何箇所か土塁跡が記されていました。川尻城址の遺構は、曲輪(郭)、土塁と空堀です。(同上)

  • 本郭の端から見下ろした、冠木門があった付近の光景です。川尻城址の規模は、150メートル*100メートルとされますから、城山全体ではなく、この冠木門より上部の区域だけを指しているようでした。(同上)

    本郭の端から見下ろした、冠木門があった付近の光景です。川尻城址の規模は、150メートル*100メートルとされますから、城山全体ではなく、この冠木門より上部の区域だけを指しているようでした。(同上)

  • 本郭址で成長した高木の光景です。松の木らしい針葉樹でしたが、黒松でも、赤松でもないようでした。その右手に見える建物は、東屋風の休憩所です。(同上)

    本郭址で成長した高木の光景です。松の木らしい針葉樹でしたが、黒松でも、赤松でもないようでした。その右手に見える建物は、東屋風の休憩所です。(同上)

  • 本郭の周りに立ち並んだ慰霊碑の光景です。第二次世界大戦での戦死者が慰霊されているようでした。第二次世界大戦は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた、全世界的規模の巨大戦争でした。(同上)

    イチオシ

    本郭の周りに立ち並んだ慰霊碑の光景です。第二次世界大戦での戦死者が慰霊されているようでした。第二次世界大戦は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた、全世界的規模の巨大戦争でした。(同上)

  • 『忠魂碑』の大きな文字が刻まれた石標の光景です。本郭の中の一段高くなった小山の上に建っていました。通常は天守か、物見台が置かれる場所ですが、縄張図にはなにも記されていませんでした。記述の便宜上、この後は『推・天守台』と記すことにします。(同上)

    『忠魂碑』の大きな文字が刻まれた石標の光景です。本郭の中の一段高くなった小山の上に建っていました。通常は天守か、物見台が置かれる場所ですが、縄張図にはなにも記されていませんでした。記述の便宜上、この後は『推・天守台』と記すことにします。(同上)

  • 『推・天守台』の裾に置かれていた雪見灯篭らしい石灯篭の光景です。比較的新しい造りですから、後代に置かれたもののようです。日本には、飛鳥時代(592~710年)に仏教が伝来したのと同時に、灯籠が伝来したようです。初期はその多くが『献灯』と呼ばれ、社寺に設置されていました。(同上)

    『推・天守台』の裾に置かれていた雪見灯篭らしい石灯篭の光景です。比較的新しい造りですから、後代に置かれたもののようです。日本には、飛鳥時代(592~710年)に仏教が伝来したのと同時に、灯籠が伝来したようです。初期はその多くが『献灯』と呼ばれ、社寺に設置されていました。(同上)

  • 『推・天守台』の上方に置かれていた雪見灯篭の光景です。こちらも新しい造りでした。社寺に設置されていた石灯篭は、庭園文化の発達と共に園内に鑑賞目的で設置されるようになりました。石質は花崗岩が主流で、その中でも御影石が石灯籠の中で最も多いとされます。 雪見型は、主に池の水面を照らすために用いられ、笠の部分が大きく、背丈が低いのが特徴です。(同上)

    『推・天守台』の上方に置かれていた雪見灯篭の光景です。こちらも新しい造りでした。社寺に設置されていた石灯篭は、庭園文化の発達と共に園内に鑑賞目的で設置されるようになりました。石質は花崗岩が主流で、その中でも御影石が石灯籠の中で最も多いとされます。 雪見型は、主に池の水面を照らすために用いられ、笠の部分が大きく、背丈が低いのが特徴です。(同上)

  • 数多くの石碑や石灯籠が建てられていた、小高い『推・天守台』のほぼ全景です。一番高い場所に、大きく育った松の木の姿もありました。(同上)

    数多くの石碑や石灯籠が建てられていた、小高い『推・天守台』のほぼ全景です。一番高い場所に、大きく育った松の木の姿もありました。(同上)

  • 『本郭』とも『本丸』とも表示されたネット情報があった、川尻城の最高所の広場の光景です。その周りには、土塁らしい遺構が残されているようでした。(同上)

