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比叡山は、浄土念仏の法然、親鸞、一遍、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮など多くの各宗の祖師を輩出したことから、日本仏教の母山と仰がれています。一方の空海の高野山ではそんなことはなくて、今でも空海は唯一無二の存在です。比叡山から新たな宗派が出たことは、最澄の天台宗には未完の部分が多かったので、後世の人たちがいろいろと考える余地が残ったのではないかという評価につながりますし。そうした未完成のイメージは最澄が膝を屈してまで空海に密教の教えを乞うたという話からもきているかもしれません。<br /><br />中身は分かっているわけではないので、勝手な印象で言わせてもらうと。。最澄亡き後、比叡山における密教の弱点を補うために、第3台座主慈覚大師円仁は唐に渡り天台密教を完成させるのですが、それって大事なことだったのでしょうか。密教でも負けたくないという高野山に対するプライドのためだったとすれば、小さな志としか思えません。私は、そんなことより、本来の天台宗を発展させることこそ重要だったのではないかと思えるのです。<br /><br />まずは、平安時代という時代のことです。京都の始まりは平安時代。そんなことは誰でも知っていることなんですが、例えば仏教では、奈良仏教、鎌倉仏教という言葉はあるのに、平安仏教って聞いたことないですし、むしろ象徴的なのは、空海と最澄といったワードですよね。そうすると平安時代にたまたまこうした二人のスーパースターが生まれただけなのかという印象になってしまうんですが、そうではない。ちゃんと時代背景や流れがあったということを認識しないといけないと思います。そして、そのカギは平安京への遷都を決断した桓武天皇です。<br /><br />ところで、桓武天皇は、天智天皇系の天皇なんですね。壬申の乱以降、天皇は天智天皇系から天武天皇系に変わっていました。それは、実力で天皇の地位を掴んだ天武天皇以降、中国で隋や唐といった超大国が現れ、指導力・実行力のある天皇のもとで中央集権的な国家造りが理想とされていた時代、白鳳時代や奈良時代の天皇たちです。<br />一方、桓武天皇の父、光仁天皇は天智天皇系だったので、当初は天皇の目はないということだったのですが、天武天皇系には娘しか生まれていなかったので、ワンポイントリリーフで天皇になる。ただ、光仁天皇の妃、井上内親王は聖武天皇の第一皇女。天武天皇系だったので、光仁天皇と井上内親王の息子、他戸親王を皇太子とすることで、また天武系の天皇が復活するはずだったのです。しかし、陰謀か何かかもしれませんが、井上内親王も妃の生んだ他戸親王も殺されてしまう。ここで桓武天皇が立太子となり、天武天皇系は途絶えてしまうのです。<br /><br />桓武天皇は、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかったのですが、光仁天皇の第一王子でもあり、この事件の後に皇太子となり、その9年後に天皇となります。年を取ってから天皇になったし、自分の意思をはっきりと出す天皇。その桓武天皇が積極的に庇護したのが最澄であり、空海だったのです。意図せぬ中で天皇となり、また、後継争いなどの事件が付きまとった桓武天皇ですから、鎮護国家だけではない、もっとプライベートな救いの力を仏教に求める気持ちもとても強かったとしてもおかしくありません。また、奈良仏教は鎮護国家だし、天武天皇系の遺産のようなものですし、自分が新たな仏教を確立したいという思いもあったかもしれません。これに最初に応えたのが天台宗を学んだ最澄でした。ただ、密教は当時の流行であり、加持祈祷とか具体的な救済の色が濃い。そのこともあって、桓武天皇のニーズにさらにぴったりと合ってしまったのではないかとは思います。<br /><br />最澄は奈良仏教に対し、あなたたちは真の大乗仏教ではない。天台宗こそが真の大乗仏教であると主張します。空海は、天台宗も含めて、今までの仏教は頭で考える顕教であり、精神世界と物質世界を自らと一体にすれば超常現象など思いのままと説く、ぶっとんだ考え方で、いろんな場面でそう思わせるだけの天才的な能力もありました。ともあれ、密教は桓武天皇の御執心となり、天台宗も戒壇が認められますが、天台宗でさえ一部密教を取りいれての戒壇獲得だったのです。<br /><br />では、平安時代が進んで、末法思想が広まり、仏教は大衆化しますが、現世利益を求めるニーズに広く応えたのは、むしろ、比叡山から生まれた諸宗でした。それは天台宗が未完成だったとかいったことではなく、私は大乗仏教の基礎だと思うのですが、すべての人は救われるということを最澄が初めて正面から説いた。