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鎌倉に数多ある名所の中でも屈指の人気スポットが、街のシンボルとも言える「鎌倉大仏」です。鎌倉唯一の国宝仏像であると共に、日本三大大仏にも数えられる「鎌倉大仏」が鎮座する高徳院の見所を紹介します。因みに、「ミシュラン・グリーンガイド」1つ星の観光地です。<br />高徳院は、鎌倉市長谷にある浄土宗系の寺院で、山号は「大異山」、正式名称は「大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)」です。本尊には、「鎌倉大仏」として知られる阿弥陀如来坐像を祀ります。<br />創建については、史料が乏しく、開基(創立者)と開山(初代住職)は共に不詳とされる、謎めいた寺院です。草創は、光明寺の奥の院を遷したとの説がありますが、これも史料が乏しく定かではありません。当初は真言宗の寺院でしたが、鎌倉 極楽寺を開いた真言律宗の忍性が住持となったこともあります。その後、建長寺の末寺となって臨済宗に改宗し、浄土宗の鎌倉 長谷寺の管理下に置かれたりと変遷を重ね、江戸時代中期に芝 増上寺の祐天上人が再興して以降は浄土宗に定まり、「高徳院」という院号を名乗りました。<br />境内一帯は「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されています。個人にご利益のあるスポットではなく、平和、国家安泰を願う場です。<br />高徳院のHPです。<br />http://www.kotoku-in.jp/

問柳尋花 鎌倉紀行⑥高徳院 鎌倉大仏

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2018/05/24 - 2018/05/25

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

鎌倉に数多ある名所の中でも屈指の人気スポットが、街のシンボルとも言える「鎌倉大仏」です。鎌倉唯一の国宝仏像であると共に、日本三大大仏にも数えられる「鎌倉大仏」が鎮座する高徳院の見所を紹介します。因みに、「ミシュラン・グリーンガイド」1つ星の観光地です。
高徳院は、鎌倉市長谷にある浄土宗系の寺院で、山号は「大異山」、正式名称は「大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)」です。本尊には、「鎌倉大仏」として知られる阿弥陀如来坐像を祀ります。
創建については、史料が乏しく、開基(創立者)と開山(初代住職)は共に不詳とされる、謎めいた寺院です。草創は、光明寺の奥の院を遷したとの説がありますが、これも史料が乏しく定かではありません。当初は真言宗の寺院でしたが、鎌倉 極楽寺を開いた真言律宗の忍性が住持となったこともあります。その後、建長寺の末寺となって臨済宗に改宗し、浄土宗の鎌倉 長谷寺の管理下に置かれたりと変遷を重ね、江戸時代中期に芝 増上寺の祐天上人が再興して以降は浄土宗に定まり、「高徳院」という院号を名乗りました。
境内一帯は「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定されています。個人にご利益のあるスポットではなく、平和、国家安泰を願う場です。
高徳院のHPです。
http://www.kotoku-in.jp/

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄

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  • 境内マップ<br />開基(創立者)と開山(初代住職)は共に不詳ですが、高徳院では法然上人を開祖としています。かってこの周辺は鎌倉の西の果に当たり、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所でした。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、鎌倉、そして関東地方を護持させようとしたと考えられています。また、往時は大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、正式名称は「大仏殿」でした。<br />奈良大仏は国家事業として造立されましたが、鎌倉大仏は、幕府の事業ではなく、『吾妻鏡』にも造立に関する記載がほとんどなく、謎に満ちています。<br />因みに、高徳院はそもそも檀家を持たない寺院で、檀家は歴代の住職の関係者で占め、現在も20数家しかないそうです。また、「朝のおつとめ」は、外の大仏の前で行なうことも、屋内の観音様の時もあるそうです。冬のおつとめは、とても大変だそうです。

    境内マップ
    開基(創立者)と開山(初代住職)は共に不詳ですが、高徳院では法然上人を開祖としています。かってこの周辺は鎌倉の西の果に当たり、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所でした。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、鎌倉、そして関東地方を護持させようとしたと考えられています。また、往時は大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、正式名称は「大仏殿」でした。
    奈良大仏は国家事業として造立されましたが、鎌倉大仏は、幕府の事業ではなく、『吾妻鏡』にも造立に関する記載がほとんどなく、謎に満ちています。
    因みに、高徳院はそもそも檀家を持たない寺院で、檀家は歴代の住職の関係者で占め、現在も20数家しかないそうです。また、「朝のおつとめ」は、外の大仏の前で行なうことも、屋内の観音様の時もあるそうです。冬のおつとめは、とても大変だそうです。

  • 仁王門<br />鎌倉 長谷寺から徒歩5分程の距離に、名刹「高徳院」があります。「鎌倉大仏」が有名ですが、この寺院の見所は大仏だけではありません。<br />大仏のスケールに比べると随分小振りですが、八脚門、切妻造、銅板葺の門構えです。江戸時代の大仏の再興は芝 増上寺の僧 裕天が神田の豪商 野島新左衛門の支援を受けて行ないましたが、仁王門と仁王像(銅像)も新左衛門が寄進し、1742(寛保2)年に完成しています。しかし翌年、火災で焼失し、現在の仁王門は1768(明和5)年頃に再建されたものです。<br />2012年に修理されており、往時の色彩が甦っています。

    仁王門
    鎌倉 長谷寺から徒歩5分程の距離に、名刹「高徳院」があります。「鎌倉大仏」が有名ですが、この寺院の見所は大仏だけではありません。
    大仏のスケールに比べると随分小振りですが、八脚門、切妻造、銅板葺の門構えです。江戸時代の大仏の再興は芝 増上寺の僧 裕天が神田の豪商 野島新左衛門の支援を受けて行ないましたが、仁王門と仁王像(銅像)も新左衛門が寄進し、1742(寛保2)年に完成しています。しかし翌年、火災で焼失し、現在の仁王門は1768(明和5)年頃に再建されたものです。
    2012年に修理されており、往時の色彩が甦っています。

  • 仁王門 <br />山号「大異山」を記す扁額が掲げられています。<br />高徳院では、外国人観光客の姿をよく見かけます。これは今に始まったことではなく、海外の古書の中に鎌倉大仏に関する記述が認められるそうです。<br />主に16世紀頃、英国、オランダ、スペイン、ポルトガルなどの国から大仏を見に鎌倉を訪れる観光客がいたそうです。その紀行文には、鎌倉大仏の造形の美しさに感銘を受けたことが記されています。初めて見る異国の巨大な仏像は、計り知れない程のインパクトがあったに違いありません。後に横浜に外国人居留地が整備された時は、鎌倉は大人気観光スポットだったそうです。

    仁王門
    山号「大異山」を記す扁額が掲げられています。
    高徳院では、外国人観光客の姿をよく見かけます。これは今に始まったことではなく、海外の古書の中に鎌倉大仏に関する記述が認められるそうです。
    主に16世紀頃、英国、オランダ、スペイン、ポルトガルなどの国から大仏を見に鎌倉を訪れる観光客がいたそうです。その紀行文には、鎌倉大仏の造形の美しさに感銘を受けたことが記されています。初めて見る異国の巨大な仏像は、計り知れない程のインパクトがあったに違いありません。後に横浜に外国人居留地が整備された時は、鎌倉は大人気観光スポットだったそうです。

  • 仁王門 仁王像<br />内部に安置された2体の寄木造の「仁王像」は、18世紀初頭に他所からこの門と一緒に移設されたものと伝わります。高徳院がほぼ全壊した1923(大正12)年の関東大震災の際、この仁王門と仁王像は被災せずその形を留めたそうです。<br />1742(寛保2)年頃の制作とされ、2.5m程ある巨体です。素材には上質な桂が使われ、目にはガラス製の玉眼が埋め込まれ、それゆえ眼力が尋常ではありません。

