2018/05/24 - 2018/05/24
8位(同エリア7311件中)
montsaintmichelさん
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建長寺は日本最古の禅寺であり、鎌倉五山第一位の臨済宗 建長寺派の大本山です。山号は巨福山(こふくさん)、正式名称を「巨福山建長興国禅寺」と言います。「建長」は創建時の元号を採ったものです。因みに、「ミシュラン・グリーンガイド」2つ星の観光地です。
1253(建長5)年、鎌倉幕府5代執権 北条時頼は、南宋の高僧 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を鎌倉に招き、建長寺を創建しました。承久の乱の後、宿敵 三浦氏を打ち破った北条氏は盤石の体制を整えました。そこで禅宗の精神で政治を安定させたいとの思いから、後深草天皇の勅命を受ける形で4年がかりで建長寺を建立しました。また、渡来の最新文化「禅寺」を建てることで、京都の公家文化に対峙しようとの目論みも見え隠れします。
往時の伽藍は、総門、三門、仏殿、法堂などの主な7つの建物が中軸上に並ぶ宋の禅宗様式の7堂伽藍とされ、49の塔頭を持つ巨刹でした。その後、14~15世紀の度重なる火災でその多くが焼失しましたが、江戸時代に沢庵和尚の進言で再建され、現在に至ります。
建長寺のHPです。
www.kenchoji.com/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル
-
天下門
鶴岡八幡宮の北西にある鶴岡文庫から、徒歩7分程で到着です。
かつて建長寺の総門の手前には、東と西に外門がありました。現在あるのは、関東大震災で倒壊したため、1984年に再建された西外門(天下門)のみです。
鎌倉時代に制定された寺を「鎌倉五山」と言います。その名が示す通り5つあり、「第一位 建長寺」「第二位 円覚寺」「第三位 寿福寺」「第四位 浄智寺」「第五位 浄妙寺」と位と共に制定されています。
因みに、建長寺のように創建時の元号を寺号にした寺院には、延暦寺や仁和寺、建仁寺、長禄寺などがあります。 -
天下門
扁額「天下禅林」を掲げているため「天下門」と呼ばれます。
「天下禅林」とは、「人材を広く天下に求め育成する禅寺」という意味です。文字は、1628(崇禎元)年に中国明代の書家 竹西の筆によるものの模刻です。 -
境内案内マップ
見所のひとつは、禅寺の特徴である一直線に建ち並ぶ伽藍配置です。度重なる火災によって創建当初のものはほとんど残されていませんが、幾つかは復元され壮観な禅寺伽藍が偲べます。
正岡子規が『鎌倉一見の記』で「建長寺に詣づ。数百年の堂宇松杉苔滑らかに露深し」と記しているように、こうした文語体がよく似合う古刹です。 -
総門
風格のある門構えです。
創建は1275(建治元)年、以降、焼失と再建を繰り返して最後に再建されたのが1609(慶長14)年です。しかし、その総門も関東大震災で倒壊して現存しません。
現在の総門は、1940(昭和15)年に京都 般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築したものです。1783(天明3)年の建造とされ、建長寺の山号「巨福山」が掲げられていることから巨福門とも呼ばれます。 -
総門
扁額「巨福山」は、建長寺10世住持 一山一寧(いっさんいちねい)の名筆です。
しかし、何処となく違和感がありませんか?その正体は、「巨」の文字に「点」が加えられているからです。一瞬、脳の補間作用で「臣」とも読めてしまいます。
住職が山号を書く際、勢い余って「点」を余分に付けてしまったと伝えられています。しかし、点を打ったことにより文字が引き締まって見えることから、百貫の価値があるとされ、「百貫点」と呼ばれています。
山号の由来については、『皇国地誌』では、村の古老の話として「今(明治時代初期)の台村の字市場から建長寺辺りまでを巨福路の郷と言い、そのため建長寺の山号は『巨福山』という」と紹介しています。 -
総門
「けんちん汁」は、一説には建長寺が発祥とされます。寺で精進料理を振る舞っていた際、あまりの来客数に食材が不足し、苦肉の策としてつぶした豆腐を根菜類やこんにゃくと一緒に煮込んで汁物として出したのが始まりと伝わります。これが「建長汁」として評判となり、それが訛って「けんちん汁」と呼ばれるようになりました。元々、精進料理であったため、肉や魚を使わず、出汁にも昆布や椎茸などが用いられていました。 -
三門(重文)
総門の先が三門です。現在の三門は、1775(安永4)年に「狸和尚」の伝承を生んだ201世 万拙碩誼(ばんせつせきぎ)が再建した、二重門です。
