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11月1日から4日にかけて、<br />長崎五島福江島・<br />長崎市内西坂近辺・<br />並びに大村市の<br />キリスト教関連施設を訪問した。<br /><br />福江島その①堂崎天主堂・福江市内、<br />ルイス・デ・アルメイダのことなどは、<br />以下の通りです。<br />https://4travel.jp/travelogue/11300125<br /><br />また<br />福江島その②半泊教会・楠原教会・三井楽教会・<br />井持浦教会・高浜ビーチ・辞本涯・大瀬崎灯台なども、<br />以下の通りです。<br />https://4travel.jp/travelogue/11300893<br /><br />福江島その③五島氏庭園心字ガ池を見る<br />も以下の通りです。<br />https://4travel.jp/travelogue/11305100<br /><br />本日は、長崎市内長崎駅前から<br />ほんの徒歩5分のところにある<br />西坂からの街歩きである。<br /><br />写真は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)<br />に磔にされた26名の<br />キリシタン殉教者の記念碑である。<br /><br /><br />26名の名は以下の通り。写真の右から左へ順に<br />1フランシスコ 大工 伊勢生まれ 年齢不詳<br />2コスメ竹屋 元刀とぎ師 尾張生まれ 年齢不詳<br />3ペトロ助四郎 京都生まれ 年齢不詳<br />4ミカエル小崎 弓矢師 京都生まれ 46歳<br />5ディエゴ喜斎 イエズス会修道士 備前生まれ64歳<br />6パウロ三木 イエズス会修道士 摂津生まれ33歳<br />7パウロ茨木 説経師 尾張生まれ 年齢不詳<br />8ジョアン草庵 イエズス会修道士 五島生まれ19歳(後のヨハネ五島)<br />9ルドビコ茨木 尾張生まれ12歳<br />10アントニオ 長崎生まれ13歳<br />11ペトロ・バプチスタ フランシスコ会司祭 イスパニア人 48歳<br />12マルチノ・デ・ラ・アセンシオン<br /> フランシスコ会司祭 イスパニア人 30歳<br />13フィリッポ・デ・イエスス イスパニア人24歳。<br />  フランシスコ会修道士。<br />14ゴンザロ・ガルシア ポルトガル人、24歳 フランシスコ会修道士。<br />15フランシスコ・ブランコ フランシスコ会修道士 イスパニア人30歳<br />16フランシスコ・デ・サン・ミゲル  フランシスコ会修道士<br /> イスパニア人 30歳<br />17マチアス 日本人 生地 年齢不詳<br />18レオ烏丸 武士 尾張生まれ 50歳<br />19ボナベントゥラ 僧侶出身 京都生まれ 年齢不詳<br />20トマス小崎 ミカエル小崎の子 14歳<br />21ヨアキム榊原 武士の出 大阪生まれ 40歳<br />22ヨハネ五島 医師 京都生まれ46歳<br />23トマス談義者 説経師 伊勢生まれ 23歳<br />24ヨハネ絹屋 絹職人 京都生まれ28歳<br />25ガブリエル 伊勢生まれ19歳<br />26パウロ鈴木 尾張生まれ49歳<br /><br />なにゆえ、このようなキリシタン殉教が起きたのだろうか。<br />少しばかり長くなるが、詳述してみたい。<br />直接的な事件は、1596年のイスパニア船サンフェリペ号の<br />土佐浦戸への漂着事件である。<br /><br />16世紀に入ってからの太平洋は、<br />イスパニア(スペイン)だけしか通れない海洋だった。<br />↓の当方の記載旅行記の年表で明らかなように、<br />ポルトガル・スペイン(イスパニア)間の海洋分割に関する1494年<br />トリデリーシャス条約で、太平洋はイスパニア(スペイン)の領海だった。<br />https://4travel.jp/travelogue/11295161<br /><br />つまり、当時のスペインは、フィリピンマニラを起点に、<br />黒潮に乗って船を操るしかないのである。<br />西回りは出来ず、東航路で太平洋をわたり、本国へいく航路である。<br />難破漂着も、全部スペイン船である。<br /><br />周知のように、1596年のイスパニア船サンフェリペ号の<br />土佐浦戸への漂着事件で、増田長盛にオランデイアという<br />水先案内人が、イスパニアの植民地の広大さを誇り、<br />「イスパニアはまず宣教師を送りこんで、布教し、民衆を充分に<br />掌握してから後、兵隊を送りこんで領土を手に入れる」と語ったことが<br />秀吉の切支丹弾圧の端緒となった。<br /><br />そこで、秀吉は切支丹勢力を抑圧する政策を検討し、<br />特殊な弾圧政策をとることを決意する。<br />まず、日本の京都・大阪で宣教師・信者を逮捕し<br />引き回しの上陸路九州へ引き立てて行く<br />切支丹信者と一般人へのみせしめになると考えたのである。<br /><br />更にその効果を一番高めるためには、<br />囚人たちを切支丹勢力の一番強い<br />長崎へ送りつけ町中で磔刑にすること<br />こそ最も効果が上がると考えた。<br /><br />1596年慶長元年10月20日<br />秀吉の命を受けた石田冶部少輔三成<br />によって、京都大阪に住む宣教師信者の捕縛がはじまる。<br />かなりの数だったが、みせしめの意味から<br />フランシスコ会司祭<br />ペドロ・バプチスタ、<br />マルチノ・アセンシオン、 <br />フランシスコ・ブランコ、<br />フランシスコ・デ・サン・ミゲル、<br />フィリッポ・デ・イエスス<br />のイスパニア人5名と、<br />ポルトガル人ゴンザロ・ガルシアの6名の異国人<br /><br />それに、<br />パウロ三木、ジョアン草庵(後のヨハネ五島)、ディエゴ喜斎の<br />3修道者 <br />そのたパウロ鈴木、コスメ竹屋、トマス談義者、ミカエル小崎、<br />トマス小崎、パウロ茨木、ルトビコ茨木、アントニオ、マチアス、<br />レオ烏丸、ボナベンツラ、ヨアキム榊原、ガブリエル、ヨハネ絹屋、<br />ヨハネ五島の18名の日本人を捕えた。<br /><br />この逮捕中、異国人がイスパニア(スペイン)人で殆どであったのは、<br />イスパニア船サン・フェリペ号の難破事件が直接の動機だったからだが、<br />日本人選択にも秀吉の作為が見えて取れた。<br /><br />秀吉が仮に徹底的な弾圧をおこなう用意があったならば、<br />当然その矛先は高山右近 有馬晴信、黒田官兵衛や小西行長等<br />切支丹大名や有力な信徒にも<br />向けられたはずである。<br />しかし、そうはならなかった。<br />あくまでも、単にみせしめであり、多くの信者たちの中から<br />パウロ三木ら16名を選択したのである。<br /><br />逮捕された日本人切支丹信者は、<br />パウロ三木が真の士分である以外、<br />殆ど名も定かでない者が多かった。<br />職業は、料理人・弓職人・絹職人・桶屋・刀職人など<br />貧しい者たちばかりで、無名であるがゆえに<br />犠牲になったのではなかったか。