2017/08/03 - 2017/08/12
65位(同エリア4536件中)
わきさん
2017年8月3日
アエロフロート、ロシア航空
モスクワ・シェレメチェヴォ空港経由にて
ワルシャワ・フレデリック・ショパン空港入り、
ワルシャワにて3泊
その後8月6日午前
EC(ユーロシティ特急列車)で、
ポーランドからドイツへ
国境越えし
ベルリン入り、
ワルシャワ中央駅ー終点ベルリン・ゲズントブルネン駅
約6時間40分(600キロ)
ベルリンにてやはり3泊
そしてベルリンから
チェコプラハへ、8月9日
同じくEC(ユーロシティ特急列車)で、国境越えし
ベルリン中央駅ープラハ本駅間(450キロ)
約4時間半
プラハでは2泊、
その後プラハ、
ヴァーツラフ・ハヴェル空港から
モスクワ・シェレメチェヴォ経由で
8月12日
成田へ帰国という旅程です。
ワルシャワ編全部は、以下の通り
公開させて頂きました。
https://4travel.jp/travelogue/11275148
また、ベルリン編前半も以下の通り
公開させて頂きました。
https://4travel.jp/travelogue/11286081
プラハ、ミュシャ美術館も以下の通り
公開させて頂きました。
https://4travel.jp/travelogue/11292427
今回は、プラハの旧市街広場から歩いた
旧市街地広場とカレル橋の様子です。
表題の写真は、カレル橋に30体の像が
並んで立っているが、その内旧市街側から見て、
左側から5番目の像で、日本に
キリスト教を齎したフランシスコ・ザヴィェル像である。
1549年に
キリスト教を日本に伝来させた
フランシスコ・ザヴィェル。
当時の日本は、戦国時代で
荒れていた。
ザヴィェルは、日本人ヤジローを伴って
鹿児島に上陸した。
キリスト教を日本へ広めるための
様々な艱難辛苦をザヴィエルはなめるが、
日本滞在は2年3カ月だけだった。
初期のころは、キリスト教の教えを
ヤジローが翻訳したため、
デウス神のことを、「大日」
マリアのことを、「観音」などと
訳したため、
キリスト教は仏教の一流派と受け止められていた。
以下日本において、キリスト教が関わる年譜を
作成してみた。
これで判明するのは、
カトリックキリスト教が
日本での1549年の
その草創期からの繁栄と、
1587年秀吉による伴天連追放令で苦難の道を歩み
1650年代にかけて大村の郡崩れにより、
ホロコーストともいうべき最後を
辿る道筋である。
日本のキリスト教最盛期は、
1582年イエズス会きってのエースと言われた
あのヴァリニャーノに連れられて
日本を旅立った4人の「天正遣欧使節」のときである。
一時的なキリスト教バテレン繁栄期が
あることを見逃してはならないと思われる。
そして、本能寺の変で、一挙に伴天連キリスト教の
最盛期は、逆に転回し、迫害の歴史に変わっていく。
その象徴的事件は、
秀吉政権時の1597年の長崎西坂での
26人の殉教だった。
1 1494年 スペイン・ポルトガル トルデシーリャス条約締結(2国間の地球の海洋分割条約)
この条約は、極めて重要な含意性あり。マガリャンス(マゼラン)の西回り地球1周の必然性。
(セネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の
西子午線にそった線(西経46度37分)の
東側の海がポルトガルの領海に、
その西側がスペインの領海に属することが定められた。)
そこで、マガリャンス(マゼラン)のスペイン隊は、
喜望峰回り(東回り)は、ポルトガル領海だったので、
通ることが許されず、
(ポルトガル領海を通ると発砲された)
やむを得ず西回りの、大西洋から南アメリカ南端を
通って太平洋に出ざるを得なかったのである。
2 1506年 フランシスコ・ザヴィエル生誕
3 1529年 スペイン・ポルトガル サラゴサ条約締結(2国間の地球の海洋分割条約補足条約)
4 1530年 大友宗麟生誕
