2017/11/01 - 2017/11/04
25位(同エリア864件中)
わきさん
11月1日から4日にかけて、
長崎五島福江島・
長崎市内西坂近辺・
並びに大村市の
キリスト教関連施設を訪問した。
福江島その①堂崎天主堂・福江市内、
ルイス・デ・アルメイダのことなどは、
以下の通り公開させて頂きました。
https://4travel.jp/travelogue/11300125
また
福江島その②半泊教会・楠原教会・三井楽教会・
井持浦教会・高浜ビーチ・辞本涯・大瀬崎灯台なども、
以下の通り公開させて頂きました。
https://4travel.jp/travelogue/11300893
本日は、3日目
五島氏庭園「心字が池」訪問記です。
日本で最後に築城された福江城(石田城)
完成は文久年間の1863年幕末期であるが、
こののち、僅か9年後には明治5年に
廃城となっている。
完成時の城の規模は、およそ東西300m
南北250m、本丸・二の丸・付属の曲輪から
なっていた。
けだし廃城は明治革命と廃藩置県でやむをえないからである。
因みに、
嘉永年間(1848~1853年)の
江戸時代名城石高武鑑によれば、
全国171の城のうち、
福江城は、下から4番目
僅か1万2千600石にすぎなかった。
関連する情報としては、
現時点での 日本の
古建造物現存の城は、21城
即ち以下の通りである。
1 佐伯城ー1601年櫓門 殿館 石垣
2 大分府内城―1599年隅櫓 堀
3 秋月城ー1624年表御門 黒門 石垣
4 大洲城ー1590年台所櫓 高欄櫓
5 高松城ー1590年月見櫓 渡櫓 水戸御門
6 明石城ー1617年隅櫓 巽櫓 石塁
7 福知山城ー1575年多聞櫓 石垣 堀
8 二条城ー1602年二の丸御殿 隅櫓 城門 濠
9 亀山城ー1590年多聞櫓 石塁
10金沢城ー1583年石川門 三十間 長屋 石塁 堀
11福江城ー1863年門 石垣 堀
12鹿島城ー慶長年間 大手門と正門 石垣 濠
13佐賀城ー1590年鯱ノ門 石塁
14新発田城ー1598年大手門 隅櫓 石垣
15掛川城ー1593年太鼓櫓門 石塁 濠
16小諸城ー1590年大手門 三ノ門 石垣
17上田城ー1622年本丸隅櫓 水ノ手櫓 本丸 二の丸
18江戸城ー1596年~1614年
富士見櫓 桜田巽櫓 西の丸伏見櫓 大手門 堀他
19土浦城ー1616年櫓門 石塁 堀
20中村城ー1611年大手門 城壁
21松嶺城ー1779年櫓門
更に言えば
古天守閣現存の城は、以下の12城である。
弘前城ー1810年三層三階
丸岡城ー1577年三層三階
松本城ー1590年五層六階
犬山城ー慶長4年ごろ三層六階
彦根城ー1606年三層三階
姫路城ー1609年五層七階
備中松山城ー1683年二層二階
松江城ー1611年五層六階
丸亀城ー1643年三層三階
松山城ー1854年三層四階
宇和島城ー1665年三層三階
高知城ー1747年四層六階
(いずれも、嘉永年間の江戸時代名城石高武鑑による)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 船 徒歩
-
福江城跡が見えている
-
歴代の宇久氏(1592年以降は五島氏)
の城主の名が並んでいた。 -
大きく拡大してみた。
歴代五島藩主
宇久・五島家略譜である。 -
同じく
-
宇久姓を
五島姓に変えた年
1592年は、
秀吉政権時の朝鮮戦役の年である。 -
堀を進むと蹴出門が
見えてきた。 -
福江城の中に
今は、県立五島高校があり、
その手前の方に、
五島氏庭園
心字が池が
写真の地図で明らかにされていた。 -
中に入ると、
総合案内マップがあった。 -
更に進むと
石田城跡の説明案内図が
あった。 -
説明を大きく。
-
いよいよ、
心字が池に到着。 -
同上
-
その前には
このように案内があった。 -
その配置図である。
-
五島家30代の
盛成(もりあきら)の
隠居所である。
林泉回遊式日本庭園である。
作成設計は、京都の僧全正。
全正は、鹿苑寺金閣の丸池を
模範に鬼岳の溶岩を多用した。 -
亜熱帯植物
オオタニワタリが繁茂していた。
男女群島から持ってきたものらしい。 -
池の中島を。
-
同じく中島
-
築山の方角から見た
樹齢840年の
