2018/05/24 - 2018/05/25
5位(同エリア7313件中)
montsaintmichelさん
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- 旅行記389冊
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- 3,370,239アクセス
- フォロワー169人
混雑するアジサイの季節を外して古都 鎌倉をゆっくり周遊する計画でしたが、季節が10日程先行している関係もあり、思いがけず風物詩のアジサイも一緒に愉しむことができました。「鎌倉紀行」のプロローグには、「鶴岡八幡宮」編をお届けいたします。
鶴岡八幡宮は、日本最多の八幡信仰神社の中で宇佐八幡宮や石清水八幡宮と共に三大八幡宮のひとつに数えられ、鎌倉の中心に鎮座する相模国の一宮です。大臣山を背に建つ社殿の威風堂々とした佇まいは、まさに鎌倉の中心であることを実感させます。鎌倉幕府初代将軍 源頼朝に所縁が深く、かつては武門や勝利の守護神として崇敬を集めていました。近年では、源頼朝にあやかり、勝運や出世運にご利益のあるパワースポットとしても知られ、「ミシュラン・グリーンガイド」の1つ星観光地でもあります。
祭神には、第15代 応神天皇(=八幡大菩薩)と比売神(ひめがみ:応神天皇の妃神)、神功皇后(応神天皇の母神)の3柱を祀っています。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 新幹線 JRローカル 私鉄
-
二ノ鳥居
鶴岡八幡宮の前身となる元八幡宮は、1063年に源頼義によって建てられました。「前九年の役」が起こった際、頼義は京都 石清水八幡宮に勝利祈願をしました。そして、奥州の安部氏を平定し無事に鎌倉に戻った際、そのお礼として由比ガ浜に石清水八幡宮の分社(元八幡宮)を建てました。
その後、鎌倉幕府を開いた源頼朝により、現在の場所に神社が遷されました。これに伴い、鶴岡八幡宮は源氏の氏神として信奉されるようになり、鎌倉武士の守護神と呼ばれるようになりました。
元八幡宮を建立した源頼義の嫡男 義家は、京都 岩清水八幡宮で元服したことから八幡太郎義家と名乗り、氏神として八幡宮は源氏との結び付きが益々強まっていきました。
源頼朝は八幡宮を平安京の天皇の内裏と位置付け、幕府の儀式や行事は全てここで行いました。更に、流鏑馬や相撲も奉納し、後の戦国武将や徳川幕府からも篤い信仰を受け、現在に至っています。石橋山の合戦で九死に一生を得た頼朝が、その後の戦に勝利できたのも、八幡大菩薩の成せる業かも知れません。
鎌倉幕府滅亡後も、鶴岡八幡宮は武門の神として武家の間に浸透していました。足利氏や北条、豊臣、徳川氏からも信仰され、上杉謙信に至っては家督相続の際に鶴岡八幡宮で拝賀式を行っています。江戸時代には幕府の手厚い保護を受け、大規模な社殿などが建設されています。 -
二ノ鳥居
3基の大鳥居のルーツは、江戸幕府4代将軍 徳川家綱が1668(寛文8)に寄進した鳥居です。それ以前は木造鳥居でしたが、家綱は備前国の犬島から御影石を取り寄せて石造鳥居を建てました。明治時代には3基共に国宝に指定されましたが、関東大震災で倒壊しました。現在、二ノ鳥居と三ノ鳥居は鉄筋コンクリート造、一ノ鳥居は犬島の御影石で再建されています。
一方、先代の二ノ鳥居や三ノ鳥居の一部は、鎌倉国宝館近くにある源実朝の歌碑や鎌倉山ロータリーにある鎌倉山の石碑にリサイクルされています。
家綱が大鳥居を寄進した背景には、祖母の崇源院(お江)意向が働いたとも言われています。崇源院は、家綱の父の家光を懐妊した際、鶴岡八幡宮で安産祈願をしました。その後、無事に出産を終えた崇源院の夢に八幡神が現れ、犬島にある奇石で鶴岡八幡宮に大鳥居を建立するように告げました。そこで崇源院は、修復や再建の機会には犬島の石で造った鳥居を寄進するように家光に進言しました。崇源院の願いは、孫の代で実現されたのです。 -
二ノ鳥居
鶴岡八幡宮を2倍愉しく見る方法があります。それは、源頼朝が創建した当初は神仏双方が祀られており.「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれていたのを念頭に見ていくことです。
現在のような国家神道のみの神社となったのは、明治維新の廃仏毀釈によるものです。それまでは20以上の塔頭寺院を持ち、頼朝は仏を篤く信奉し、『吾妻鏡』には法華経や一切経などの読誦が行われたと記されています。
頼朝が造営した鶴岡八幡宮の姿は、中の島に弁財天、源平池の先に二天門、門の左手に護摩堂、奥に経蔵があり、右に大塔、鐘楼、薬師堂、境内の源平池を過ぎた辺りには、大塔(創建当時は五重塔)、上宮桜門左手には愛染堂、右手に六角堂があり、鶴岡八幡宮の背後には25坊がありました。
鶴岡八幡宮にあった仏像や経典の幾らかは現存しています。仁王像は寿福寺、源頼朝像は東京国立博物館、愛染明王像は五島美術館などです。 -
段葛(だんかずら)
若宮大路の途中にある二ノ鳥居から三ノ鳥居までの間には、車道の中央に一段高く盛り土された段葛という参道があります。「段」は盛土した壇を指し、「葛」は縁石のことですので、「段葛」は石で両脇を固めて盛り土した道を指します。