<br />64歳のディエゴ喜斎を筆頭に、14歳トマス小崎<br />13歳アントニオ、12歳ルトビコ茨木、の子どもまで<br />入っていた。<br />捕われた24名は、京都に集められて、<br />慶長元年11月15日<br />耳をそがれるという刑罰を最初に受けた。<br />即ち、京都一条辻で、例外なく一人づつ耳を切り落とされた。<br />おぞましいことである。<br /><br />翌朝、24名の囚人?たちは、京都から大阪まで、<br />行き、大阪では民衆の投石と罵声を浴びせられ、<br />堺へ到着。<br />11月21日から、縄を打たれて、長崎までの長い旅が始まった。。<br /><br />最初は、26名ではなく、24名だった。<br />尼崎で、ペトロ・バプチスタのところへ跪いた男がいた。<br />大工のフランシスコだった。<br />警護の者はこの男を追い払おうとしたが<br />聞き入れない。しょうがないので、縄を打った。<br />これで、25名となった。<br />翌日、兵庫で、囚人に食べ物を与えようとした男がいた。<br />警護の者は、追い払おうとしたが無駄だった。<br />ペトロ・助四郎と名乗り、これも列に加えた。<br />これで、26名となったのである。<br /><br />26名は、明石・姫路・赤穂と街道を行き、日が落ちると<br />竹矢来の家に宿泊、赤穂から片山までは山道、そして岡山を経て<br />11月28日川辺川に着いた。<br />彼らはそれから、尾道・三原・西条・広島・岩国・徳山・山口・<br />吉田と一日平均8里もの道を歩き、12月9日に下関に辿りついた。<br />堺から19日目だった。<br /><br />12月10日には、海峡をわたって小倉へ到着、<br />14日には博多に到着、<br />12月16日には唐津から名護屋、更に伊万里を経て大村藩に<br />入った。<br /><br />磔執行者の指揮者は、唐津城主寺沢広高の弟寺沢八三郎だった。<br />けだし寺沢広高は、秘かなるキリシタン大名であり、故意に唐津から<br />逃れていた経緯があったからである。<br />弟八三郎は、長崎代官村山東安に命じて<br />磔柱50本を用意させた。<br />長崎代官村山は、熱心な切支丹帰依者で、たちまち、<br />この情報は、他の多くの信者たちに伝播していった。<br /><br />囚人たちは、東彼杵の船着き場から、船に乗り、<br />時津まで渡った。<br />所謂「時津街道ここにはじまる」の<br />後年有名になる最後の船旅だった。<br /><br />では、なぜ西坂が執行刑場に選ばれたのだろうか?<br />実は、最初は処刑場所は、浦上のはずれにある<br />一般の罪人達の「一般刑場」があてられる予定だった。<br /><br />しかし、切支丹信者たちは、別に罪を犯したわけでもなんでもない、<br />ただ単にキリスト教徒というだけの話で、一般の重罪人と<br />同じ刑場で処刑されるのは、不当ではないかと、ポルトガル人数名が<br />八三郎に陳情して掛け合ったのがきっかけだった。<br />こうして、処刑場所は、<br />一般刑場から遠くないなだらかな丘に<br />決定された。そこが西坂だった。<br /><br />26名の囚人が時津から山道を通り、浦上の外れまで来ると、<br />おびただしい群衆切支丹信者が行列にそって歩いて行く。<br />そのうち、長崎からも切支丹信者があふれだして、4000人もの<br />数となって膨れ上がった。<br /><br />26名の囚人が西坂へ到着した。<br />八三郎は、西坂に26個の穴を掘らせ、<br />26本の磔柱を用意した。<br />磔柱の寸法は、一つ一つが違っていた。<br />大きなものは、宣教師たちのもので、<br />小さなものは、日本人3人の少年用だった。<br />いずれも、木肌にはかんなをかけ、柱の上部には<br />両腕をくくる材が十字の形にとりつけられ、<br />柱下部には、両足を乗せる横木があった。<br />26名は、寝たまま磔柱へ括りつけられた。<br />そして、磔柱が持ち上げられて、穴へどすんと<br />直立した。<br />25名は、祈りの言葉を唱えていたが、<br />一人だけ、祈りの言葉も歌も歌わぬものがいた。<br />磔柱の寸法が合わずに、窒息寸前のイスパニア修道士<br />フィリッポ・デ・イエススだった。<br />激しい苦悶の姿であったので、最初に<br />槍で突き処刑された。<br /><br />ここから次々に処刑がはじまった。<br />そして終わった。<br /><br />そのとき、群衆が押し寄せて人々は<br />死体の衣服などを引きちぎり、したたる血染めの衣服を<br />自分の服に染み込ませたりした。<br />それは、処刑された遺物を自分の所有にしたいと願う行為だった。<br />所謂「聖遺物」を我先にと多くの信者たちは望んだのだ。<br />翌朝には、死体は裸体同然となり柱も刀傷で削り取られていった。<br /><br />死体の身体を覆っていたものはすべてひきむしられて、<br />骨までが多くの信者たちの手によって持ち去られた。<br />それらの遺骨は、かなりの額で売買の対象になり、<br />そのうちの一部イエズス会の3名の骨はマカオに送られて<br />聖パウロ天主堂に安置された。<br /><br />その後、26名の切支丹殉教の事件は、<br />海外のカトリック信者たちに大きな反響をもたらし、<br />以下のとおり、<br />1597年2月5日殉教<br />1627年教皇ウルバノ8世により23名列福<br />1629年イエズス会の3名が列福<br />1862年教皇レオ9世により全員26名列聖された。<br /><br />長崎では、その処刑地が<br />切支丹信者の聖地とされて崇拝されていたが、<br />その後江戸幕府家康・秀忠により、<br />弾圧は過酷さを増し、元和元年<br />長崎奉行によって磔柱も穴もすべて破壊されて<br />痕跡も消滅した。<br /><br />余談めくが、<br />殉教・聖人・福者について、記載したい。<br /><br />殉教は、元はギリシャ語が語源のポルトガル語で、<br />「マルチリヨ(証をたてる)」といい、<br />命をかけて<br />信仰を貫くことを指している。<br />殉教者は、マルチルする人で、<br />命をかけて信仰を証明したのである。<br />日本では、マルチルを、「丸血留」と書いた。<br /><br />聖人とは、生涯をかけてキリストの証となり、<br />キリストにならって<br />生きた人を意味する。<br />キリストの下の階にいて、<br />世界中の教会で崇拝の対象となる。<br />福者は、聖人の前段階である人を指している。<br />すべてその承認を<br />ローマ教皇がおこなうこととなっている。<br /><br />そこで、重要な役割を果たすのは、生きて残った者たちである。<br />この人たちが、記録に残すことで、後の世に伝え、<br />列聖・列福の概念も生きたものになるのである。<br /><br />更に少し、宗教の横道に<br />逸れて見たい。<br />それは、宗教と動物供犠生贄との関係性である。<br />

