2017/07/07 - 2017/07/17
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ミズ旅撮る人さん
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2017年7月に、旧ユーゴスラヴィアの5か国を11日で周遊するツアーに参加しました。
第3回は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボです。
サラエボというと1984年冬季オリンピックが開催されたことで知っている人も多いと思います。
また、第一次世界大戦の引き金になったオーストリア皇太子暗殺の現場でもあります。
国名より有名なサラエボの町。その名前は、隊商宿の「サライ」から来ています。この町は、東西交易で栄えた歴史ある街で、キリスト教会もイスラムのモスクもすぐそばにあります。
セルビアに続き、今回も前後編になります。前編では、サラエボ駅の朝散歩(ミニ鉄道編)と旧市街の散策前編としてミリャツカ(Miljacka)川周辺を中心に、皇太子暗殺事件について見て行きます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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セルビアから国境を越えて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに入ってから、ずっとドリナ川沿いを南下しています。
川の両岸は山が迫っていて、所々にポツンポツンと集落が散見されるだけ。
この川は、この先の上流もずっと両国の国境線を担っていきます。だから対岸はセルビアです。 -
満月が昇って行きます。日没は20時半頃です。
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サラエボのホテルはサラエボ駅のすぐ上にあります。駅前にある高層ビルの横に満月が寄り添っています。
この日の夕食はホテルでしたが、予想通り到着は遅くなり、21:30でした。 -
長い一日の最後の食事は、22時を越えました。メインはビーフのポテト添え。サラダとケーキが付きました。
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ホテルの部屋にバスタブはなく、シャワーブースだけです。もう寝るだけだからいいけど、ちょっと狭い。
ホテルは、サラエボ駅裏手のグランドホテルです。旧市街からはかなり離れているので、交通機関を使わなければなりません。ホテルはちょっと山の手なので、サラエボ駅まで降りて行くことになります。ホテル グランド ホテル
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翌朝です。今日の出発は9:15と遅いので、サラエボ駅まで散歩することにしました。
ホテルの周りには、草花がいっぱい咲いています。 -
可愛い実がたわわに生っています。食べてみると、大きめのサクランボかな?といった感じでした。
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ホテルは、この踏切を渡って、突き当りを左に行った所です。踏切がここにしかないので、ホテルからは少し迂回することになります。
口コミでは、相当大回りのように書かれていましたが、道なりに歩けば軽い散歩程度の道のりです。
昨日の日中は暑かったけれど、朝晩は気温が下がるので快適です。 -
真下から見た昨夜の高層ビル。ここの展望台は、1KMで上れます。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの通貨はコンベルティビルナ・マルカという長い名前で、約62円です。アヴァズ ツイストタワー 建造物
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サラエボ駅です。なんという味気ない駅前なんでしょう。真ん中のガラス窓がたくさんある建物が駅舎です。
左端に、RAILWAY STATIONと書かれていなければ、逡巡するところです。サラエボ中央駅 駅
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駅前広場はトラムの電停になっています。
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駅舎の中は、がらんとしたホールです。突き当りの角からホームに行かれます。
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余りにも何もなくて、本当に行っていいんだろうかと心配してしまいます。
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明るい朝でなければ、ここまで来られなかっただろうなと思うほど、案内一つない構内。
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ちょっとタイの国鉄に似たカラーの列車がいました。
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でも、すぐに発車して行ってしまいました。
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向こうのホームにいた駅員さんが、線路を渡って来ます。きっと、いつもそうなんだね。
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残ったのは、この1両だけ。たぶん使われていない車輛です。
日曜の朝とは言え、人っ子一人いないなんて。 -
駅員の詰め所。見事に「壁」だけ。ひょっとして装飾というものを必要としないんだろうか。
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一応、新しい車輛のポスターらしいものはありました。
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さあ、そろそろ引き上げようかと思ったら、ホームの片隅にSLがあるではありませんか。
まったく予想もしていなかったので、びっくり! -
軽便鉄道くらいの小さな車両です。運転席が覗けないのが残念。
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説明板も何もなく、ただ置かれているだけ。でも、会えて良かったよ!
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さあ、ホテルに戻りましょう!