関東大震災で倒壊後、再建されています。また、1954年に茅葺を銅板葺に代えています。平行垂木を持ち、室町期の禅宗様の色合いが濃い重層門は威風堂々たる「本山の顔」です。
三間二十門の門としては、東日本最大規模です。初層は門扉も壁もない吹き流しで、一見懸造と錯覚しそうです。上層には釈迦如来や五百羅漢、十六羅漢像が安置されており(非公開)、この門を潜るだけで心が清らかになると言われています。鎌倉時代末頃の三門は、現在の高さ30mのものより大きかったそうです。
因みに、「三門」は、「三解脱門」の略で、涅槃(悟り)に至るために通過しなければならない3つの関門(空・無作・無相)を表します。
2003年に行われたサザンオールスターズの25周年「建長寺ライブ」は、この三門で行なわれました。 -
三門
古色蒼然とした中、掛けられた扁額のみが黒地に赤枠、金色の文字であり、異様に映ります。扁額「建長興国禅寺」は深草天皇の宸筆とされ、「禅宗で国を興す」という方針が記されています。扁額は、畳6畳分のサイズだそうです。建長寺大工 河内長兵衛が棟梁を務め、この大扁額を掲げるために上層に軒唐破風が追加されています。
尚、この門には、「狸の山門」という別名があります。再建の折、寺の残りご飯などをもらっていた古狸が恩義に報いようと住職に化け、三門再興のために勧進の旅行脚に出たという伝説に因みます。 -
三門
創建間もない頃、施餓鬼会が終わった直後、騎馬武者姿の梶原景時の亡霊がこの門の所に現れたとの伝承があります。施餓鬼会は奈良時代から続く仏教行事で、お盆の時期に行われます。餓鬼道に堕ちた衆生に、浄水や食べ物を供えて追善供養します。
その武者は、施餓鬼会がすでに終わったのを知ると残念そうに立ち去りますが、それを見た開山 蘭渓道隆が武者を呼び戻し、もう一度施餓鬼会を行いました。武者は大変喜び、自分が梶原景時の亡霊である事を告げると姿を消したそうです。
それ以来、7月15日の三門施餓鬼会に引き続き、もう一度梶原施餓鬼会を行うのが習わしです。かつては午前中に施餓鬼会、午後に梶原施餓鬼会と分けていましたが、現在は施餓鬼会終了後に続けて行なっており、「三門梶原施餓鬼会」と呼ばれています。
この施餓鬼会では、蘭渓道隆が宋より持参したと伝わる梵語『般若心経(梵語心経)』が唱えられます。 -
三門
虹梁の渦文様やその上に立てられた円柱状の大瓶束は禅宗様を踏襲しています。
梶原景時は鎌倉時代初期の武将です。打倒平家を掲げて挙兵した源頼朝が大敗を喫した「石橋山の戦い(小田原市)」で、平家側でありながら頼朝を見逃して命を救った縁から、鎌倉幕府では御家人として重用されました。
彼の讒言によって源義経をはじめ多くの御家人が失脚したこともあり、頼朝の死後は後ろ盾を失い、66人もの御家人から弾劾を受けて鎌倉から追放されました。頼朝の没後わずか1年後の1200(正治2)年に駿河国で合戦(梶原景時の変)となり討ち死にしました。
鎌倉には今でも梶原一族が住んだ地に「梶原」の地名が残り、彼が太刀に付いた血を洗った「太刀洗水」の伝説も残されています。 -
鐘楼
三門の右手(東側)にあります。
入母屋造、茅葺の鐘楼です。古色蒼然とした茅葺の佇まいは、鎌倉時代へタイムスリップさせてくれます。鎌倉では茅葺の鐘楼は珍しくないようですが、ここにさりげなく吊るされているのが国宝の梵鐘です。
「鐘撞けば 銀杏ちるなり 建長寺」。
有名な句の盗作かと思いきや、詠んだのは夏目漱石です。親友の正岡子規がこの句を参考に「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」と詠んでいます。漱石に俳句を指南していた子規の、「金之助、俳句はこう詠むんだ」としてやったりの表情が浮かぶようです。
因みに、鐘楼の右奥にある禅堂では、現在も蘭渓道隆が宋から伝えた厳しい禅風が脈々と受け継がれ、厳しい修行が行われています。 -
鐘楼 梵鐘
北条時頼が寄進した梵鐘で、鎌倉では数少ない国宝のひとつです。
国内最古の梵鐘とされ、大きさは僅かに円覚寺の洪鐘(おおがね)には及びませんが、円覚寺や常楽寺の鐘と共に「鎌倉三名鐘」と称されます。関東一美しい梵鐘とも言われ、撞座の位置が高い点など平安時代の形式に倣った復古的な梵鐘です。
関東一の鋳物師 大和権守物部重光が1255年に鋳造した、高さ2.1m、口径1.2m、重量2.7トン程あるもので、創建当初から残る数少ない遺品のひとつです。因みに、物部重光は、高徳院の「鎌倉大仏」の鋳造にも係わっています。
初代住職 蘭渓道隆が撰した銘文が刻字されており、これが国宝に指定された最大のポイントです。また、銘文中の「建長禅寺」は、日本において「禅寺」の語の初見とされています。更には、鐘の音が人の泣き声に似ていることから、「夜泣き鐘」とも呼ばれています。 -