長崎五島福江島・長崎西坂近辺・長崎大村市のキリシタン関連地極私的探訪記(長崎市西坂近辺から松の森神社、26聖人、日本で最初の英語会話教師ラナルド・マクドナルドのことなど)

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2017/11/01 - 2017/11/04

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わき

わきさん

11月1日から4日にかけて、
長崎五島福江島・
長崎市内西坂近辺・
並びに大村市の
キリスト教関連施設を訪問した。

福江島その①堂崎天主堂・福江市内、
ルイス・デ・アルメイダのことなどは、
以下の通りです。
https://4travel.jp/travelogue/11300125

また
福江島その②半泊教会・楠原教会・三井楽教会・
井持浦教会・高浜ビーチ・辞本涯・大瀬崎灯台なども、
以下の通りです。
https://4travel.jp/travelogue/11300893

福江島その③五島氏庭園心字ガ池を見る
も以下の通りです。
https://4travel.jp/travelogue/11305100

本日は、長崎市内長崎駅前から
ほんの徒歩5分のところにある
西坂からの街歩きである。

写真は、1597年2月5日(慶長元年12月19日)
に磔にされた26名の
キリシタン殉教者の記念碑である。


26名の名は以下の通り。写真の右から左へ順に
1フランシスコ 大工 伊勢生まれ 年齢不詳
2コスメ竹屋 元刀とぎ師 尾張生まれ 年齢不詳
3ペトロ助四郎 京都生まれ 年齢不詳
4ミカエル小崎 弓矢師 京都生まれ 46歳
5ディエゴ喜斎 イエズス会修道士 備前生まれ64歳
6パウロ三木 イエズス会修道士 摂津生まれ33歳
7パウロ茨木 説経師 尾張生まれ 年齢不詳
8ジョアン草庵 イエズス会修道士 五島生まれ19歳(後のヨハネ五島)
9ルドビコ茨木 尾張生まれ12歳
10アントニオ 長崎生まれ13歳
11ペトロ・バプチスタ フランシスコ会司祭 イスパニア人 48歳
12マルチノ・デ・ラ・アセンシオン
 フランシスコ会司祭 イスパニア人 30歳
13フィリッポ・デ・イエスス イスパニア人24歳。
  フランシスコ会修道士。
14ゴンザロ・ガルシア ポルトガル人、24歳 フランシスコ会修道士。
15フランシスコ・ブランコ フランシスコ会修道士 イスパニア人30歳
16フランシスコ・デ・サン・ミゲル  フランシスコ会修道士
 イスパニア人 30歳
17マチアス 日本人 生地 年齢不詳
18レオ烏丸 武士 尾張生まれ 50歳
19ボナベントゥラ 僧侶出身 京都生まれ 年齢不詳
20トマス小崎 ミカエル小崎の子 14歳
21ヨアキム榊原 武士の出 大阪生まれ 40歳
22ヨハネ五島 医師 京都生まれ46歳
23トマス談義者 説経師 伊勢生まれ 23歳
24ヨハネ絹屋 絹職人 京都生まれ28歳
25ガブリエル 伊勢生まれ19歳
26パウロ鈴木 尾張生まれ49歳

なにゆえ、このようなキリシタン殉教が起きたのだろうか。
少しばかり長くなるが、詳述してみたい。
直接的な事件は、1596年のイスパニア船サンフェリペ号の
土佐浦戸への漂着事件である。

16世紀に入ってからの太平洋は、
イスパニア(スペイン)だけしか通れない海洋だった。
↓の当方の記載旅行記の年表で明らかなように、
ポルトガル・スペイン(イスパニア)間の海洋分割に関する1494年
トリデリーシャス条約で、太平洋はイスパニア(スペイン)の領海だった。
https://4travel.jp/travelogue/11295161

つまり、当時のスペインは、フィリピンマニラを起点に、
黒潮に乗って船を操るしかないのである。
西回りは出来ず、東航路で太平洋をわたり、本国へいく航路である。
難破漂着も、全部スペイン船である。

周知のように、1596年のイスパニア船サンフェリペ号の
土佐浦戸への漂着事件で、増田長盛にオランデイアという
水先案内人が、イスパニアの植民地の広大さを誇り、
「イスパニアはまず宣教師を送りこんで、布教し、民衆を充分に
掌握してから後、兵隊を送りこんで領土を手に入れる」と語ったことが
秀吉の切支丹弾圧の端緒となった。

そこで、秀吉は切支丹勢力を抑圧する政策を検討し、
特殊な弾圧政策をとることを決意する。
まず、日本の京都・大阪で宣教師・信者を逮捕し
引き回しの上陸路九州へ引き立てて行く
切支丹信者と一般人へのみせしめになると考えたのである。

更にその効果を一番高めるためには、
囚人たちを切支丹勢力の一番強い
長崎へ送りつけ町中で磔刑にすること
こそ最も効果が上がると考えた。

1596年慶長元年10月20日
秀吉の命を受けた石田冶部少輔三成
によって、京都大阪に住む宣教師信者の捕縛がはじまる。
かなりの数だったが、みせしめの意味から
フランシスコ会司祭
ペドロ・バプチスタ、
マルチノ・アセンシオン、 
フランシスコ・ブランコ、
フランシスコ・デ・サン・ミゲル、
フィリッポ・デ・イエスス
のイスパニア人5名と、
ポルトガル人ゴンザロ・ガルシアの6名の異国人

それに、
パウロ三木、ジョアン草庵(後のヨハネ五島)、ディエゴ喜斎の
3修道者 
そのたパウロ鈴木、コスメ竹屋、トマス談義者、ミカエル小崎、
トマス小崎、パウロ茨木、ルトビコ茨木、アントニオ、マチアス、
レオ烏丸、ボナベンツラ、ヨアキム榊原、ガブリエル、ヨハネ絹屋、
ヨハネ五島の18名の日本人を捕えた。

この逮捕中、異国人がイスパニア(スペイン)人で殆どであったのは、
イスパニア船サン・フェリペ号の難破事件が直接の動機だったからだが、
日本人選択にも秀吉の作為が見えて取れた。

秀吉が仮に徹底的な弾圧をおこなう用意があったならば、
当然その矛先は高山右近 有馬晴信、黒田官兵衛や小西行長等
切支丹大名や有力な信徒にも
向けられたはずである。
しかし、そうはならなかった。
あくまでも、単にみせしめであり、多くの信者たちの中から
パウロ三木ら16名を選択したのである。

逮捕された日本人切支丹信者は、
パウロ三木が真の士分である以外、
殆ど名も定かでない者が多かった。
職業は、料理人・弓職人・絹職人・桶屋・刀職人など
貧しい者たちばかりで、無名であるがゆえに
犠牲になったのではなかったか。
64歳のディエゴ喜斎を筆頭に、14歳トマス小崎
13歳アントニオ、12歳ルトビコ茨木、の子どもまで
入っていた。
捕われた24名は、京都に集められて、
慶長元年11月15日
耳をそがれるという刑罰を最初に受けた。
即ち、京都一条辻で、例外なく一人づつ耳を切り落とされた。
おぞましいことである。

翌朝、24名の囚人?たちは、京都から大阪まで、
行き、大阪では民衆の投石と罵声を浴びせられ、
堺へ到着。
11月21日から、縄を打たれて、長崎までの長い旅が始まった。。

最初は、26名ではなく、24名だった。
尼崎で、ペトロ・バプチスタのところへ跪いた男がいた。
大工のフランシスコだった。
警護の者はこの男を追い払おうとしたが
聞き入れない。しょうがないので、縄を打った。
これで、25名となった。
翌日、兵庫で、囚人に食べ物を与えようとした男がいた。
警護の者は、追い払おうとしたが無駄だった。
ペトロ・助四郎と名乗り、これも列に加えた。
これで、26名となったのである。

26名は、明石・姫路・赤穂と街道を行き、日が落ちると
竹矢来の家に宿泊、赤穂から片山までは山道、そして岡山を経て
11月28日川辺川に着いた。
彼らはそれから、尾道・三原・西条・広島・岩国・徳山・山口・
吉田と一日平均8里もの道を歩き、12月9日に下関に辿りついた。
堺から19日目だった。

12月10日には、海峡をわたって小倉へ到着、
14日には博多に到着、
12月16日には唐津から名護屋、更に伊万里を経て大村藩に
入った。

磔執行者の指揮者は、唐津城主寺沢広高の弟寺沢八三郎だった。
けだし寺沢広高は、秘かなるキリシタン大名であり、故意に唐津から
逃れていた経緯があったからである。
弟八三郎は、長崎代官村山東安に命じて
磔柱50本を用意させた。
長崎代官村山は、熱心な切支丹帰依者で、たちまち、
この情報は、他の多くの信者たちに伝播していった。

囚人たちは、東彼杵の船着き場から、船に乗り、
時津まで渡った。
所謂「時津街道ここにはじまる」の
後年有名になる最後の船旅だった。

では、なぜ西坂が執行刑場に選ばれたのだろうか?
実は、最初は処刑場所は、浦上のはずれにある
一般の罪人達の「一般刑場」があてられる予定だった。

しかし、切支丹信者たちは、別に罪を犯したわけでもなんでもない、
ただ単にキリスト教徒というだけの話で、一般の重罪人と
同じ刑場で処刑されるのは、不当ではないかと、ポルトガル人数名が
八三郎に陳情して掛け合ったのがきっかけだった。
こうして、処刑場所は、
一般刑場から遠くないなだらかな丘に
決定された。そこが西坂だった。

