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山陰の名所巡りの締め括りです。世界遺産に登録されている石見銀山の見学の最後には、江戸時代まで機能していた、代官所跡と、奉行・代官職の菩提寺となった勝源寺を見学しました。

2018梅雨、島根の名所(15/15):6月25日(11):石見銀山(7):代官所跡、勝源寺、山門

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2018/06/24 - 2018/06/25

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

山陰の名所巡りの締め括りです。世界遺産に登録されている石見銀山の見学の最後には、江戸時代まで機能していた、代官所跡と、奉行・代官職の菩提寺となった勝源寺を見学しました。

交通手段
観光バス 新幹線

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  • 代官所跡の入口門跡に置かれていた、『夢の金銀銅山絵巻展』のポスターの光景です。展示館に入場して見学する時間はありませんでしたが、このポスターで紹介されていた絵巻は、新坑道の中に説明文入りで展示されていました。

    代官所跡の入口門跡に置かれていた、『夢の金銀銅山絵巻展』のポスターの光景です。展示館に入場して見学する時間はありませんでしたが、このポスターで紹介されていた絵巻は、新坑道の中に説明文入りで展示されていました。

  • 現在は、『石見銀山資料館』として使用されている『大森代官所跡』の建物正面光景です。残念ながら、入場して見学する時間はありませんでした。 開館は昭和51年(1976年)8月で、平成19年(2007年)3月にリニューアルされました。この本館建物は、明治35年(1902年)竣工の旧邇摩郡役所庁舎です。

    イチオシ

    現在は、『石見銀山資料館』として使用されている『大森代官所跡』の建物正面光景です。残念ながら、入場して見学する時間はありませんでした。 開館は昭和51年(1976年)8月で、平成19年(2007年)3月にリニューアルされました。この本館建物は、明治35年(1902年)竣工の旧邇摩郡役所庁舎です。

  • 『石見銀山資料館』として使用されている『大森代官所跡』の建物右手方面の光景です。ネット情報では、『石見銀山に関する歴史資料、鉱山資料・標本等を収集、収蔵、公開する施設』と紹介されていました。

    『石見銀山資料館』として使用されている『大森代官所跡』の建物右手方面の光景です。ネット情報では、『石見銀山に関する歴史資料、鉱山資料・標本等を収集、収蔵、公開する施設』と紹介されていました。

  • 『石見銀山資料館』として使用されている『大森代官所跡』の建物左手方面の光景です。大森代官所があった当時の建物では、門番詰所や仮牢などに使用されていた門長屋(1815年再建)が現存しています。

    『石見銀山資料館』として使用されている『大森代官所跡』の建物左手方面の光景です。大森代官所があった当時の建物では、門番詰所や仮牢などに使用されていた門長屋(1815年再建)が現存しています。

  • 文字は読み解けませんでしたが、とりあえず撮影しておいた年代物の石標の光景です。仮名混じりの行書か草書体の文字が連綿としていましたが、写真をズームアップしても、まだ読み解けていません。

    文字は読み解けませんでしたが、とりあえず撮影しておいた年代物の石標の光景です。仮名混じりの行書か草書体の文字が連綿としていましたが、写真をズームアップしても、まだ読み解けていません。

  • 庭石のように置かれていた、形が整った石群の光景です。推測ですが、石垣などに使われた、一定の表面加工を行った石材のようでした。代官所跡には、一揆等に備えた二つの抜け道が設けられていたようです。一つ葉隣の城上神社、もう一つは裏手の勝源寺に通じていると伝わります。

    庭石のように置かれていた、形が整った石群の光景です。推測ですが、石垣などに使われた、一定の表面加工を行った石材のようでした。代官所跡には、一揆等に備えた二つの抜け道が設けられていたようです。一つ葉隣の城上神社、もう一つは裏手の勝源寺に通じていると伝わります。

  • 内側から眺めた、大森代官所跡の出入口門の光景です。大森代官所当時の建物の門番詰所や仮牢などに使用されていた門長屋と同じ並びの出入口門です。門長屋は、江戸時代の1815年に再建されたものですが、『表門』と呼ばれているこの門も同時期の再建のようでした。

    内側から眺めた、大森代官所跡の出入口門の光景です。大森代官所当時の建物の門番詰所や仮牢などに使用されていた門長屋と同じ並びの出入口門です。門長屋は、江戸時代の1815年に再建されたものですが、『表門』と呼ばれているこの門も同時期の再建のようでした。