そこにあるのではないかと思うのです。仏になれない人はいない。今では、我々の常識ですが、奈良仏教では、救われる人もいれば救われない人もいる。だからこそ、厳しい修行をするのである。というのが常識だったのです。最澄はこれに激しく異を唱えます。かといって、全否定もできないので、救われる時期が違うのだという理屈。次に生まれ変わった時に救われるか。もっと何度も生まれ変わってから救われるかの違いはあるというのです。しかし、それでもすべての人は救われるという考え方に初めて道を開いたことが極めて重要です。そして、私は、これこそが、その後の末法思想の広がりとも相まって、鎌倉仏教をはじめとする諸宗の開花につながったのではないかと思うのです。ちなみに、その間、空海の方は、どちらかといえば奈良仏教とは比較的良好な関係がありました。奈良仏教お得意の仏教の世界観で、ある意味、視点が噛み合っていたのだと思います。<br /><br />いずれにしても、平安時代がまさに始まった頃の濃密な風景。桓武天皇のパーソナリティと真の大乗仏教を求める最澄の思いは密教に関する面ではちょっとずれてしまったのかもしれませんが、比叡山の後世への影響の大きさは紛れもない事実であり、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。人間の気持なんか昔も今も同じだと思っている人は多いと思いますが、実はそうではない。日本人は人間とは何かを考え続けていて、ちゃんと進化をしているのですね。<br /><br />四国遍路など空海を慕うといった明快な真言宗に比べて、天台宗は空気のような形で我々に遺産を残しました。その対比も面白いし、平安仏教の意義も流れの中でその重要性を認識すべきだと思います。<br /><br />そして、改めて。。平安時代みたいに穏やかそうに思える時代でも、ちゃんとその後の日本にとって重要な大変革が起きている。やっぱり京都ってすごいでしょというのを感じてもらえたら嬉しいです。<br /><br />参考までに年表もどうぞ。<br /><桓武天皇><br />737年<br /> 白壁王の第一皇子として誕生。<br />770年<br /> 父、白壁王が光仁天皇として即位。<br />773年<br /> 他戸親王(おさべしんのう)が廃され、皇太子となる。<br />781年<br /> 天皇として即位。<br />784年<br /> 長岡京を造営。<br />785年<br /> 弟で皇太弟の早良親王を廃する。<br />789年<br /> 第一次蝦夷討伐は、失敗。<br />794年<br /> 平安京へ遷都。<br /> 第二次蝦夷討伐。坂上田村麻呂が活躍。<br />801年<br /> 坂上田村麻呂を征夷大将軍として第三次蝦夷討伐。<br />806年<br /> 崩御<br /><br /><最澄><br />767年<br /> 近江国の豪族、三津首百枝を父として、誕生。<br />778年<br /> 近江国分寺に入る。<br />780年<br /> 得度し、名を最澄と改める。<br />785年<br /> 東大寺で具足戒を受け、比叡山に入る。<br />797年<br /> 桓武天皇の内供奉十禅師となる。<br />802年<br /> 桓武天皇より遣唐使に選ばれる。<br />804年<br /> 入唐。天台山に登り、国清寺に入る。<br />805年<br /> 越州龍興寺の順暁より三部三昧耶の灌頂を受け、真言密教の「付法文」を受ける。<br /> 帰国。<br /> 桓武天皇の要請で高雄山神護寺で日本最初の公式な灌頂を行う。<br />806年<br /> 天台宗を開宗。<br />812年<br /> 弟子の泰範、円澄、光定らと高雄山寺に赴き、空海から灌頂を受ける。<br />813年<br /> 泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣。空海から密教を学ばせることを申し入れ。<br />813年<br /> 最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たものの、空海は拒絶。<br />815年<br /> 和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。<br />818年<br /> 具足戒を破棄。南都の僧綱から反駁に対し『顕戒論』を執筆。『内証仏法血脈譜』を書いて正統性を説く。<br />822年<br /> 比叡山の中道院で遷化。没後7日目、大乗戒壇設立の勅許を得る。<br />866年<br /> 清和天皇より伝教大師の諡号が贈られる。日本で初めての大師号。