26名の囚人が時津から山道を通り、浦上の外れまで来ると、
おびただしい群衆切支丹信者が行列にそって歩いて行く。
そのうち、長崎からも切支丹信者があふれだして、4000人もの
数となって膨れ上がった。

26名の囚人が西坂へ到着した。
八三郎は、西坂に26個の穴を掘らせ、
26本の磔柱を用意した。
磔柱の寸法は、一つ一つが違っていた。
大きなものは、宣教師たちのもので、
小さなものは、日本人3人の少年用だった。
いずれも、木肌にはかんなをかけ、柱の上部には
両腕をくくる材が十字の形にとりつけられ、
柱下部には、両足を乗せる横木があった。
26名は、寝たまま磔柱へ括りつけられた。
そして、磔柱が持ち上げられて、穴へどすんと
直立した。
25名は、祈りの言葉を唱えていたが、
一人だけ、祈りの言葉も歌も歌わぬものがいた。
磔柱の寸法が合わずに、窒息寸前のイスパニア修道士
フィリッポ・デ・イエススだった。
激しい苦悶の姿であったので、最初に
槍で突き処刑された。

ここから次々に処刑がはじまった。
そして終わった。

そのとき、群衆が押し寄せて人々は
死体の衣服などを引きちぎり、したたる血染めの衣服を
自分の服に染み込ませたりした。
それは、処刑された遺物を自分の所有にしたいと願う行為だった。
所謂「聖遺物」を我先にと多くの信者たちは望んだのだ。
翌朝には、死体は裸体同然となり柱も刀傷で削り取られていった。

死体の身体を覆っていたものはすべてひきむしられて、
骨までが多くの信者たちの手によって持ち去られた。
それらの遺骨は、かなりの額で売買の対象になり、
そのうちの一部イエズス会の3名の骨はマカオに送られて
聖パウロ天主堂に安置された。

その後、26名の切支丹殉教の事件は、
海外のカトリック信者たちに大きな反響をもたらし、
以下のとおり、
1597年2月5日殉教
1627年教皇ウルバノ8世により23名列福
1629年イエズス会の3名が列福
1862年教皇レオ9世により全員26名列聖された。

長崎では、その処刑地が
切支丹信者の聖地とされて崇拝されていたが、
その後江戸幕府家康・秀忠により、
弾圧は過酷さを増し、元和元年
長崎奉行によって磔柱も穴もすべて破壊されて
痕跡も消滅した。

余談めくが、
殉教・聖人・福者について、記載したい。

殉教は、元はギリシャ語が語源のポルトガル語で、
「マルチリヨ(証をたてる)」といい、
命をかけて
信仰を貫くことを指している。
殉教者は、マルチルする人で、
命をかけて信仰を証明したのである。
日本では、マルチルを、「丸血留」と書いた。

聖人とは、生涯をかけてキリストの証となり、
キリストにならって
生きた人を意味する。
キリストの下の階にいて、
世界中の教会で崇拝の対象となる。
福者は、聖人の前段階である人を指している。
すべてその承認を
ローマ教皇がおこなうこととなっている。

そこで、重要な役割を果たすのは、生きて残った者たちである。
この人たちが、記録に残すことで、後の世に伝え、
列聖・列福の概念も生きたものになるのである。

更に少し、宗教の横道に
逸れて見たい。
それは、宗教と動物供犠生贄との関係性である。

交通手段
徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • (写真は、当日同行した3名とは、<br />一旦別行動で当方が歩いたところである。<br />長崎大波止桟橋に着いたのが14時30分<br />西坂を起点に<br />そこから、松の森神社(ラナルド・マクドナルドゆかりの大悲庵があった場所)<br />まで、歩きそして長崎駅まで戻るルートである。)<br /><br />宗教と動物供犠生贄との関係性は、<br />古代ギリシャ人もローマ人も<br />宗教的祭典では、動物の供犠を盛大に執り行なった。<br />そして、さまざまな神殿で<br />自分たちのあがめる神に相応しい動物だけが<br />捧げられた。<br />例えば ヤギは酒の神バッカスに<br />ふさわしい贈り物と考えられた。<br />けだしヤギはぶどう畑をいつ食い荒らすかわからぬ<br />存在だったからである。<br />ギリシャでは、雄牛が生贄で殺される前の<br />1年間花冠をかぶらされ御馳走をあてがわれた。<br /><br />旧約聖書を読んだ人なら<br />誰でも知っているように、<br />古代イスラエル人<br />にとって、動物供犠は大変な<br />特別な関心事のひとつだった。<br />けだし、人間は食べなければ生きてはいけないからである。<br /><br />「レビ記」は、いつ、どこで、どのようにして、<br />動物を供え物として捧げるべきか詳細を極めている。<br />「民数記」は、最初の幕屋の祭壇儀式で<br />12日のうちに、雄牛を36頭、<br />羊と子羊を144頭<br />ヤギと子ヤギを72頭 生贄にして捧げたと記載する。<br /><br />イスラエル人が首長制から初期国家に移行するにつれ、<br />動物の生贄再分配の規模はけたたましく大きくなっていく。<br />

    (写真は、当日同行した3名とは、
    一旦別行動で当方が歩いたところである。
    長崎大波止桟橋に着いたのが14時30分
    西坂を起点に
    そこから、松の森神社(ラナルド・マクドナルドゆかりの大悲庵があった場所)
    まで、歩きそして長崎駅まで戻るルートである。)

    宗教と動物供犠生贄との関係性は、
    古代ギリシャ人もローマ人も
    宗教的祭典では、動物の供犠を盛大に執り行なった。
    そして、さまざまな神殿で
    自分たちのあがめる神に相応しい動物だけが
    捧げられた。
    例えば ヤギは酒の神バッカスに
    ふさわしい贈り物と考えられた。
    けだしヤギはぶどう畑をいつ食い荒らすかわからぬ
    存在だったからである。
    ギリシャでは、雄牛が生贄で殺される前の
    1年間花冠をかぶらされ御馳走をあてがわれた。

    旧約聖書を読んだ人なら
    誰でも知っているように、
    古代イスラエル人
    にとって、動物供犠は大変な
    特別な関心事のひとつだった。
    けだし、人間は食べなければ生きてはいけないからである。

    「レビ記」は、いつ、どこで、どのようにして、
    動物を供え物として捧げるべきか詳細を極めている。
    「民数記」は、最初の幕屋の祭壇儀式で
    12日のうちに、雄牛を36頭、
    羊と子羊を144頭
    ヤギと子ヤギを72頭 生贄にして捧げたと記載する。

    イスラエル人が首長制から初期国家に移行するにつれ、
    動物の生贄再分配の規模はけたたましく大きくなっていく。

  • すなわち、<br />エルサレムにおけるソロモンの神殿の「酬恩祭」<br />では、雄牛2万2千頭とヒツジ12万頭が殺された。<br />イスラエルの生贄の儀式のうち<br />最も重要なものは、過ぎ越しの祭における<br />子ヒツジの生贄だった。<br />イスラエル人は、<br />エジプトで捕われの身となっているあいだ<br />子ヒツジを生贄にし、その血を<br />家の戸口の周囲に塗り、焼いた子ヒツジの肉を<br />パンとともに食べたのである。<br /><br />(写真は、長崎駅<br />大きな陸橋歩道橋を<br />東側に渡り、NHK長崎放送局<br />右手の急坂を登っていく手前に<br />この指示目印があったところ。)<br /><br />