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ところで、ホテルへの道には、実は地元御用達の「近道」があります。
この線路は、駅から先は車庫に通じるだけなので、ほとんど列車が通らないようです。
なので、地元の人は踏切まで行かずにここから斜め横断をしています。 -
線路を跨ぎ越し、小屋の前を回り込んで、姿を消しました。
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ホテルに戻って、部屋から見て見ると、確かに地元の人たちが次々と線路を横切って行きます。
正式な道は、上部の車道に沿って設置されている歩道です。 -
バスで旧市街に向かいます。ラッピング車両のトラムが走っています。
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サラエボ美術アカデミー(The Academy of Fine Arts Sarajevo)
オリエンタリックな屋根が特徴的です。それにしても、ドームが緑色で、屋根が青色・・・The Academy of Fine Arts 建造物
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Sehercehaja 橋の袂でバスを下ります。
Seher Cehaja Bridge 建造物
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そこに現れた現地ガイドは、まるで高校生のような若いお兄ちゃん。サラエボの観光は楽しくなりそう。
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付近は、とてものどかな可愛い町に見えます。
とても、紛争の起こった町や、オーストリア皇太子暗殺のあった町とは思えません。 -
一応、町の地図が立っているのですが、あまりにおおまかな地図なので参考になるのかどうか・・・
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それより、この周辺の雰囲気がとても気に入りました。
オスマン・トルコの影響で、モスクが多いのですね。 -
City Hallです。まだ新しいようで、とても目立ちます。デザインがイスラム系ですね。
サラエボ シティ ホール 史跡・遺跡
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クラシカルなトラムが走って行きます。
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トラムの路線は、旧市街を挟んで北と南にあります。
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連結バスも通っています。
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次のトラムのラッピングはベッド!ベッドとイチゴ。なんだか倒錯的なデザインですが、全体的には真っ赤で可愛いです。
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もう一つおまけで、「Choco lips」のラッピング。たぶん、チョコレートの宣伝なんだと思うのですが。
様々な目立つラッピング車両が次々にやって来るので、つい観光前からテンションが上がってしまいます。 -
南岸にある大きなモスク(Emperor's Mosque)。
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1階は洋風、2階以上はイスラム風の建物。サラエボって、こういう町なのかもしれません。
どちらか片方だけを選択するのではなく、どちらからもいい所を採る。賢い方法です。 -
アイデア・ベンチ発見。普段、使わない時は座面は跳ね上がっていて、そこに広告が現れる。
ベンチの座面の劣化は防げるし、人が見るので広告効果もバッチリ。 -
橋げたに2つ丸い穴の開いたデザインが特徴のラテン橋。
サラエボに現存する橋の中では一番古い橋で1791年11月15日に洪水によりかなりの損害を受けました。
商人のアブドゥラ=アガ・ブリガ( Abdulah-aga Briga)が1798-1799年に資金を出して、再建しています。
現代のサラエボの市章にも図案化されて使用されています。
この橋は、デザインではなく、大きな事件の端緒の起こった場所として有名です。「サラエボ事件」。
1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件です。
この事件をきっかけとして、オーストリアがセルビアに宣戦布告、第一次世界大戦が勃発しました。ラテン橋 建造物
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橋の北岸にはサラエボ博物館(Museum Sarajevo 1878-1918)があります。
壁面にはサラエボ事件に関連する写真が展示されています。
学校で、「第一次世界大戦の発端はサラエボ事件」と習ってはいますが、実際に現場に行ってみると、事件の背景や、実際に起こったことが正確には伝わっていないのだということがわかりました。
以下に、要約を記載します。
ボスニア・ヘルツェゴビナは1878年のベルリン会議でオーストリア=ハンガリー帝国が占領し、その後1908年には正式にオーストリア領に併合されていました。
多くのボスニア住民、特にボスニアに住むセルビア人はこれに反発し、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合を望んでいました。 -
セルビアを視察に来た皇太子夫妻を乗せた車の隊列は、このラテン橋に差し掛かったところで、テロ・グループに爆弾を投げ込まれます。しかし、皇太子の車には命中せず、未遂に終ります。
皇太子を乗せた車は、近くの市庁舎に避難しました。(この「旧市庁舎」は、現在は国立図書館になっています)
そのまま厳重な警護に守られて市庁舎に籠っていれば悲劇は起こらなかったのですが、フェルディナント皇太子は、爆発で怪我をした人を見舞うため、病院へ向かうことにしたのです。
ところが車は、予め警備を固めた予定のコースを外れてしまい、間違いに気づいた運転手は街角で方向転換をしました。