  • 大森代官所跡の敷地にあった、離れのような建物光景です。1800年の大火を境に、大森の町並みは瓦葺き・板葺きの建物に変わっていったとされます。石見銀山料(天領)の支配を担っていた代官所は、火災で火が移らないように、代官所から城上神社に向かう道の間には『火除け地』が今でも残っています。

    大森代官所跡の敷地にあった、離れのような建物光景です。1800年の大火を境に、大森の町並みは瓦葺き・板葺きの建物に変わっていったとされます。石見銀山料(天領)の支配を担っていた代官所は、火災で火が移らないように、代官所から城上神社に向かう道の間には『火除け地』が今でも残っています。

  • これで、大森ダンカン所跡の紹介はお終いです。帰りは正面出入口ではなく、龍源寺に多少近い、裏口門を潜りました。

    これで、大森ダンカン所跡の紹介はお終いです。帰りは正面出入口ではなく、龍源寺に多少近い、裏口門を潜りました。

  • 『武家・町家ゾーン』を見学した時にも目にした川のようです。二級河川の『銀山川(ぎんざんがわ)』です。

    『武家・町家ゾーン』を見学した時にも目にした川のようです。二級河川の『銀山川(ぎんざんがわ)』です。

  • 石見銀山が世界遺産に登録されたことで整備されたらしい、立派な道案内標識の光景です。左向きの矢印が、先ほど見学した『大森代官所跡(石見銀山資料館)』、右向きの矢印が『大森の町並み(龍源寺間歩3キロ)』の表示になっていました。

    石見銀山が世界遺産に登録されたことで整備されたらしい、立派な道案内標識の光景です。左向きの矢印が、先ほど見学した『大森代官所跡(石見銀山資料館)』、右向きの矢印が『大森の町並み(龍源寺間歩3キロ)』の表示になっていました。

  • 振り返って眺めた、大森代官所跡方面の町並み光景です。先程潜った裏門の先に、門長屋の建物が見えていました。更にその先に見える鳥居は、代官所に隣接する、城上(きがみ)神社です。拝殿の鏡天井にある極彩色の『鳴き龍』が有名な神社ですが、見学する時間がありませんでした。

    振り返って眺めた、大森代官所跡方面の町並み光景です。先程潜った裏門の先に、門長屋の建物が見えていました。更にその先に見える鳥居は、代官所に隣接する、城上(きがみ)神社です。拝殿の鏡天井にある極彩色の『鳴き龍』が有名な神社ですが、見学する時間がありませんでした。

  • 先程と同じスタイルの、石見銀山が世界遺産に登録されたことで整備されたらしい、道案内標識の光景です。『大森の町なみ』と並んで、『石見銀山東照宮・勝源寺(200メートル)』の表示がありました。

    先程と同じスタイルの、石見銀山が世界遺産に登録されたことで整備されたらしい、道案内標識の光景です。『大森の町なみ』と並んで、『石見銀山東照宮・勝源寺(200メートル)』の表示がありました。

  • 『県指定史跡・石見銀山大森代官所地役人遺宅・岡家』のタイトルがあった説明看板の光景です。県の史跡に指定されたのは、昭和49年(1974年)9月と記されていました。武家屋敷の特徴をよく残した住居と紹介されていました。

    『県指定史跡・石見銀山大森代官所地役人遺宅・岡家』のタイトルがあった説明看板の光景です。県の史跡に指定されたのは、昭和49年(1974年)9月と記されていました。武家屋敷の特徴をよく残した住居と紹介されていました。

  • 隙間から眺めた、『岡家』の居宅光景です。江戸時代中期は、地役人の沢井氏の居宅でしたが、その後親戚筋の地役人の鹿野氏の居宅となりましたが、岡氏との関係は立札に記されていませんでした。

    隙間から眺めた、『岡家』の居宅光景です。江戸時代中期は、地役人の沢井氏の居宅でしたが、その後親戚筋の地役人の鹿野氏の居宅となりましたが、岡氏との関係は立札に記されていませんでした。

  • 少し茜色を帯びた紫色の装飾花を持った『ガクアジサイ(額紫陽花)』の光景です。ガクアジサイの中心部にあるのが、『両性花』と呼ばれる、本来の花の部分です。

    少し茜色を帯びた紫色の装飾花を持った『ガクアジサイ(額紫陽花)』の光景です。ガクアジサイの中心部にあるのが、『両性花』と呼ばれる、本来の花の部分です。

  • ごく薄い紫色の装飾花を持った額紫陽花の光景です。丸い形に咲く西洋アジサイは、ガクアジサイの中心部にある『両性花』が、すべて装飾花のように開いたものです。日本からガクアジサイがヨーロッパに渡り、手毬咲の西洋アジサイに改良されたとされます。

