2015/12/26 - 2016/01/03
746位(同エリア1031件中)
ふくうめちゃんさん
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毎年恒例・夫と行く年末年始の台湾旅行は11年目に突入。今年も2匹のニャンを預けて、台北を気ままにブラブラ。
平渓線の終点「菁桐」に行ってきました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
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-
4日目の朝です。
そろそろ旦那様は‘腰痛い’‘歩くの嫌’‘すぐ疲れる’モードになってきた‥ので、できるだけ乗り物で時間潰しするようにしないと機嫌を損ねてしまいます。
『昨年修復中で見れなかった「菁桐車站の建物」と、時間がなくて見れなかった「猴とん煤礦博物園区」に今日は行きたい』と言うと
『行くのはいいけど満員電車状態の平渓線に乗るのは嫌だ』と‥
なので平渓線を使わず菁桐に向かうことにしました。
今晩からKホテル台北Ⅱのエグゼクティブスイートは予約できなかったため別部屋に移動です。荷物はホテルで移動してくれるので部屋に置いたままでいいと言われました。
荷物をまとめ終えたらフロントに鍵を返却・清算をして出発。 -
昨年平渓線に乗り十分瀑布にいった際、十分※(※正しくは人べんに分の字です)・平渓・菁桐へアクセスする台湾好行バスがあることを知りました。
そのバスを使ってまず菁桐へ行きます。乗り場はMRT木柵站。
バス225で‘民権中山路口’→‘捷運中山国中站’へ。
写真はバスの車窓からみた行天宮(バス停‘民権松江路口’)
‘民権復興路口’のバス停で降りると道路を横断する必要があります、‘捷運中山国中站’バス停は近くに駅出入り口があるのでMRTの乗り換えが楽でした。 -
MRT木柵線に乗り換え‘MRT中山國中站’→‘MRT木柵站’
車窓からみた台北101 -
MRT木柵站の改札をでたら右側の出口2番へ。
「←台湾好行 木柵平渓線」とバス停を案内する看板がありわかりやすいです。
木柵路4段の横断歩道を渡ったところにバス乗り場。 -
バス乗り場正面(道路の向かい側)にある大きな寺廟が目印。
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台湾好行‘木柵平渓線’
木柵⇔平渓線沿線(菁桐~十分)
795番は観光専用バスではなく普通の路線バス。
十分遊客中心に行かない・台湾好行塗装でないバスがありました。
往平渓(平渓行)とバス前方に掲示のあるものは平渓止まり。
往野人谷(野人谷行)と掲示のあるものは十分寮(十分老街)の先で分岐して十分遊客中心にはいきません。
終点の十分遊客中心(ビジターセンター)は十分站と十分爆布の間にあるので、十分瀑布へ行く場合は‘十分遊客中心’で、十分老街に行く場合は‘十分寮(十分老街)’で下車します。
今回の目的地は‘菁桐’なのでどの795バスにのってもOK。
捷運木柵站は始発ではないので人を乗せてやってきました、そして乗客を乗せたらすぐバス停を出発。
横断歩道の向こうで「乗るから待って~!」と運転手さんにアピールしているグループが‥運転手さんが気付いて待っていてくれました。
平日は特に本数が少ないので、乗れて良かったね(^.^) -
「深坑国小」バス停付近。
この手前、「深坑郵局」バス停と「深坑」バス停の間左側の車窓に‘三級古跡・深坑黄氏永楽居’、「深坑」過ぎてすぐ右側の車窓に煉瓦作りの建物が並ぶ‘深坑老街’が見えました。
深坑に立ち寄ってから行けば良かったかな。捷運木柵站から深坑に行くバスは結構ありました(660番、666番、679番、819番) -
川の流れる谷間を縫うようにバスは進んで行きます。
小さな集落・街が所々あるけれど周囲は殆ど山・山・山の景色。 -
「姑娘廟」
昔はお嫁に行かずに逝ってしまった女の子は祖先の墓に葬ることができなかったそうです。霊魂が彷徨うことのないよう、人々が資金を出し合って建立し位牌を祀った廟が「姑娘廟」。
この「石碇姑嫁廟」の主祀は‘魏仙姑’
清代に‘魏扁(1862年生-1879年没)’という未婚の女性を祀った小さな祠が始まりで、彼女のように若くして逝ってしまった少女の位牌がここに集まり沢山祀られているそうです。 -
「菁桐坑」で下車。
私達の他に下車したのは3名、下車鈴を押さなかったのにバス止まってくれた‥?