    仁王門 仁王像
    内部に安置された2体の寄木造の「仁王像」は、18世紀初頭に他所からこの門と一緒に移設されたものと伝わります。高徳院がほぼ全壊した1923(大正12)年の関東大震災の際、この仁王門と仁王像は被災せずその形を留めたそうです。
    1742(寛保2)年頃の制作とされ、2.5m程ある巨体です。素材には上質な桂が使われ、目にはガラス製の玉眼が埋め込まれ、それゆえ眼力が尋常ではありません。

  • 仁王門 仁王像<br />2011年の東日本大震災の際、吽形像の天衣や頭部が破損したため、阿形像も共に修復・再塗装されていましたが、2014年に修復を終えて里帰りしています。 赤い肌とグレーの天衣が当初の色彩に甦っています。<br />仁王像は、災厄除け・身体健全の守護神で、手に持つ武器は煩悩を打ち破る菩提心の象徴とされます。大きさは大仏には到底敵いませんが、力強さや迫力は見応えがあります。<br />仁王像の平成修理報告書です。詳細な写真が載せられています。<br />http://www.kotoku-in.jp/pdf/mokuzouniouzou-repair-report.pdf

    仁王門 仁王像
    2011年の東日本大震災の際、吽形像の天衣や頭部が破損したため、阿形像も共に修復・再塗装されていましたが、2014年に修復を終えて里帰りしています。 赤い肌とグレーの天衣が当初の色彩に甦っています。
    仁王像は、災厄除け・身体健全の守護神で、手に持つ武器は煩悩を打ち破る菩提心の象徴とされます。大きさは大仏には到底敵いませんが、力強さや迫力は見応えがあります。
    仁王像の平成修理報告書です。詳細な写真が載せられています。
    http://www.kotoku-in.jp/pdf/mokuzouniouzou-repair-report.pdf

  • 仁王門<br />妻の部分は二重虹梁大瓶束式(側面)になっており、虹梁の上に蟇股を置き、上にある虹梁を受けています。その上に大瓶束を載せて棟木を支えています。<br />僅かながら極彩色が施され、質素な装飾の仁王門に花を添えています。『鎌倉市文化財総合目録』によると、往時流行だった彫刻装飾を取り入れず、「復古的な意匠」としたとあります。

    仁王門
    妻の部分は二重虹梁大瓶束式(側面)になっており、虹梁の上に蟇股を置き、上にある虹梁を受けています。その上に大瓶束を載せて棟木を支えています。
    僅かながら極彩色が施され、質素な装飾の仁王門に花を添えています。『鎌倉市文化財総合目録』によると、往時流行だった彫刻装飾を取り入れず、「復古的な意匠」としたとあります。

  • 大仏(国宝)<br />鎌倉の街のシンボルとして圧倒的な存在感を放つのが「鎌倉大仏」です。<br />住職が「50年目の健康診断」と呼んだ、2016年1月13日~3月11までの保存修理作業が終わっています。<br />その歴史は不詳な点が多く謎のベールに包まれています。『吾妻鏡』によると、現在の青銅製の大仏(2代目)は1252年に鋳造が始められています。初代は、高さ24mもある巨大な木造の仏像で1243年に造立されましたが、台風で崩壊したと伝えられます。<br />また、かつては奈良大仏と同様に高さ40mある大仏殿の中に安置されていましたが、鎌倉時代や室町時代の台風、地震、津波により倒壊し、1369(応安2)年以降は再建されず、露座となっています。大仏殿が台風や津波で流され、大地震で倒壊しても、大仏本体は重いためその場所に残ったとされます。それ故、大仏殿の遺構としてあるのは、「礎石」だけです。当初は60基ありましたが、現在遺るのは56基です。<br />涼しげなお顔から察するのは難しいのですが、数多くの受難を乗り越えられた大仏さまなのです。

    大仏(国宝)
    鎌倉の街のシンボルとして圧倒的な存在感を放つのが「鎌倉大仏」です。
    住職が「50年目の健康診断」と呼んだ、2016年1月13日~3月11までの保存修理作業が終わっています。
    その歴史は不詳な点が多く謎のベールに包まれています。『吾妻鏡』によると、現在の青銅製の大仏(2代目)は1252年に鋳造が始められています。初代は、高さ24mもある巨大な木造の仏像で1243年に造立されましたが、台風で崩壊したと伝えられます。
    また、かつては奈良大仏と同様に高さ40mある大仏殿の中に安置されていましたが、鎌倉時代や室町時代の台風、地震、津波により倒壊し、1369(応安2)年以降は再建されず、露座となっています。大仏殿が台風や津波で流され、大地震で倒壊しても、大仏本体は重いためその場所に残ったとされます。それ故、大仏殿の遺構としてあるのは、「礎石」だけです。当初は60基ありましたが、現在遺るのは56基です。
    涼しげなお顔から察するのは難しいのですが、数多くの受難を乗り越えられた大仏さまなのです。

  • 大仏<br />正式名称は、「高徳院本尊 阿弥陀如来坐像」と言います。<br />こうして大仏を目の当たりにすると、その存在感やスケール感は「来て良かった!」と思わせるだけのものがあります。<br />鎌倉のランドマークであり、幕府のお膝元での大工事でしたが、その草創については謎が多く、誰が何の目的で造ったのか不明なミステリアスな存在でもあります。造立のきっかけには諸説ありますが、史料が少ないために断定が困難なようです。<br />判っているのは、元々大仏を管理していたのは、高徳院ではなく清浄泉寺だったと言うことです。後に清浄泉寺は廃寺になり、江戸時代に芝 増上寺の祐天上人が高徳院を再興し、鎌倉の大仏「阿弥陀如来坐像」を本尊としました。<br />高さ11.4m(台座を含めて13.4m)、重量は121トン。その大きさはまさに「大仏」と呼ぶに相応しく、見る者を圧倒します。また、大きさだけでなく、宋の様式と慶派(日本の仏師の一派)の影響が融合した、鎌倉の仏像独特とされる美しさも魅力です。奈良大仏と比べ、ほぼ造立当初の姿を留めているのも貴重な点で、鎌倉の仏像では唯一国宝に指定されています。

    大仏
    正式名称は、「高徳院本尊 阿弥陀如来坐像」と言います。
    こうして大仏を目の当たりにすると、その存在感やスケール感は「来て良かった!」と思わせるだけのものがあります。
    鎌倉のランドマークであり、幕府のお膝元での大工事でしたが、その草創については謎が多く、誰が何の目的で造ったのか不明なミステリアスな存在でもあります。造立のきっかけには諸説ありますが、史料が少ないために断定が困難なようです。
    判っているのは、元々大仏を管理していたのは、高徳院ではなく清浄泉寺だったと言うことです。後に清浄泉寺は廃寺になり、江戸時代に芝 増上寺の祐天上人が高徳院を再興し、鎌倉の大仏「阿弥陀如来坐像」を本尊としました。
    高さ11.4m(台座を含めて13.4m)、重量は121トン。その大きさはまさに「大仏」と呼ぶに相応しく、見る者を圧倒します。また、大きさだけでなく、宋の様式と慶派(日本の仏師の一派)の影響が融合した、鎌倉の仏像独特とされる美しさも魅力です。奈良大仏と比べ、ほぼ造立当初の姿を留めているのも貴重な点で、鎌倉の仏像では唯一国宝に指定されています。