特徴は、遠近法を駆使して造営されていることです。二ノ鳥居付近では幅5m程ありますが、三ノ鳥居付近では3m程に狭くし、目の錯覚で参道を実際の距離より長く見えるようにしています。これは、神徳をより崇敬なものに感じられるようにとか、敵兵に距離感を惑わす意図があったとも伝わります。
因みに、造営当時、段葛は材木座海岸から鶴岡八幡宮まで続いていたそうです。参詣に利するというよりも、有事の際の軍用目的を重視したものだったそうです。敵が侵攻してきた場合、段葛を駆け抜けて海上に辿り着けるように造られた緊急脱出ルートになるものです。 -
ヨシザキ食堂
時刻は11時30分。まずは、腹ごしらえです。
鮨名店・地魚と鎌倉野菜の日本料理店「吉咲」が、四季折々の料理をよりカジュアルに、リーズナブルにいただける「ヨシザキ食堂」にリニューアルオープン(2015年)しています。
若宮通りから老舗カレー店「キャラウェイ」のある筋へ左折し、「キャラウェイ」の右斜め前方にあります。通りから少し奥まった所に入口があるため、見過ごしてしまうこともあります。レトロなガラス張りのドアに白文字で「ヨシザキ食堂」と書かれています。オープンと同時にほぼ満席状態でした。たまたまカウンタ席が2席空いていたので、団体さんを尻目にお先に失礼しました。 -
ヨシザキ食堂
あっと言う間に行列ができました。
この日は、修学旅行生の御用達で賑わっていました。
安くてボリュームがあるから、学生さんにはピッタリです。 -
ヨシザキ食堂
カウンター席を含めて18席のこぢんまりとした店内は、女性やお一人様でも入りやすい雰囲気です。
並んだワイングラスにイタリアンかと勘違いしそうです。これは、夜の営業グッズだそうです。 -
ヨシザキ食堂
TVドラマ『ツバキ文具店』のロケ弁の注文があったようです。 -
ヨシザキ食堂
地産地消の鎌倉素材を使ったメニューがお勧めです。観光地価格に対抗した、コストパフォーマンスに優れたランチは満足感充分です。
鎌倉名物のひとつが「しらす丼」です。「しらす丼」を提供する店は数多ありますが、ここの看板メニューが「ふわとろ卵のしらす丼」です。天かすを入れたふわふわの半熟卵の上に、鎌倉 坂の下「喜楽丸」の釜あげしらすをてんこ盛りしています。ここの大将が「喜楽丸」船長と同級生だそうで、新鮮な「湘南鎌倉」しらすが堪能できます。 -
ヨシザキ食堂
フワフワ・トロトロの卵と真っ白なしらすのコントラストが食欲をそそります。また、出汁が入った急須が添えられ、名古屋名物「ひつまぶし」のように好みのタイミングでお茶漬けにできるのもアイデアです。観光客にはもちろん、地元の方にも愛されているのが判ります。 -
ヨシザキ食堂
相方が注文したのが、「しみっタレ鶏唐定食」です。柔らかくジューシーなボリューム満点の唐揚げです。タレに漬け込んでから揚げているだけでなく、その上から惜しみなく甘辛いタレがかけられています。しかも、衣がしっかりと付いているため、タレに負けずにサクサク感をキープしています。
これに、温泉卵や冷奴、切り干し大根の漬け物、具沢山の味噌汁、ごはんがセットです。 -
若宮大路
源頼朝が正室 政子の安産を祈願して造らせた参道です。鶴岡八幡宮から由比ヶ浜までを一直線に結んだ鎌倉の目抜き通りでもあります。
鶴岡八幡宮をこの地へ遷した源頼朝は、平安京を手本に町づくりを行いました。その際に内裏と見做したのが鶴岡八幡宮であり、朱雀大路になぞらえたのが若宮大路でした。
沿道には177本の桜が植えられ、日本の桜名所100に選ばれる桜スポットです。 -
三ノ鳥居
源頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した折、三ノ鳥居付近で西行法師に出会ったと伝わります。西行は奈良東大寺の大仏殿を建て直す資金を集めるため、奥州に行く途中でした。頼朝は一目見て優れた僧に違いないと思い、家来の梶原景季にその名を尋ねさせ、西行であることを知ったようです。
頼朝も多賀城で和歌を詠んでいます。
「 陸奥の いはでしのぶは えぞしらぬ ふみつくしてよ 壺の石ぶみ 」は新古今和歌集に入撰しています。
頼朝は西行を館に連れ帰り、一日中和歌や弓馬のことについて話し合ったといいます。次の日、頼朝は出立する西行を引き止めたが、西行は丁重に断りました。そこで頼朝は、記念に銀で作った猫を贈りました。ところが西行は、門を出ると惜し気もなくそこで遊んでいた子どもに銀の猫をやってしまったといいます。 -
鶴岡八幡宮のHPにある境内案内図です。
https://www.hachimangu.or.jp/about/guidance/top.html -
太鼓橋
源平池に架けられた石造りの神橋です。将軍家が鶴岡八幡宮を参拝する際は、この橋の所で輿車の乗り降りをしたそうです。現在は石材の地肌色になっていますが、『吾妻鏡』には「赤橋」と記されており、かつては朱塗りの木橋でした。この近くに住んだ北条氏の庶流は、赤橋氏と呼ばれていたそうです。関東大震災で木橋が全壊したため、1927(昭和2)年に再建されています。
圧倒的な存在感があり、「かながわの橋100選」にも選ばれています。現在は渡ることができず、左右いずれかの橋を渡って進みます。反りがきついので、転んで怪我をした参拝者がいたのかもしれません。 -
太鼓橋