木柵から所要時間45分位でした。 -
横断歩道を渡った向こうに菁桐老街・平渓線菁桐站があります。
後ほど知ることになったのですが、バス停向かいの平屋の建物は‘福利社’。日本統治時代は生活必需品の調達所だったところです。
バス停近くに二つ目印になるものがあります。 -
「礦工地標」
石炭を掘る炭鉱夫の像 -
「平渓分駐所(天燈派出所)」
‘菁桐’にあるけど‘平渓’分駐所‥?
平渓線沿線は12の村で構成される‘平渓郷’というエリアで、菁桐(里)は村の一つ。この派出所の平渓は‘平渓郷’の意味ですね。(平渓郷は改編され現在は新北市平渓区)
この派出所、ランタンの形をしています。
ランタン部分のガラスパネルはモニターになっていて、毎日午後16時より30分ごとにランタン文化の紹介などポリス・ランタンを放映しているそうです。 -
ポリスランタン放映中はこんな感じなんでしょうか、綺麗ですね。
ポリスランタンには「LED許願天燈」というサービスもあるとか。
メッセージカードを購入(150元)、願いごとやメッセージを書き込んで申し込むと、それが巨大LEDランタンにメッセージランタンとして映し出され、下から上へ登っていくそうです。 -
平渓分駐所前にあった案内図
「礦工地標」を駅と反対側に行くと基隆川。
川を渡った橋の向こうは「白石村」、日本人居住区があったようです。日本家屋が残されている場所もありそう、でも同伴者は「歩くの嫌」な人‥せっかく来たので色々見たいけど、今回は我慢します。 -
菁桐街に入るとすぐ線路に出られる場所がありました。
線路や駅周辺には「厳禁行走軌道」の赤い看板があちこちにあるけれど‥
皆お構いなしで線路に入って写真撮影。
電車は約1時間に1本、しかもここは駅の先で通常は電車が入ってこない場所。
こんな素敵な場所なのだから、線路に入らずにはいられない(^-^; -
線路脇にずらりと並ぶ「許願筒」
「許願筒に願い事を書いてぶら下げると願いが叶う」‥と言われています。
菁桐駅の駅員さんが氷屋の女性店員さんに恋をして、その思いを竹筒に書いて伝えたことが始まりとか→つまり許願筒は手紙の変形のようです。
絵馬みたいなものと紹介されることが多いですが、神様に祈願して奉納する絵馬とは違うそうです(‘自分の思い’を書くもので、誰かに祈願しているものではないので)。
‘願いが叶う竹筒’ということは、竹筒に書いた駅員さんの思いは相手に届いて恋が成就したってことですよね? -
「菁桐老街」
炭鉱業の最盛期は‘菁桐坑銀座’と呼ばれた繁華街。
昨年来た時は人がいっぱいでとても賑やかでした。
こういう閑散とした感じの老街のほうが趣があって私は好き。電車でここに来なくてが正解だったのかも。 -
「菁桐鉄道故事館」
博物館のようですが、台湾鉄道関連グッズのお店。
鉄道ファンのオーナーが収集した鉄道関係の文物の展示があります。 -
‘平渓郷’といえば毎年元宵節開催される‘天燈祭’で有名。
小さなランタンの飾り物が売られていました。1個120元。書いてある願い事がそれぞれ違います。 -
「菁桐車站」
日本統治時代の建物が、現在も駅舎として使用されています。
昨年ここを訪れた時は修復工事中でした。
2014年2月~2015年2月、1年以上かけて駅舎は修復されました。菁桐駅 駅
-
新北市指定古跡
修復工事が終わってあまり時間が経っていないので瓦屋根も壁も綺麗です。
以前写真でみた菁桐車站は屋根は苔で緑色になっていて、老朽化した木造の駅舎が長い年月を感じさせる物でした。
修復前の古い駅舎見たかった‥もっと早く訪れるべきでした。 -
「日本統治時代の1931年建築、日本式の木造建物」と書いてあります。
台湾に現存する日本統治時代の木造駅舎は4箇所、その中の一つ。
日本でも現存する古い木造の駅舎は少なくなってしまい、なかなか見ることができない昨今。
本当に貴重な建物です。 -
駅前に並ぶお店
炭鉱閉山後寂れてしまった街の雰囲気、ちょっと淋し気な感じが良い。 -
老街はとても小さく、あっという間に通り過ぎ‥100メートルあった?