  • 大仏<br />大仏の前の大香炉には、阿弥陀三尊像の定石に倣って脇侍の観音菩薩(左)と勢至菩薩(右)がおられます。この大香炉は、江戸の豪商 野島新左衛門が大燈籠と共に寄進したものです。<br />阿弥陀如来は西方極楽浄土で説法をする仏です。平安時代より、臨終の際に阿弥陀如来が来迎し、極楽浄土へ魂が導かれるように願う阿弥陀信仰が流行しました。阿弥陀如来を中尊とし、阿弥陀三尊来迎像はこの頃から多く制作されるようになりました。<br />この大仏は、国の発願によって造られたものではなく、民衆から集められた寄付金で造られた仏とされますが、鎌倉の民衆の極楽浄土への信仰や阿弥陀如来への信仰が篤かったことが窺えます。

    大仏
    大仏の前の大香炉には、阿弥陀三尊像の定石に倣って脇侍の観音菩薩(左)と勢至菩薩(右)がおられます。この大香炉は、江戸の豪商 野島新左衛門が大燈籠と共に寄進したものです。
    阿弥陀如来は西方極楽浄土で説法をする仏です。平安時代より、臨終の際に阿弥陀如来が来迎し、極楽浄土へ魂が導かれるように願う阿弥陀信仰が流行しました。阿弥陀如来を中尊とし、阿弥陀三尊来迎像はこの頃から多く制作されるようになりました。
    この大仏は、国の発願によって造られたものではなく、民衆から集められた寄付金で造られた仏とされますが、鎌倉の民衆の極楽浄土への信仰や阿弥陀如来への信仰が篤かったことが窺えます。

  • 大仏<br />首の3本の皺は、「三道」と呼ばれる人間の煩悩の内の3毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を、悟りを開く際に立ち切ったことを表しています。<br />釈迦の髪の毛は3~4cm程伸びていたとされ、また1本1本が渦状に巻かれ、現在で言えばパンチパーマ風のヘアースタイルでした。これを表しているのが「螺髪(らほつ)」です。しかし、奈良大仏を始め多くの仏像との違いは、鎌倉の大仏は左巻きになっていることです。ここにも意図的に違いを求めたことが窺えます。<br />頭の頂上にお餅が載ったように一段隆起している部分を肉髻(にっけい)と言います。仏のみが備えた特徴のひとつで、如来像に表されることが多く、悟りを開いた超人的な者の象徴です。しかし、鎌倉大仏の肉髻は、それが低くなっているのが特徴です。

    大仏
    首の3本の皺は、「三道」と呼ばれる人間の煩悩の内の3毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を、悟りを開く際に立ち切ったことを表しています。
    釈迦の髪の毛は3~4cm程伸びていたとされ、また1本1本が渦状に巻かれ、現在で言えばパンチパーマ風のヘアースタイルでした。これを表しているのが「螺髪(らほつ)」です。しかし、奈良大仏を始め多くの仏像との違いは、鎌倉の大仏は左巻きになっていることです。ここにも意図的に違いを求めたことが窺えます。
    頭の頂上にお餅が載ったように一段隆起している部分を肉髻(にっけい)と言います。仏のみが備えた特徴のひとつで、如来像に表されることが多く、悟りを開いた超人的な者の象徴です。しかし、鎌倉大仏の肉髻は、それが低くなっているのが特徴です。

  • 大仏<br />奈良大仏には金メッキが施されていました。それに対し、鎌倉大仏には金箔が貼られました。何故、多大な費用を投じたのでしょうか?<br />その理由は、大仏を鋳造した際の青銅の成分に問題があったからです。銅69%、鉛20%、錫9%と銅の純度が低かったため、鋳造された大仏の継ぎ目が汚く、それを隠すために金箔の手法が採られたそうです。宋から輸入された中国製銅銭が使用されたものと推定されています。因みに、奈良大仏の鉛の含有率は1%です。<br />実は、今も金銅の大仏の名残が見られます。右頬の一部に少し色の違う個所があるのが判りますか?これが往時の金箔の名残とされています。また、雨上がりの夕方にライトを当てると、大仏が金色に輝くそうです。

    大仏
    奈良大仏には金メッキが施されていました。それに対し、鎌倉大仏には金箔が貼られました。何故、多大な費用を投じたのでしょうか?
    その理由は、大仏を鋳造した際の青銅の成分に問題があったからです。銅69%、鉛20%、錫9%と銅の純度が低かったため、鋳造された大仏の継ぎ目が汚く、それを隠すために金箔の手法が採られたそうです。宋から輸入された中国製銅銭が使用されたものと推定されています。因みに、奈良大仏の鉛の含有率は1%です。
    実は、今も金銅の大仏の名残が見られます。右頬の一部に少し色の違う個所があるのが判りますか?これが往時の金箔の名残とされています。また、雨上がりの夕方にライトを当てると、大仏が金色に輝くそうです。

  • 大仏<br />大仏を安置する高徳院自身も開山、開基が不明というミステリアスな寺院です。<br />初期は真言宗、後に臨済宗、江戸時代の再興以降は浄土宗となって現在に至ります。ですから、大仏の印相は初期の真言宗の膝の上で両手を組む定印を結んでおり、浄土宗の来迎印(右手が挙り、左手が下がる)ではありません。<br />また、9種類ある阿弥陀仏の印相の中でも、最も格式が高い上品上生印(じょうぼんじょうしょういん:親指と小指を除く三指のいずれかを合わせ、指で輪をつくる形)を結び、最高の悟りの状態であることを表わしています。手を組んでしまっているのでよく判りませんが、仏の特徴である縵網相(まんもうそう)という指の間の水かき状のものもあります。

    大仏
    大仏を安置する高徳院自身も開山、開基が不明というミステリアスな寺院です。
    初期は真言宗、後に臨済宗、江戸時代の再興以降は浄土宗となって現在に至ります。ですから、大仏の印相は初期の真言宗の膝の上で両手を組む定印を結んでおり、浄土宗の来迎印(右手が挙り、左手が下がる)ではありません。
    また、9種類ある阿弥陀仏の印相の中でも、最も格式が高い上品上生印(じょうぼんじょうしょういん:親指と小指を除く三指のいずれかを合わせ、指で輪をつくる形)を結び、最高の悟りの状態であることを表わしています。手を組んでしまっているのでよく判りませんが、仏の特徴である縵網相(まんもうそう)という指の間の水かき状のものもあります。

  • 大仏<br />仏像の作者は不明ですが、「慶派」の作風と宋代中国の仏師達の影響を併せ持つ、鎌倉期を象徴する仏像とされています。<br />仏には常人と異なる「三十二相」があると考えられており、基本的にはそれに沿った造形です。人々を照らす光が発せられる「白毫」、紺青色とされる半眼の「真青眼相」、高くて真っすぐな鼻孔が見えない「鼻」、肩に達するほどの福耳、孔の開いた耳朶環(じだかん)などです。<br />大仏殿が崩壊するほどの災害に幾度も遭ったにも拘わらず、大きな修復もなく、ほぼ造立当時の姿を保っているのが奈良大仏との大きな違いです。しかし、かつては黄金色に輝いていた鎌倉大仏も、現在では酸性雨の影響で黒ずんできています。青銅製のため緑青が付き、さらには白錆も目立ってきています。露座のために腐食が進むのはやむを得ないのですが…。

    大仏
    仏像の作者は不明ですが、「慶派」の作風と宋代中国の仏師達の影響を併せ持つ、鎌倉期を象徴する仏像とされています。
    仏には常人と異なる「三十二相」があると考えられており、基本的にはそれに沿った造形です。人々を照らす光が発せられる「白毫」、紺青色とされる半眼の「真青眼相」、高くて真っすぐな鼻孔が見えない「鼻」、肩に達するほどの福耳、孔の開いた耳朶環(じだかん)などです。
    大仏殿が崩壊するほどの災害に幾度も遭ったにも拘わらず、大きな修復もなく、ほぼ造立当時の姿を保っているのが奈良大仏との大きな違いです。しかし、かつては黄金色に輝いていた鎌倉大仏も、現在では酸性雨の影響で黒ずんできています。青銅製のため緑青が付き、さらには白錆も目立ってきています。露座のために腐食が進むのはやむを得ないのですが…。