西来庵(せいらいあん)嵩山門(すうざんもん)
三門の右手にある、塔頭寺院です。
建長寺の開祖 蘭渓道隆の墓塔やその像を安置する開山堂や坐禅堂などを構え、建長寺の聖域とも言える区画です。
修行道場でもあり、一般参拝客は立ち入れませんが、入口にあるこの薬医門「嵩山門」が結界になり、向こう側にはより厳粛な空気が流れているように思えます。 -
西来庵
樹木が茂って見られませんが、ここの中門は、仏殿や唐門と共に芝 増上寺の徳川2代将軍秀忠の正室 崇源院の霊廟から移築されたものです。
北条時頼は、建長寺を建立した後も、蘭渓道隆に師事し禅を深く信仰しました。時の権力者として建長寺を経済的に支え、全国に禅宗を広め、自らも出家して法名を「覚了房道崇(がくりょうぼうどうすう)」と称しました。 -
仏殿
伽藍が一列に並んでいるため窮屈そうに思えますが、三門の下から眺めると、奥行きがあり広く感じられます。その秘密は、左右の並木にあります。
両側が木で遮蔽され、並木が奥にある仏殿へと視線を導きます。そうすると遠近感が強調され、仏殿を立派に見せ、かつ仏殿が遠くにあるように錯覚させる仕掛けです。建長寺は日本最古の禅宗寺院ですので、ここを訪れた僧侶たちが吃驚するようなトリックが駆使されていたようです。 -
ビャクシンの古木
仏殿の前庭は前栽列樹と呼ばれる宋の禅寺庭園様式で、ビャクシンの古木7本と若木1本が参道の両脇に植えられています。ヒノキ科のビャクシンは中国名であり、和名は「イブキ」と言います。樹齢760年とされる樹高13mの古木は幹回り6.5mもあり、波打った樹皮の生命力に圧倒されます。創建当時から幾度かの火災を生き抜いた貴重な古木であると共に、北条氏の栄華や鎌倉幕府の滅亡、足利氏の台頭をこの木は見守ってきました。
漲るような生命エネルギーが感じられ、宮崎アニメにでてきそうなほどです。 -
ビャクシンの古木
ビャクシンは成長が遅いため、「長い間、自分と向き合って大きくなっていく」という意味で禅を象徴する木と言われています。幹の捻じれが特徴です。
また、このビャクシンは鎌倉でも最古とされ、開山 蘭渓道隆が中国から持ち帰り、手植えしたものと伝わります。「道隆が亡くなった際に火葬したところ、その煙がビャクシンに触れ、五色の舎利(遺骨)を降らせた」との伝説が残されています。
近年は、腐朽菌により劣化が進んでおり、劣化対策が施されているそうです。
神奈川県の「名木100選」や鎌倉市指定保存樹木に選ばれています。 -
仏殿 (重文)
現在ある仏殿は、元々は徳川秀忠の正室 崇源院(お江)を供養するために芝 増上寺に建てられていたものです。裳階を持ち、一見重層に見える荘厳な建物です。近世以前の木造法堂建築としては関東最大規模を誇ります。
1647年の御霊屋の建て替えの際に建物を譲り受け、ここに遷されました。そのため、一般的な禅宗の仏殿とは趣が異なります。例えば、屋根は入母屋造でなく寄棟造です。また、禅宗仏殿では平板の「鏡天井」に雲龍図を絵を描くことが多いのですが、ここは和様の格天井です。また、欄間には、書院造でよく見られる筬欄間(おさらんま)が用いられています。正面の火灯窓は末広がり、側面の火灯窓は縦に真っ直ぐの円覚寺舎利殿に見られるような初期の様式になっています。
尚、日光東照宮の造営と同時期の建物ゆえ、移築に際しては金具や極彩色で彩られた装飾を全て外し、禅寺らしい外観に改修したそうです。 -
仏殿
裳階には三門と同様に軒唐破風が付けられています。
見難いのですが、扁額には「祈祷」とあります。 -
仏殿
欄間には、羽衣を纏った迦陵頻迦(かりょうびんが=天女)が彫られています。
こうした所に桃山建築様式に見られる華やかな装飾が踏襲されています。当初は極彩色で彩られていたことでしょう。
因みに、迦陵頻迦とは、上半身が菩薩姿で下半身が鳥の仏教における想像上の生物であり、『阿弥陀経』では共命鳥と共に極楽浄土に住むとされます。妙声をもって法を説くとも言われます。 -
仏殿
屋根の垂木は放射状の扇垂木、軒下には組物を並べた詰組を配した禅宗様仏殿の典型意匠です。しかし、屋根は入母屋造ではなく、寄棟造となっています。こうした様式の仏殿は、旧東慶寺仏殿(横浜本牧 三溪園に移築)にも見られます。
主屋の斗きょうは二重の尾垂木が付けられた四手先で、建造物として鎌倉では唯一のものとされます。主屋地隅にも瑞雲のような繊細な彫刻が見られます。 -
仏殿
江戸時代初期の華麗な内装にも注目です。崇源院の御霊屋だった片鱗を魅せ、内装は女性っぽい繊細な装飾が満載です。歴史を物語る色褪せた金色の格天井やそこに描かれた瑞鳥の絵は、質素な中にも鎌倉五山第一位の威厳の証を窺わせます。何故なら、徳川家からの下賜は、 江戸幕府の建長寺に対する位置付けが高かったことの証左ですから。