クスノキである。
パワースポットとしても
有名で、人が触ったあとが
残っていた。 -
作庭以前からあった
クスノキを取り込んだ
ものと思われる。 -
同上クスノキ。
-
井戸があった。
-
大きく井戸を。
-
中には、そこの方に
水が -
再びクスノキを撮影した。
-
近くによって
撮影、
そして肌で触れてみた。 -
クスノキの説明書きが
このように。 -
840年まえからあるということは、
鎌倉時代から育って現在に至っていると
いうことで、日本の西の果てに近い五島
でも存在していること自体、嬉しい感慨が湧いた。 -
クスノキ側から邸宅側を撮影
-
野面積みの石垣。
藩中、藩外の
力自慢の若者が
浜辺から運んでこういう
積み方をしたという。 -
海の波で洗われて
丸くなったところが
特徴的だった。 -
横から撮影した。
-
五重塔である。
何でも、1592年の文禄の役の際、
20代藩主が小西行長軍の先鋒で
戦ったようである。 -
五重塔側から
クスノキを撮影してみた。 -
五重塔を別の角度から
20代藩主の1592年
朝鮮の役の記念物のようである。 -
回遊式なので
回遊してみた。 -
板石があった。
-
ここに、全正が座って
庭を作庭するとき、
指揮したとされる石である。 -
別の中島を。
石は、30代盛成が好んだといわれる
亀に似せた石が多用されたとあるが、
亀に似ているだろうか? -
再び大クスノキを
板石側から撮影 -
クスノキ全体を
-
板石から更に
歩むと松の木が
立っていた。 -
その松と
周辺を。 -
更に歩むと、
抜け穴と称するものがあった。
色々な仕掛けで、
身を守る術を考えているのは
いつの世も同じである。 -
抜け穴を大きく。
-
1863年の文久年間
中国福建省から
取り寄せた金明竹(きんめいちく)。
茎は黄色で、
枝の先葉は緑の取り合わせ、
他の竹とちょっと違っていた。 -
他の竹と比較すると
こんな具合に見える。
金明竹だけが、
茎の部分が黄色というか、
黄金色に見えてくる。 -
中庭には
堪忍と記載ある
石灯籠があった。 -
それを大きく。
藩主盛成(もりあきら)
の自署を刻み込んだもの。 -
別の井戸水である。
-
邸宅の平面図である。
これから、中へ入ってみた。 -
まず、
五島邸玄関の間である。
心字が池庭園を設計した全正の辞世の句。
元々は全正は戒律を破り
福江島に流刑された僧だった。
彼の教養と人となりを見て、
盛成は、全正に作庭を依頼する。
五島家に召されてこのような庭園を作る事となった
ご縁を喜ばしく思うという内容の句である。 -
同上
-
同じく
-
ここから、亀の間の説明
-
亀の間である。
亀のデザインを欄間や釘隠しに
使用している。
中々に落ち着きのある
和室空間だった。 -
接客の部屋である。
亀の間 -
同上
-
こちらも同じ
亀の間 -
同上
-
亀の間から
クスノキを
1枚撮影した -
梅の間にやってきた。
壁の唐紙模様、釘隠し、欄間彫刻は
すべて「ねじ梅」の紋様である。 -
梅の間は、
居室のようである。 -
その梅の間が
このようにあった。 -
格子のデザインが
様々な形で
特徴的。 -
梅の間から向こう側までを
畳敷きが貫く。 -
同上。
見事な空間だった。
そして、
突然私の脳裏に
70年代80年代活躍した
詩人清水昶の詩句が甦った。
かぎりなく知ることは/
はてしない生涯を這いぬくことを教え/
あおざめた階級に尻をつけ/
飢えているつめたい水にひたす藁/
しめった思想を無言で打ち/
垂らすべき縄 つるすべき首/
想いめぐる日の中心で声を裂き/
鍋をかかえて自滅する一揆がある/
(未明の階級より) -
そしてこのような
隠し部屋がかなり見られた。 -
同上隠し部屋などが
多数あった。 -
戻り、
和室空間を。 -
向こう側まで、
おごそかな空間だった。 -
円窓が
開けられると
かような風景が
見られる。 -
梅の間からみた
堪忍石灯籠である。 -
閑静なる廊下を
歩き、五島氏庭園心字が池を
あとにした。
このあと、
ジェットホイルで、
福江島とはお別れ。
次の長崎市内へ向かった。
以下長崎西坂近辺に続きます。
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