伊勢路から亀山・信楽・比叡山の旅(五日目・完)~比叡山は日本仏教の故郷。真の大乗仏教を求める革新性は、鎌倉以降の多彩な仏教文化を育みました~

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2015/05/06 - 2015/05/06

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たびたび

たびたびさん

比叡山は、浄土念仏の法然、親鸞、一遍、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮など多くの各宗の祖師を輩出したことから、日本仏教の母山と仰がれています。一方の空海の高野山ではそんなことはなくて、今でも空海は唯一無二の存在です。比叡山から新たな宗派が出たことは、最澄の天台宗には未完の部分が多かったので、後世の人たちがいろいろと考える余地が残ったのではないかという評価につながりますし。そうした未完成のイメージは最澄が膝を屈してまで空海に密教の教えを乞うたという話からもきているかもしれません。

中身は分かっているわけではないので、勝手な印象で言わせてもらうと。。最澄亡き後、比叡山における密教の弱点を補うために、第3台座主慈覚大師円仁は唐に渡り天台密教を完成させるのですが、それって大事なことだったのでしょうか。密教でも負けたくないという高野山に対するプライドのためだったとすれば、小さな志としか思えません。私は、そんなことより、本来の天台宗を発展させることこそ重要だったのではないかと思えるのです。

まずは、平安時代という時代のことです。京都の始まりは平安時代。そんなことは誰でも知っていることなんですが、例えば仏教では、奈良仏教、鎌倉仏教という言葉はあるのに、平安仏教って聞いたことないですし、むしろ象徴的なのは、空海と最澄といったワードですよね。そうすると平安時代にたまたまこうした二人のスーパースターが生まれただけなのかという印象になってしまうんですが、そうではない。ちゃんと時代背景や流れがあったということを認識しないといけないと思います。そして、そのカギは平安京への遷都を決断した桓武天皇です。

ところで、桓武天皇は、天智天皇系の天皇なんですね。壬申の乱以降、天皇は天智天皇系から天武天皇系に変わっていました。それは、実力で天皇の地位を掴んだ天武天皇以降、中国で隋や唐といった超大国が現れ、指導力・実行力のある天皇のもとで中央集権的な国家造りが理想とされていた時代、白鳳時代や奈良時代の天皇たちです。
一方、桓武天皇の父、光仁天皇は天智天皇系だったので、当初は天皇の目はないということだったのですが、天武天皇系には娘しか生まれていなかったので、ワンポイントリリーフで天皇になる。ただ、光仁天皇の妃、井上内親王は聖武天皇の第一皇女。天武天皇系だったので、光仁天皇と井上内親王の息子、他戸親王を皇太子とすることで、また天武系の天皇が復活するはずだったのです。しかし、陰謀か何かかもしれませんが、井上内親王も妃の生んだ他戸親王も殺されてしまう。ここで桓武天皇が立太子となり、天武天皇系は途絶えてしまうのです。

桓武天皇は、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかったのですが、光仁天皇の第一王子でもあり、この事件の後に皇太子となり、その9年後に天皇となります。年を取ってから天皇になったし、自分の意思をはっきりと出す天皇。その桓武天皇が積極的に庇護したのが最澄であり、空海だったのです。意図せぬ中で天皇となり、また、後継争いなどの事件が付きまとった桓武天皇ですから、鎮護国家だけではない、もっとプライベートな救いの力を仏教に求める気持ちもとても強かったとしてもおかしくありません。また、奈良仏教は鎮護国家だし、天武天皇系の遺産のようなものですし、自分が新たな仏教を確立したいという思いもあったかもしれません。これに最初に応えたのが天台宗を学んだ最澄でした。ただ、密教は当時の流行であり、加持祈祷とか具体的な救済の色が濃い。そのこともあって、桓武天皇のニーズにさらにぴったりと合ってしまったのではないかとは思います。