  • 大仏<br />大仏の発案は、一説には源頼朝とされています。奈良東大寺の大仏殿落慶供養に参列した頼朝が、鎌倉にも大仏を造ろうと考えても不思議ではありません。しかし、頼朝の存命中には願いが叶わず、鎌倉幕府3代執権 北条泰時の晩年、侍女だった稲多野局(いなだのつぼね)が頼朝の遺志を受け継いで造立を発起し、僧 浄光が諸国を勧進して浄財を集め、造立を進めていったと『吾妻鏡』は語ります。北条政子が助力したとも言われています。

    大仏
    大仏の発案は、一説には源頼朝とされています。奈良東大寺の大仏殿落慶供養に参列した頼朝が、鎌倉にも大仏を造ろうと考えても不思議ではありません。しかし、頼朝の存命中には願いが叶わず、鎌倉幕府3代執権 北条泰時の晩年、侍女だった稲多野局(いなだのつぼね)が頼朝の遺志を受け継いで造立を発起し、僧 浄光が諸国を勧進して浄財を集め、造立を進めていったと『吾妻鏡』は語ります。北条政子が助力したとも言われています。

  • 大仏<br />鎌倉大仏は、奈良のものに比べて頭が大きい「宗風」のため、横から見るとうつむき加減で猫背になっています。これは、鎌倉時代の仏像の流行スタイルを踏襲しているためだそうです。<br />一方、着衣は、鎌倉時代のもではなく、平安時代の浄土信仰で見られる1枚の布で両方の肩を覆う着方です。体躯は鎌倉様式なのに、何故身に纏うものが平安様式なのかは謎のひとつです。一説には、悟りを開いた仏像の証しとも…。<br />もうひとつの特徴は口元です。他の大仏像と異なり、そっと微笑んだ慈愛が感じられます。口元に湛えられた穏やかな微笑は、小泉八雲に「東洋的微笑」と称賛されています。菩薩半跏像(奈良県中宮寺)の「古典的微笑(アルカイックスマイル)」とは似て非なるものです。

    大仏
    鎌倉大仏は、奈良のものに比べて頭が大きい「宗風」のため、横から見るとうつむき加減で猫背になっています。これは、鎌倉時代の仏像の流行スタイルを踏襲しているためだそうです。
    一方、着衣は、鎌倉時代のもではなく、平安時代の浄土信仰で見られる1枚の布で両方の肩を覆う着方です。体躯は鎌倉様式なのに、何故身に纏うものが平安様式なのかは謎のひとつです。一説には、悟りを開いた仏像の証しとも…。
    もうひとつの特徴は口元です。他の大仏像と異なり、そっと微笑んだ慈愛が感じられます。口元に湛えられた穏やかな微笑は、小泉八雲に「東洋的微笑」と称賛されています。菩薩半跏像(奈良県中宮寺)の「古典的微笑(アルカイックスマイル)」とは似て非なるものです。

  • 大仏を正面からしか見たことがない方も多いのではないでしょうか?<br />背中には一見「天使の羽」を彷彿とさせる扉が2ヶ所設けられています。これらの窓は、鋳造の際、中に詰めた鋳土や鋳型を取り出すための穴で、現在は体内拝観時の明かり取りや換気の役割を果たしています。因みに、この扉は江戸時代には建長寺が管理していたそうです。往時は、建長寺=臨済宗&高徳院=浄土宗という宗派でしたが、寺院の格付けにより建長寺が管理していたそうです。<br /><br />大仏殿が倒壊した原因は大津波という説が一般的ですが、専門家の間では「俗説」だそうです。「津波説」の出所の一つは、江戸時代の『続本朝通鑑』です。1495(明応4)年の夏、津波を伴う明応大地震が鎌倉を襲ったとあります。しかし、大仏殿が流されたとは記されていません。<br />もうひとつは、東国で起こった事柄を書き記した年表『鎌倉大日記』です。それにも明応大地震が記されています。しかし、海抜14mもある大仏の所まで津波が来たとすれば、土地の低い鶴岡八幡宮や鎌倉の町全体も水に呑まれたはずです。そうならば『鎌倉大日記』にそれなりの記述があってしかりです。また、最近の研究では、明応大地震による鎌倉での津波の高さは8~10mと試算されています。<br />一方、東国を行脚した禅僧 万里集九の紀行文『梅花無尽蔵』には、明応大地震の9年前に鎌倉大仏を訪れた時の一文が記されています。そこには「露座」と記され、大仏殿はなかったとしています。<br />時代背景を鑑みると、明応大地震の頃には鎌倉幕府は滅亡しており、室町幕府の置かれた京都に政権の中心は遷っていました。故に、大仏殿の再建は予算的に不可能だったと思われます。ですからこの旅行記では、1369(応安2)年の台風で倒壊して以降、再建されなかったとしています。

    大仏を正面からしか見たことがない方も多いのではないでしょうか?
    背中には一見「天使の羽」を彷彿とさせる扉が2ヶ所設けられています。これらの窓は、鋳造の際、中に詰めた鋳土や鋳型を取り出すための穴で、現在は体内拝観時の明かり取りや換気の役割を果たしています。因みに、この扉は江戸時代には建長寺が管理していたそうです。往時は、建長寺=臨済宗&高徳院=浄土宗という宗派でしたが、寺院の格付けにより建長寺が管理していたそうです。

    大仏殿が倒壊した原因は大津波という説が一般的ですが、専門家の間では「俗説」だそうです。「津波説」の出所の一つは、江戸時代の『続本朝通鑑』です。1495(明応4)年の夏、津波を伴う明応大地震が鎌倉を襲ったとあります。しかし、大仏殿が流されたとは記されていません。
    もうひとつは、東国で起こった事柄を書き記した年表『鎌倉大日記』です。それにも明応大地震が記されています。しかし、海抜14mもある大仏の所まで津波が来たとすれば、土地の低い鶴岡八幡宮や鎌倉の町全体も水に呑まれたはずです。そうならば『鎌倉大日記』にそれなりの記述があってしかりです。また、最近の研究では、明応大地震による鎌倉での津波の高さは8~10mと試算されています。
    一方、東国を行脚した禅僧 万里集九の紀行文『梅花無尽蔵』には、明応大地震の9年前に鎌倉大仏を訪れた時の一文が記されています。そこには「露座」と記され、大仏殿はなかったとしています。
    時代背景を鑑みると、明応大地震の頃には鎌倉幕府は滅亡しており、室町幕府の置かれた京都に政権の中心は遷っていました。故に、大仏殿の再建は予算的に不可能だったと思われます。ですからこの旅行記では、1369(応安2)年の台風で倒壊して以降、再建されなかったとしています。

  • 大仏<br />意外なことに、『吾妻鏡』には大仏の完成時期が記されていません。開眼供養に関する記述もなく、理解に苦しみます。1255(建長7)年8月に幕府が追加した法では、「人身売買銭没収大仏鋳造に充てる」とあり、この時点ではまだ造営中と窺えます。 <br />尚、『吾妻鏡』は、正元元年(1259年)や弘長2年(1262年)の記述が抜け落ちています。この中に完成記事が載っていたとも考えられますが、今となっては確認する術はありません。『吾妻鏡』に抜けがあるにしても、他の文献に記述があってもよさそうなものですが…。<br />北条泰時の没後、鎌倉幕府の宗教政策の軸足は浄土宗から禅宗へ重心を遷していきます。幕府は京に対抗する意味でも新しい宗教を求めました。それが禅宗でした。<br />そんな中、バックアップを失いながらも僧 浄光は、大仏を完成させました。しかし、そこには寺社は無く、ただ大仏殿の中に大仏が置かれるのみでした。対照的に北鎌倉には建長寺や円覚寺など、禅宗の巨刹が建立されていくのでした。<br />浄光ら浄土宗系の僧によって造られた鎌倉大仏は、完成時には律宗僧 忍性の極楽寺の管理下に置かれました。これは、浄土宗の僧が律宗に帰依したからです。