    すなわち、
    エルサレムにおけるソロモンの神殿の「酬恩祭」
    では、雄牛2万2千頭とヒツジ12万頭が殺された。
    イスラエルの生贄の儀式のうち
    最も重要なものは、過ぎ越しの祭における
    子ヒツジの生贄だった。
    イスラエル人は、
    エジプトで捕われの身となっているあいだ
    子ヒツジを生贄にし、その血を
    家の戸口の周囲に塗り、焼いた子ヒツジの肉を
    パンとともに食べたのである。

    (写真は、長崎駅
    大きな陸橋歩道橋を
    東側に渡り、NHK長崎放送局
    右手の急坂を登っていく手前に
    この指示目印があったところ。)

  • レビ人は、司祭カーストを構成し、<br />食肉用の動物の畜殺権を独占した。<br />キリストの時代には<br />レビ人の畜殺独占権には、<br />金銭的な価値が伴うようになる。<br />忠実な信者たちは神殿の司祭のところに、<br />動物を連れていき、<br />司祭は1頭につき、いくらかの報酬を<br />受取ってその喉を切り裂いた。<br /><br />西暦70年から72年に、エルサレムが<br />ヴァシパシアヌスの長男ティトゥスによって、<br />崩壊させられたあと、ユダヤ教のラビたちは<br />動物供犠の慣行を一部分廃止した。<br />しかし、こんにちでも正統派を主張する<br />厳格なユダヤ教徒は、動物は宗教的専門家の監督下で<br />喉を切り裂かれるべきだと主張している。<br /><br /><br />(写真、急坂を登ると<br />西坂公園が見えてきた。)

    レビ人は、司祭カーストを構成し、
    食肉用の動物の畜殺権を独占した。
    キリストの時代には
    レビ人の畜殺独占権には、
    金銭的な価値が伴うようになる。
    忠実な信者たちは神殿の司祭のところに、
    動物を連れていき、
    司祭は1頭につき、いくらかの報酬を
    受取ってその喉を切り裂いた。

    西暦70年から72年に、エルサレムが
    ヴァシパシアヌスの長男ティトゥスによって、
    崩壊させられたあと、ユダヤ教のラビたちは
    動物供犠の慣行を一部分廃止した。
    しかし、こんにちでも正統派を主張する
    厳格なユダヤ教徒は、動物は宗教的専門家の監督下で
    喉を切り裂かれるべきだと主張している。


    (写真、急坂を登ると
    西坂公園が見えてきた。)

  • イエスの磔刑は、<br />過ぎ越しの祝いと結び付けられておこなわれた。<br />彼の死は、動物供犠や人身供犠の<br />イメージ象徴に容易に重ね合わせられた。<br />バプテスマのヨハネは、<br />来るべき救世主を、「神の子ヒツジ」と呼び、<br />他方キリスト教徒たちは、「聖体拝領」と<br />呼ばれる儀式で動物供犠がもつ本来的な再分配機能を<br />示す特徴を維持した。<br />イエスは、過ぎ越しの祝いで、<br />パンをちぎり、「これはわたしのからだである」と言い、<br />ブドウ酒を「そしてこれはわたしの血である」と言った。<br /><br />ローマ・カトリックの聖体拝領の秘められた儀式では、<br />こうした再分配行動がくりかえされる。<br />司祭は、パンを聖餅として食べ、ブドウ酒を飲む、<br />信徒たちはこれに対し、聖餅だけを食べる。<br />この聖餅パンは、ホスティア(ホスト)と呼ばれ<br />誠に適切なことに、この意味はラテン語の<br />hostis(供犠)に由来する単語なのである。<br />注目すべきなのは、<br />この聖餅ホスティアは、栄養価がゼロだという点である。<br /><br />(写真、住居表示は、<br />西坂町4番地である。)

    イエスの磔刑は、
    過ぎ越しの祝いと結び付けられておこなわれた。
    彼の死は、動物供犠や人身供犠の
    イメージ象徴に容易に重ね合わせられた。
    バプテスマのヨハネは、
    来るべき救世主を、「神の子ヒツジ」と呼び、
    他方キリスト教徒たちは、「聖体拝領」と
    呼ばれる儀式で動物供犠がもつ本来的な再分配機能を
    示す特徴を維持した。
    イエスは、過ぎ越しの祝いで、
    パンをちぎり、「これはわたしのからだである」と言い、
    ブドウ酒を「そしてこれはわたしの血である」と言った。

    ローマ・カトリックの聖体拝領の秘められた儀式では、
    こうした再分配行動がくりかえされる。
    司祭は、パンを聖餅として食べ、ブドウ酒を飲む、
    信徒たちはこれに対し、聖餅だけを食べる。
    この聖餅パンは、ホスティア(ホスト)と呼ばれ
    誠に適切なことに、この意味はラテン語の
    hostis(供犠)に由来する単語なのである。
    注目すべきなのは、
    この聖餅ホスティアは、栄養価がゼロだという点である。

    (写真、住居表示は、
    西坂町4番地である。)

  • かつてから、<br />ブドウ酒とパンは、<br />キリストの血と肉を実態的に「化体」するかを<br />巡って、カトリックとプロテスタントの間では<br />その都度文章論争や流血騒ぎまで引き起こしたが、<br />キリスト教の「ミサ」が持つ真の意味を<br />見落としてはいないだろうか?<br /><br />原始キリスト教の最初の200年間くらいは、<br />聖体拝領を行うものは共同の負担で<br />アガペー、即ち愛餐と呼ばれた集団会食会を<br />開いていた。<br />つまり、信者獲得へのために貧者に食べ物を施していたのである。<br />祝祭におとずれる人々が空腹のまま帰宅することのないよう<br />食べさせていたのだ。<br />ところが、<br />キリスト教は、その後過ぎ越しの祝いに供える子ヒツジ<br />を食べることを霊的な意味で解釈を変更し、<br />子ヒツジの実体を栄養には取るに足りないパン(聖餅)に<br />変えることによって、<br />祝祭にやって来る人々が空腹のまま帰宅することない<br />責任を回避するようになっていくのである。<br /><br /><br />(写真は西坂公園の石段横)

    かつてから、
    ブドウ酒とパンは、
    キリストの血と肉を実態的に「化体」するかを
    巡って、カトリックとプロテスタントの間では
    その都度文章論争や流血騒ぎまで引き起こしたが、
    キリスト教の「ミサ」が持つ真の意味を
    見落としてはいないだろうか?

    原始キリスト教の最初の200年間くらいは、
    聖体拝領を行うものは共同の負担で
    アガペー、即ち愛餐と呼ばれた集団会食会を
    開いていた。
    つまり、信者獲得へのために貧者に食べ物を施していたのである。
    祝祭におとずれる人々が空腹のまま帰宅することのないよう
    食べさせていたのだ。
    ところが、
    キリスト教は、その後過ぎ越しの祝いに供える子ヒツジ
    を食べることを霊的な意味で解釈を変更し、
    子ヒツジの実体を栄養には取るに足りないパン(聖餅)に
    変えることによって、
    祝祭にやって来る人々が空腹のまま帰宅することない
    責任を回避するようになっていくのである。


    (写真は西坂公園の石段横)

  • それは、なぜなのか?<br />キリスト教は、皆さんご存じのように、<br />古代ローマ時代の<br />コンスタンティヌス帝の時、<br />帝国公認の宗教となるが<br />西暦363年には、ラオディケア公会議において、<br />教会が貧者たちの給食施設として利用されていたので、<br />そのことに気が付き、以後<br />教会の敷地内で、愛餐を開くことを禁止するのである。<br />つまり、<br />動物供犠を克服したとして、<br />キリスト教を賛美する前に、<br />今一度考えるべきことがある。<br /><br />キリスト教の<br />注目すべき本当の意味は、<br />急速な信者増加に伴って、<br />たんぱく質の供給が限界に達し、<br />これ以上は愛餐によって<br />信者にふるまえなくなっていく姿で、<br />教会主催の食べ物の再分配をやめることだったのである。<br /><br />(写真のこの石段を登ると<br />公園が開けていた)