5 1533年 大村純忠生誕(純忠は千々石ミゲルの伯父、千々石ミゲルは有馬晴信、大村喜前といとこ同士)、純忠は日本で初めてのキリシタン大名。
6 1534年 織田信長生誕 この年イグナテウス・ロヨラ43歳時 6名の仲間と共にイエズス会結成
7 1537年 豊臣秀吉生誕
8 1541年 ザヴィエル 35歳時東方布教に向けてリスボンを離れる
9 1542年 徳川家康生誕
10 1549年 ザヴィエル43歳時 鹿児島到着キリスト教日本に伝来
11 1551年 ザヴィエル45歳時 豊後で、大友宗麟21歳と出会う
12 1552年 ザヴィエル46歳で、広東の上川島で、死去
13 1556年 ロヨラ 65歳でローマにて死去
14 1560年 桶狭間で、信長 今川を破る。
15 1562年 大村純忠 29歳時 横瀬浦開港 教会建設
16 1563年 大村純忠 30歳時 トーレスから受洗礼 キリスト教徒となる。
大村純忠が、日本初のキリシタン大名になった理由の大きなものは、
戦国期にあって、彼の脆弱な権力基盤を何とかポルトガルとの
貿易によって、その利益を確保したいとの思惑があったからだと
言われている。
また、彼は自国の大村領の領民6万人をすべて、半ば強制的に
キリスト教へ改宗させている。
この年、ルイス・フロイス来日する。
17 1564年 高山右近受洗礼
18 1567年 有馬晴信生誕
19 1568年 中浦ジュリアン 伊東マンショ 生誕 この年信長 上洛
20 1569年 千々石ミゲル 原マルチノ生誕
21 1570年 大村純忠37歳 長崎を開港
22 1578年 大友宗麟48歳時 受洗礼
23 1579年 イエズス会巡察使ヴァリニャーノ 初来日口之津到着
24 1580年 有馬晴信13歳で、ヴァリニャーノより受洗 この年大村純忠47歳時、長崎・茂木をイエズス会に寄進。
25 1581年 ヴァリニャーノ 信長に謁見、日本でのキリスト教最高潮のとき。
26 1582年 天正遣欧使節4名
伊東マンショ・千々石ミゲル・ 原マルチノ・中浦ジュリアン
(14歳二人、13歳二人)ヴァリニャーノとともに、
長崎からマカオへ。
信長、本能寺にて死去
27 1584年 有馬晴信17歳で浦上を、イエズス会に寄進。 この年、天正遣欧使節スペイン国王フェリペ2世に謁見
28 1585年 天正遣欧使節(17歳二人・16歳二人、)教皇グレゴリウス13世に謁見
29 1587年 大村純忠54歳で死去、大友宗麟57歳で死去。
秀吉バテレン追放令発布。長崎没収。
30 1590年 天正遣欧使節(22歳二人、21歳二人)ヴァリニャーノとともに、長崎帰着。
31 1591年 秀吉、聚楽第にて、天正遣欧使節(23歳二人、22歳二人)ヴァリニャーノを引見。
32 1592年 ヴァリニャーノ離日。
33 1596年 スペイン船サン・フェリペ号土佐に漂着
34 1597年 長崎西坂にて、26人殉教。26人殉教の報告書を書き終えたフロイス、長崎にて死去。
35 1598年 フランシスコ会ジェズス、再来日して、潜伏。秀吉61歳で、死去。家康56歳時ジェズスを召喚。日スペイン間通商交渉仲介依頼。
36 1599年 江戸で、フランシスコ会教会堂を建設。
37 1600年 オランダ船リーフデ号、豊後佐志生に漂着、家康58歳、イギリス人航海士ウイリアム・アダムズを引見。
この年関ヶ原の戦い。小西行長処刑。
フランシスコ会ジェズス、家康の要請で、マニラへ。
38 1601年 ジェズス再来日、家康に謁見、タバコ献上して、日本にタバコ伝来。
この年、伊東マンショ・中浦ジュリアン33歳、マカオへ留学。千々石ミゲル32歳、この年カトリック脱会、
従兄弟の大村喜前の家来となる。
39 1602年 スペイン船エスピリト・サント号土佐に漂着 オランダ東インド会社設立
40 1603年 加藤清正、熊本でキリシタン迫害し始める。
41 1604年 家康イエズス会に資金援助。この年伊東マンショ・中浦ジュリアン36歳、マカオより帰国する。
42 1605年 大村純忠の息子大村喜前は、カトリックから棄教、大村領内から、宣教師を追放。喜前の姉は、戸根に宣教師かくまう。