    大仏
    意外なことに、『吾妻鏡』には大仏の完成時期が記されていません。開眼供養に関する記述もなく、理解に苦しみます。1255(建長7)年8月に幕府が追加した法では、「人身売買銭没収大仏鋳造に充てる」とあり、この時点ではまだ造営中と窺えます。 
    尚、『吾妻鏡』は、正元元年(1259年)や弘長2年(1262年)の記述が抜け落ちています。この中に完成記事が載っていたとも考えられますが、今となっては確認する術はありません。『吾妻鏡』に抜けがあるにしても、他の文献に記述があってもよさそうなものですが…。
    北条泰時の没後、鎌倉幕府の宗教政策の軸足は浄土宗から禅宗へ重心を遷していきます。幕府は京に対抗する意味でも新しい宗教を求めました。それが禅宗でした。
    そんな中、バックアップを失いながらも僧 浄光は、大仏を完成させました。しかし、そこには寺社は無く、ただ大仏殿の中に大仏が置かれるのみでした。対照的に北鎌倉には建長寺や円覚寺など、禅宗の巨刹が建立されていくのでした。
    浄光ら浄土宗系の僧によって造られた鎌倉大仏は、完成時には律宗僧 忍性の極楽寺の管理下に置かれました。これは、浄土宗の僧が律宗に帰依したからです。

  • 大仏<br />大仏造立の理由も不明です。奈良大仏もそうですが、怨霊を鎮めるために造立されたとの説もあります。これだけ巨大な建造物でありながら、造立者が不明というのは何か裏がありそうです。この規模で対峙しなくてはならない程のパワーを秘めた何かに向き合った結果のはずです。それが怨霊説の根拠です。<br />平家の恨みもあり、また鎌倉幕府の成立前後には数多の血が流されました。更には、大仏造立時の3代執権 北条泰時の治世は、宿敵 三浦氏を討ち、幕府が磐石の体制を整えた時代です。そんな時、天変地異が続けば怨霊の仕業と考えても不思議はありません。源氏直系の頼朝や頼家、実朝も暗殺などで次々に死んでおり、関係者の悲劇的な死は祟りと映ったのかもしれません。<br />強大な軍事力を背景に政権を握ってきた武家にとり、国家鎮護を神仏に委ねるというのは自らの存在意義や矜持を否定するものです。表向きは「寄付で造立された庶民の大仏」とし、幕府は黒子に徹したというのが真相ではないでしょうか? 

    大仏
    大仏造立の理由も不明です。奈良大仏もそうですが、怨霊を鎮めるために造立されたとの説もあります。これだけ巨大な建造物でありながら、造立者が不明というのは何か裏がありそうです。この規模で対峙しなくてはならない程のパワーを秘めた何かに向き合った結果のはずです。それが怨霊説の根拠です。
    平家の恨みもあり、また鎌倉幕府の成立前後には数多の血が流されました。更には、大仏造立時の3代執権 北条泰時の治世は、宿敵 三浦氏を討ち、幕府が磐石の体制を整えた時代です。そんな時、天変地異が続けば怨霊の仕業と考えても不思議はありません。源氏直系の頼朝や頼家、実朝も暗殺などで次々に死んでおり、関係者の悲劇的な死は祟りと映ったのかもしれません。
    強大な軍事力を背景に政権を握ってきた武家にとり、国家鎮護を神仏に委ねるというのは自らの存在意義や矜持を否定するものです。表向きは「寄付で造立された庶民の大仏」とし、幕府は黒子に徹したというのが真相ではないでしょうか? 

  • 礎石<br />石材は、根府川産輝石安山岩であり、中には庭石や水盤に転用されてしまったものもあります。形状やサイズはほぼ統一され(厚さ60cm、直径160~200cmの類円形ないし八角形)、目的を持って加工された石であることが判ります。表面は水平に整えられ、大仏殿の柱を支えるに十分であったと思われます。<br />大仏の右前方にあるこの礎石には、側面に安山岩の板状節理が見られます。柱状節理は熱い溶岩が冷却される時に収縮することでできる割れ目ですが、板状節理は流動しようとする溶岩と地面との間の摩擦で生ずる歪によって割れ目ができたものです。伊那・諏訪紀行で紹介したように、板状節理の特性を活かして平たく割られた岩石を諏訪地方では鉄平石と呼び、屋根などに使われています。<br />また、この礎石には、柱の芯出しのために付けたと思われる十字線の刻みや、雨水の樋の役割を果たすと思われる溝が刻まれています。

    礎石
    石材は、根府川産輝石安山岩であり、中には庭石や水盤に転用されてしまったものもあります。形状やサイズはほぼ統一され(厚さ60cm、直径160~200cmの類円形ないし八角形)、目的を持って加工された石であることが判ります。表面は水平に整えられ、大仏殿の柱を支えるに十分であったと思われます。
    大仏の右前方にあるこの礎石には、側面に安山岩の板状節理が見られます。柱状節理は熱い溶岩が冷却される時に収縮することでできる割れ目ですが、板状節理は流動しようとする溶岩と地面との間の摩擦で生ずる歪によって割れ目ができたものです。伊那・諏訪紀行で紹介したように、板状節理の特性を活かして平たく割られた岩石を諏訪地方では鉄平石と呼び、屋根などに使われています。
    また、この礎石には、柱の芯出しのために付けたと思われる十字線の刻みや、雨水の樋の役割を果たすと思われる溝が刻まれています。

  • 蓮弁<br />鎌倉大仏の鋳造には、鋳物師 丹治久友や大野五郎右衛門が携わっていました。因みに、1264(文永元)年に鋳造された大和吉野の蔵王堂の鐘銘(現存せず)には「鎌倉新大仏鋳物師丹治久友」とあったそうです。また、久友は東大寺塔頭真言院の梵鐘鋳造にも携わり、その鐘銘には「鋳物師新大仏寺大工」とあるそうです。つまり、「新大仏」とは、東大寺の大仏に対する鎌倉大仏の呼び名だったと窺えます。<br />大仏の背後には青銅製の装飾品4枚が並べられています。これは蓮華の葉を模した蓮弁です。江戸時代中期、台座を修復した際に鋳造されたものです。<br />当初32枚の蓮弁で大仏の周りを囲む予定でしたが、完成したのは僅か4枚だけでした。表面には寄進者の名前が刻まれていますので、寄付を募っていたようです。思ったほど寄進者が集まらず、計画が頓挫したようです。

    蓮弁
    鎌倉大仏の鋳造には、鋳物師 丹治久友や大野五郎右衛門が携わっていました。因みに、1264(文永元)年に鋳造された大和吉野の蔵王堂の鐘銘(現存せず)には「鎌倉新大仏鋳物師丹治久友」とあったそうです。また、久友は東大寺塔頭真言院の梵鐘鋳造にも携わり、その鐘銘には「鋳物師新大仏寺大工」とあるそうです。つまり、「新大仏」とは、東大寺の大仏に対する鎌倉大仏の呼び名だったと窺えます。
    大仏の背後には青銅製の装飾品4枚が並べられています。これは蓮華の葉を模した蓮弁です。江戸時代中期、台座を修復した際に鋳造されたものです。
    当初32枚の蓮弁で大仏の周りを囲む予定でしたが、完成したのは僅か4枚だけでした。表面には寄進者の名前が刻まれていますので、寄付を募っていたようです。思ったほど寄進者が集まらず、計画が頓挫したようです。