    それは、なぜなのか?
    キリスト教は、皆さんご存じのように、
    古代ローマ時代の
    コンスタンティヌス帝の時、
    帝国公認の宗教となるが
    西暦363年には、ラオディケア公会議において、
    教会が貧者たちの給食施設として利用されていたので、
    そのことに気が付き、以後
    教会の敷地内で、愛餐を開くことを禁止するのである。
    つまり、
    動物供犠を克服したとして、
    キリスト教を賛美する前に、
    今一度考えるべきことがある。

    キリスト教の
    注目すべき本当の意味は、
    急速な信者増加に伴って、
    たんぱく質の供給が限界に達し、
    これ以上は愛餐によって
    信者にふるまえなくなっていく姿で、
    教会主催の食べ物の再分配をやめることだったのである。

    (写真のこの石段を登ると
    公園が開けていた)

  • キリスト教は、<br />生前の信者たちに会食させることが<br />できなくなって、<br />その後は、現世よりも来世のほうが、<br />素晴らしいのだと主張するいくつかの<br />宗教のひとつと同じだった。<br />インドや、イスラム世界、ローマの支配者たちにとっては、<br />天上のほうが地上よりも、来世のほうが現世よりも、<br />素晴らしいのだと言って神々の前にかしずくことが<br />非常に好都合だったと指摘しても、そして<br />このように、考えたとしても、<br />諸々の宗教をおとしめることにはならないと<br />考える。<br />そこで、食べ物の代わりに、<br />大聖堂や、モスクや、寺院を建設したのだ。<br />それは、例外なく信徒たちの自発的な寄進も<br />ありはしたであろうが、<br />多くは半強要としての寄進行為だった。<br />こうして普遍的宗教は自己の行為そのものを<br />正当化していくのである。<br /><br /><br /><br />極論すれば、<br />すべての宗教は、現世における信者の獲得数が<br />急増することにより、<br />そのたんぱく質の供給の再分配ができなくなり<br />それを自ら廃止し、来世の方が現実よりも<br />すばらしいのだということによって、<br />様々な自らの責任を回避し転嫁していったのである。<br />そして、自らを正当化するためには、如何なる手段も<br />選ばないという党派に堕落して行ったのではないのか<br />という結末に<br />至る。<br /><br />因みに、<br />カトリック洗礼式のとき、<br />例外なく洗礼を受ける者は、<br />一枚のせんべいみたいなホスティア(ホスト)<br />を口に含ませる儀式が執り行われるが、<br />それは、取りも直さず<br />嘗ての愛餐の名残りなのである。<br />このホストは、限りなくゼロカロリーである。<br /><br /><br /><br />(案内板が<br />写真のように。)

    キリスト教は、
    生前の信者たちに会食させることが
    できなくなって、
    その後は、現世よりも来世のほうが、
    素晴らしいのだと主張するいくつかの
    宗教のひとつと同じだった。
    インドや、イスラム世界、ローマの支配者たちにとっては、
    天上のほうが地上よりも、来世のほうが現世よりも、
    素晴らしいのだと言って神々の前にかしずくことが
    非常に好都合だったと指摘しても、そして
    このように、考えたとしても、
    諸々の宗教をおとしめることにはならないと
    考える。
    そこで、食べ物の代わりに、
    大聖堂や、モスクや、寺院を建設したのだ。
    それは、例外なく信徒たちの自発的な寄進も
    ありはしたであろうが、
    多くは半強要としての寄進行為だった。
    こうして普遍的宗教は自己の行為そのものを
    正当化していくのである。



    極論すれば、
    すべての宗教は、現世における信者の獲得数が
    急増することにより、
    そのたんぱく質の供給の再分配ができなくなり
    それを自ら廃止し、来世の方が現実よりも
    すばらしいのだということによって、
    様々な自らの責任を回避し転嫁していったのである。
    そして、自らを正当化するためには、如何なる手段も
    選ばないという党派に堕落して行ったのではないのか
    という結末に
    至る。

    因みに、
    カトリック洗礼式のとき、
    例外なく洗礼を受ける者は、
    一枚のせんべいみたいなホスティア(ホスト)
    を口に含ませる儀式が執り行われるが、
    それは、取りも直さず
    嘗ての愛餐の名残りなのである。
    このホストは、限りなくゼロカロリーである。



    (案内板が
    写真のように。)

  • (写真、日本26聖人殉教地の<br />説明があった。)

    (写真、日本26聖人殉教地の
    説明があった。)

  • 石の柱、記念碑は<br />相当に古そうだ。

    石の柱、記念碑は
    相当に古そうだ。

  • 26人が並んでいる。

    26人が並んでいる。

  • 同じく

    同じく

  • 別角度から

    別角度から

  • 正面右から順に

    正面右から順に

  • 真ん中を

    真ん中を

  • 左寄りに

    左寄りに

  • 左へ

    左へ

  • 大写しで

    大写しで

  • 新約聖書マルコによる<br />福音書の1節が刻まれていた。

    新約聖書マルコによる
    福音書の1節が刻まれていた。

  • 横側から<br />全体を

    横側から
    全体を

  • 内部にも入ってみた。<br />写真は1階の図面<br />

    内部にも入ってみた。
    写真は1階の図面

  • ルイスフロイスの記念碑があった。<br />今でも、彼の著書「日本史」は、<br />興味深いものを提供してくれる。

    ルイスフロイスの記念碑があった。
    今でも、彼の著書「日本史」は、
    興味深いものを提供してくれる。

  • フロイスは、<br />イエズス会きってのエースと言われたヴァリニャーノ<br />からは、余りにも迷信好きで、冗漫で、<br />大仰だという評価を受けた。<br />確かに、<br />当方も彼の「日本史」を読んだ時、<br />いささかいくつかの箇所で<br />そのように思ったことがある。

    フロイスは、
    イエズス会きってのエースと言われたヴァリニャーノ
    からは、余りにも迷信好きで、冗漫で、
    大仰だという評価を受けた。
    確かに、
    当方も彼の「日本史」を読んだ時、
    いささかいくつかの箇所で
    そのように思ったことがある。

  • 上2枚をあわせて撮影

    上2枚をあわせて撮影

  • 長崎西坂巡礼所<br />の石碑

    長崎西坂巡礼所
    の石碑

  • 結城了悟の石碑

    結城了悟の石碑

  • 本蓮寺にやってきた。<br />ここから筑後通りである。<br />この寺は、元は大村にある本経寺(大村家の菩提寺)<br />の僧だった日慧が開祖となって1620年に<br />創建された。<br />この地には、<br />元々サン・ラザロ病院とその付属のバプチスタ教会<br />があったところである。<br />1614年に伴天連禁教令で、破壊されている。

    本蓮寺にやってきた。
    ここから筑後通りである。
    この寺は、元は大村にある本経寺(大村家の菩提寺)
    の僧だった日慧が開祖となって1620年に
    創建された。
    この地には、
    元々サン・ラザロ病院とその付属のバプチスタ教会
    があったところである。
    1614年に伴天連禁教令で、破壊されている。

  • 勝海舟が一時住んだようだ。

    勝海舟が一時住んだようだ。

  • サン・ラザロ病院<br />サン・ジョアン・バプチスタ教会<br />跡地である。

    サン・ラザロ病院
    サン・ジョアン・バプチスタ教会
    跡地である。

  • 別角度からも撮影した

    別角度からも撮影した

  • 本蓮寺説明

    本蓮寺説明

  • 階段上が本堂

    階段上が本堂

  • 次は福濟禅寺である。<br />黄檗宗、<br />1628年中国の僧<br />覚海禅師創建、<br />この寺と興福寺・崇福寺を唐寺三福寺と言った。<br />しかし、原爆により、灰塵に帰した。