最澄は奈良仏教に対し、あなたたちは真の大乗仏教ではない。天台宗こそが真の大乗仏教であると主張します。空海は、天台宗も含めて、今までの仏教は頭で考える顕教であり、精神世界と物質世界を自らと一体にすれば超常現象など思いのままと説く、ぶっとんだ考え方で、いろんな場面でそう思わせるだけの天才的な能力もありました。ともあれ、密教は桓武天皇の御執心となり、天台宗も戒壇が認められますが、天台宗でさえ一部密教を取りいれての戒壇獲得だったのです。

では、平安時代が進んで、末法思想が広まり、仏教は大衆化しますが、現世利益を求めるニーズに広く応えたのは、むしろ、比叡山から生まれた諸宗でした。それは天台宗が未完成だったとかいったことではなく、私は大乗仏教の基礎だと思うのですが、すべての人は救われるということを最澄が初めて正面から説いた。そこにあるのではないかと思うのです。仏になれない人はいない。今では、我々の常識ですが、奈良仏教では、救われる人もいれば救われない人もいる。だからこそ、厳しい修行をするのである。というのが常識だったのです。最澄はこれに激しく異を唱えます。かといって、全否定もできないので、救われる時期が違うのだという理屈。次に生まれ変わった時に救われるか。もっと何度も生まれ変わってから救われるかの違いはあるというのです。しかし、それでもすべての人は救われるという考え方に初めて道を開いたことが極めて重要です。そして、私は、これこそが、その後の末法思想の広がりとも相まって、鎌倉仏教をはじめとする諸宗の開花につながったのではないかと思うのです。ちなみに、その間、空海の方は、どちらかといえば奈良仏教とは比較的良好な関係がありました。奈良仏教お得意の仏教の世界観で、ある意味、視点が噛み合っていたのだと思います。

いずれにしても、平安時代がまさに始まった頃の濃密な風景。桓武天皇のパーソナリティと真の大乗仏教を求める最澄の思いは密教に関する面ではちょっとずれてしまったのかもしれませんが、比叡山の後世への影響の大きさは紛れもない事実であり、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。人間の気持なんか昔も今も同じだと思っている人は多いと思いますが、実はそうではない。日本人は人間とは何かを考え続けていて、ちゃんと進化をしているのですね。

四国遍路など空海を慕うといった明快な真言宗に比べて、天台宗は空気のような形で我々に遺産を残しました。その対比も面白いし、平安仏教の意義も流れの中でその重要性を認識すべきだと思います。

そして、改めて。。平安時代みたいに穏やかそうに思える時代でも、ちゃんとその後の日本にとって重要な大変革が起きている。やっぱり京都ってすごいでしょというのを感じてもらえたら嬉しいです。

参考までに年表もどうぞ。
<桓武天皇>
737年
 白壁王の第一皇子として誕生。
770年
 父、白壁王が光仁天皇として即位。
773年
 他戸親王(おさべしんのう)が廃され、皇太子となる。
781年
 天皇として即位。
784年
 長岡京を造営。
785年
 弟で皇太弟の早良親王を廃する。
789年
 第一次蝦夷討伐は、失敗。
794年
 平安京へ遷都。
 第二次蝦夷討伐。坂上田村麻呂が活躍。
801年
 坂上田村麻呂を征夷大将軍として第三次蝦夷討伐。
806年
 崩御

<最澄>
767年
 近江国の豪族、三津首百枝を父として、誕生。
778年
 近江国分寺に入る。
780年
 得度し、名を最澄と改める。
785年
 東大寺で具足戒を受け、比叡山に入る。
797年
 桓武天皇の内供奉十禅師となる。
802年
 桓武天皇より遣唐使に選ばれる。
804年
 入唐。天台山に登り、国清寺に入る。
805年
 越州龍興寺の順暁より三部三昧耶の灌頂を受け、真言密教の「付法文」を受ける。
 帰国。
 桓武天皇の要請で高雄山神護寺で日本最初の公式な灌頂を行う。
806年
 天台宗を開宗。
812年
 弟子の泰範、円澄、光定らと高雄山寺に赴き、空海から灌頂を受ける。
813年
 泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣。空海から密教を学ばせることを申し入れ。
813年
 最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たものの、空海は拒絶。
815年
 和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。
818年
 具足戒を破棄。南都の僧綱から反駁に対し『顕戒論』を執筆。『内証仏法血脈譜』を書いて正統性を説く。
822年
 比叡山の中道院で遷化。没後7日目、大乗戒壇設立の勅許を得る。
866年
 清和天皇より伝教大師の諡号が贈られる。日本で初めての大師号。