  • 稲多局の笠塔婆<br />鎌倉大仏の真後ろには、大仏建立の発起人とされる稲多局の笠塔婆がそれとなく立てられています。 <br /><br />大仏を何処で鋳造し、どのように運んだのかも謎のひとつでしたが、これは科学的に解明されました。大仏が安置されている場所の地質を調査した結果、地下に残された斜めの土層が大仏をこの場所で鋳造した証拠となりました。また、土の中からは溶けた銅やスラグ、鞴の羽口が発見され、その銅の成分が大仏本体の成分と一致したのです。つまり、この場所で鋳造されたのです。

    稲多局の笠塔婆
    鎌倉大仏の真後ろには、大仏建立の発起人とされる稲多局の笠塔婆がそれとなく立てられています。

    大仏を何処で鋳造し、どのように運んだのかも謎のひとつでしたが、これは科学的に解明されました。大仏が安置されている場所の地質を調査した結果、地下に残された斜めの土層が大仏をこの場所で鋳造した証拠となりました。また、土の中からは溶けた銅やスラグ、鞴の羽口が発見され、その銅の成分が大仏本体の成分と一致したのです。つまり、この場所で鋳造されたのです。

  • 回廊<br />大仏を囲む回廊の内壁には、巨大な「わらぞうり」が奉納されています。長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgあり、大仏の足のサイズに合わせたものです。<br />戦後間もない1951年、旧郡戸村で開催された産業祭に出品した大わらじを、常陸太田市の「松栄(まつざか)子供会」が奉納したことが始まりです。座ってばかりの大仏の散歩用であり、「日本中を行脚し、人々を幸せにして欲しい」という願いが込められています。1956年以降、3年に1度、新調されています。<br />誰がどんな計算をしたのか知りませんが、大仏が立ち上がって歩いたと仮定すると、東京~鎌倉間を1時間で歩くそうです。

    回廊
    大仏を囲む回廊の内壁には、巨大な「わらぞうり」が奉納されています。長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgあり、大仏の足のサイズに合わせたものです。
    戦後間もない1951年、旧郡戸村で開催された産業祭に出品した大わらじを、常陸太田市の「松栄(まつざか)子供会」が奉納したことが始まりです。座ってばかりの大仏の散歩用であり、「日本中を行脚し、人々を幸せにして欲しい」という願いが込められています。1956年以降、3年に1度、新調されています。
    誰がどんな計算をしたのか知りませんが、大仏が立ち上がって歩いたと仮定すると、東京~鎌倉間を1時間で歩くそうです。

  • 胎内拝観<br />鎌倉大仏は奈良大仏とは違い、20円の拝観料で内部を見て回る「胎内拝観」ができるのも特徴です。また、胎内に限り、御尊体に触れることができます。これは他の国宝や重文の仏像ではあり得ないことです。「掌から得た感覚から、御尊体に対する理解や信心を深める参拝者もあられる」という住職の計らいです。ただし、外面への接触はNGです。<br />「健康診断」では、ガムを貼り付けるという悪戯が多く発見されたそうです。インバウンドに拝観マナーを守らせるにはどうすればよいのやら…。

    胎内拝観
    鎌倉大仏は奈良大仏とは違い、20円の拝観料で内部を見て回る「胎内拝観」ができるのも特徴です。また、胎内に限り、御尊体に触れることができます。これは他の国宝や重文の仏像ではあり得ないことです。「掌から得た感覚から、御尊体に対する理解や信心を深める参拝者もあられる」という住職の計らいです。ただし、外面への接触はNGです。
    「健康診断」では、ガムを貼り付けるという悪戯が多く発見されたそうです。インバウンドに拝観マナーを守らせるにはどうすればよいのやら…。

  • 胎内拝観<br />螺髪は656個あります。<br />1960(昭和35)年に行われた修理では、首の付け根に繊維強化プラスチックが塗布され(茶色の帯状のもの)、また、地震対策として本体と台座の間にステンレス製の板を追加して免震構造に改良しています。首の付け根は、猫背ゆえに補強が必要との判断だったのでしょう。しかし、例え内側とはいえ、歴史ある国宝に目立つ色のプラスチックが採用されたとは…。

    胎内拝観
    螺髪は656個あります。
    1960(昭和35)年に行われた修理では、首の付け根に繊維強化プラスチックが塗布され(茶色の帯状のもの)、また、地震対策として本体と台座の間にステンレス製の板を追加して免震構造に改良しています。首の付け根は、猫背ゆえに補強が必要との判断だったのでしょう。しかし、例え内側とはいえ、歴史ある国宝に目立つ色のプラスチックが採用されたとは…。

  • 胎内拝観<br />内部は空洞になっており、先人たちの高度な鋳造技術に圧倒されます。40回以上に分けて行われた鋳造の継ぎ目や首周辺の補強跡などが見られます。鋳造の継ぎ目には、強度を確保するため、部位に応じた3種類の「鋳繰り(いからくり)」という高度な技術が施されています。<br />大仏は、体の部分が7個のパーツ、頭は11個のパーツに分割されて鋳造されています。<br />また、大仏にもしものことがあった時に備え、3DCGを何回も作成しているそうです。その時に判ったことは、夏と冬では金属の熱膨張によってサイズが異なることでした。胎内拝見で大仏に触ると、冬は冷たく、夏は触れないほど熱くなるそうです。と言うことは、夏場はサウナ状態???

    胎内拝観
    内部は空洞になっており、先人たちの高度な鋳造技術に圧倒されます。40回以上に分けて行われた鋳造の継ぎ目や首周辺の補強跡などが見られます。鋳造の継ぎ目には、強度を確保するため、部位に応じた3種類の「鋳繰り(いからくり)」という高度な技術が施されています。
    大仏は、体の部分が7個のパーツ、頭は11個のパーツに分割されて鋳造されています。
    また、大仏にもしものことがあった時に備え、3DCGを何回も作成しているそうです。その時に判ったことは、夏と冬では金属の熱膨張によってサイズが異なることでした。胎内拝見で大仏に触ると、冬は冷たく、夏は触れないほど熱くなるそうです。と言うことは、夏場はサウナ状態???

  • 胎内拝観<br />初代の木造大仏と2代目の金銅大仏の2体が造られていたと先に記しました。これには、木造大仏は後に造られる金銅大仏の鋳型として造られたとの説と、木造大仏が台風で崩壊してしまい、代わりに金銅大仏を造ったとの説があります。現在は、後者の説が有力です。<br />胎内は、男女が密かに逢瀬を重ねたり、賭博場に使われたり、浮浪者が焚き火をしたり、鳥が巣を作ってフンまみれだったりした時代もあったそうです。また、盗賊が住みつき、高徳院の住職が怖がって逃げてしまったとの逸話も残されています。

    胎内拝観
    初代の木造大仏と2代目の金銅大仏の2体が造られていたと先に記しました。これには、木造大仏は後に造られる金銅大仏の鋳型として造られたとの説と、木造大仏が台風で崩壊してしまい、代わりに金銅大仏を造ったとの説があります。現在は、後者の説が有力です。
    胎内は、男女が密かに逢瀬を重ねたり、賭博場に使われたり、浮浪者が焚き火をしたり、鳥が巣を作ってフンまみれだったりした時代もあったそうです。また、盗賊が住みつき、高徳院の住職が怖がって逃げてしまったとの逸話も残されています。

