2017/11/04 - 2017/11/04
361位(同エリア829件中)
滝山氏照さん
菖蒲城(しょうぶじょう、埼玉県久喜市菖蒲町新堀)は15世紀中頃に五代鎌倉公方として再興した足利成氏(あしかが・しげうじ、1438~1497)が関東管領上杉氏と不仲から敵対関係に発展し交戦状態となり、幕府の命を受けた駿河国守護今川範忠(いまがわ・のりただ、1408~1461)の攻撃を受け鎌倉府を追われ、公方の御料地である古河に拠点を移した頃、家臣の金田則綱(かねだ・のりつな、生没不詳-後に佐々木氏に改姓)に命じて築城させた平城で、城の竣工の日が菖蒲の節句(五月五日)であったことから命名されたそうです。
当城は関東平野のほぼ中央部にあたり、荒川と利根川に挟まれた低湿地帯の微高地に築かれ、上述の上杉氏との攻防の最前線基地として造られたものですが、戦国時代では天文6年(1546)の河越夜戦に勝利し敵対する扇谷上杉氏を崩壊させ、山内上杉氏を上野国に追いやり、古河公方足利晴氏を敗退させた新進気鋭の小田原北条氏が武蔵国支配を手中に収め、菖蒲城は周辺の騎西城等とともに同氏の傘下に組み込まれますが、天正18年(1590)いわゆる小田原征伐で北条氏の本拠である小田原城開城に伴い当城も落城し廃されたようです。
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル
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菖蒲城跡全景
県道12号線を北上し新堀地区に入ると左手に広々とした土地が窺えます。 -
菖蒲城跡堀
城跡の南側には東西に一直線に伸びる1mほどの用水が施されており、往時はこれが郭を囲む堀であったかも知れません。 -
菖蒲城跡
県道12号線に面した城跡ですが道路拡幅によって城域の一部が消失しています。 -
内藤氏陣屋裏門
当該門は当地を支配した旗本内藤氏陣屋の裏門で、維新による破却後は菖蒲町の名主三須家が引取り保存、1998年寄贈により現在地に移築されています。 -
内藤氏陣屋裏門説明板
年月の経過により文字が薄れ判読が困難ながら下記の通り記載されています。
「旗本内藤屋敷門
この門は、江戸時代この地域一帯を治めていた、旗本内藤氏の栢間陣屋の裏門と伝えられています。
陣屋とは領地に置いた屋敷、役所のことです。内藤氏は、現在の栢間小学校の地を中心に、約一万坪の広さを有する陣屋を置き、戸崎(菖蒲)・新堀・三箇・栢間・小林の各村に、合わせて五千七百石の領地を治めました。
内藤氏は、徳川家の大身旗本として十四代にわたり幕末まで仕えましたが、中でも初代の四郎左衛門正成は、徳川家康の重臣として、数々の戦功を立てたことから「徳川家康十六神将」の一人にも数えられています。
なお、内藤氏の歴代の墓所は下栢間の善宗寺にあります。
明治以降、陣屋は廃止解体されましたが、この門は当時名主であった三須家に移築され、今に伝わりました。
このほど三須昭氏のご厚意によりこの門が町に寄贈されたことにより、城址あやめ園に移築したものです。
平成10年 久喜市」 -
内藤正成絵像
説明板には「徳川家康十六神将」の一人と呼ばれた栢間陣屋初代旗本内藤正成(ないとう・まさなり)の絵が挿入されています。 -
菖蒲城跡門
栢間陣屋移築の門の内側から県道12号を望みます。県道の東側も田園風景が広がっています。 -
菖蒲城跡周辺案内図
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菖蒲城跡
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菖蒲城跡
遺構は全く見られず現在は農地とあやめ園となっています。 -
菖蒲城跡
当地は「あやめ園」という公園で渡り廊下が施されています。 -
菖蒲城跡
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菖蒲城跡碑
中央部には東屋が配されてその横には「菖蒲城址」と刻された石碑が建っているだけです。 -
菖蒲城跡石標
あずまやの脇には「菖蒲城址」と刻された石標が建っているだけで当該城に関する説明板などはありません。 -
石碑
風雪にさらされたのか文字が消失しており判読できません。 -
菖蒲城跡
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菖蒲城跡
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菖蒲城跡風景
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菖蒲城跡風景
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