43 1606年 マカオにてヴァリニャーノ死去
44 1608年 伊東マンショ・中浦ジュリアン40歳、原マルチノ39歳長崎で司祭叙階を受ける。薩摩では、キリシタン迫害開始。
45 1609年 薩摩島津家久、ドミニコ会士追放。有馬晴信、42歳 長崎停泊中のノッサ・グラーサ号を攻撃、撃沈。
この年、イエズス会フェレイラ来日。
46 1610年 ソテーロ、江戸で、伊達政宗と会い知遇を得た。
47 1611年 スペイン副王大使 ビスカイーノ メキシコから来日する。ソテーロを仲介に、家康秀忠に会う。しかし、
傲慢な態度で、不興をかう。
48 1612年 岡本大八事件起こる。キリシタン岡本大八火あぶり刑、有馬晴信は、甲斐に流刑され、45歳で、斬首される。
この年、伊東マンショ44歳、長崎で病死。江戸幕府直轄地江戸・京都・駿府に禁教令発布される。また、
有馬直純、有馬領内で苛烈なキリシタン迫害を始める。
49 1613年 秀忠 江戸浅草のフランシスコ会教会を破壊、信徒28人を斬首。ソテーロは、伊達政宗のとりなしで、釈放。
ドミニコ会佐賀から追放。支倉常長などの慶長遣欧使節、伊達藩月の浦から出発。
50 1614年 金地院崇伝「伴天連追放文」を起草、全国に禁教令。日本国内の宣教師長崎に集められ、マカオ・マニラへ追放。
45名くらいの者日本潜伏。有馬直純、日向へ転封。この年、大阪冬の陣起こる。
51 1615年 中浦ジュリアン47歳 口之津潜伏。大阪夏の陣で、秀頼自害。高山右近、追放先マニラで病死。
52 1616年 家康死去。千々石ミゲル従兄弟大村藩主大村喜前、死去。この年ペドロ・モレホン、メキシコで「日本殉教録」出版。
53 1617年 支倉常長などの慶長遣欧使節、スペインアンダルシア、セビージャを離れ、帰国の旅へ。
54 1618年 支倉・ソテーロ マニラまで帰着。
55 1619年 京都で、52名火刑 長崎でも火刑(京都大殉教・長崎大殉教)
この年、大村藩主、頼純毒殺か?急死。
56 1620年 支倉常長などの慶長遣欧使節帰国、
支倉1622年失意のうちに死去。
57 1621年 中浦ジュリアン53歳、口之津からイエズス会宛に封書したためる。
58 1622年 ローマにて、ザヴィエル・ロヨラ列聖。
59 1624年 ソテーロ マニラ当局の反対を尻目に日本に再度来る。鹿児島上陸後すぐに捕まる。大村放虎原で、火あぶり刑。
60 1627年 雲仙島原で、29名殉教、この年1597年に処刑された26殉教者のうち、23名ローマで列福。
61 1629年 踏み絵開始。原マルチノマカオで、死去、60歳。
62 1633年 フェレイラ、穴吊りで、カトリック棄教。沢野忠庵となる、キリシタン目付ともなる。
フェレイラと同じ穴吊りの刑で、隣にいた中浦ジュリアン、殉教。この年千々石ミゲル64歳で、大村にて死去。
63 1636年 イエズス会、フェレイラを除名。
64 1637年 フェレイラ棄教の罪を償うために日本に来日したイエズス会宣教師マストトリ長崎で殉教。
島原・天草蜂起、原城にたてこもる。
65 1638年 原城陥落する。3万7千人全滅。島原藩主松倉勝家打ち首。
66 1642年 イエズス会ルビノら、5名日本潜入、7ヶ月もの水責め拷問受ける、翌年全員殉教。
67 1643年 イエズス会マルケス神父ら5名、ルビノらの音信確認のため、日本潜入するも、
全員カトリック棄教。
68 1657年 現長崎県大村市において、未曾有のキリシタン弾圧事件所謂「郡崩れ」起こる。
以上がキリスト教伝来その後の100年の年譜であるが、
ここでは、
キリスト教最盛期信長時代と
迫害が起こる秀吉時代を
スポットで記載してみたい。
信長は、1581年に「馬揃え」という
大イベントを行っているが、
招待客の一番席は、巡察使のヴァリニャーノだった。
2番目が天皇である。
様々な当時あるいは後年の記録を読んでいくと、
信長は、天皇さえも従えて自ら生き神になり、
最大の独裁者になろうとしていたことが分かる。
つまり、天皇内裏さえ、子分扱いにして、
天皇に取って代わろうとしていたふしがある。