    ごく薄い紫色の装飾花を持った額紫陽花の光景です。丸い形に咲く西洋アジサイは、ガクアジサイの中心部にある『両性花』が、すべて装飾花のように開いたものです。日本からガクアジサイがヨーロッパに渡り、手毬咲の西洋アジサイに改良されたとされます。

  • 次に向かったのは、代官職の菩提寺とされる『勝現寺』です。その入口になる石段下に到着しました。石段の上には山門が見えましたが、明和9年(1772年)建立の山門は、大田市指定文化財です。

    イチオシ

    次に向かったのは、代官職の菩提寺とされる『勝現寺』です。その入口になる石段下に到着しました。石段の上には山門が見えましたが、明和9年(1772年)建立の山門は、大田市指定文化財です。

  • 石段の脇にあった、『浄土宗・即応山・勝源寺』の文字が刻まれた立派な石標の光景です。『安養院』の院号も持つようです。 勝源寺は、慶長18年(1613年)から寛永12年(1635年)までの22年間に亘って銀山奉行を勤めた竹村丹後守道清が日誉上人を招いて開山したのが始まりです。その後、歴代奉行・代官の菩提寺として庇護され、大森地区にあった寺院の中でも筆頭格とされました。

    石段の脇にあった、『浄土宗・即応山・勝源寺』の文字が刻まれた立派な石標の光景です。『安養院』の院号も持つようです。 勝源寺は、慶長18年(1613年)から寛永12年(1635年)までの22年間に亘って銀山奉行を勤めた竹村丹後守道清が日誉上人を招いて開山したのが始まりです。その後、歴代奉行・代官の菩提寺として庇護され、大森地区にあった寺院の中でも筆頭格とされました。

  • 山門越しに眺めた境内の光景です。道清は日光東照宮から家康の分霊を勧請し境内背後の高台に東照宮を建立、歴代奉行・代官は毎年東照宮に参拝するのが通例となり、益々寺運が隆盛しました。

    山門越しに眺めた境内の光景です。道清は日光東照宮から家康の分霊を勧請し境内背後の高台に東照宮を建立、歴代奉行・代官は毎年東照宮に参拝するのが通例となり、益々寺運が隆盛しました。

  • 『県指定史跡・石見銀山遺跡・奉行代官墓所』のタイトルがあった、大田市教育委員会名での説明看板の光景です。奉行は二代目の竹村丹後守のみで、その後は代官職となったようでした。

    『県指定史跡・石見銀山遺跡・奉行代官墓所』のタイトルがあった、大田市教育委員会名での説明看板の光景です。奉行は二代目の竹村丹後守のみで、その後は代官職となったようでした。

  • 山門の内側から眺めた、木組みと彫刻のズームアップ光景です。本堂とこの山門は、大田市の指定文化財となっています。また、県指定の文化財は、竹村奉行をはじめとする奉行代官の墓所と木造阿弥陀如来立像です。

    山門の内側から眺めた、木組みと彫刻のズームアップ光景です。本堂とこの山門は、大田市の指定文化財となっています。また、県指定の文化財は、竹村奉行をはじめとする奉行代官の墓所と木造阿弥陀如来立像です。

  • 山門に飾られた龍の彫刻のズームアップ光景です。四脚門の山門には、毎夜水を飲みに抜け出して困るというので、竜の目に釘を打ち、動けないようにしたという龍の彫刻があるようですが、この彫刻には、釘は見当たらないようでした。

    山門に飾られた龍の彫刻のズームアップ光景です。四脚門の山門には、毎夜水を飲みに抜け出して困るというので、竜の目に釘を打ち、動けないようにしたという龍の彫刻があるようですが、この彫刻には、釘は見当たらないようでした。

  • 山門越しに眺めた、境外の光景です。麓方面に家並みが見えていました。楼門ですから、左手に二階に登る階段が見えていました。四脚山門の阿吽の獣や、龍の彫り物は、版画家の棟方志功も絶賛したという逸品とされます。

    山門越しに眺めた、境外の光景です。麓方面に家並みが見えていました。楼門ですから、左手に二階に登る階段が見えていました。四脚山門の阿吽の獣や、龍の彫り物は、版画家の棟方志功も絶賛したという逸品とされます。