記念撮影スポットの太鼓橋ですが、『吾妻鏡』によると「和田の合戦」では血生臭い戦闘の舞台になりました。相模武士団の総帥 和田義盛側に与した土屋義清が馬を駆って赤橋前の伊豆武士団の棟梁 北条泰時の陣に攻め入ろうとした際、平家池辺りに潜んでいた敵勢から矢を射かけられて敗死しています。和田の合戦に限らず、有力御家人達を滅ぼした北条氏は役者が一枚上手でした。 -
源平池
境内には源氏池と平家池の2つの池があり、これらを合わせて源平池と呼びます。源平池が造られたのは若宮大路とほぼ同時期です。頼朝の正室 政子が平家討伐の悲願を託し、大庭景義に命じて造営したものです。左手の平家池には平家の赤旗に因み紅蓮を植え、4は「死」なりと4島を配しました。右手の源氏池には源氏の白旗に因み白蓮を植え、3は「産」なりと3島を配しました。「源氏は栄え(産)平家は滅ぶ(死)」という言霊に、政子の意思が見て取れます。しかし、平和な世となった現在は、双方の池に紅白咲き乱れるそうです。 -
旗上弁財天社
社へ渡る石橋です。 -
源氏池
蓮の葉が池面を覆っています。 -
旗上弁財天社
社殿の周囲には、白地に黒線が2本引かれた幟が風にはためいています。これは、頼朝の平家打倒の旗上げに因み、様々な願いを込めて奉納されたものです。2本の黒い線は「二つ引」という源氏一門(派流)の紋です。
弁財天は勝運アップのパワースポットであり、これから一旗揚げたい人にお勧めです。因みに、以前は「弁才天」と記され、守護神としての霊験があったそうです。 -
旗上弁財天社
源氏池に浮かぶ中島にある境内社で、祭神には宗像三女神を祀ります。ご神徳は、家内安全、商売繁盛、必勝祈願などです。
元々は、源頼朝の旗揚げ挙兵に際し、夢枕に弁財天が現れ、その後平家討伐の功績が得られたことから、その霊験に感謝して北条政子が1182年に建立した社です。社名は、1221(承久3)年の承久の乱の際、後鳥羽上皇の軍に対抗するため、北条政子が御家人をこの地に集めて旗上げ(出陣)したことが由来とされます。
しかし、往時の建物は明治時代の神仏分離令で壊され、現在の社殿は鶴岡八幡宮創建800年に当たる1980年に江戸末期文政年間の古図を基に復元されたものです。 -
旗上弁財天社 政子石
旗上弁財天社の左側裏手に安置された大きな石が2つです。源頼朝が正室 政子の安産を祈ったことからその名が付きました。「姫石」とも呼ばれます。
源頼朝と北条政子は「日本史上最高」のおしどり夫婦としても知られており、縁結びや夫婦円満、安産祈願のスポットです。
平治の乱に破れ、源氏の嫡男 頼朝は伊豆に流刑されました。その流刑先で北条政子と出会いました。頼朝から恋文を受け取った政子は、やがて心を通わすようになりました。しかし、平氏の目を畏れた政子の父 時政は、2人の関係を知りながら目代の山木兼隆に政子を嫁がせようとします。
ところが、その婚儀の前夜、政子は屋敷を抜け出し、暴風雨の中を頼朝の待つ伊豆山権現目指してひた走りに走ったのでした。やがて結ばれた頼朝と政子には、その翌年に長女 大姫が生れます。
因みに、兼隆は山木姓を名乗っていますが、桓武平氏の一流でした。伊豆守は平時兼、知行国司は平時忠、等々。まさに「平家に非ずんば人にあらず」の世界でした。父親の北条時政が娘を思った気持ちも判らないわけではありませんが、政子の一途な気持ちがそれを越えたと言うことでしょう。
こんな逸話を知ればこそ、霊験あらたかになるのでは…。 -
旗上弁財天社 政子石
感動を誘った後のつまらない余談で申し訳ないのですが、頼朝が最初に恋文をしたためた相手は時政の次女 時子でした。仲介役の安達盛長が長女 政子の方が美人だからと勝手に宛名を書き改めて手渡したとも伝わります。
盛長の「面食い」気質から歴史がつくられたとは、何とも…。 -
参道
鶴岡八幡宮は源頼朝所縁の神社です。ここで頼朝の生涯をダイジェストで紹介しておきます。
源頼朝は1147(久安3)年、義朝の3男に生まれました。母は熱田大宮司 藤原季範の娘 由良御前です。幼少期のことは不明ですが、藤原氏の血筋の由良御前の息子ということで、早い時期から「源氏の御曹司」と担がれていました。
源氏の運気が上昇し始めたのは1156年の保元の乱後です。義朝が後白河天皇方に付き勝者になると、その後に頼朝は上西門院に仕えるようになります。
頼朝の初陣は、1159年の平治の乱でした。序盤は優勢に戦うも平清盛の帰京で戦況は一転し、敗れました。頼朝は京を脱出するも美濃で捕えられ、斬首される寸前で清盛の義母 池禅尼に救われました。彼女は、先見の明を持ち、平家一門には頭の上がらない存在でした。頼朝が幸運だったのは、血筋を含め二重三重に皇室との縁があったことです。
一方、清盛も政治感覚に優れており、義母に背けば一族の結束も皇室からの信用も失墜すると考え、頼朝の処刑を伊豆への流罪に甘んじました。この時点では正しい判断でしたが、最大の失態は「伊豆を含めた東国が源氏贔屓」という点を見逃したことです。
頼朝の賢明な点は、20年間、関東でおとなしくしていたことです。その間、京では平家の専横に対する不満が募っていました。平治の乱後、清盛は、皇室に食い込み、広大な荘園を持ち、日宋貿易で莫大な富を得ていました。権力と慢心が揃うと、傲慢な人格に様変わりするものです。どこかの第2次政権もその典型ですが…。 -
参道
やがて、後白河法皇により平家打倒が模索され始めます。端緒は「鹿ケ谷の陰謀」でした。平家打倒の相談が清盛にリークされ、関係者が処分された事件です。