その街角こそ、暗殺に失敗し、食事を摂るためにプリンツィプが立ち寄った店の前の交差点だったのです。
皇太子の車が方向転換をした事で、プリンツィプはその車に皇太子が乗っている事に偶然気がつきました。
彼はピストルで、1発目は妊娠中の妃ゾフィーの腹部を、2発目は皇太子の首を撃ちました。夫妻はボスニア総督官邸に送られましたが、2人とも亡くなりました。 -
オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビアが48時間以内に無条件で帝国が提示した全条件を受け入れなければ宣戦布告することを通告しました。セルビアは2つの条件以外は受託しようとしたのですが、
1914年7月28日オーストリアは無条件での受諾を求める事前の通告通り、セルビアに対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発しました。
この写真は、暗殺事件で捕らえられた時のものと、ガヴリロ・プリンツィプの顔写真です。
終身刑となったプリンツィプは、獄中で結核のために死亡しています。
第一次世界大戦後からユーゴスラヴィアの崩壊まで、プリンツィプはセルビアの愛国者として賞揚されました。 -
第一次世界大戦は、帝国主義の戦争とも言われ、
同盟国(オーストリア=ハンガリー帝国・ドイツ帝国・オスマン・トルコ帝国・ブルガリアの4か国)と
連合国(セルビア・モンテネグロ・アルバニア・ギリシャ・ルーマニア・イギリス・フランス・イタリア・ロシア・日本など27か国)の戦いとなりました。
日本は、日英同盟により連合国側で参戦すると、中国にあったドイツの租借地膠州湾と青島を占領し、ドイツの利権を奪っていきます。中国に対しては「二十一か条要求」を突きつけます。
アメリカは中立の立場を保っていましたが、1917年4月に参戦、連合国側が次第に有利になって行きます。
1917年11月、ロシアで10月革命が起こり、ロマノフ王朝が滅亡します。これにより、ロシアが撤退。
翌年9月にブルガリア、10月にオスマン・トルコ、オーストリアが降伏して、栄華を誇ったハプスブルク家が崩壊します。
11月にドイツ革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム二世が退位し、ドイツ共和国となり、連合国に降伏します。
1919年パリ講和会議にて、ベルサイユ条約が結ばれますが、ドイツに対してあまりに厳しい内容であったため、やがて第二次世界大戦を引き起こしてしまうのです。
写真は、ラテン橋に設置されていた記念碑です。ユーゴスラヴィアにとっては、賞賛すべき事件でした。ユーゴ解体後は撤去されています。
また、皇太子夫妻の襲撃された車両はウィーン軍事史博物館に保存展示されています。 -
サラエボ事件を記した銘板。この文言も、最初はセルビア寄りの内容でしたが、徐々に緩和されてきたようです。
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旧市街の散策開始です。まずは博物館から西に向かい、ホテルヨーロッパの手前。ちょっと珍しい建物があります。
オテル ヨーロップ ホテル
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「Gazi Husrev-begov bezistan」
元は、バザールだった建物で、現在はショッピングアーケード、名称は違っても同じですね。Gazi-Husrev Beg's Bezistan お土産店
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側面から見ると、こうなっています。東西交易で栄えた町だったことがよくわかります。
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イチオシ
反対側の側面。旧市街の北側は、山裾の斜面になっています。
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Curciluk mali です。建物などの統一性はなく、一見ごちゃごちゃっとしているのに、整然としている、こういう通りを歩くのが楽しみです。
早く自由行動にならないかな。 -
トリコロールの警告灯のついたパトカー。お世話になりませんように。
旧ユーゴ5か国を巡る今回の旅に出発する前に、添乗員からこの地域のツアーでは、非常に高い頻度で盗難に遭う客が出るので、最大限に注意をしてくださいと言われました。
今年は、ほぼ2回に1回の頻度です。と言われれば、そんなに物騒なのかと思ってしまいますが、イタリアのようにそこら中スリ、かっぱらい、泥棒だらけな国みたいなことは全然ありませんでした。
オンシーズンということもあって、欧米系の観光客がたくさんいるので、必然的にそういう生業の人間も増えるのでしょう。 -
Zelenih beretki。大聖堂に向かう道です。
普段ならとても賑わう通りなのでしょうが、今日は日曜日なので、しんと静まり返っています。 -
「City Lounge」。一部塗装が剥げてしまっていますが、クラシカルないい感じの建物です。
日曜日ですが飲食店や土産物店はやっています。 -
何故か路地にロンドンバスがいて、びっくり。展示品?
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「イエスの聖心大聖堂(Katedrala Srca Isusova)」という妙な和訳のついた教会。
イエスの聖心大聖堂 寺院・教会
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現地ガイドの案内で、真っすぐここに来たのですが、後で地図を見るとこの先に大きな「生神女誕生大聖堂」というのがありました。
そっちは見なくて良かったの?少なくとも私は見たかったです。 -
「イエスの聖心大聖堂」の前には「教皇ヨハネ・パウロ2世の記念碑」があります。
ローマ法王が来て、よかったという雰囲気にはちょっと見えない像ですが。
オーストリア=ハンガリー帝国に占領されてからこの教会も建てられたようですし、あんまり歓迎一色ではなかったのかな? -
バルカン半島の諸国では、日曜日の商店の閉店はまだまだしっかり定着しています。
街歩きはしやすいですが、お店が開いていないと、街の賑わいもないので寂しいです。
それでは、この後の街歩きは後半にて。
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