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  • 定宿を出発して、八坂神社にやって来ました。<br />朝食を予約しているんですが、まだ始まっていないので、例によってその前に少し散策です。

    定宿を出発して、八坂神社にやって来ました。
    朝食を予約しているんですが、まだ始まっていないので、例によってその前に少し散策です。

  • 八坂神社の本殿脇に美御前社という、面白い神社があります。<br />ここは、多岐理毘売命(たぎりびめのみこと)、多岐津比売命(たぎつひめのみこと)、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)の宗像三女神を祀りますが、宗像三女神は美人の誉れ高き財福、芸能、美貌の神様だということです。八坂神社の境内には摂社が少なくないのですが、ここはお参りの人がそれなりにあるようで、ちょっとした賑わいも感じられます。<br />

    八坂神社の本殿脇に美御前社という、面白い神社があります。
    ここは、多岐理毘売命(たぎりびめのみこと)、多岐津比売命(たぎつひめのみこと)、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)の宗像三女神を祀りますが、宗像三女神は美人の誉れ高き財福、芸能、美貌の神様だということです。八坂神社の境内には摂社が少なくないのですが、ここはお参りの人がそれなりにあるようで、ちょっとした賑わいも感じられます。

  • その並びにある、これは忠盛燈籠という古い石燈籠です。<br />忠盛は、平清盛の父。この燈籠には逸話があって、平家物語にも出ているということですが、ある五月雨の降る夜、白河法皇が祇園女御に会うためにこの辺りを通っていると前方に鬼のようなものが見えた。法皇はお供の平忠盛に討ち取るよう命じたが、忠盛はその正体を見定めてからとして生け捕りにしたところ、それは燈籠に燈明をあげようとした祇園の社僧だった。人々は忠盛の思慮深い行動に感嘆したというのです。<br />清盛は、白河法皇の落しだねと言われていますが、それを逆手にとって、平家の繁栄を築けたのも、実は忠盛の思慮深さが背景にあったようにも思います。<br />落しだねを身ごもった女人を妻として迎えたわけですが、これは藤原鎌足だってそう。不比等は天智天皇の御落胤と言われ、その後の藤原氏の隆盛を築きました。<br />

    その並びにある、これは忠盛燈籠という古い石燈籠です。
    忠盛は、平清盛の父。この燈籠には逸話があって、平家物語にも出ているということですが、ある五月雨の降る夜、白河法皇が祇園女御に会うためにこの辺りを通っていると前方に鬼のようなものが見えた。法皇はお供の平忠盛に討ち取るよう命じたが、忠盛はその正体を見定めてからとして生け捕りにしたところ、それは燈籠に燈明をあげようとした祇園の社僧だった。人々は忠盛の思慮深い行動に感嘆したというのです。
    清盛は、白河法皇の落しだねと言われていますが、それを逆手にとって、平家の繁栄を築けたのも、実は忠盛の思慮深さが背景にあったようにも思います。
    落しだねを身ごもった女人を妻として迎えたわけですが、これは藤原鎌足だってそう。不比等は天智天皇の御落胤と言われ、その後の藤原氏の隆盛を築きました。

  • 円山公園の桜を抜けて、

    円山公園の桜を抜けて、

  • 花ショウブや

    イチオシ

    花ショウブや

  • つつじをみながら。

    つつじをみながら。

  • 辿り着いたのは、坂本龍馬と中岡慎太郎像。二人の像は、京都霊山護国神社の龍馬の墓の傍らにもあるのですが、それはあれっというほど小さいもの。<br />それに対し、円山公園にあるこちらの坂本龍馬と中岡慎太郎像は京都高知県人会有志により建立されたもので、堂々と大きいものです。<br />立ち姿の龍馬と膝をついた中岡慎太郎。二人は同じ未来を見つめているように感じます。<br />さて、そろそろ時間ですね。