次は「治承三年の政変」です。後白河法皇が逆襲しました。清盛の子どもたちが若くして亡くなったことに付け込み、勝手に彼らの領地を没収しました。これが清盛の逆鱗に触れ、後白河法皇は幽閉されました。
しかし、日頃から恨みを買っていた清盛は、法皇を幽閉したことで反平家の機運を高め、法皇の皇子 以仁王が挙兵しました。皇子はすぐに敗れるも、その直前に各地の武士に「平家打倒」の密書が送られました。そしてその一通が、伊豆の頼朝に届いたのです。頼朝は、伊豆や相模の武士をまとめて挙兵します。まず、鎌倉を目指すも石橋山の戦いで平家方に敗れ、海路で安房まで逃げ延びました。
緒戦に敗れた頼朝は、再び北条時政や三浦義澄らと合流し、兵力を補充するため、桓武平氏の流れを汲む豪族に協力を求めました。更に西へ進んで武蔵周辺の武士を組み入れ、やがて鎌倉に入りました。
しかし、頼朝の動きは清盛にも筒抜けでした。諸々の理由で隠居できなかった清盛は、直ちに息子 維盛を総大将とした討伐軍を派遣します。しかし平家軍は、富士川の戦いで命からがら逃げ帰るという大失態をしでかします。頼朝はこれを機に西へ進もうとしますが、「まず関東を押さえ、背後の憂いをなくすべき」と諭され、思い直します。そして関東を掌握しました。また、侍所や問注所などの機関を作り、家中の統制も図りました。この辺が「頼朝は武士というより政治家だ」とされる理由です。 -
手水舎
しかし、一筋縄に事は進みません。墨俣川の戦いでは敗北を喫しています。そんな折、頼朝から後白河法皇に「平氏と和睦しても構いません」との書状が送られました。実は、清盛が病死していたのです。頼朝にとってこの戦いは、父の仇敵 清盛を討つのが最大の目的でした。清盛がいなければ無意味です。むしろ、朝敵にされる恐れがありました。
一方、平家から見た頼朝は、「命を助けてやったのに、この恩知らずめが」となります。清盛の後継者 宗盛が、清盛の遺言を盾に和睦を受け入れなかったのも納得できます。結果的に平家が敗北するため、安易に「平家=悪者」と思ってしまいますが、頼朝の方に非があるとされても不思議ではありません。
かくして和睦は成立せず、各地に散った木曽義仲などの源氏武士も挙兵し、京へ入ります。しかし、義仲は京に入るなり後白河法皇と対立し、源氏の立場を危うくします。そこで頼朝は、法皇に接近して東国の支配権を認めさせ、義仲の失脚を企てました。しかし、義仲は法皇を幽閉する強行策を採り、立場を悪くして頼朝の弟 範頼と義経に討たれました。
その間、平家は京から清盛の隠居所だった福原に落ち延びます。その後、範頼と義経は、一ノ谷の戦いで平家に勝利し、さらに西へと追い詰めていきます。一気呵成にと思いきや、京の治安回復と兵糧や軍船の用意などのため、次の屋島の戦いまで半年ほど間を空けます。やがて体制が整うと、頼朝は範頼を平氏追討の総大将として西へ向かわせます。
一方、義経は勝手に検非違使や左衛門尉の任官を受け、頼朝の怒りを買っていました。ただ、この時は処罰は保留され、範頼と共に屋島の戦いで勝利を収めました。そして、屋島の戦いから1ヶ月半後、壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させたのでした。 -
舞殿
舞殿は、本宮がある石段の直下にあるため、別名「下拝殿」とも呼ばれています。
現在の舞殿がある場所には、1181年に源頼朝が建てた若宮社殿の回廊がありましたが、1191(建久2)年の鎌倉大火で焼失しています。その2年後に頼朝が再建に着手し、唐破風、入母屋造の舞殿が建造されました。曲線の調和が美しく、荘厳な雰囲気が特徴です。往時は、白木造だったそうです。
鶴岡八幡宮にまつわる逸話としては、「静御前の舞」が有名です。
舞台となったのが、鶴岡八幡宮本宮へ続く石段前、現在舞殿が建っている場所です。その美しい姿は、静御前を彷彿とさせるから不思議です。
静御前は源義経の愛妾で、当代名うての白拍子でした。しかし、義経が兄 頼朝と不和になり、追討の議が決せられたことで別離を余儀なくされました。静は、機転をきかせて義経を西国へ逃れさせました。その後、雪深い吉野山で義経と行き別れた後、頼朝に捕らえられ、義経捜索のために鎌倉へ護送されました。
そんな折、頼朝の正室 政子が静御前の舞を見たがり、義経は静御前に踊るよう命じました。しかし、静御前はあろうことか頼朝と敵対していた義経を慕う歌を詠んで舞ったのです。このことに頼朝は激昂しますが、政子が「私が同じ立場でも同じ歌を詠んだでしょう」と諭しました。『吾妻鏡』は「誠に社壇壮観、梁塵もほとほと動つべし、上下皆興感を催す」とその感動ぶりを伝え、頼朝が卯の花襲の衣を褒美にそっと差出したことを記して締め括っています。
その後、身籠っていた静御前は義経の子を産みましたが、悲しいことに男児だったことから即日殺されています。悲嘆の内に都に帰ることを許された静御前ですが、その後の足取りは再び歴史の中に消え去っています。
ひたむきな愛に生きた静御前に思いを馳せながら舞殿を見つめれば、静御前が舞う姿が瞼に浮かんできます。 -
舞殿