通りの突き当りをそのまま真直ぐ、沢山の許願筒の下を通り抜けると -
広いテラスのような場所にでました。
壁全体に蔦が絡まるこの建物は「菁桐站の駅員宿舎」だったもの、現在は「菁桐礦業生活館」。
駅員宿舎がここに設置されたのは日本統治時代だそうです。
最初の建物は木造で老朽化により煉瓦作りに建て替えられたため、当時の面影はもう残っていません。 -
視界が開けた景色の良い場所にあります。
『ここで座って待っているから、電車がでる10分前までに戻ってこい』と夫。
与えられた自由時間は30分、時間がないから遠くにはいけないな‥。
赤い橋が見える、ちょっと行ってみます。 -
「中埔鐵橋」
橋の向こうはかつて「中埔工寮」炭鉱労働者の宿舎があった場所。当時の建物が木々の中に埋もれるように残されています。
橋の欄干の両側に許願筒がいっぱい。
この橋には「情人橋」という別名がついていました。
駅員宿舎と中埔工寮を結ぶ橋、許願筒の始まりといわれるお話と関係があるのかな? -
中埔鐵橋から見た景色
下を流れているのは基隆川、降りたバス停の近くにあった橋(平菁橋)が見えました。
平菁橋の完成は1966年、この橋がなかったら対岸の行き来も他の街への往来も本当に不便なままだったと思う‥。 -
その反対側、中埔鐵橋から平渓方面
崖っぷちに家、平渓線の線路と川の間の狭い所に立ち並んでいます。 -
時間がないので中埔鐵橋の途中から引き返してきました。
壁面がツタに覆われたこの建物、「緑屋」と呼ばれているらしいです。 -
写真奥の白い建物が「菁桐礦業生活館」、線路側に入り口がありました。
その先に菁桐站のホームに上がる階段、改札口を通らずに直接ホームを往来できます。 -
「菁桐礦業生活館」
入場無料。月曜日・祝日・選挙日は休館です。菁桐鉱業生活館 博物館・美術館・ギャラリー
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平渓区は基隆川・平渓線に沿うように街が形成され、豊かな自然に囲まれた場所にあります。
自然・集落・有名な平渓天燈などのイベント・見所を紹介。 -
菁桐の歴史の紹介、発展史の年表
『1907 潘炳燭発現煤田露頭』
平渓庄初代村長‘潘炳燭’氏が地面にでている石炭を発見
『1918 台北炭礦株式会社(台陽)成立』
日本の藤田組と顔雲年氏が共同出資し‘台北炭礦株式会社’を設立。
1920年(大正9年)藤田組所有の株式を顔雲年が譲り受け‘台陽鉱業株式会社’と改称。
台陽鉱業は台湾北部の炭礦や瑞芳・九分の金鉱などかつての鉱山経営でとても有名な会社です。戦後‘台陽礦業公司’に改称しました。
創始者の顔雲年氏は一青窈さんの曽祖父だそうです。
『1921 平渓鐡道竣工設置菁桐站』
1921年(大正10年)、台陽鉱業が 菁桐坑開発のために専用鉄道‘台陽礦業石底線(三貂嶺 - 菁桐坑)’を敷設、これが現在の平渓線の前身。
1929年 台湾総督府鉄道が買収し、台湾総督府鉄道平渓線となりました。
『1932 菁桐坑引進電力』
『1934 菁桐國小創校』
‘瑞芳小学校菁桐坑分校’として開校。当時は礦業所近くの臨時校舎を使っていて、平渓で日本人が就学できる唯一の小学校。1938年‘菁桐尋常小学校’として独立、現在の場所に移転。
『1939 石底大斜坑開墾完成』
『1943 菁桐坑「銀座」火災』 -
菁桐の炭礦業についての紹介。
坑道内のジオラマや実際使われた道具などの展示など色々ありました。
そのなかのひとつ、炭礦が操業していた時の模型。
菁桐駅の近くに今も残されている建物だとすぐわかりました。
山の高低差・斜面を考え施設を配置し、その傾斜を上手に利用して石炭を移動できるようになっています。