    『本郭』とも『本丸』とも表示されたネット情報があった、川尻城の最高所の広場の光景です。その周りには、土塁らしい遺構が残されているようでした。(同上)

  • 本郭の周りに立ち並んだ慰霊碑の間から眺めた麓方面の光景です。天然の要害らしい急斜面と湿地帯で守られていた方角のようです。概ね北側方面になるようです。(同上)

    本郭の周りに立ち並んだ慰霊碑の間から眺めた麓方面の光景です。天然の要害らしい急斜面と湿地帯で守られていた方角のようです。概ね北側方面になるようです。(同上)

  • 同じく、本郭の周りに立ち並んだ慰霊碑の左端付近から眺めた、麓方面の光景です。樹々に視界が阻まれて、麓方面ははっきりとは確認できませんでしたが、左手寄りの奥に、瓦屋根が見えていました。西北方面になるようでした。(同上)

    同じく、本郭の周りに立ち並んだ慰霊碑の左端付近から眺めた、麓方面の光景です。樹々に視界が阻まれて、麓方面ははっきりとは確認できませんでしたが、左手寄りの奥に、瓦屋根が見えていました。西北方面になるようでした。(同上)

  • 川尻城址の本郭跡と思しき高台からの眺望です。樹々の間から、麓の田圃や市街地、その先に山並み光景が見えました。方角が分かりませんでしたが、川尻城址の真南方向には古宮城址、その西側には賽ノ神城址、更に南には亀山城址などが位置します。かつての交通の要所だけに、まさに城址オンパレードです。(同上)

    イチオシ

    川尻城址の本郭跡と思しき高台からの眺望です。樹々の間から、麓の田圃や市街地、その先に山並み光景が見えました。方角が分かりませんでしたが、川尻城址の真南方向には古宮城址、その西側には賽ノ神城址、更に南には亀山城址などが位置します。かつての交通の要所だけに、まさに城址オンパレードです。(同上)

  • 同じく、川尻城址の本郭跡と思しき高台からの眺望です。中央奥に見える小高い独立丘が古宮城跡かもしれません。川尻城址と古宮城址の直線距離をネット検索しましたら、約1キロと表示されていました。また、川尻城址と亀山城址の直線距離は約2キロです。この三つの城址は、ほぼ直線上にありますから、古宮城址と亀山城址の距離は約1キロです。(同上)

    同じく、川尻城址の本郭跡と思しき高台からの眺望です。中央奥に見える小高い独立丘が古宮城跡かもしれません。川尻城址と古宮城址の直線距離をネット検索しましたら、約1キロと表示されていました。また、川尻城址と亀山城址の直線距離は約2キロです。この三つの城址は、ほぼ直線上にありますから、古宮城址と亀山城址の距離は約1キロです。(同上)

  • 川尻城址の見学を終え、この後は、帰り道での撮影です。今年の紅葉は盛夏が続いた頃には期待されましたが、その後の大型台風の来襲で、塩害などを受け、期待外れに終わりそうです。先ほど紹介できなかった近くの城址には、文殊山城址、石橋城址などがあります。(同上)

    川尻城址の見学を終え、この後は、帰り道での撮影です。今年の紅葉は盛夏が続いた頃には期待されましたが、その後の大型台風の来襲で、塩害などを受け、期待外れに終わりそうです。先ほど紹介できなかった近くの城址には、文殊山城址、石橋城址などがあります。(同上)

  • 往きにも紹介した道の脇の石像の光景です。後背を持った観音菩薩立像のようです。左手に持たれているのは、水瓶(すいびょう) のようです。不思議な甘露水が入っていて、ふりかけると穢れが消えるとされます。印相は、仏の深い慈悲を表すとされる与願印(よがんいん)のようでした。(同上)

    往きにも紹介した道の脇の石像の光景です。後背を持った観音菩薩立像のようです。左手に持たれているのは、水瓶(すいびょう) のようです。不思議な甘露水が入っていて、ふりかけると穢れが消えるとされます。印相は、仏の深い慈悲を表すとされる与願印(よがんいん)のようでした。(同上)