  • ジャヤワルデネ前スリランカ大統領顕彰碑誌<br />1951(昭和26年)、サンフランシスコ講和会議で日本とその国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示したスリランカ共和国のジャヤワルダナ前大統領を称え、感謝と報恩の意を表するために建てられた碑です。<br />大統領は演説にブッダの言葉を引用しました。<br />「実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを以てしたならば、ついに恨みの息むことがない。恨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である」。(「マパダ5」)<br />太平洋戦争で多大な犠牲が払われた時代、賠償金を手にすれば国を立て直せるという現実に直面しながらも、仏陀の心に寄り添った言葉を述べ、賠償請求権を辞退したのです。また、アジア全体を視野に入れ、日本を分割するよりも日本をアジアの平和で健全な国として迎え入れる方が、今後のアジアの発展に寄与すると述べたのです。<br />日本が裕福になった今、こうした国々に支援を惜しまないのは当然の義務でしょう。また、「平和で健全な国」であり続けなくてはなりません。政治家には、こうした碑文から日本が犯した歴史を学んでいただきたいものです。

    ジャヤワルデネ前スリランカ大統領顕彰碑誌
    1951(昭和26年)、サンフランシスコ講和会議で日本とその国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示したスリランカ共和国のジャヤワルダナ前大統領を称え、感謝と報恩の意を表するために建てられた碑です。
    大統領は演説にブッダの言葉を引用しました。
    「実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを以てしたならば、ついに恨みの息むことがない。恨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である」。(「マパダ5」)
    太平洋戦争で多大な犠牲が払われた時代、賠償金を手にすれば国を立て直せるという現実に直面しながらも、仏陀の心に寄り添った言葉を述べ、賠償請求権を辞退したのです。また、アジア全体を視野に入れ、日本を分割するよりも日本をアジアの平和で健全な国として迎え入れる方が、今後のアジアの発展に寄与すると述べたのです。
    日本が裕福になった今、こうした国々に支援を惜しまないのは当然の義務でしょう。また、「平和で健全な国」であり続けなくてはなりません。政治家には、こうした碑文から日本が犯した歴史を学んでいただきたいものです。

  • 観月堂<br />大仏の回廊の裏側にひっそりと佇むのが観月堂です。同じ境内にあるとは思えない静けさです。<br />ここは日本の歴史と朝鮮王宮の歴史が融合した、貴重な観光スポットです。15世紀中期、漢陽(現ソウル)の朝鮮李王朝の景福宮にあった観月台の一屋を移築したものと伝えられます。1924(大正13)年、目黒の驪山荘から遷されました。王宮の借金の担保として朝鮮拓殖銀行に譲渡されたものが、廻り廻って目黒に辿り着いたようです。今はなき山一証券の前身 山一合資会社の創業者 杉野喜精氏によって寄贈されました。<br />屋根の勾配や曲線、軒瓦などに大陸の趣が感じられます。特に、緩やかな曲線を描く屋根が優雅な印象を与えます。(立て付けが悪く、歪んでしまったものではありません。)<br />また、左右で燈籠の形が異なりますが、左側は韓国風であり、観月堂と共に景福宮にあったものです。

    観月堂
    大仏の回廊の裏側にひっそりと佇むのが観月堂です。同じ境内にあるとは思えない静けさです。
    ここは日本の歴史と朝鮮王宮の歴史が融合した、貴重な観光スポットです。15世紀中期、漢陽(現ソウル)の朝鮮李王朝の景福宮にあった観月台の一屋を移築したものと伝えられます。1924(大正13)年、目黒の驪山荘から遷されました。王宮の借金の担保として朝鮮拓殖銀行に譲渡されたものが、廻り廻って目黒に辿り着いたようです。今はなき山一証券の前身 山一合資会社の創業者 杉野喜精氏によって寄贈されました。
    屋根の勾配や曲線、軒瓦などに大陸の趣が感じられます。特に、緩やかな曲線を描く屋根が優雅な印象を与えます。(立て付けが悪く、歪んでしまったものではありません。)
    また、左右で燈籠の形が異なりますが、左側は韓国風であり、観月堂と共に景福宮にあったものです。

  • 観月堂<br />観月堂に係わる哀しいニュースがあります。<br />観月堂がかつての李氏朝鮮王室所有の財産であったことから、韓国への譲渡が日韓仏教文化交流大会において決定したそうです。高徳院も合意の上で、「返還することは決まったが、何時になるかも返還する手立ても決まっていない」とコメントしています。<br />正当な手段で譲られたものを、友好国ならともかく、時には露骨に敵意を剥き出しにする国家に譲渡しなければならないのは、納得し難い話です。

    観月堂
    観月堂に係わる哀しいニュースがあります。
    観月堂がかつての李氏朝鮮王室所有の財産であったことから、韓国への譲渡が日韓仏教文化交流大会において決定したそうです。高徳院も合意の上で、「返還することは決まったが、何時になるかも返還する手立ても決まっていない」とコメントしています。
    正当な手段で譲られたものを、友好国ならともかく、時には露骨に敵意を剥き出しにする国家に譲渡しなければならないのは、納得し難い話です。

  • 観月堂<br />鎌倉観音霊場23番札所ともなっており、本尊は聖観音像(秘仏)で、2代将軍 徳川秀忠の寄進と伝えられます。<br />因みに、高徳院の立札には、「江戸後期の木造観音菩薩立像を安置」と記されています。<br />正面の間仕切りには双折格子戸が入り、開ける場合は、両開きにした上で上方に吊り上げます。また、垂木には、天平時代に建造された唐招提寺の南大門と同様に、角材(角)と丸材(円)による二重垂木「飛角地円」になっています。

    観月堂
    鎌倉観音霊場23番札所ともなっており、本尊は聖観音像(秘仏)で、2代将軍 徳川秀忠の寄進と伝えられます。
    因みに、高徳院の立札には、「江戸後期の木造観音菩薩立像を安置」と記されています。
    正面の間仕切りには双折格子戸が入り、開ける場合は、両開きにした上で上方に吊り上げます。また、垂木には、天平時代に建造された唐招提寺の南大門と同様に、角材(角)と丸材(円)による二重垂木「飛角地円」になっています。

  • 観月堂<br />窓の意匠は、結構モダン風のデザインです。<br />シンプルゆえに、現在でも通用するかも?<br />窓にはガラスが入れられています。

    観月堂
    窓の意匠は、結構モダン風のデザインです。
    シンプルゆえに、現在でも通用するかも?
    窓にはガラスが入れられています。

  • 観月堂<br />瓦は丸瓦と平瓦が繰り返される、本瓦葺です。<br />注目のポイントは、エプロンのような軒瓦に龍の紋が施されていることです。 <br />これは、禅宗様の影響を受けたものと思われます。

    観月堂
    瓦は丸瓦と平瓦が繰り返される、本瓦葺です。
    注目のポイントは、エプロンのような軒瓦に龍の紋が施されていることです。
    これは、禅宗様の影響を受けたものと思われます。

  • 観月堂<br />側面の軒瓦は、龍紋とは異なる意匠の紋を施しています。鳥をなぞらえているようにも思えます。<br />もう一つの鑑賞ポイントが、その軒瓦が 「適水瓦」になっていることです。<br />中国明時代には、逆三角形をした、雨水が滴るような形にした「適水瓦」と呼ばれる軒瓦が普及したのですが、この軒瓦もその影響を受けたものと思われます。<br />滴水瓦は、支那式唐草瓦や高麗瓦、朝鮮瓦とも呼ばれ、今から約600年ほど前に中国で普及し、朝鮮李王朝に多大な影響を与えたとされます。<br />因みに、日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名たちが築いた城に用いられています。姫路城や松本城にも滴水瓦が見られます。