  • 山門の前から眺めた、本堂の光景です。江戸時代の大檀那は、奉行や代官でしたが、明治以降にはその庇護はなく、檀家もないようですから、お寺を維持するのには、大きな困難があったと推測されます。現在は、土日などに限って内部拝観が出来るようです。

    山門の前から眺めた、本堂の光景です。江戸時代の大檀那は、奉行や代官でしたが、明治以降にはその庇護はなく、檀家もないようですから、お寺を維持するのには、大きな困難があったと推測されます。現在は、土日などに限って内部拝観が出来るようです。

  • 境内に祀られていた石座像と、その近くにあった石標の光景です。石標には『南無阿弥陀仏』、座像の台座には『供養頌』で始まる文字が刻まれていました。

    境内に祀られていた石座像と、その近くにあった石標の光景です。石標には『南無阿弥陀仏』、座像の台座には『供養頌』で始まる文字が刻まれていました。

  • 境内に祀られていた石座像のズームアップ光景です。かなり風化が進んでいましたが、半跏踏み下げ像のように見えました。

    境内に祀られていた石座像のズームアップ光景です。かなり風化が進んでいましたが、半跏踏み下げ像のように見えました。

  • 少し離れた場所からの見学でしたから、詳細は分かりませんでしたが、『県指定史跡・石見銀山遺跡・奉行代官墓所』かも知れません。保存状態が少し気掛かりな遺跡でした。あるいは、この日は見学できなかった別の場所に墓所があるのかも知れません。

    イチオシ

    少し離れた場所からの見学でしたから、詳細は分かりませんでしたが、『県指定史跡・石見銀山遺跡・奉行代官墓所』かも知れません。保存状態が少し気掛かりな遺跡でした。あるいは、この日は見学できなかった別の場所に墓所があるのかも知れません。

  • 正面から眺めた、本堂の建物光景です。山門と並んで、大田市の文化財に指定された建物です。格式を感じさせる造りの本堂です。

    正面から眺めた、本堂の建物光景です。山門と並んで、大田市の文化財に指定された建物です。格式を感じさせる造りの本堂です。

  • 本堂に向かって左手の建物光景です。庫裏の建物になるようでした。辺りは、ひっそりとした雰囲気でした。

    本堂に向かって左手の建物光景です。庫裏の建物になるようでした。辺りは、ひっそりとした雰囲気でした。

  • 同じく、本堂に向かって左手にある庫裏らしい建物の正面光景です。荒れ屋ではありませんでしたが、普段は人が住まわれていない雰囲気でした。

    同じく、本堂に向かって左手にある庫裏らしい建物の正面光景です。荒れ屋ではありませんでしたが、普段は人が住まわれていない雰囲気でした。

  • 左斜め前から眺めた本堂の光景です。浄土宗のお寺で、本山は京都の知恩院になるようです。浄土宗は、大乗仏教の宗派の一つで、法然を宗祖とし、総本山は知恩院です。

    左斜め前から眺めた本堂の光景です。浄土宗のお寺で、本山は京都の知恩院になるようです。浄土宗は、大乗仏教の宗派の一つで、法然を宗祖とし、総本山は知恩院です。

  • 本堂の前付近から眺めた山門の光景です。世界的な版画家だった棟方志功(1903~1975年)も絶賛したという、四脚山門の阿吽の獣や龍の彫り物は、相当な逸品のようです。

    本堂の前付近から眺めた山門の光景です。世界的な版画家だった棟方志功(1903~1975年)も絶賛したという、四脚山門の阿吽の獣や龍の彫り物は、相当な逸品のようです。