    次は福濟禅寺である。
    黄檗宗、
    1628年中国の僧
    覚海禅師創建、
    この寺と興福寺・崇福寺を唐寺三福寺と言った。
    しかし、原爆により、灰塵に帰した。

  • この寺の意匠が独特。

    この寺の意匠が独特。

  • 福済寺全景の説明

    福済寺全景の説明

  • 筑後通りである<br />人もまばらで、誰もいない。

    筑後通りである
    人もまばらで、誰もいない。

  • 標識を

    標識を

  • 次は、聖福寺にやってきた。<br />鉄心道胖により、1677年創建

    次は、聖福寺にやってきた。
    鉄心道胖により、1677年創建

  • その山門

    その山門

  • 大きく

    大きく

  • 山門の説明書きがあった。

    山門の説明書きがあった。

  • この編額は、<br />隠元が書いたと言われている。<br />大きく撮影。

    この編額は、
    隠元が書いたと言われている。
    大きく撮影。

  • 表札?が掲げられていた。

    表札?が掲げられていた。

  • また筑後通りである。<br />人は誰もいない。<br />酔狂だった。

    また筑後通りである。
    人は誰もいない。
    酔狂だった。

  • 歩いて、<br />ここまでやってきた。

    歩いて、
    ここまでやってきた。

  • 長崎歴史博物館である。<br />時間的な余裕がなく、<br />素通りである。<br />ここには、<br />郷土資料・歴史資料・美術資料などが<br />納められているそうだ。

    長崎歴史博物館である。
    時間的な余裕がなく、
    素通りである。
    ここには、
    郷土資料・歴史資料・美術資料などが
    納められているそうだ。

  • 大きく

    大きく

  • その向かい側に<br />サントドミンゴ教会<br />資料館がある。

    その向かい側に
    サントドミンゴ教会
    資料館がある。

  • 無料で資料館が拝めるらしい。

    無料で資料館が拝めるらしい。

  • 違うように撮影

    違うように撮影

  • 漸く諏訪神社まで<br />歩いてきた。<br />周知のように、<br />長崎の鎮守社であり、<br />「お諏訪さん」の愛称がある。<br />長崎で最も大きい秋の例大祭「おくんち」<br />長崎っ子の血を湧かせるものとなっている。<br />祭神は、健御名方命(たけみなかたのみこと)<br />八坂刀売命(やさかとめのみこと)。<br />

    漸く諏訪神社まで
    歩いてきた。
    周知のように、
    長崎の鎮守社であり、
    「お諏訪さん」の愛称がある。
    長崎で最も大きい秋の例大祭「おくんち」
    長崎っ子の血を湧かせるものとなっている。
    祭神は、健御名方命(たけみなかたのみこと)
    八坂刀売命(やさかとめのみこと)。

  • いつみても、<br />鳥居は変わらない。

    いつみても、
    鳥居は変わらない。

  • 石灯籠と鳥居

    石灯籠と鳥居

  • 坂を上がり、<br />途中に右へ折れると<br />松の森神社通りである。

    坂を上がり、
    途中に右へ折れると
    松の森神社通りである。

  • 標識がこのようにあった<br />

    標識がこのようにあった

  • 江戸幕府時代の長崎<br />右下に大悲庵とある。<br />そこが、マクドナルドの座敷牢が<br />あったところである。<br /><br />ラナルド・マクドナルド<br />以下<br />その著、<br />日本回想記などによって、記載する。<br />マクドナルドは、1948年北海道の小島<br />焼尻島に上陸してから、<br />1949年嘉永2年僅か10ヶ月日本にいただけである。<br /><br />マクドナルドは、スコットランド生まれの父と<br />アメリカ先住民チヌーク族の族長の娘を母に持つ<br />混血児である。<br />成人した後、日本に憧れて<br />アメリカ捕鯨船に乗り、ボートで自ら単身<br />利尻島(最初は焼尻島)へ上陸する。<br />当時の日本は鎖国政策で、オランダ中国以外との<br />貿易は行っておらず、<br />上陸した外国人は、長崎へ護送して<br />国外に退去させる仕組みになっていた。<br />そこで、マクドナルドも長崎護送となった。<br />写真の右下大悲庵が彼の座敷牢だった。

    江戸幕府時代の長崎
    右下に大悲庵とある。
    そこが、マクドナルドの座敷牢が
    あったところである。

    ラナルド・マクドナルド
    以下
    その著、
    日本回想記などによって、記載する。
    マクドナルドは、1948年北海道の小島
    焼尻島に上陸してから、
    1949年嘉永2年僅か10ヶ月日本にいただけである。

    マクドナルドは、スコットランド生まれの父と
    アメリカ先住民チヌーク族の族長の娘を母に持つ
    混血児である。
    成人した後、日本に憧れて
    アメリカ捕鯨船に乗り、ボートで自ら単身
    利尻島(最初は焼尻島)へ上陸する。
    当時の日本は鎖国政策で、オランダ中国以外との
    貿易は行っておらず、
    上陸した外国人は、長崎へ護送して
    国外に退去させる仕組みになっていた。
    そこで、マクドナルドも長崎護送となった。
    写真の右下大悲庵が彼の座敷牢だった。

  • こちらは、<br />松の森神社<br />案内板

    こちらは、
    松の森神社
    案内板

  • 石碑<br />長崎歴史探訪路<br />とある。

    石碑
    長崎歴史探訪路
    とある。

  • 長崎には、オランダ語と中国語に<br />精通した通詞たちがいたが、<br />1840年代には<br />しきりに日本近辺を<br />アメリカ・英国の艦船や捕鯨船が<br />にぎわし始めていたので、<br />それらの艦船の乗組員と意思を<br />通じ合える英会話の習得が<br />日本では緊急課題だった。<br /><br />そのため、江戸幕府の指示で、<br />長崎奉行はオランダ語の通詞たちを<br />マクドナルドに会わせて、<br />英会話の習得にあたらせた。<br />マクドナルドは、<br />このことから、<br />日本人に初めて本格的な英会話を教える<br />「最初の英語教師」となった。

    長崎には、オランダ語と中国語に
    精通した通詞たちがいたが、
    1840年代には
    しきりに日本近辺を
    アメリカ・英国の艦船や捕鯨船が
    にぎわし始めていたので、
    それらの艦船の乗組員と意思を
    通じ合える英会話の習得が
    日本では緊急課題だった。

    そのため、江戸幕府の指示で、
    長崎奉行はオランダ語の通詞たちを
    マクドナルドに会わせて、
    英会話の習得にあたらせた。
    マクドナルドは、
    このことから、
    日本人に初めて本格的な英会話を教える
    「最初の英語教師」となった。

  • 29歳時の<br />マクドナルドであるが、<br />日本人で英語の伝授を受けた<br />中心人物は森山栄之助だった。<br /><br />彼は、その後来航したペリー艦隊の<br />一行に日本側の外交団の主席通詞となってゆく。

    29歳時の
    マクドナルドであるが、
    日本人で英語の伝授を受けた
    中心人物は森山栄之助だった。

    彼は、その後来航したペリー艦隊の
    一行に日本側の外交団の主席通詞となってゆく。

  • 写真は、大悲庵の平面図であるが、<br />マクドナルドは、<br />右下4畳間にいた。<br />ここで、日本人オランダ通詞たちに、<br />英語を伝授するのである。

    写真は、大悲庵の平面図であるが、
    マクドナルドは、
    右下4畳間にいた。
    ここで、日本人オランダ通詞たちに、
    英語を伝授するのである。

  • 他方、<br />マクドナルドも、<br />日本語の習得には<br />その都度努力していた。<br />例えば、<br />thank youの日本語は、aringoto(ありがとう)<br />mouthは、quich(口)<br />earsは、memee(みみ)<br />headを、adame(あたま)<br />penを、fude(ふで)<br />と自分の手帳に書きつけていた。<br />このことを知った森山栄之助たち通詞は、<br />小躍りして、マクドナルドから英語を<br />習う恰好の人物が見つかったと思ったのである。