また、全ての宗教は、
仏教・キリスト教を含めて
単に支配するために利用していたようなことが
見えてくるのである。
安土山に、広大な寺院総見寺を建立したが、
宣教師らによれば、この寺は、
「信長自身を拝ませるもの」だった。
ルイスフロイスは、
「{信長}は、{予みずからが神体である}と言っていた」
と書いている。
信長は、生きているのに、全ての民衆に自分を拝ませたのだ。
本能寺の変は、単に部下の裏切りではないと考えたい。
いわば起こるべくして起こったものだった。
(詳細は諸説芬芬であることから控えたいと思う)
キリスト教迫害は、
秀吉時代に始まる。
伴天連追放令が1587年秀吉によって
出された。
(因みに、最初の伴天連追放令は
1565年正親町天皇時代に出されたが、
これを無視したのが、他ならぬ信長だった)
ここでは、秀吉時代の迫害の始まりを
簡略で記述してみたい。
1587年の追放令の理由は様々あるが、
概略おもに次の通りであろう。
①長崎・大村では、軍資金借り入れの担保として、
長崎が教会領に提供されたことは、切支丹を媒介として
日本国の一部が異国の所有になり、神社仏閣は公然破壊され、
更に切支丹信者が激増している事実に秀吉は大きな不安をもったこと。
②キリスト教がその教義として自殺を禁じる性格は、
とりもなおさず、日本古来の武士道の美徳とされた切腹・殉死
を厳禁する結果となり、秀吉の威令が切支丹大名に
通じない危惧があったこと。
③ポルトガル船による日本人奴隷の人身売買が頻繁に
行われていたが、これを知った秀吉がポルトガルに反感を
もったこと。
そして、いよいよあの1596年に
スペイン船サン・フェリペ号が土佐浦戸に難破漂着する事件が
起こる。
この経緯については、皆さんご存じのとおりなので、
割愛したい。
そして、翌年の長崎西坂での26聖人殉教事件となっていった。
(26名がヴァチカンによって聖人に列せられるのは、
江戸時代末の文久年間である)
(なお、余談になるが、
秀吉の指のことである。
ルイス・フロイスによれば、
「彼は身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で
片手には6本指があった」(日本史第16章)との
くだりである。
このことは、日本側の資料では、前田家の「国祖遺言」だけに
書かれている。
問題があるので、追及は避けたいが、秀吉の指のことは、
当時の家臣や大名の間ではタブーだったのかも知れない)
(家康時代江戸時代のキリスト教迫害史は、
大村の郡崩れで一応の幕が閉じるが、
そのことなどにつきましては、
また別の機会に記載することもあろうかと
思います)
以下旧市街からの街歩きに戻ります。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
共和国広場にある
市民会館である。
1911年建設、
ポスター画で一躍時の人となったミュシャが
市長の間の内装を行っている。
また、
スメタナ・ホールがこの中にあって、
当方も10年前にオーケストラの重厚な
演奏をここで聴いた。 -
ナ・プシ―コピェ通りの様子
-
向こうに見えるのが
市民会館(ドームが青色) -
火薬塔入り口部分まで歩いてきた
-
市民会館の1階のカフェレストラン
フランツォウスカ -
違う角度より撮影
-
火薬塔の上部を
-
道路標識
カレル橋は、右と教えている。 -
共和国広場をもう一枚撮影
-
広場を違う角度で
-
火薬塔を
正面から。 -
火薬塔をくぐると、
向こう側に旧市街広場が
見えてきた。 -
ヤン・フス像が迎えてくれた。
ヤン・フスは、周知のように
プロテスタント運動の先駆者である。
カトリック教会はフスを1411年に破門、
コンスタンツ公会議によって有罪とされる。
その後、世俗の勢力に引き渡され、
1415年杭にかけられて火刑で亡くなる。 -
フス像を大きく撮影
-
ここからは、
旧市街広場から
周辺に立つ建物を撮影。
聖ミクラ―シュ教会である。
文字通り白い壁の教会だった。 -
ヤン・フス像と聖ミクラ―シュ教会を。