頼朝は平家打倒を成し遂げた功績で、従二位を授かります。そして、最大の敵 平家を滅ぼした後、内部の綱紀粛正に取り組みました。まず標的にしたのが義経です。義経の行動には問題が多く、看過すれば東国武士が分裂すると危惧しました。やがて勃発したのが河内源氏お決まりの内輪揉めです。頼朝が義経に刺客を送ると、義経は行家と組んで後白河法皇から「頼朝追討の院宣」をもぎとります。しかし、義経には兵が集まらず、京を出ていかざるを得なくなります。頼朝は法皇も容赦しませんでした。「兄弟を反目させて独裁を企んでいる」と舅の北条時政に大軍を率いて京へ向かうよう命じました。すると、武士の恐ろしさを身に染みて知っていた法皇は、「頼朝追討の院宣」を撤回し、逆に「義経追討の院宣」を出したのです。 -
舞殿
この間、義経は古巣の奥州藤原氏の元に逃げ延びていました。やがて奥州藤原氏の内部でも意見が割れ、最終的に藤原泰衡は義経を切り捨てます。泰衡が保身のためにしたことでしたが、頼朝は最初から奥州藤原氏を残す考えなどありませんでした。京や西国に比べ、奥州は鎌倉に近い所です。新政権の近所に大勢力があるのは目障りです。そこで頼朝は「義経を殺せとは言ってない」と難癖を付けて奥州藤原氏を滅ぼします。
奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、後白河法皇の求めに応じて上洛し、権大納言・右近衛大将の官職を得ました。やがて法皇が薨去すると、後鳥羽天皇によって頼朝に征夷大将軍の官職が与えられました。 -
舞殿
その後、御家人らの反抗はなく安泰でしたが、1193年に予期せぬ事件が起こります。御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちにより殺され、これが「頼朝が討たれた」との誤報となり、鎌倉に伝わったのです。正室 政子は動揺しますが、留守を預かっていた源範頼が「私がおりますので、源氏は安泰です」と慰めます。しかし、この表現が「自分が征夷大将軍になろうとしている」と悪意に解釈され、頼朝に忠実だった範頼に謀反の疑いがかけられ、伊豆へ流刑後、不審死を遂げます。
この件を端緒に、晩年の頼朝には疑問な行動が目立つようになります。例えば、娘 大姫が木曾義高を慕い続け、以前から結婚は考えていないと言い続けているのに入内工作を進め、それが成功する前に大姫を亡くしています。また、次女 三万の入内も計画し、女御宣下までは成功したものの、実現する前に頼朝自身が亡くなっています。
享年53歳。その死因は、ありえない話ですが「落馬」とされますが、諸説入り乱れて不明のままです。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』ですら、頼朝の死どころか葬儀すら記していません。記せない何かが働いたとしか思えません。 -
若宮(重文)
改修の真っ只中のようです。
大石段の右脇に佇むのが若宮です。本宮に祀られた応神天皇の子 仁徳天皇の他3柱が祀られています。
1180年、鎌倉入りした源頼朝が頼義が創建した由比若宮を小林郷北山に遷し、鶴岡八幡宮新宮若宮としたのが始まりです。しかし、若宮は茅葺屋根と黒木の柱で造られた簡素な建物であったため、翌年に武蔵国浅草から大工を呼び、権現造の社殿を建立しました。この若宮は鎌倉大火によって焼失しますが、頼朝はすぐに再建し、その際、若宮の再建と共に山を削った土地に本宮(上宮)を造営し、現在のような上下両宮の姿としました。
現在の建物は1624(寛永元)年に建てられた、権現造、銅板葺、本殿5間流造です。朱塗りに極彩色の装飾が借景の緑に映えると言われています。結婚式の会場としても利用されているそうです。 -
祈祷受付
若宮の左脇には祈祷受付があり、御朱印はこちらで授与されます。
ここでは、御朱印と鳩みくじを授与していただきました。
1918(大正7)年に刊行された田山花袋著『一日の行楽』という旅行本に鶴岡八幡宮が登場します。
「八幡の楼門の前から、遥かに由比ヶ浜の波の音を聞いた感じはわるくない。それに鎌倉の四面を囲んだ丘陵の上に、松が並んで生えているさまも、人の絵のやうな感じを與えた」という文節だけで、往時の静けさや空気までもが伝わってきます。 -
祈祷受付
こちらが「鳩みくじ」です。
こんなに可愛いい「白鳩」ストラップ付です。 -
ビャクシン
若宮の右脇にはビャクシンの大木があり、市の天然記念物に指定されています。
鎌倉幕府3代将軍 源実朝が宋から苗を取り寄せて植えたとされます。 -
鶴亀石
立札がなければ見過ごしてしまう程、何の変哲もない石です。
『新編相模国風土記稿』にも記され、水で洗えば鶴亀のような輝きを出すと伝えられる珍しい石なのですが…。表面が風化してしまったのか、表面がツルツルで模様が浮かぶようには到底思えません。
右隣にあるのは、鶴岡八幡宮の元宮である由比若宮の遥拝所です。
由比若宮は、元八幡宮とも言い、鶴岡八幡宮の起源にもなった重要な史跡です。1063年、源頼義が前九年の役の勝利に感謝するために創建しました。頼義の子 義家も、社殿を修復するなどして源氏と鎌倉の結び付を強めていきました。その後、鎌倉に入った源頼朝が、由比若宮を小林郷北山(現在地)に移し、その跡地に現在の鶴岡八幡宮が造営されました。 -
白旗神社の手水舎
白旗神社の社殿に対峙するように建っています。
その先には、白旗神社の鳥居が建っています。
本来の参道は、鳥居からのようです。 -
白旗神社の手水鉢
手水鉢の台座には蓮華の花が彫られています。蓮華と言えば、仏教です。神を祀る神社に、何故蓮華があるのでしょうか?