もうひとつの特徴は、仏殿の本尊に、室町時代の作とされる、高さ2.4m、台座を含めて5m程にもなる、巨大な地蔵菩薩坐像を祀ることです。臨済宗なら釈迦牟尼(しゃかむに)が一般的であり、地蔵菩薩があるのは珍しいです。
注目ポイントは、鎌倉時代後期以降に鎌倉地方を中心に流行した宋風の「法衣垂下(ほうえすいか)」です。衣を垂らしたような様式が、一層この地蔵菩薩を気高く、優しく、エレガントに魅せています。
因みに、地蔵菩薩は、地獄に堕ちた人々を救う菩薩で、大「地」の「蔵」する力を使って苦しむ人々を救済します。 -
仏殿
本尊を地蔵菩薩とするのは、建長寺の建立以前にこの地にあった地蔵堂の縁起を引き継いだのが由来です。境内は、元々は地獄谷と呼ばれた罪人の処刑場でした。その敷地内には罪人供養のために地蔵菩薩像を本尊とする「伽羅陀山心平寺」がありましたが、やがて廃寺となり、地蔵像を祀る地蔵堂だけが残されました。
神社仏閣の歴史というのは、結構複雑だったりしますから…。
左端の下駄箱には、法堂沓と呼ばれる中国の道教由来の履物が収まっています。法要の時に僧侶が穿く沓で、偉い順に、赤い無地、赤い刺繍、黒い刺繍のある沓になります。 -
仏殿
本尊の右後方の欄間にも迦陵頻迦が彫られています。
ここからだと天女の頭しか見えないので、見事な鳳凰と勘違いしそうです。 -
仏殿
建長寺の住持にまつわる面白い話があります。
2世住持 兀菴普寧(ごったんふねい)は、本尊の地蔵菩薩に礼拝するこはなかったそうです。その理由は、菩薩はまだ修行の身であり、自分はすでに悟りを開いた仏の身であるため、菩薩より位が上だからというものだったそうです。
しかし、北条時頼の要請で建長寺に住持していたのですが、時頼が没すると間もなく中国に帰ったそうです。かなり気難しい人物で、「兀庵(ごったん)」という名から「ごたごた」という言葉が生まれたと伝わります。 -
仏殿 伽藍神像(重文)
本尊の右後方にある脇壇に安置されています。
創建当初の仏殿は、左右に土地堂(つちどう)と祖師堂を従えたものだったそうです。この木造伽藍神像は、その土地堂に祀られていたと考えられています。創建当時、あるいは1293(永仁元)年の火災後の作品とされますが、五幅が揃っているものとしては日本最古です。
伽藍神は、元々は中国土着の神ですが、禅宗寺院の守護神として祀られてきたようです。鎌倉では13世紀後半、禅宗が広まり、その影響でこうした仏像が作られるようになりました。『禅林象器箋』には、張大帝、大権修利菩薩、招宝七郎、掌簿判官、感応使者の名が記されていますが、五幅がそれぞれどれに対応するかは明確でないそうです。
ここの伽藍神像の特徴は、水晶のレンズに瞳を描いた玉眼が施され、人間味溢れた顔立ちをなさっていることです。こうしたリアルさを追求した背景には、人と争う戦乱の世を行き抜く武士たちが、心の拠り所となる仏像を好んだからとも言われています。 -
仏殿 伝心平寺地蔵
右側面の脇壇には、千体地蔵に囲まれて南北朝時代に寄木造で制作された「心平寺地蔵」が安置されています。右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、右足を少し前に半跏趺坐される姿は宋風で豊かな量感があり、慈しみ深いやさしいお顔をなされています。像高は81.9cmあるそうです。
心平寺地蔵は、建長寺の創建前にこの地にあった心平寺の本尊と伝えられます。この地蔵には興味深い伝説があります。
心平寺のあった谷は「地獄谷」と呼ばれた刑場でした。その刑場で済田左衛門が無実の罪で斬首されようとしていました。しかし、討手が何度刀を振り降ろしても左衛門の首は斬れません。それは、左衛門が信心していた地蔵の小像を髻(もとどり)の中に納めていたからでした。
その小像には刀の切り傷が残されており、命を助けられた左衛門は身代わりになってくれた地蔵に感謝しました。そして、その小像を心平寺地蔵の頭の中に納めたそうです。その後、建長寺が創建されると、仏殿本尊の地蔵菩薩像の胎内に移されたそうです(現在は別管理)。左衛門が信心していた地蔵の小像は、「済田地蔵」と呼ばれ、11月の「宝物風入」の際に拝観することができます。
この写真は、次のサイトから借用いたしました。
http://www.kamakura-asahi.com/1702/1.pdf -
仏殿
脇壇を丹念に見回すと、この仏殿だけでも多種多様な仏像が祀られていることが判ります。
本尊の左後方の脇檀には、十六羅漢像が7幅おられます。 -
仏殿
後方は阿弥陀如来像のようにも思えますが、臨済宗ですから釈迦牟尼が自然でしょうか?