聖ミクラ―シュとは、その名のとおり、
人の名前である。 -
ティーン教会である。
ここにその昔日
税金関所が設けられていたことから
その名となった。 -
旧市街広場の
奥は、火薬塔に通じる
ツエレトゥナー通りである。 -
ツエレトゥナー通りから、この写真の右方向へ行くと
カレル通りとなっている。
写真正面は、レストラン カフェが並んでいる。
世界中のツーリストで溢れているが、
10年前・5年前と少しも変わらず、
相も変わらずにぎわっていた。 -
ティーン教会を大きく。
2本の塔がひときわ目立つ。
金の飾りが頂点にある。
高さ80メートル。
15世紀前半は、
フス派の拠点だったところである。 -
ヤン・フス像と聖ミクラ―シュ教会
-
これもそうである。
違う角度で
ヤン・フス像と聖ミクラ―シュ教会 -
ヤン・フス像を後ろ側から撮影してみた。
-
キンスキー宮殿が写っている。
1755年から建築され65年完成だそうである。 -
再びティーン教会である
-
ティーン教会正面を。
-
大きく撮影
-
有名な天文時計
おしいことに
メンテナンス中だった。
世界中のツーリストが
一目見ようと溢れかえっていた。 -
1410年時計技師のミクラ―シュと
天文学者ヤン・シンデルによって作られた。
15世紀末に技師ハニュスが修復、
17世紀には12使徒の人形が取り付けられた。 -
天文時計を正面から撮るも、
メンテナンスは非常につらい。 -
だんだん大きく。
-
ご覧のように
上下二つの文字盤がある。
上の文字盤は、地球を中心に回る太陽と月のプラネタリウム
下は黄道12宮と農村の四季の作業を描く暦でカレンダリウム。
プラネタリウムにある4つの人形は、
虚栄心、貪欲、死神、異教徒の侵略という4つの恐れ、
カレンダリウム両脇の人形は、
歴史の記録者、天使、哲学者、天文学者をあらわす。 -
プラネタリウムにある4つの人形
(上の文字盤)の上には、天使の像が置かれている。 -
プラネタリウムにある4つの人形
(上の文字盤)の上には、天使の像が置かれている。 -
下の文字盤
黄道12宮と農村の四季の作業を描く暦でカレンダリウム。
両脇の人形は、
歴史の記録者、天使、哲学者、天文学者をあらわす。 -
このようににぎわっている。
写真の右側が天文時計である。
みなさん、天文時計に夢中である。 -
同じく同上である。
-
旧市街広場から、
標識に沿って、
そのままカレル通りへと進む。 -
やがて、写真のように
カレル橋の橋塔が見えてきた。
カレル橋、
現存する欧州では、最古の石橋
15世紀初頭に完成、
長さは520m
幅は9,5m
ヴルタヴァ川に架かっている。
左岸はプラハ城・城下町マラーストラナ地区
右岸は当方が通ってきた旧市街である。 -
光の具合で
明るくなるように写真を撮った。
正面にカレル橋橋塔が見えている。 -
橋塔右側の
向こう側はプラハ城が -
橋塔にだんだん近づいてきた。
-
カレル橋橋塔を大きく。
上部には、
ボヘミアの守護聖人ヴォィチョフと
聖ジグムント像が立っている。
その下には、
聖ヴィート・カレル4世・聖ヴァーツラフの像が
並んでいた。
14世紀の欧州ゴシック建築の最高傑作のひとつらしい。 -
世界中のツーリスト達で
溢れかえっていた。 -
カレル橋橋塔の間を
くぐりぬけて
橋側からもう一度
撮影した。
ここからは、
いよいよカレル橋両側の
30体像である。
ただ、建設当初は
像は1体もなかった。 -
建築当初、
橋上では、公開処刑が
おこなわれ、
首を斬首される罪人は
橋上に設置された十字架に
最後の祈りをささげたと言われる。
そのため、
最初に立てられた像は
十字架像「カルヴァリ」だったのだ。
左側に見えてきたのは、
おそらく聖ヴァルバラ 聖マルガリータ 聖エリザベート像 -
これは、
聖母と聖ドミニクス、トマス・アクィナス像だと
思われる。 -
聖ヴァルバラ 聖マルガリータ 聖エリザベート像
-
同じく
聖ヴァルバラ 聖マルガリータ 聖エリザベート像を
大きく -
聖母と聖ドミニクス、トマス・アクィナス像
-
人々の流れはどこまでも