それは、鶴岡八幡宮がかつて神と仏の両方を祀った神宮寺だったことの証左です。境内には、現在残っている社殿の他、仁王門や護摩堂、塔、六角堂、鐘楼など、仏教寺院の伽藍もありました。しかし明治時代の神仏分離令後、これらの建物や仏像、仏具などは失われています。
かつては、石段を登りきると遠くには由比ヶ浜が望め、眼下には仁王門をはじめ、経蔵や鐘楼などが建ち並ぶ壮大な伽藍を有する境内が広がっていたそうです。
仁王門に祀られていた仁王尊像は、現在は寿福寺の本堂内に祀られています。 -
白旗神社
境内の東側にあり、黒漆塗りの社殿が異彩を放っています。源頼朝を祭神とする全国に70社程ある白幡神社の大本山とも称される社です。
1200年、朝廷から「白旗大明神」の神号を賜った北条政子と2代将軍 源頼家が頼朝の菩提を弔うために創建した社です。元々は上宮の西側にありましたが、3代将軍 実朝を祀る柳営社と合祀して現在地に遷されました。そのため、現在の祭神は源頼朝と源実朝となっており、源氏の家紋である笹竜胆(リンドウの花と葉)が配されています。
黒漆塗りの唐破風社殿が重厚な佇まいを魅せ、背後から迫る木立に覆われて霊廟に相応しい面持ちです。ご利益は、必勝や学業成就などのです。因みに、現在の黒漆塗りになったのは、明治20年の改修によるそうです。 -
白旗神社
源氏の笹竜胆の家紋が躍っています。しかしこの家紋は、鎌倉時代初期に中央上級貴族として栄えた村上源氏が使い始め、次いで宇多源氏、やがて清和源氏へ浸透していったとされます。つまり、頼朝が旗揚げをした時、清和源氏の頼朝が笹竜胆を旗印とするのはあり得ない話です。『源平盛衰記』にも、源氏は白旗、平氏は赤旗を使っていたと記されています。
江戸時代に書かれた絵画や歌舞伎で頼朝や義経を演じる際、「武士の服に家紋がないのはおかしい」となり、時代考証を怠って笹竜胆紋を付けてしまい、そのイメージが定着したとの説があります。笹竜胆紋は貴族的な華やかさがあり、美しいデザインですから、頼朝や義経にはそれがよく似合います。とはいえ、歴史的には正しくないようです。 -
白旗神社
余談ですが、ジャーナリスト 櫻井よし子さんのオフィシャルサイトのコラムには、評論家・大学教授 松本健一氏の談話と断った上で「源氏の旗印」について触れています。
「源氏が平氏に対して掲げた旗は白地に赤の現在の日の丸だった。一方の平家が掲げていたのは、赤字に白の日の丸だった。源平合戦で平家が勝っていれば、日本の旗は赤字に白の日の丸になっていたかもしれない」と根拠のないことを書かれています。これは、『日の丸が国旗であることの背景説明を政治家は尽くせ』というタイトルの一節です。文脈は「源氏の後に出てきた武将たちは、源氏の流れを汲んでいるという意識を持った」と続きます。
これは諸説ある日の丸のルーツのひとつに過ぎません。恐らく、「源義朝の扇が日の丸の起源であり、丸は薄紅色から赤色に進化した。地の色は白だ」という、当方が中学生の時に教わったストーリーの焼き直しと思います。枝葉末節を言えば、平氏は「白丸」ではなく「金丸」なのですが…。
しかし、『源平盛衰記』にもあるように、源平合戦では源氏は「無地無紋白旗」でした。また、畠山氏の家紋「小紋村濃」の由来も記されており、無地の白旗を掲げて参集した武士を源頼朝が咎め、白旗に何か印を足すよう命じています。無地無紋の白旗を掲げる権利は、源氏嫡流だけと豪語したのです。そこから、清和源氏の新田氏の「大中黒一つ引き」や足利氏の「二つ引き両」が派生しています。
ジャーナリストとして論じるのであれば、ストーリとして都合の良い松本氏の話を鵜呑みにするのではなく、時代考証すべきでした。結果として「日の丸のルーツ」のストーリーを美化する強引な論法に見受けられます。これは日の丸の歴史を歪めたものであり、誠実ではありません。櫻井さんらしくありませんね! -
白旗神社
向拝の奥には、扁額「武衛殿」が掲げられています。
幕末の島津藩の大名 島津久光の筆と伝えられています。久光は薩摩藩主忠義の実父であり、後見人として幕政の実権を握った実力者でした。
また、豊臣秀吉が小田原征伐の後に参拝した際、往時祀られていた源頼朝坐像を撫でながら、「共に天下を治めた者同志じゃが、そちと儂が違うのは、そちは貴種じゃが儂は賤しい身じゃ」と話しかけたとの逸話があります。
この逸話に登場する頼朝像は、東京国立博物館所蔵「木造伝源頼朝坐像」とも言われています。 -
大イチョウ(ご神木)
大石段の上り口左手には、ご神木として鶴岡八幡宮の歴史を見てきた大銀杏の切り株があります。推定樹齢1000年の大樹でしたが、2010年に強風のため倒伏しました。根元から4mの所で幹を切って隣に移植したところ、その年の4月には元々の根から蘖(ひこばえ=若芽)が芽吹いたそうです。また、移植した幹の根元からも蘖が芽吹き、現在は親木と共に「親子銀杏」のご神木として祀られています。
回復不可能とされながらも移植1年後に幹から蘖が芽吹いた霊木であり、生命力や再生力のパワースポットとされています。
歴史的には、1219年、右大臣昇進の儀式を終えた3代将軍 源実朝が、この木に身を潜めていた公暁(2代将軍 頼家の子)に暗殺されたという伝説から「隠れ銀杏」とも呼ばれました。
往時は積雪二尺(約60cm)を越える大雪が降っており、女形に身を替えた公暁が伯父の実朝に斬りかかりました。一刀両断、切り落とされた実朝の首は石段を転げ落ちたそうです。その公暁も同日、幕府の刺客によって討ち取られました。一夜にして源氏直系は断絶されました。頼朝が造り上げた鎌倉幕府の中心の鶴岡八幡宮で血塗られた悲劇が展開されるとは、皮肉なことです。 -
大石段