「選洗煤場(石炭洗浄選別所)」
1928年(昭和3年)完成。掘削した煤炭には質の悪い石炭や岩石も含まれており品質も均一でないので、洗浄し不要なものと分けたり・大きさを揃えたり選別する作業‘選炭’を行う場所。
建設当初は主に木造建築、1960年代に整備され現在の姿(煉瓦造り)になったそうです。
「貯煤場」
選炭された石炭の貯蔵場所
「降煤櫃(石炭卸場)」
選洗煤場で選炭された石炭を貨車に積み込む場所。一番下に線路が走っています。
石炭を積み込む為の貨車が貯煤槽の真下に入線、貯煤場→貯煤槽へ溜められた石炭がホッパーと呼ばれる注ぎ口から貨車に積み込まれる仕組み。 -
炭鉱業最盛期の菁桐站・石底大斜坑周辺の地図。
菁桐の石炭産地のひとつ‘石底煤礦(炭田)’、ここで採れる‘石底炭’は台湾最良質と言われていました。
石底大斜坑はその名の通り‘石底煤礦’にある‘大きな’‘傾斜している坑道’
1937年開坑、完成は1939年(昭和14年)。
総延長南北約5㎞・幅1.5㎞・深さ1㎞に及ぶ地下採礦場で、それまでに開坑された石底一坑・二坑・三坑・五坑と連結。
中に軌道(トロッコのレール)があり、各坑道採掘された煤炭は大斜坑に集まり、ここを通り外に運び出されました。
この地図からわかること
大斜坑の煤炭などの運搬には入り口上部にある電気式捲揚機を用いていた(トロッコと繋がれたワイヤーロープを巻き上げてトロッコを引っ張りあげる)。
運び出された煤炭はトロッコ(軽便鉄道)で選洗煤場へ運ばれ選炭され鉄道(平渓線)で出荷。
選洗煤場ででた不要な岩石は石捨て場(山・河原)へトロッコで運ばれた。
この周辺には事務所・休憩所・倉庫・工場などの施設が集まっていて、トロッコの軌道が張り巡られています。煤炭だけでなく機械の類・人もトロッコを使って移動していたようです。
石底大斜坑完成により石炭生産が効率化したことが、菁桐を石炭産出量台湾一にした要素の一つと考えられます。 -
写真で当時の街の様子を紹介しています。
職員宿舎は台陽鉱業株式会社職員の住居、工寮は‘炭鉱夫の寮’。
石底大斜坑完成前はそれぞれの坑道口からを煤炭を運び出していたので、菁桐坑開発当初の住居は一坑・二坑などの近くにありました。
情人橋の向こうにあった中埔工寮は大斜坑完成後できた居住区だそうです。
職員宿舎の一部は「日式宿舎群」、工寮の一部は「一坑口集落」などとして現存。 -
平渓線開通後、駅付近に学校・病院・商店などがつくられました。
炭礦発展で居住者が増え、菁桐最盛期の人口は1万人超えていたとか。 -
市定古跡「台陽倶楽部」
1940年(昭和15年)台陽鉱業株式会社が賓客招待所・社員の福利厚生・会議で利用するため建てた建物。
阿里山のヒノキを使用し、102人の大工達が日本の宮造り法で作り上げた‘日本和洋折衷木造建築’。 -
特別展「台日炭礦文史交流展」
訪問したのは2015年12月29日です‥ちなみに。
炭鉱での労働・暮らしなどについて描かれているもの。
台湾ではなく日本の筑豊炭田などの様子。
Wikipediaより
筑豊炭田は、福岡県の中央部から北部にかけて広がる炭田。炭田の存在する区域が律令国の筑前国と豊前国に跨がっているため、「筑豊」という名称が付いている。八幡製鐵所を背景に抱えていたため、戦前日本では最大規模の炭田であった。 -
文章は日本語で書かれています。
この作品について調べたところ、山本作兵衛さんという元炭鉱夫の絵師の‘炭鉱記録画’であることがわかりました。
自らの体験のもと明治・大正から昭和初期にかけてのありし日の炭坑の姿を克明に描いていて、炭鉱労働を経験したものでないと描けない・他に類をみない炭坑記録画として高い評価を受けており、その作品は世界記録遺産に登録されたそうです。