  • 最近の大雨が原因でしょうか、小さな土砂崩れを起こした場所の光景です。いわゆる、赤土が露出していました。赤い色は、一般に土壌に含まれる酸化鉄などに由来します。 日本で有名な赤土層は、南関東の関東ロームですが、これは、富士山からの玄武岩質降下火砕堆積物が酸化したものです。(同上)

    最近の大雨が原因でしょうか、小さな土砂崩れを起こした場所の光景です。いわゆる、赤土が露出していました。赤い色は、一般に土壌に含まれる酸化鉄などに由来します。 日本で有名な赤土層は、南関東の関東ロームですが、これは、富士山からの玄武岩質降下火砕堆積物が酸化したものです。(同上)

  • 冠木門の場所まで戻って来ました。発掘調査や、文献などに基づく冠木門や、その周りの木柵の再建ではないようでした。城址らしい雰囲気はありましたが、草刈りなどの手入れは余りされていないようでした。冠木門の中は曲輪跡のようです。この辺りを大手口とするネット情報もありました。(同上)

    冠木門の場所まで戻って来ました。発掘調査や、文献などに基づく冠木門や、その周りの木柵の再建ではないようでした。城址らしい雰囲気はありましたが、草刈りなどの手入れは余りされていないようでした。冠木門の中は曲輪跡のようです。この辺りを大手口とするネット情報もありました。(同上)

  • 冠木門の門柱に懸かっていた表札の光景です。現在はほとんど読み取ることができませんが、冠木門が造られた当初の写真を探しましたら、『川尻城冠木門』の文字がくっきりと読み取れました。(同上)

    冠木門の門柱に懸かっていた表札の光景です。現在はほとんど読み取ることができませんが、冠木門が造られた当初の写真を探しましたら、『川尻城冠木門』の文字がくっきりと読み取れました。(同上)

  • 冠木門の前で大きくカーブした通路の光景です。かつての大手道になるのかも知れませんが、戦国時代の山城ですから、通路に設けられた門跡などは、何も確認できませんでした。資料館で戴いた、観光案内の中の『川尻城址』の縄張図にも、細かなことは何も記されていませんでしたが、道に挟まれた前方は腰曲輪かも知れません。(同上)

    冠木門の前で大きくカーブした通路の光景です。かつての大手道になるのかも知れませんが、戦国時代の山城ですから、通路に設けられた門跡などは、何も確認できませんでした。資料館で戴いた、観光案内の中の『川尻城址』の縄張図にも、細かなことは何も記されていませんでしたが、道に挟まれた前方は腰曲輪かも知れません。(同上)

  • 急カーブを通り過ぎた後は、ほぼ一直線の下り坂でした。往きには、階段を登って、この本道をショートカットしましたが、帰りは麓まで歩くことにしました。下り道の左側が急斜面です。その斜面には、竪堀などの防御施設はないようでした。(同上)

    急カーブを通り過ぎた後は、ほぼ一直線の下り坂でした。往きには、階段を登って、この本道をショートカットしましたが、帰りは麓まで歩くことにしました。下り道の左側が急斜面です。その斜面には、竪堀などの防御施設はないようでした。(同上)

  • 麓への下り坂から眺めた、側面の麓方面の光景です。木々の間から駐車した場祖が見えていました。川尻城址の現地案内板には、標高569.5メートル、比高差39.5メートルと紹介された城山に造られた平山城になるようです。(同上)

    麓への下り坂から眺めた、側面の麓方面の光景です。木々の間から駐車した場祖が見えていました。川尻城址の現地案内板には、標高569.5メートル、比高差39.5メートルと紹介された城山に造られた平山城になるようです。(同上)

  • ネット情報では、『登城道』と記された本道のズームアップ光景です。道路の中央が苔生していましたから、その脇を歩きました。雨上がりの後は滑りそうでした。水はけを考えてあるのでしょうか、道路は真ん中が高くなっていました。(同上)