拝殿には舞殿を背にして御覧のような61段ある石段を登ります。
源頼家の遺児 公暁の実朝暗殺事件は、謎だらけです。一般的なのが、下から13段目の石段で殺されたと言う説です。これは、中学校の時の修学旅行のバスガイドさんから聞いた話です。しかし、大イチョウのある石段で殺されたという記述はありません。『吾妻鏡』は「石階の際」と記しているだけです。また、13段目と言うのは、「13日の金曜日」というキリスト教絡みの後世の演出の匂いがします。修学旅行では、13段目に並んで記念写真を撮った覚えがあります。
怪しいと言えば、頼朝の死因が「落馬」というのが最大の謎です。2代将軍 頼家も入浴中に北条氏の手によって暗殺されていますから…。 -
大イチョウ
実朝の首を討ち取った公暁のその後の行動も不可解です。御家人 三浦義村に使いを走らせ、「我こそは東関の長、将軍職に据えろ」と迫りました。義村は直ぐさま北条義時に事の次第を知らせ、即刻、公暁追討を決議しました。一方、公暁は、義村からの連絡に痺れを切らし、八幡宮の裏山から義村邸へ逃げ込もうとしました。屋敷の塀を登ったところで追手に襲われ、その首は義村を経て義時に差し出されました。
不可解なのは、公暁が義村に使いを出したり、邸宅に向かうなど、義村を頼ろうとしていたことです。こうしたことから、黒幕は三浦義村とする説もあります。公暁に実朝と併せて義時を殺させ、北条氏に代わって執権の座に就こうとしたとの仮説です。公暁追討を命じたのも、口封じと考えると腑に落ちます。 -
楼門
北条義時も怪しいです。『吾妻鏡』によると、義時は奉剣の役を気分が悪くなったとの理由で源仲章に代わって貰い、自宅に戻りました。それは、事件の前年、義時の夢枕に12神将の戌神(招杜羅大将)が現れ、「今年は大丈夫だが来年は出席するな」と告げたからです。また、気分が悪くなったのも白犬が現れたためとしています。 その白犬こそ招杜羅大将の化身とされ、その頃、義時が造営した大倉薬師堂に祀られていた招杜羅大将の姿が消えていたと伝えます。夢枕に現れたのが戌神、驚いて目覚めたのも戌の刻、気分が悪くなったのも戌の刻、その原因が白犬…。この記述は「義時コード」としか思えません。それ故、義時も黒幕のひとりに加えられています。 -
楼門
楼門で注目するポイントは、扁額に書かれた八幡宮の「八」の文字が鳩が向き合う形になっていることです。八幡宮では、鳩を八幡大菩薩の神聖な使いと見做しており、鳩を象った意匠が随所に配されています。
また、屋根や軒には、水を表す火除けの巴紋が配されています。 -
楼門
朱塗りの鮮やかな楼門は、左右を阿吽の随身像が守護しています。
楼門の先にある本宮は、写真撮影が禁じられています。 -
回廊
楼門の左右に続く回廊に囲まれて建てられているのが本殿です。神輿が7基安置され、宝物殿としても使用されています。本宮の神輿が3基、若宮の神輿が4基だそうです。神幸祭で渡御する神輿は本宮の3基だそうです。
これらは桃山期から江戸初期のものと考えられ、若宮の神輿は本宮の神輿よりやや小柄で簡略化されているそうです。7基共に神奈川県の有形民俗文化財に指定されています。
1821(文政4)年の火事で諸堂は焼失してしまいますが、神輿は英勝寺に移されていて無事だったと伝えられます。 -
絵馬奉納所
絵馬は「イチョウの葉」の形をしています。
若木のイチョウの生命力にあやかろうということらしく、多くの人が願いを捧げています。 -
回廊
12世紀末に源頼朝によって開かれた鎌倉幕府なる武家政権によって新たな時代が始まったものの、それは血で血を洗う権力闘争時代の始まりでもあり、この鎌倉の地はその後の幾多の悲劇の舞台にもなりました。
様々な歴史を刻んできた古都 鎌倉…。
その歴史の一部始終を寡黙に見守ってきた鶴岡八幡宮…。
ここに立つと様々な想いが込み上げてくるのは、歴史のなせる業です。 -
本宮(重文)
本宮の左側面です。
大臣山の中腹にある本宮(上宮)と61段ある大石段の下に位置する若宮(下宮)があり、上下両宮の形態をとります。共に本殿、幣殿、拝殿が縦に並んだ形式です。
1191年の鎌倉大火で焼失した若宮を再建する際、本宮も造営されました。大火の教訓を生かし、街で火災が起きても影響を受けないように大臣山の中腹を削って造営されています。皮肉なことに、その本宮も八幡宮の戦いで戦火に遭い焼失しています。
現在の本宮は1828に11代将軍 徳川家斉が再建したものです。漆の朱に極彩色の彫刻が華麗であり、権現造、銅瓦、本殿9間流造です。楼門は、2003年に修復が終わり、朱が目に鮮やかです。 -
武内社(重文)
祭神は武内宿禰命(たけのうちのすくね)。神功皇后の功臣、長命な神様として知られています。
創建は不詳ですが、1226(嘉禄2)年に遷宮した記録が残されています。現在の社殿は、1821(文政4)年の火災で焼失した後、1828(文政11)年に江戸幕府11代将軍 徳川家斉によって再建されたものです。
一間社流造、銅瓦葺で正面に幣軸構付板扉を構え、正側面に跳高欄付の切目縁を廻し、正面に登り擬宝珠高欄付木階を設けています。
武内宿禰は『記紀』に登場する人物です。『古事記』によると、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5天皇に224年間に亘って仕えた忠臣とされ、武運や長寿の神として信仰されています。天皇の補佐役の宰相を長く勤め、360歳まで生きたという伝説もあります。政治的な能力が高く、鎌倉幕府2代執権 北条義時を武内宿禰の生まれ変わりとする説話も残されているほどです。