炭鉱夫独特の表現というか名詞が色々でてきます。
炭鉱は‘ヤマ’、炭鉱で働く人は‘ヤマ人’など。
展示されていた作品の一部をご紹介します。
『明治22、3年頃 ヤマを訪れる発音機。現今の蓄音機
オーイものいう機械が来ちょるぞーとヤマの人だちは珍しがったものであった』
1回約5分で金2銭、白米1升が10銭の時代、子供にはちょっと手が出ない -
『明治中期の採炭夫 サキヤマ アトヤマ ヒトサキ サシ、二人組の事』
先山(サキヤマ)と後山(アトヤマ)が二人一組(ヒトサシ サシ)となり、炭層を掘り進む手掘採炭の様子。先山がつるはしで炭壁を掘り崩し、後山がそれを集め運びます。女性の坑内労働が禁止されるまでは、夫婦で先山後山となることも多かったそうです。
『炭丈(スミタケ)1.50メートル以上あれば立堀りができる』
『明治32年頃1函(はこ)切賃20銭、硬い所は25銭
サシで5、6函位勘引2合以上 あがり賞与(奨励金)が1割つくから1合引
白米1升10銭 沢庵コンコン1本1銭 サツマイモ1斤1銭5厘の時代』
勘引:検炭して不要物の量に対する歩引きのこと
危険の伴う過酷で重労働の割に、賃金は安かったんですね‥ -
『炭丈(スミタケ)45センチ位までは坐って掘るが、それ以下は寝て掘る
低層炭は筑豊では至って少ない。遠賀郡に一、二あるという噂さ、あっても能率があがらぬから採掘しない』
男性は褌姿、女性は半裸体‥痛くないのかな
確かに寝掘りは効率悪そう、これで質の良くない石炭だったら超ガッカリ -
『明治中期 バラ スラ
竹製中ふくらみの楕円形のカゴにソリ台のあるもの 120キロ位つむ』
『バンガヤリ(傾斜)12、3度以上は無理である』
バラ:筒状の竹籠
スラ:籠や木箱にソリ状の台がついたもの
ソリ台がついているといっても120㎏‥昔の人は凄すぎる -
『明治32年頃 白米1升(1.4キロ)10銭
亭主先山は一足先に入坑し切羽に挑んでおる(採炭)
女房後山はあと始末をしていどけない10歳未満の伜(せがれ)に幼児を負わせ、四人分の弁当、茶ガメ(ブリキ製)、炭札、カルイを振りわけに担げて ワレも滑らず後も転ばぬ様に気を配りつつ下がり行く。この場合大人がおんぶすれば安全だが何分坑道が低く幼児が天井に頭を打ち付ける。
他人に幼児を預けると10銭、ほかに使銭が3.5銭いるから大変。よって学校は間欠長欠になるワケであった。
明治末期には中ヤマ以上に預児院コト託児所を設備している処もチラホラあった』
炭札:坑内で積んだ煤炭(炭車)が誰の物か明らかにするため取り付けた札
カルイ:炭車に使用する引綱
『7つ8つカンテラ提げて 坑内下がるも親のバチー ゴットン』 -
『明治、大正、昭和のハコナグレ、ハコマチ
(サシで6函約3トン積むと16時間以上またされた)
筑豊のヤマで月産三千トン以上出炭する所でハコナグレせぬヤマは珍しい位であった。マキタテが多くなり卸し下りが多くなるにつけナグレが激しくなっていた。カブダシは数函分しておるがカラバコが何時間も来ぬので坑内に16時間以上おることは実に苦しかった。まして切羽で働けば汗もでるがマキタテ、ハコマチを長くすると寒くなる』
サシ:二人組
ナグレ:(炭車が来ないので)仕事ができないこと
マキタテ:捲立、斜坑から水平坑道に移る分岐点。空函を実函(煤炭の入った箱)に連結し換えて巻き上げる場所
卸し下がり:炭層の傾斜に沿って下る方向へ堀進めること
カブダシ:坑内に採掘した煤炭を一時ためておくこと
切羽:石炭の採掘現場
『初めのうちは大勢おるから面白い漫談や世間話がとび出すが後にはあくびと背伸びばかりになる。子供のおる後山は昇坑して亭主先山だけ残る人もおった。