手前の御仁は誰なのでしょうか?特徴のある頭をなされているのですが…。 -
仏殿
左端の脇壇には、天皇家や源氏三代、北条氏、歴代住職の位牌が安置されています。 -
仏殿
本尊の上部は二重天井になっており、そこだけは折上格天井(四辺を曲線で持ち上げた格天井)となっています。 -
法堂(重文)
1275(建治元)年、北条時頼13回忌に創建されましたが、度重なる火災や地震などにより、当初の建物は現存しません。現在の法堂は、1825(文政8)年に再建されたもので、禅宗様式を踏襲したものです。屋根は当初は瓦葺でしたが、1837(天保8)年に茅葺に改修され、その後、1953(昭和28)年には銅板葺に改修されました。
鎌倉に唯一存在する法堂でもあり、その大きさは関東一を誇ります。388人もの僧侶がここで説法を受けていたとの記録もあるそうです。現在は、法要や講演、展覧会などに使われています。 -
法堂
扁額には、「海東法窟」とあります。
中国から見て東にある禅の道場との意味だそうです。
この扁額は、かつては東外門に掲げてあったものです。西外門の扁額「天下禅林」と同じく中国明の書家 竹西の筆の模刻です。 -
法堂 釈迦苦行像
本尊の前には、痩せ細った釈迦苦行像が安置されています。
パキスタン北西部地方のガンダーラ文明の遺産で、ラホール中央博物館に安置されている像を模して制作されたものです。2005年の愛知万博で展示された後、建長寺に寄贈されたものです。
釈迦苦行像は、釈迦が極限の苦行・禁欲(断食)を行っている姿を表したものです。こけた頬や、浮き出たあばら骨から、肉体をも痛めつける徹底的な荒行をしていたことが窺えます。また、釈迦が鬚を生やした姿を彫った像は極めて稀であり、目が点になります。
釈迦は、29歳で出家し、約6年間に亘って断食と坐禅の日々を送り、35歳の時に菩提樹の下で悟りを開きました。
釈迦苦行像の手前にある唐獅子の青銅製香炉は、江戸時代に素封家の人から寄贈されたもので、現在も使われているそうです。 -
法堂 千手観音坐像
この法堂も変り種です。本来、法堂は法を説くための堂宇であり、仏像は安置しないのが一般的です。しかし、ここには千手観音坐像と釈迦苦行像が安置されています。禅寺の法堂としては、比較的明るく煌びやかな印象です。
本尊には大悲閣にあったとされる千手観音坐像が須弥壇の上に祀られ、鎌倉観音巡礼第28番札所となっています。
千手観音坐像の由来をネットで検索しましたが、情報は未詳です。ただ、再建直後の1829(文政12)年刊行の『鎌倉覧勝考』によると、「本尊もなく椅子が置いてあるだけ」とあり、「そこから空虚なことを伽藍堂と言うようになった」と記されています。比較的、歴史の浅い観音像なのかもしれません。 -
法堂 雲龍図
天井には、縦約10m、横約12mに及ぶ巨大な雲龍図が描かれています。
龍は仏教の守護神であり、禅寺の法堂では天井に雲龍図を描くのが約束事です。仏教において、龍は仏の教えを人々に伝えると言われており、修行僧に「法の雨」を降らすという意味があります。
建長寺創建750年記念事業の一環として、小泉淳作画伯が3年を費やして2003年に完成させた力作です。京都 建仁寺法堂の天井画でも紹介した小泉画伯ですが、その葬儀はこの建長寺で営まれました。
観る者に畏敬の念を抱かせずにはおれない雄渾の大作ですが、こちらも違和感があります。実は、中国様式の「5爪(ごそう)の龍」です。鎌倉五山の「第二位 円覚寺」にも雲龍図がありますが、そちらは3爪です。第一位と第二位の格の違いを表わしたかったのでしょう。
絵具には、麻の紙と「程君房(ていくんぼう)」と呼ばれる上質の墨が使われています。 -
伽藍
手前から、仏殿、法堂、大庫裏と一直線に勇壮に連なります。
開山 蘭渓道隆は、中国西蜀淅江省に生まれ、1246(寛元4)年33歳の時に来日した中国宋の禅僧です。数年間を泉涌寺来迎院で過ごし、その後、智鏡の勧めもあって鎌倉の壽福寺に入りました。それを知った5代執権 北条時頼は、道隆を常楽寺に移し、禅の道場を開きました。それ故、常楽寺は「建長寺の根本」と称されています。
1253(建長5)年、時頼が建長寺を創建すると、道隆を開山に迎えました。しかし、道隆は、元の密偵だとの疑いをかけられて伊豆に逃亡した時期もあります。その時に住したのが修禅寺でした。真言宗の修禅寺を臨済宗に改宗したとされます。
その後、壽福寺、禅興寺(現 明月院)、京都 建仁寺などに住しています。その間、叡山僧徒の反抗に遭って甲斐に流されましたが、1278(弘安元)年に建長寺に戻り、この地で没しています。没後、後宇多天皇より「大覚禅師」の号を賜わり、これが日本初の「禅師号」とされます。 -