    ネット情報では、『登城道』と記された本道のズームアップ光景です。道路の中央が苔生していましたから、その脇を歩きました。雨上がりの後は滑りそうでした。水はけを考えてあるのでしょうか、道路は真ん中が高くなっていました。(同上)

  • あおむけに倒れてしまった石像です。はっきりとは分かりませんが、観音座像のようでした。観世音菩薩は、本来男性であったと考えられていますが、地蔵菩薩が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音菩薩は女性的な顔立ちの像容が多いことから、女性と見る向きが多いようです。(同上)

    あおむけに倒れてしまった石像です。はっきりとは分かりませんが、観音座像のようでした。観世音菩薩は、本来男性であったと考えられていますが、地蔵菩薩が男性の僧侶形の像容であるのに対し、観音菩薩は女性的な顔立ちの像容が多いことから、女性と見る向きが多いようです。(同上)

  • 大きな石に挟まれた場所に祀られていた石像です。後背を持った観音菩薩立像のようです。左手に持たれているのは、水瓶(すいびょう) のようです。印相は、一番多く見かけた与願印(よがんいん)でしょうか、仏の深い慈悲を表すとされます。(同上)

    大きな石に挟まれた場所に祀られていた石像です。後背を持った観音菩薩立像のようです。左手に持たれているのは、水瓶(すいびょう) のようです。印相は、一番多く見かけた与願印(よがんいん)でしょうか、仏の深い慈悲を表すとされます。(同上)

  • 路傍に祀られた観音立像のスタイルは、ほぼ同じでした。左手に水瓶(すいびょう)、右手が与願印(よがんいん)の印相(いんぞう)でした。観音像には基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、密教の教義により作られた、十一面観音、千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像があります。(同上)

    路傍に祀られた観音立像のスタイルは、ほぼ同じでした。左手に水瓶(すいびょう)、右手が与願印(よがんいん)の印相(いんぞう)でした。観音像には基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、密教の教義により作られた、十一面観音、千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像があります。(同上)

  • 下山中の『登城道』から眺めた、右手方面の光景です。欝蒼と木々と野草が生い茂っていました。その野草の中に赤いものが見えました。この写真の中央下部付近です。(同上)

    下山中の『登城道』から眺めた、右手方面の光景です。欝蒼と木々と野草が生い茂っていました。その野草の中に赤いものが見えました。この写真の中央下部付近です。(同上)

  • 『マムシグサ(蝮草)』の赤い実の光景です。下の方には、まだ緑色の実が残っていました。サトイモ科テンナンショウ属の多年草です。全草にシュウ酸カルシウムの針状結晶、サポニン、コニインが含まれる毒草です。(同上)

    イチオシ

    『マムシグサ(蝮草)』の赤い実の光景です。下の方には、まだ緑色の実が残っていました。サトイモ科テンナンショウ属の多年草です。全草にシュウ酸カルシウムの針状結晶、サポニン、コニインが含まれる毒草です。(同上)

  • 『川尻城址』の道案内標識の光景です。川尻城は応永31年(1424年)に奥平貞俊によって築かれました。奥平氏の勢力が増大し、手狭になったために数年後には 亀山城に移りました。その後も一族の者がこの城を守り、亀山城北方の支城としての役目を 担ったようです。(同上)

    『川尻城址』の道案内標識の光景です。川尻城は応永31年(1424年)に奥平貞俊によって築かれました。奥平氏の勢力が増大し、手狭になったために数年後には 亀山城に移りました。その後も一族の者がこの城を守り、亀山城北方の支城としての役目を 担ったようです。(同上)

  • 麓までおありた場所の光景です。比高差39.5メートルとされる、歩道が整備された城山ですから、往きも帰りも、何の苦も無く上り下りできました。往きには、この右手の通りの先で階段を登り、ショートカットしました。(同上)

    麓までおありた場所の光景です。比高差39.5メートルとされる、歩道が整備された城山ですから、往きも帰りも、何の苦も無く上り下りできました。往きには、この右手の通りの先で階段を登り、ショートカットしました。(同上)

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