坑内での雑談はバクチ、ケンカが多く、次に頓智のきく人がいると中々賑わう 恋愛問題が一番花が咲く』
『毎日毎日、こんなに遅くなっちゃ、やりきれぬの~』 -
『昔のヤマ人 入浴 フロ
男女混浴 坑内からの揚水で蒸気ポンプのシリンダー油も混じておりカナケも多いのでネチャネチャしており垢はおちない
真っ黒に汚れた先山は荒洗いもせず尻もぬらさずとびこむ人もおった
又浴槽内で石鹸も使い放しだからキタナイときはアイガメの様になる』
カナケ:金気、金属臭
アイガメ:藍瓶、染料を入れた容器
坑道の出入口近くに浴場があり、仕事を終えた炭礦夫たちは汚れた体を洗ってから帰宅したようですが‥
ガス・爆発・落盤などの危険と常に隣り合わせの重労働、長時間拘束、経済的に余裕もあるわけではなく、で入浴はこんな状況‥。
日本の近代化に大きく貢献した石炭、その石炭供給を支えた人達がこんなに過酷な日常生活を送っていたとは‥本当に頭が下がります。 -
『大正の初めには中小ヤマに撰炭機が登場し中塊も水洗機にかけた。其后粉炭も水洗して遠賀川の清流まで真っ黒に染めた
それでも大塊撰炭の必要があったから、撰炭夫(婦)の姿は消えず』
『(塊炭を流す鉄板ベルトの)速度は人の歩行位である。両方に炭 中の区切りに撰ったボタを流す。二号炭は足元の板ばりに一時置く。昼夜十二時間交代。両手を使わねば係員から叱られる』
ボタ:選炭で石炭と分けられた不要物(岩石や質の悪い石炭など)
二号炭:中間品質の炭
石炭とボタは比重が異なるので(石炭は軽く、岩石・土砂は重い)、水を使った選炭機で比重選別をしていました。
選炭機にかけられない大きな塊のものは人手により選別されていて、作業に従事するのは若い女性が多かったようですね。炭などで着物や顔が汚れてしまうけれど、それでも綺麗でいたいと思う女心が右上の句から伺えます。
『してもせんとこく(していないという)撰炭場の娘め
今朝も二度した薄化粧‥ゴットン』 -
『昭和になってピラミッドの姿が筑豊のヤマにボツボツ現れた
炭坑の厄介者はボタ。昔は三井式で低地を埋め平地を作り納屋を建てたり利用していたが水撰機でボタが多くなって山形になった』
福岡県飯塚市には筑豊富士を呼ばれる日本最大級のピラミッド型ボタ山が現存しているそうです。
『ボタ山よ汝人生の如し
盛んな時は肥え太りしに ヤマ止んで日々痩せ細り 或いは姿を消すもおり
ああ憐れ悲しいかぎりなり』 -
記録画の中のむかしのヤマ人達は、実に力強く・生き生きと描写されていて‥見応えがありました。山本作兵衛氏の詩・ゴットン節も感性に染み渡る、実に感動的な作品でした。
また台湾で昔の日本・素晴らしい日本人の作品に出合えて、本当に嬉しいです(これも私が台湾にハマってしまう理由のひとつ)
そろそろタイムリミット、菁桐礦業生活館を出て待っている夫と合流。
あー、もっと色々じっくり見たかったよ菁桐‥。
いつかまた絶対来るから!(歩けない人とはもう来たくないよ~) -
「菁桐站」に戻ってきました。
これから平渓線に乗って「猴とん」へ行きます。 -
駅舎の中も昔懐かしい感じで凄く素敵でした(写真撮れず‥)。
無人駅ではなく切符売り場に駅員さんが居ました。
今回は元取れそうにないので平渓線1日周遊券は買わず、遊悠カードで乗車料金は支払い。遊悠カードで台鉄にも乗れるようになったのは本当に便利だわ~。
改札口右側のICカードリーダーに遊悠カードをタッチしてホームへ。
※写真は他の日に撮影したものです。 -
ホームからみた風景。炭鉱遺構も見に行きたかったな‥。
-
菁桐站で折り返す平渓線がホームに入って来ました。
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