    観月堂
    側面の軒瓦は、龍紋とは異なる意匠の紋を施しています。鳥をなぞらえているようにも思えます。
    もう一つの鑑賞ポイントが、その軒瓦が 「適水瓦」になっていることです。
    中国明時代には、逆三角形をした、雨水が滴るような形にした「適水瓦」と呼ばれる軒瓦が普及したのですが、この軒瓦もその影響を受けたものと思われます。
    滴水瓦は、支那式唐草瓦や高麗瓦、朝鮮瓦とも呼ばれ、今から約600年ほど前に中国で普及し、朝鮮李王朝に多大な影響を与えたとされます。
    因みに、日本では豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参戦した大名たちが築いた城に用いられています。姫路城や松本城にも滴水瓦が見られます。

  • 観月堂<br />側面が入母屋造から切妻造に改造された以外はほぼ原形を留め、瓦はオリジナルのままだそうです。<br />

    観月堂
    側面が入母屋造から切妻造に改造された以外はほぼ原形を留め、瓦はオリジナルのままだそうです。

  • 観月堂<br />絵になる意匠です。

    観月堂
    絵になる意匠です。

  • 観月堂<br />壁のほとんどはシンプルな擬石仕上げの様に見えます。

    観月堂
    壁のほとんどはシンプルな擬石仕上げの様に見えます。

  • 観月堂<br />前面には高欄が廻らされ、地覆、平桁、握蓮、架木 (ほこぎ) で構成し、地覆と平桁の間には「双喜紋」を彷彿とさせる木組みの意匠が施されています。

    観月堂
    前面には高欄が廻らされ、地覆、平桁、握蓮、架木 (ほこぎ) で構成し、地覆と平桁の間には「双喜紋」を彷彿とさせる木組みの意匠が施されています。

  • 観月堂<br />薄くはなっていますが柱と垂木には極彩色の塗り(丹青:タンチョン)も残されています。

    観月堂
    薄くはなっていますが柱と垂木には極彩色の塗り(丹青:タンチョン)も残されています。

  • 観月堂<br />格子戸の上の頭貫・斗きょう・虹梁・母屋桁には彩色文様の跡が見られ、肘木・持送には唐草風絵様が彫られています。<br />柵から先に立ち入れないため、こうした装飾跡がしっかり見られないのは残念です。

    観月堂
    格子戸の上の頭貫・斗きょう・虹梁・母屋桁には彩色文様の跡が見られ、肘木・持送には唐草風絵様が彫られています。
    柵から先に立ち入れないため、こうした装飾跡がしっかり見られないのは残念です。

  • 与謝野晶子 歌碑<br />観月堂エリアには、明治~昭和時代にかけて活躍した歌人・作家にして思想家である与謝野晶子が鎌倉大仏を詠んだ歌碑があり、晶子直筆の筆跡のまま刻まれています。<br />「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」 (晶子)。<br />「夏の木立の中に鎮座する鎌倉の大仏様は、御仏という存在にも拘わらずイケメンだわ!」。大仏を「美男におはす」と表現したことで、読み手に衝撃を与えた作品です。謹厳な伊藤左千夫らには痛罵されましたが、女性的な独特の観点で大仏を評価しており、聖なる存在の大仏をストレートに「美男」として表現しているのがユニークです。この歌は『恋衣』(明治38年)に収められています。

    与謝野晶子 歌碑
    観月堂エリアには、明治~昭和時代にかけて活躍した歌人・作家にして思想家である与謝野晶子が鎌倉大仏を詠んだ歌碑があり、晶子直筆の筆跡のまま刻まれています。
    「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」 (晶子)。
    「夏の木立の中に鎮座する鎌倉の大仏様は、御仏という存在にも拘わらずイケメンだわ!」。大仏を「美男におはす」と表現したことで、読み手に衝撃を与えた作品です。謹厳な伊藤左千夫らには痛罵されましたが、女性的な独特の観点で大仏を評価しており、聖なる存在の大仏をストレートに「美男」として表現しているのがユニークです。この歌は『恋衣』(明治38年)に収められています。

  • 地蔵尊<br />与謝野晶子は大仏を「釈迦牟尼」と詠んでいますが、これも謎です。<br />大仏は、釈迦牟尼ではなく阿弥陀如来のはずです。実感した釈迦の雰囲気や、あるいは語呂や句の美しさに拘った結果でしょうか?実は、『吾妻鏡』には「深沢の里に金銅八丈の釈迦如来の像を鋳はじめ奉る」と記されています。『吾妻鏡』は幕府が編纂に関わった史料で内容も比較的正確であり、元々は釈迦如来だった大仏を一部だけ造り変えたという説もあります。また、他の文献で多様に扱っています。<br />因みに、石碑は「株式会社味の素」の寄進によるものです。味のあることをしますね!<br /><br />余談ですが、「大仏」に因むペンネームを持つ作家がいます。彼は、高徳院の境内裏手に住み、劇作家を目指していました。しかし、関東大震災の煽りで、やむなく生活費を稼ぐために大衆向けの娯楽小説を書くことに甘んじました。この時に思いついたペンネームが「大佛次郎」でした。<br />高徳院は、こうした多くの鎌倉文士にとって所縁の地でもあります。そして、数々の俳人・歌人も大仏の前で一句ひねりました。短冊を携えておくと、一句ひらめくかもしれません。

    地蔵尊
    与謝野晶子は大仏を「釈迦牟尼」と詠んでいますが、これも謎です。
    大仏は、釈迦牟尼ではなく阿弥陀如来のはずです。実感した釈迦の雰囲気や、あるいは語呂や句の美しさに拘った結果でしょうか?実は、『吾妻鏡』には「深沢の里に金銅八丈の釈迦如来の像を鋳はじめ奉る」と記されています。『吾妻鏡』は幕府が編纂に関わった史料で内容も比較的正確であり、元々は釈迦如来だった大仏を一部だけ造り変えたという説もあります。また、他の文献で多様に扱っています。
    因みに、石碑は「株式会社味の素」の寄進によるものです。味のあることをしますね!

    余談ですが、「大仏」に因むペンネームを持つ作家がいます。彼は、高徳院の境内裏手に住み、劇作家を目指していました。しかし、関東大震災の煽りで、やむなく生活費を稼ぐために大衆向けの娯楽小説を書くことに甘んじました。この時に思いついたペンネームが「大佛次郎」でした。
    高徳院は、こうした多くの鎌倉文士にとって所縁の地でもあります。そして、数々の俳人・歌人も大仏の前で一句ひねりました。短冊を携えておくと、一句ひらめくかもしれません。

  • 山門<br />仁王門から振り返ると、大仏が見送ってくれています。<br />門の前に佇むのは、珍しい白色大理石製の狛犬です。1980(昭和55)年に中華民国台中西北扶輪社(ロータリークラブ)から寄贈されたものです。 <br />因みに、台湾の狛犬には阿吽形の考え方はなく、両方とも口を開けた阿形です。左右の違いは、前足で戯れているのが玉か子犬かです。 <br /><br />この続きは、問柳尋花 鎌倉紀行⑦江島神社<前編>でお届けします。

    山門
    仁王門から振り返ると、大仏が見送ってくれています。
    門の前に佇むのは、珍しい白色大理石製の狛犬です。1980(昭和55)年に中華民国台中西北扶輪社(ロータリークラブ)から寄贈されたものです。 
    因みに、台湾の狛犬には阿吽形の考え方はなく、両方とも口を開けた阿形です。左右の違いは、前足で戯れているのが玉か子犬かです。

    この続きは、問柳尋花 鎌倉紀行⑦江島神社<前編>でお届けします。

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