  • 道の脇の斜面で咲いていた、『ヤマブキ(山吹)』の花です。バラ科ヤマブキ属の植物ですが、本種のみの一属一種です。一重咲でした。

    道の脇の斜面で咲いていた、『ヤマブキ(山吹)』の花です。バラ科ヤマブキ属の植物ですが、本種のみの一属一種です。一重咲でした。

  • 境内からは一段低い場所の公道から眺めた、本堂の正面光景です。境内は平日でも自由参観ができました。

    イチオシ

    境内からは一段低い場所の公道から眺めた、本堂の正面光景です。境内は平日でも自由参観ができました。

  • 公道から眺めた、歴代奉行・代官のお墓のように見えましたが、島根県の文化財に指定されているお墓は、別の場所にあるのかも知れません。

    公道から眺めた、歴代奉行・代官のお墓のように見えましたが、島根県の文化財に指定されているお墓は、別の場所にあるのかも知れません。

  • ここからは、再集合場所に向かう途中の光景です。勝源寺からは、緩やかな下り坂になっていました。

    ここからは、再集合場所に向かう途中の光景です。勝源寺からは、緩やかな下り坂になっていました。

  • 大森の町並み光景です。まだ新しい造りの民間会社の建物のようでした。代官所跡に隣接する建物になるようです。

    大森の町並み光景です。まだ新しい造りの民間会社の建物のようでした。代官所跡に隣接する建物になるようです。

  • 中央奥に見える建物は、往きにも少し紹介した、『県指定史跡・石見銀山大森代官所地役人遺宅・岡家』の建物です。右端に小さく見えるのが、先ほど見学してきた、勝源寺の山門になります。

    中央奥に見える建物は、往きにも少し紹介した、『県指定史跡・石見銀山大森代官所地役人遺宅・岡家』の建物です。右端に小さく見えるのが、先ほど見学してきた、勝源寺の山門になります。

  • 大森地区の町並み光景です。この日の昼食会場だった『御食事処・おおもり』の建物光景です。入口に『名物・代官そば』の看板がありました。

    大森地区の町並み光景です。この日の昼食会場だった『御食事処・おおもり』の建物光景です。入口に『名物・代官そば』の看板がありました。

  • 平成19年(2007年)8月に制定されたことが記されていた、『石見銀山・太田町町民憲章』が記された立看板の光景です。将来へ向かっての三つの約束事が記されていました。同年に世界遺産に登録されたことへの決意のようでした。

    平成19年(2007年)8月に制定されたことが記されていた、『石見銀山・太田町町民憲章』が記された立看板の光景です。将来へ向かっての三つの約束事が記されていました。同年に世界遺産に登録されたことへの決意のようでした。

  • 広い面積を使用した基礎の上に建つ石碑の光景です。『西南之役戦死者紀念碑』の文字が刻まれていました。西南の役(せいなんのえき)は、西南戦争とも呼ばれ、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。現時点で、日本最後の内戦とも表現されています。島根県知事の落款がありました。

    広い面積を使用した基礎の上に建つ石碑の光景です。『西南之役戦死者紀念碑』の文字が刻まれていました。西南の役(せいなんのえき)は、西南戦争とも呼ばれ、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。現時点で、日本最後の内戦とも表現されています。島根県知事の落款がありました。

  • 『石見銀山遺跡案内図』のタイトルがあった案内パネルの光景です。高低差のある地形を背景に、遺跡や現況の施設が細かく記されていました。

    『石見銀山遺跡案内図』のタイトルがあった案内パネルの光景です。高低差のある地形を背景に、遺跡や現況の施設が細かく記されていました。

  • 花の時期が過ぎた、藤棚の光景です。大きな実が幾つも垂れ下がっていました。『フジ(藤)』は、マメ科フジ属のつる性落葉木本です。藤には、つるが右巻き(上から見て時計回り)と、左巻きの二種類があります。右巻きの藤の標準和名は『フジ』または『ノダフジ』、左巻きの藤の標準和名を『ヤマフジ』または『ノフジ』と牧野富太郎博士が命名しました。

    花の時期が過ぎた、藤棚の光景です。大きな実が幾つも垂れ下がっていました。『フジ(藤)』は、マメ科フジ属のつる性落葉木本です。藤には、つるが右巻き(上から見て時計回り)と、左巻きの二種類があります。右巻きの藤の標準和名は『フジ』または『ノダフジ』、左巻きの藤の標準和名を『ヤマフジ』または『ノフジ』と牧野富太郎博士が命名しました。

  • まだ緑色の鞘に収まった、藤の実のズームアップ光景です。大阪市福島区野田はノダフジ(野田藤))と呼ばれる藤の名所で、牧野富太郎博士による命名のきっかけとなりました。花は天ぷらなどにすることができますが、毒性もあります。種子には、有毒性アルカロイドの一種であるシチシンを含むとされます。薬用にもされる藤は、毒と薬の紙一重にあります。

    まだ緑色の鞘に収まった、藤の実のズームアップ光景です。大阪市福島区野田はノダフジ(野田藤))と呼ばれる藤の名所で、牧野富太郎博士による命名のきっかけとなりました。花は天ぷらなどにすることができますが、毒性もあります。種子には、有毒性アルカロイドの一種であるシチシンを含むとされます。薬用にもされる藤は、毒と薬の紙一重にあります。

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