    他方、
    マクドナルドも、
    日本語の習得には
    その都度努力していた。
    例えば、
    thank youの日本語は、aringoto(ありがとう)
    mouthは、quich(口)
    earsは、memee(みみ)
    headを、adame(あたま)
    penを、fude(ふで)
    と自分の手帳に書きつけていた。
    このことを知った森山栄之助たち通詞は、
    小躍りして、マクドナルドから英語を
    習う恰好の人物が見つかったと思ったのである。

  • マクドナルドは、<br />森山たちを、<br />その回想記で、<br />「彼らは、大変のみこみが早く<br />感受性が豊かであった。彼らに<br />教えることが楽しみだった」と回想している。

    マクドナルドは、
    森山たちを、
    その回想記で、
    「彼らは、大変のみこみが早く
    感受性が豊かであった。彼らに
    教えることが楽しみだった」と回想している。

  • その森山栄之助の顕彰の碑である。<br />マクドナルドは、<br />森山たちから、<br />逆に日本語も教えてもらっている。<br />多くの単語を記録している。<br />例えば、<br />breakfastは、日本語では朝食だが、<br />マクドナルドの単語集では、<br />assahan(朝はん)と記載している。<br />傑作なのは、<br />bathe(入浴する)の日本語の発音である、<br />you or me(ユーオアミー)湯浴みと書いている。<br />マクドナルドが教えられた日本語も長崎弁だった。<br />例えば、<br />bad(悪い)は、warka(悪か)<br />cheap(安い)は、yasuka(やすか)<br />large(大きい)は、ftoka(ふとか)<br />small(小さい)は、comaka(こまか)<br />entertaining(面白い)は、omosroka(面白か)<br />と記載されている。

    その森山栄之助の顕彰の碑である。
    マクドナルドは、
    森山たちから、
    逆に日本語も教えてもらっている。
    多くの単語を記録している。
    例えば、
    breakfastは、日本語では朝食だが、
    マクドナルドの単語集では、
    assahan(朝はん)と記載している。
    傑作なのは、
    bathe(入浴する)の日本語の発音である、
    you or me(ユーオアミー)湯浴みと書いている。
    マクドナルドが教えられた日本語も長崎弁だった。
    例えば、
    bad(悪い)は、warka(悪か)
    cheap(安い)は、yasuka(やすか)
    large(大きい)は、ftoka(ふとか)
    small(小さい)は、comaka(こまか)
    entertaining(面白い)は、omosroka(面白か)
    と記載されている。

  • 左が森山栄之助その人である。<br />森山は、その後<br />後継者を育てようと<br />多くの日本人に英会話を教えた。<br />門人には、慶応大学を創設した福沢諭吉もいた。<br /><br />福沢は、最初オランダ語から入ったが、<br />周知のようにこれからは英語ということに<br />気づき、森山から英会話を習ったりした。<br />その後は、咸臨丸で軍艦奉行木村摂津守、勝麟太郎などと、<br />ともに、万延元年太平洋を横断し、<br />アメリカへ遣米使節としてアメリカを訪問しているのは、<br />皆さんご存じのとおりである。<br /><br />福沢は、アメリカ家庭で、ある夫妻の自宅を訪ねた時<br />夫が家事料理をやり、妻が客を応対することを<br />ショックだったと後々感想を漏らした。<br />要は、日米の文化の違いに驚いたのであろう。<br /><br />その後、福沢は<br />三田の島原藩下屋敷を借り受け、<br />ここに塾を開くことになるのである。<br />そして、風呂屋をも開業していた。<br />更に余談になるが、<br />周知のように、<br />福沢と勝麟とは、そりがあわず、<br />犬猿の仲だった。

    左が森山栄之助その人である。
    森山は、その後
    後継者を育てようと
    多くの日本人に英会話を教えた。
    門人には、慶応大学を創設した福沢諭吉もいた。

    福沢は、最初オランダ語から入ったが、
    周知のようにこれからは英語ということに
    気づき、森山から英会話を習ったりした。
    その後は、咸臨丸で軍艦奉行木村摂津守、勝麟太郎などと、
    ともに、万延元年太平洋を横断し、
    アメリカへ遣米使節としてアメリカを訪問しているのは、
    皆さんご存じのとおりである。

    福沢は、アメリカ家庭で、ある夫妻の自宅を訪ねた時
    夫が家事料理をやり、妻が客を応対することを
    ショックだったと後々感想を漏らした。
    要は、日米の文化の違いに驚いたのであろう。

    その後、福沢は
    三田の島原藩下屋敷を借り受け、
    ここに塾を開くことになるのである。
    そして、風呂屋をも開業していた。
    更に余談になるが、
    周知のように、
    福沢と勝麟とは、そりがあわず、
    犬猿の仲だった。

  • 森山は、<br />英語を駆使して<br />外交交渉を重ね<br />外国の外交官の信頼も得た。<br />イギリス公使オールコックは、<br />その著「大君の都」で、<br />「ペリー提督が最初に到着して以来外国の<br />代表との会見や通信の内容において、<br />どんな日本側の役人よりも森山の方が<br />断然よく知っているし、聡明で私には<br />より信頼できる人間だった」と記載した。

    森山は、
    英語を駆使して
    外交交渉を重ね
    外国の外交官の信頼も得た。
    イギリス公使オールコックは、
    その著「大君の都」で、
    「ペリー提督が最初に到着して以来外国の
    代表との会見や通信の内容において、
    どんな日本側の役人よりも森山の方が
    断然よく知っているし、聡明で私には
    より信頼できる人間だった」と記載した。

  • その後、<br />森山によって、<br />英会話を伝授された日本人たちが<br />次々に輩出し、明治時代に<br />大きく開花していくのである。

    その後、
    森山によって、
    英会話を伝授された日本人たちが
    次々に輩出し、明治時代に
    大きく開花していくのである。

  • マクドナルドの説明書き

    マクドナルドの説明書き

  • 森山栄之助の説明書き

    森山栄之助の説明書き

  • 同上である。

    同上である。

  • 二人を並べて撮影してみた。<br />因みにこの顕彰碑は、<br />長崎ロータリークラブによるものである。<br />

    二人を並べて撮影してみた。
    因みにこの顕彰碑は、
    長崎ロータリークラブによるものである。

  • 桜町小学校のところであるが、<br />ここには、嘗てサントドミンゴ教会があった。<br />禁教令で1614年教会は破壊された。

    桜町小学校のところであるが、
    ここには、嘗てサントドミンゴ教会があった。
    禁教令で1614年教会は破壊された。

  • 写真では、サンドミンゴとなっているが、<br />御愛嬌だろう。<br />1614年破壊された後に、<br />朱印船貿易で、巨利を得た末次平蔵が<br />屋敷を構えた。

    写真では、サンドミンゴとなっているが、
    御愛嬌だろう。
    1614年破壊された後に、
    朱印船貿易で、巨利を得た末次平蔵が
    屋敷を構えた。

  • その説明書きが

    その説明書きが

  • もう一度、<br />サントドミンゴ教会跡地の<br />小学校を撮影して、<br />長崎駅まで歩いて行った。

    もう一度、
    サントドミンゴ教会跡地の
    小学校を撮影して、
    長崎駅まで歩いて行った。

  • 長崎駅到着は<br />午後5時前だった。<br />このあと、<br />他の3人と合流し、<br />列車で、大村へ向かった。<br />明日は、大村郡崩れの跡地などを<br />見て行こうと新たに決意した。

    長崎駅到着は
    午後5時前だった。
    このあと、
    他の3人と合流し、
    列車で、大村へ向かった。
    明日は、大村郡崩れの跡地などを
    見て行こうと新たに決意した。

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