    辿り着いたのは、坂本龍馬と中岡慎太郎像。二人の像は、京都霊山護国神社の龍馬の墓の傍らにもあるのですが、それはあれっというほど小さいもの。
    それに対し、円山公園にあるこちらの坂本龍馬と中岡慎太郎像は京都高知県人会有志により建立されたもので、堂々と大きいものです。
    立ち姿の龍馬と膝をついた中岡慎太郎。二人は同じ未来を見つめているように感じます。
    さて、そろそろ時間ですね。

  • 近又は、宿泊の他に朝食だけのコースがあって、それを予約していたんです。<br />

    近又は、宿泊の他に朝食だけのコースがあって、それを予約していたんです。

  • 予約をした8時に入店。

    予約をした8時に入店。

  • 案内されたのは、外観と違って、30年ほど前に改装したという洋風の小さなホール。京都の建物は、和と洋が同居する建て方もよくあるパターン。これも京都らしい演出でしょう。<br />

    案内されたのは、外観と違って、30年ほど前に改装したという洋風の小さなホール。京都の建物は、和と洋が同居する建て方もよくあるパターン。これも京都らしい演出でしょう。

  • 浮世絵っぽい絵が掛けてあって、この絵の渋さもありますが、それと同じくらい壁紙の美しさがただものではないような気もします。

    浮世絵っぽい絵が掛けてあって、この絵の渋さもありますが、それと同じくらい壁紙の美しさがただものではないような気もします。

  • お茶が出てきて、待っていると。

    お茶が出てきて、待っていると。

  • これは正統派の朝食ですね。全体のバランスと

    これは正統派の朝食ですね。全体のバランスと

  • タケノコや

    タケノコや

  • 煮豆に

    煮豆に

  • 名物のなすびの味噌だれ

    イチオシ

    名物のなすびの味噌だれ

  • ふわふわの出汁巻卵

    イチオシ

    ふわふわの出汁巻卵

  • 焼いた鮭。<br />それぞれの景色もさわやかです。器で言えば、なすびの器とたまごの器が特に目が行きますが、なすびの器は、形が面白い。一見、ロクロを使ったようですが、たたらという板を加工したものにも思える。そうやって、どっちかなあと思ってしまうんですが、たぶん型と削りによる成形かもしれません。そうした簡単には手を明かさないよというのが京焼の特徴です。たまごの器は、宝尽くし。これも一見、九谷焼ですが青や緑の釉薬は厚さがなくて九谷焼の釉薬ではありません。一見は何々、実は違うというこれも京焼の特徴ですねえ。<br />

    焼いた鮭。
    それぞれの景色もさわやかです。器で言えば、なすびの器とたまごの器が特に目が行きますが、なすびの器は、形が面白い。一見、ロクロを使ったようですが、たたらという板を加工したものにも思える。そうやって、どっちかなあと思ってしまうんですが、たぶん型と削りによる成形かもしれません。そうした簡単には手を明かさないよというのが京焼の特徴です。たまごの器は、宝尽くし。これも一見、九谷焼ですが青や緑の釉薬は厚さがなくて九谷焼の釉薬ではありません。一見は何々、実は違うというこれも京焼の特徴ですねえ。

  • 実は、ご主人が食べ終わる頃に、出てきて、部屋のこと。今のご主人がこの店を継いだ時に改装して作ったんだそうですが、壁紙も実はイタリア製だとか、器談義なんかもして、ちょっと会話を楽しませてもらいました。

    実は、ご主人が食べ終わる頃に、出てきて、部屋のこと。今のご主人がこの店を継いだ時に改装して作ったんだそうですが、壁紙も実はイタリア製だとか、器談義なんかもして、ちょっと会話を楽しませてもらいました。

  • 丁寧なおもてなし。ありがとうございました。  <br />ここら辺で、今日一日の価値はもうあったのかもしれませんが、今日は比叡山の日。これから比叡山に向かいます。