大庫裏
1991年に新築されました。
庫裏は、元々は僧侶の居住する場所や台所など生活をするための建物でしたが、現在では寺の事務一般を取り扱う寺務所も兼用することが多くなっています。 -
方丈
唐門の奥にある大きな甍が方丈のものです。
方丈への入口は、右端にある玄関からです。 -
唐門(重文)
桃山風向唐破風を載せた四脚門です。黒漆塗に金色の飾り金具は、桃山建築様式の名残りを感じさせます。小規模ですが密度の高い装飾を纏い、工芸品を彷彿とさせる趣を湛えています。門は、高さ6mm、幅7m程あります。
因みに、禅宗寺院の方丈に唐門を配置するようになったのは後世のことで、創建当初から唐門だったかどうかは不明だそうです。
唐門の鬼瓦や門から繋がる瓦塀の軒瓦には北条氏の家紋「三つ鱗」が刻まれ、ここが北条氏所縁の寺であることを実感させてくれます。 -
唐門
方丈入口にある勅使門で、江戸時代に仏殿と同じく徳川家の菩提寺 芝 増上寺の徳川家忠の正室 崇源院(お江)の御霊屋の中門を移築しています。
江戸時代には建長寺は荒れ果てており、その窮状を見兼ねた臨済宗の沢庵和尚が、慕われていた3代将軍 徳川家光公に掛け合った結果、増上寺の崇源院の御霊屋などが移築されました。移築時は柿葺でしたが、明治時代に銅板葺に改修されています。
2011年に修復されたため、往時の煌びやかな美しい姿を甦らせています。因みに、事業総額は1億1770万円、国と鎌倉市が約7割補助したそうです。 -
唐門
虹梁や木鼻、扉などの随所に、切紙細工のように繊細な透彫金具が打たれています。虹梁の上には大瓶束が載せられ、その周囲には花鳥、唐草、亀甲、剣菱などの彫り物が施され、漆塗りも再現されています。
円柱は、両端がやや丸められた粽(ちまき)と呼ばれる部分を設け、禅宗様になっています。 -
唐門
黒漆に金色は、コントラストが抜群です。
また、透かし細工が映えます。 -
唐門
日光東照宮や小石川後楽園でも見られる、徳川家の裏紋「六つ葉葵」の装飾が随所に施されています。 -
唐門
方丈側から見た唐門です。
四脚門であることがよく判ります。 -
方丈
扁額には「龍王殿」とあり、龍王殿とも呼ばれます。 -
方丈
本尊には、宝冠釈迦如来像を祀ります。
度重なる焼失と再興を繰り返し、現在の建物は総門と同じく1940年に京都 般舟三昧院から移築されたもので、1732(享保17)年の建立とされます。現在は各種儀式やコンサートなどの催しに使用されています。
方丈の内部は、人がいる時は写真撮影を遠慮するようにと書かれています。
方丈の裏手には、夢窓疎石が作庭したと伝わる美しい庭園が広がっています。 -
方丈
方丈の前庭です。
大庫裏、法堂、仏殿、三門、巨福門と一直線に連なっています。 -
方丈 池泉庭園(国名勝)
禅の心を視覚で体感するために造られた庭園です。
中央の池は真上から見ると草書体の「心」の形をしており、「心字池」と呼ばれます。しかし、建長寺では、心字池が俗界と聖域の境界となる門前ではなく最奥に造られているのが特徴です。こうした配置は建長寺のモデルとなった南宋の禅院には見られず、建長寺独自のスタイルです。
夢窓疎石(円覚寺や浄妙寺の住持を歴任した名僧、竜安寺庭園など作庭家としても著名)の作庭と伝えますが、現在の庭園は江戸時代に改修されたものと考えられています。
江戸時代末期までは松の霊木があったとされ、蘭渓道隆(大覚禅師)が庭に出てみると、松の木の上から話しかけるものがあるので「あなたはだれですか?」と尋ねたところ、「鶴岡八幡宮の神である」と答えたという逸話が残されています。
正面の旅館のような建物は「得月楼(客殿)」と言い、創建750年記念として2002年に建てられたものです。上層は大広間になっており、2010年に横浜APECが開催された際、各国首脳夫人が鎌倉を訪れて食事を摂られた席です。当初は、紫雲閣という名でしたが、得月楼に代えられています。 -
ガクアジサイ
花期の比較的早いガクアジサイは、すでに満開です。
花びらに見える部分は、萼(ガク)が変化した装飾花です。それに因んで「ガクアジサイ」と言うのかと思ったら、装飾花の部分が額縁に見えることから「額アジサイ」と言うそうです。一般に見られる手毬状のアジサイは、このガクアジサイ(原種)を品種改良したもので、花すべてが装飾花となったものです。
紫陽花の語源は「集真藍(あづさあい)」です。真の青い花が集まっているところから来ているそうです。 -
天源院
石段に使われた砂岩系の鎌倉石が丸びを帯びたところが、歴史と趣を湛えます。
13世 南浦紹明(なんぽじょうみん)が開いた塔所です。南浦紹明は、蘭渓道隆の下で要職を務め、北九州を拠点に禅を広めた人物です。9代執権 北条貞時に招かれ建長寺の住持となりました。