続いていた。 -
聖ピエタ像である。
そのまえは、15世紀末
ここには、十字架があっただけである。 -
ブロンズの十字架像である。
1657年建立。
ここには、14世紀から
十字架が立っていたという。
両側の聖母と聖ヨハネの石像は、
1861年追加された。 -
聖アンナ、
聖母とみどり児の像である。 -
聖ヨセフ像
-
1549年
日本にキリスト教を
もたらしたザヴィェル像である。
カレル橋、旧市街側からみて、
左側5番目の像である。
現在の像は、1913年製作されたが、
本物は、1711年ブロコフ製作、
これはコピーである。
彼が布教したアジア人たちが
聖人ザヴィェルを楯にのせて担いでいる。 -
その東洋人たちの姿を
大きく撮影。 -
上のザヴィェルを
撮影 -
ザヴィェル逆光になっていて
良く写っていない。 -
聖キリル像並びに聖メトディウス像
-
聖キリルと聖メトディウス像
-
洗礼者ヨハネ像
-
同上。少し大きく
-
更に大きく
-
聖ノルベルト
聖ヴァーツラフ
聖ジギスムント像 -
下部分を
-
再度全体を
-
いよいよ、
もっとも会いたかった
ヤン・ネポムツキ―像である。
当方、10年前も5年前も
ここでこの像を佇んで見ていたことが
甦る。 -
業務上知りえた秘密は決して漏らしてはならぬ
権化のような人物ヤン・ネポムツキ―。
カレル大学で、神学を学び、
司祭として宮廷に仕えていた。 -
ある日のことである。
彼は業務上、
王妃の懺悔を聞かされる。
時の王ヴァーツラフ4世は、
妻に不貞の疑いを抱き
ネポムツキ―に、
妻はどういう内容の懺悔をしたのか
問いただした。
しかし、彼は、業務上知りえた秘密なので、
国王に内容を漏らさず、拒否した。
王ヴァーツラフ4世は、
激怒し、ネポムツキ―の舌を切りおとし、
カレル橋から突き落として溺死させた。 -
上記のような逸話があり、
いかに権力に脅されても
秘密を守り通す姿に
チェコ人が喝采を送る理由らしい。 -
カレル橋の
他の29体像は
石造りだが、
ネポムツキ―像だけは、
ブロンズ製である。
十字架を抱えて、
右手には棕櫚の枝をもち、
頭上に
5つの星が円を描いている。
像の台座に手を触れると
幸運がおとづれるという言い伝えがあり、
写真のように、
そこだけ、ぴかぴかに輝いている。
多くの人々が触っているからである。 -
同じく
像の台座部分を。 -
聖ルドミラと
聖ヴァーッラフ像 -
同上全体像
-
聖フランシスコ・セラフィヌス像
逆光でよく写っていなかった。 -
聖アントニウス像である。
-
聖アントニウス像である。
分かるようにやや大きく撮影。 -
聖タダイのユダ像
-
同上
-
聖アウグスチヌス像
-
トレンティーノの聖ニコラス像
背後には、中州のカンパ島へ降りる階段があった。 -
聖ルトガルディス像
30体の彫像の中で
最も美しいとされている。
十字架にはりつけられた
キリストが、
傷口にキスしようとする聖女のために
身をかがめている。 -
聖ルトガルディス像の
台座部分を大きく。 -
聖ガエタヌス像
-
聖ペニート=フィリッホ像
カレル橋唯一の大理石像である。 -
聖アウグスチヌス像
-
聖ヴィート像
-
マタの聖ヨハネと
ヴァロフの聖フェリックス
聖イワン像である。
犬を連れた牢番が
下に立っている。 -
同上を
違う角度より -
マラー・ストラナ側の橋塔が見えている。
そして、カレル橋最後の像、
左には、聖ヴァーツラフ像が、
右には救世主と
双子の聖コスマスと聖ダミアヌス像が立っていた。 -
救世主と
双子の聖コスマスと聖ダミアヌス像
である。 -
チェコで、もっとも
崇拝されている聖ヴァーツラフ像である。 -
カレル橋終わりの塔が見えてきた。
-
救世主と
双子の聖コスマスと聖ダミアヌス像
である。
正面から -
上記救世主と
双子の聖コスマスと聖ダミアヌス像
の台座部分。
ここを、写真におさめた後、
いよいよプラハ城まで歩いて行った。
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