武内宿禰は仲哀天皇の皇后 神功皇后とも繋がりが深く、鶴岡八幡宮の本宮では神功皇后とその皇子の応神天皇を祀っています。また、京都 石清水八幡宮においては本殿の西側に摂社を構えて武内宿禰を祀っていることから、鶴岡八幡宮の武内社も本宮の西隣に配置されています。 -
回廊
この建屋の内側に神輿7基(本宮3基・若宮4基)が安置されています。 -
丸山稲荷社(重文)
本宮の左側の小高い丘の上にある神社です。鶴岡八幡宮の創建以前からあったとされる古い稲荷社で、「地主神社」とも呼ばれています。
創建は室町時代の1398(応永5)年とされ、元々は現在の本宮のある地に祀られていましたが、本宮造営の際に現在地へ移されました。社名は、現在の稲荷社が建つ丘陵を「丸山」と呼んでいたことに因みます。 -
丸山稲荷社
手前から二番目・三番目の鳥居は、蛭子能収・悠加夫妻が2016年に奉納されたもののようです。また、「段葛」にある燈籠石一基にも夫妻の名前を見たような…。
因みに、蛭子能収さんは長崎県の出身で関東には縁がないはずです。調べてみると、奥さまが寺社仏閣巡りをするのが趣味だそうです。
能収さんはTV『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』や主演映画『任侠野郎』などで活躍されているようですので、ご利益があったようですね!能収さんはイワシの頭ほどの信心もないそうですが、全ては奥さまのおかげということなのでしょう。 -
丸山稲荷社
重文指定でもあり、疎らですが参拝者も居られます。 -
丸山稲荷社
祭神には倉稲魂神(うかのみたまのかみ=お稲荷さん)を祀り、建物の様式は1間流造、銅板葺、舟肘木、小組格天井です。現在では産業全般の神で、「商売繁盛」のご利益があります。 -
丸山稲荷社
鶴岡八幡宮境内にある最古の建造物として重文に指定されています。しかし実際のところは、1500(明応9)年に建立された源実朝を祀る夷社(柳営社)の社殿を移設したものです。建物の一部にはそれよりも古い年代の部材が使用されていることから、貴重なものとされています。円覚寺の舎利殿と並び、鎌倉では古い建築物となっています。 -
丸山稲荷社
珍しい赤い鳥居形の絵馬です。
鳥居形の絵馬は、京都 伏見稲荷の境内にもあったように思います。 -
今宮への参道
今宮へのルートは、アプローチが判り難いかもしれません。
境内マップには場所が示されているのですが、道標のようなものは一切ありません。まるで、参拝を拒んでいるかのようにも思えます。
丸山稲荷社を北西に降りて一度境内から出ます。その直ぐ先に、右手にバス駐車場と鶴岡文庫があり、その間を舗装道路が通っているので、そこを進み、突き当りを左折します。
暫く進むと、こうした笹竹の生垣が現れます。後は、ひたすら真っ直ぐに進むだけです。
駐車場から5分程の距離です。 -
今宮への参道
鎌倉は自然が豊かなのか、野生のリスにも遭遇します。 -
今宮
鶴岡八幡宮の北の谷戸奥に位置する摂末社で、新宮と書かれることもあります。
1221年に起きた「承久の乱」で隠岐に流された後鳥羽上皇の死後、鎌倉幕府の重鎮が次々に急死するなど怪奇事件が多発し、後鳥羽上皇の怨霊を鎮めるために1247年に創建されました。
祭神は後鳥羽、土御門、順徳天皇の3柱です。首謀者の後鳥羽上皇は流刑地の隠岐で亡くなり、順徳上皇は流された佐渡で断食をし、頭に焼石を載せて亡くなったと伝わります。土御門上皇は、倒幕に消極的だったことから処罰は免れましたが、自ら願って土佐に流され、後に阿波に流され亡くなりました。 -
今宮
承久の乱は、3代将軍 源実朝が暗殺された事件を機に京方が倒幕の兵を挙げた戦です。しかし、京方は脆くも敗れ、名実共に京と鎌倉の立場が逆転した戦いです。それ故、天皇の恨みは尽きず、特に倒幕の中心人物だった後鳥羽上皇は、死後、怨霊と化したと伝わります。
『吾妻鏡』には、「後鳥羽天皇が崩御された翌月、鎌倉の空に長さ3mの光の帯が飛び、京都討伐の大将だった北条泰時が病に倒れた」とあります。また、「今宮が創建される直前には、羽蟻が乱舞し、黄蝶が群れ飛び、由比ヶ浜の水が血のごとく染まり、鎌倉中が大騒ぎした」と記されています。
実際に、1239(延応元)年、上皇が失意のうちに崩御すると、同年に有力御家人 三浦義村が、翌年には「承久の乱」の大将 北条時房が相次いで急死しています。また、1242(仁治3)年には3代執権 北条泰時が赤痢を罹って高熱により狂い死にしています。公家の日記『経光卿記抄』は、何の因果か「さながら平清盛の最期のようだった」と伝えます。 -
今宮
境内からさほど離れてはいないのですが、ただならぬ胡乱な空気を感じるのは予備知識のせいだけでしょうか?
仄暗い社の境内は、ここだけひんやりとした空気が流れているように思えてなりません。ほてった体には案外心地よいのですが…。 -
今宮
静寂に包まれた社殿の背後には六本杉と呼ばれる大木があり、そこには天狗が住んでいたとの言い伝えがあるそうです。
さすがにここまで参拝される方は、希少なようです。
長居は無用!退散します。 -
巨福呂坂(こぶくろざか)洞門(扇が谷トンネル)
県道21号線鎌倉街道を北鎌倉方面へ北上します。建長寺までの道程は、このトンネルまでは緩い上り坂です。
巨福呂坂洞門は、1993年に竣工した落石防護施設です。防護シェルターは、切通の雰囲気を崩さない様に吹き抜けアーチにしてあるそうです。鎌倉七切通しのひとつである国指定史跡「巨福呂坂」の近くにあることに因み、「巨福呂坂洞門」と名付けられています。
この続きは、問柳尋花 鎌倉紀行②建長寺でお届けいたします。
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