高僧の死後、弟子がその徳を慕って境内周辺に建てた小寺院のことを塔頭と呼びます。繁栄時には49もの塔頭があったと伝わります、現在残っている塔頭は12院です。 -
半僧坊道
半僧坊道から標高114mの勝上献(しょうじょうけん)という裏山に登っていきます。
半僧坊はその中腹に位置します。 -
ヒメアジサイ
参道にあるヒメアジサイは、色付き始めといったところです。 -
カシワバアジサイ
元々は北米が原産地のアジサイで、白い花を葡萄の房のように付けます。ですから、別名「ソフトクリームアジサイ」や「ピラミッドアジサイ」とも呼ばれます。
名の由来は「カシワの葉に似た葉形」にあるそうですが、よく観察すればカシワの葉とは似て非なるものです。恐らく、葉の切れ込みからの発想ではないかと思います。また、他のアジサイとの違いは、土壌のPHによる花色の変化が無いことだそうです。つまり、白い花なら、一生涯純白で居られるということです。
因みに、カシワバアジサイは5月24日の誕生花だそうです。この写真を撮った日です! -
半僧坊大権現
寺院に神社の鳥居が乱立する異様な光景です。青銅製の鳥居は、靖国鳥居という形式と思われます。貫(下側の材)の断面が長方形になっているのが特徴です。本来、靖国神社や招魂社にある鳥居なのですが…。昭和8年と刻銘があり、太平洋戦争に供出させられなかった理由は、鳥居の形式にあったのかもしれません。大権現にあった烏天狗たちは、全て供出させられたのですから…。
このように寺院に鳥居があるのは、「四方を守る鎮守様」という地主神的な土着信仰が残っているからです。山を守る火除けの鎮守として勧請された半蔵坊の場所と俗世との境界線という意味で鳥居が建てられているようです。異教徒だからと排除するのではなく、禅寺の仏殿に地蔵菩薩が祀られていたのと同じ考え方です。
また、半僧坊は「建長寺の鎮守社」という立ち位置でもあり、神社の体裁をとっているのでしょう。 -
半僧坊大権現
境内最奥の裏山中腹にある鎮守府には、半僧坊大権現が祀られています。建長寺の半僧坊は、1890(明治23)年に井伊直虎所縁の秋葉山方広寺(静岡県)から迎えられた神で、その姿はまさに天狗です。
245段ある九十九折の石段の途中には、大天狗2体、小天狗10体の銅像が立ち並び、禅寺とは趣が異なる異様な光景です。よく観ると、鼻の高い天狗も居れば、烏天狗も居るなど、バリエーション豊かです。青銅製の天狗像は戦時中に供出されたそうですが、現在は復元されています。 -
半僧坊大権現 講中の石碑
「講」は、現在で言う組合のようなものです。「○○組合で出資した」という意味の石碑が彼方此方に立てられています。 -
半僧坊大権現
「半僧坊」とは、建物自体を指す場合もありますが、内容によっては人物を指すこともあります。出家して臨済宗の僧侶に仕えたものの、仏門の弟子ではなかったために半分だけが僧侶…。そこから「半僧坊」と呼ばれるのですが、半僧坊の象徴として天狗が祀られています。
半僧坊信仰が全国に広まったのは、明治時代に発生した方広寺の山火事の際、円明大師(無文元選禅師)の墓と方広寺の鎮守「半僧坊」だけが類焼を免れたことから、半僧坊の威徳によるものとの噂が広まりました。昔は火事は天狗の仕業とされ、天狗を祀ることが火災防止に繋がるとの伝承があったそうです。 -
半僧坊大権現 手水舎
手水鉢には「天狗の団扇」があしらわれています。
建長寺の天狗のルーツは、後醍醐天皇の皇子 無文元選禅師(むもんげんせんぜんじ)が開いた方広寺にあります。方広寺の開祖は、中国で修業しました。帰国途上の海で大嵐に遭い、お経を唱えていると天狗が現れ、「私が無事送り届けます」と難局を乗り越える手助けをしました。
その後、方広寺を創建した折、その天狗が再び姿を現し、弟子入りを請います。その時、開祖が「あなたは、半ば僧のようですね」と言ったことから、「天狗=半僧坊」と呼ばれるようになったそうです。 -
半僧坊大権現
まるで半僧坊へ向う我々を監視するかのように、天狗たちはほど良い距離を保ちながら立ち並んでいます。ここの踊り場が、桑田佳佑さんがニール・ヤングの『HEART OF GOLD』を歌った場所です。
建長寺が半僧坊を勧請した逸話も興味深いものです。
建長寺の住職が、白髪の老人と出会う夢を見ました。その老人は、半ば僧侶のような、はたまた俗人とも思えるような不思議な風貌をしていました。その老人は住職に向かい、「私を清浄な所に招いてくれるなら、その地は栄え、ありがたいことが絶えることがないでしょう」と告げて姿を消しました。
この老人の風貌から、住職はこの人が「半増坊」であると感じました。そこで、半僧坊で知られていた方広寺に出向き、半僧坊の分身をいただいて、この地を創建したと伝わります。 -
半僧坊大権現
烏天狗は、半僧坊権現の修行を助けたとも伝わります。
また、「腹切りやぐら」で自害した鎌倉幕府最後(14代)の執権 北条高時には、烏天狗にまつわる逸話が残されています。
『太平記』では、高時は闘犬にうち興じ、酒色に耽る暗君として描かれています。有名なのは、「ある夜、怪しい者たちと酒宴を張ったが、翌朝目覚めると辺り一面に鳥の足跡のようなものが残っており、烏天狗にたぶらかされたと気付いた」という話です。 -
半僧坊大権現
烏天狗は山岳で修業をする修験者の姿をしており、山中で怪異を起こす妖怪と言われます。妖術で人を惑わしたり、子供をさらうこともあると言いますが、人に対して親切な面もあり、守り神として崇められることも多かったようです。 -
半僧坊大権現
九十九折の石段を登って社殿のある霊山の高みにまで足を運ぶと、海から吹いてくる涼やかな風と共に素晴らしい眺望が開け、別天地にでも辿り着いたかのような高揚した気分になります。
建長寺の伽藍は、宋を倣って、巨福門・三門・仏殿・法堂・大庫裡が一直線に並ぶ配置となっているのが一目瞭然です。
余談ですが、開山750年遠忌(2028年)の完成を目標に、華厳塔を再建する計画があるそうです。ここに三重あるいは五重塔の眺めが加わるかと思うとワクワクしてきます。 -
半僧坊大権現
立ち入ることはできませんが、社殿の裏手には横穴「座禅窟」があります。その横穴は蘭渓道隆(大覚禅師)が座禅をしていたと伝わるもので、一遍上人がそこを訪れ、歌を詠み合ったとの伝承が『新編鎌倉志』に残されています。
踊念仏で有名な一遍が訪ねてみると、道隆が座禅ではなくて居眠りをしていたので、
「躍りはね 申してだにも かなわぬを 居眠しては いかがあるべき」と詠みました。
大覚禅師は「躍りはね 庭に穂ひろう 小雀は 鷲のすみかを いかが知るべき」と返しました。
この返答に、一遍は敬服したということです。 -
半僧坊大権現
御神体は、「鼻高天狗」とされます。
ご利益は、心願成就や学業成就、良縁成就など。
また、半僧坊は建長寺の中でも最も景色が良いスポットです。天気が良ければ、見晴台からは相模湾、富士見台からは富士山が望めます。 -
半僧坊大権現
絵馬に描かれている半僧坊は、ワイルドな雰囲気の白人風の彫りの深い顔立ちです。 -
半僧坊大権現 やぐら
帰路の途中、左手にやぐらのようなものを発見しました。近づいてみると、抜け道のようです。やぐらを掘り進めて貫通させてしまったのでしょうか?
ここから先は、柵があり立入が出来ません. -
半僧坊大権現 虫塚
帰路、右手の竹藪の中に白い籠のオブジェがあります。籠の中にはカブト虫とクワガタの黒御影石製の像が安置されているそうです。
これは、著書『バカの壁』で有名になった養老孟司氏が発案し、供養施設のデザインを東京オリンピックのメインスタジアムの設計者 隅研吾氏が担ったものです。
今まで多くの昆虫の命を奪ってきた養老氏が、その供養のために子供の頃に虫捕りに来ていたこの境内に2015年に建立したものです。毎年虫の日の6月4日に講演会と法要を行っているそうです。
白い籠が重なったり並んでいたりで、遠目にはイノシシの捕獲檻のような感じです。その先には、断崖に横穴「やぐら」が口を開けています。 -
半僧坊大権現
竹林の雰囲気も味わえます。 -
建仁寺 境内
境内まで戻ってきました。
巨福門の手前、右手の植樹の中にあります。
立札もありませんが、「さざざれ石」に間違いありません。 -
鎌倉学園中学校・高等学校
通称「鎌学」と呼ばれています。1921(大正10)年に 臨済宗建長寺派寺院の支援を受け、旧制 「鎌倉中学校」として創立されました。校訓は「礼義廉恥」。人として身につけなければならない社会の正しい道理を知り、心清くして悪を恥じ、不正を行わないことを意味します。中高一貫教育を提供する私立男子校で、堺正章さんやサザンオールスターズの桑田佳祐さんの出身校としても有名です。 -
鎌倉学園中学校・高等学校
実は、鎌倉学園のすぐ隣が「建長寺」です。この鎌倉学園は、建長寺が宗派の師弟教育のために設立した「宗学林」という教育施設が前身です。現在も理事長をはじめ学校の理事の多くが建長寺や関係寺院の僧侶だそうです。この学校では、禅の精神の体験を目的とした建長寺での坐禅教室なども教育の一環として取り入れているそうです。
この続きは、問柳尋花 鎌倉紀行③明月院でお届けいたします。
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