    丁寧なおもてなし。ありがとうございました。
    ここら辺で、今日一日の価値はもうあったのかもしれませんが、今日は比叡山の日。これから比叡山に向かいます。

  • 京都から比叡山に登るには、

    京都から比叡山に登るには、

  • ここ八瀬から叡山ケーブル・ロープウェイを利用するのが一番ポピュラーです。

    ここ八瀬から叡山ケーブル・ロープウェイを利用するのが一番ポピュラーです。

  • ケーブルの方は、高低差が561mあって、日本一。

    ケーブルの方は、高低差が561mあって、日本一。

  • 大きくカーブを曲がりながら上って行くので、<br />

    大きくカーブを曲がりながら上って行くので、

  • それ自体が、けっこう迫力です<br />

    それ自体が、けっこう迫力です

  • さらに、ここからロープウェイに乗り換えて行きます。

    さらに、ここからロープウェイに乗り換えて行きます。

  • ロープウェイの方は定員が少ないので、乗り換える時は、ちょっと急いだ方がいいかもしれません。 <br />

    ロープウェイの方は定員が少ないので、乗り換える時は、ちょっと急いだ方がいいかもしれません。

  • 頂上に到着しました。

    頂上に到着しました。

  • すぐにあるのはガーデンミュージアム比叡山。

    すぐにあるのはガーデンミュージアム比叡山。

  • 比叡山に登って、

    比叡山に登って、

  • わざわざ花壇でもないだろうと思って、

    わざわざ花壇でもないだろうと思って、

  • これまで行ったことはなかったガーデンミュージアム比叡山ですが、

    これまで行ったことはなかったガーデンミュージアム比叡山ですが、

  • なかなか

    なかなか

  • いいじゃないですか。

    いいじゃないですか。

  • 少し進むと、いきなり眼下には琵琶湖の景色。遊歩道沿いには、花壇とフランス印象画家の陶板の絵が点々と配置されていて、明るい雰囲気でいっぱいです。<br />

    少し進むと、いきなり眼下には琵琶湖の景色。遊歩道沿いには、花壇とフランス印象画家の陶板の絵が点々と配置されていて、明るい雰囲気でいっぱいです。

  • 花壇は、モネが名画に描いた庭の景色を再現したエリアもあったりしますが、

    花壇は、モネが名画に描いた庭の景色を再現したエリアもあったりしますが、

  • とにかく隅々まで手入れが行き届いていて、

    とにかく隅々まで手入れが行き届いていて、

  • 半端ではないですね。

    半端ではないですね。

  • これだけの施設を

    イチオシ

    これだけの施設を

  • このレベルで維持していることは

    このレベルで維持していることは

  • 並々ではないと

    並々ではないと

  • 感心した次第です。

    感心した次第です。

  • 観光客がこうして見ている間にも、傍らでは、枯れた花や葉っぱを摘み取って一番い状態にしてくれている。

    観光客がこうして見ている間にも、傍らでは、枯れた花や葉っぱを摘み取って一番い状態にしてくれている。

  • 入場料は少し高いですが、

    入場料は少し高いですが、

  • それに見合った管理がちゃんと出来ていると思います。

    それに見合った管理がちゃんと出来ていると思います。

  • 気分がよくなったところで、撮影タイム。

    気分がよくなったところで、撮影タイム。

  • 日も出てきて、

    日も出てきて、

  • 花の美しさが

    イチオシ

    花の美しさが

  • 浮き立つように美しい。

    浮き立つように美しい。

  • モネの庭も

    イチオシ

    モネの庭も

  • こんなにきれいですよ〜

    こんなにきれいですよ〜

  • こちらは反対側の入口。

    こちらは反対側の入口。

  • というか、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」がこちらにあるということは、こちらが正門だったんでしょうね。

    というか、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場」がこちらにあるということは、こちらが正門だったんでしょうね。

  • 最後にまた丘陵の花壇を下って、

    最後にまた丘陵の花壇を下って、

  • 出口です。

    出口です。

  • その出口すぐが、比叡山内シャトルバスの乗り場。<br />このバスは、東塔、西塔、横川を結ぶバス。30分間隔で運行していて、一日フリー乗車券は800円。バスを使わずに歩いている人もいなくはありませんが、せいぜい、東塔と西塔間くらい。横川まで含めれば、バスを使わないととても回ることはできないと思います。

    その出口すぐが、比叡山内シャトルバスの乗り場。
    このバスは、東塔、西塔、横川を結ぶバス。30分間隔で運行していて、一日フリー乗車券は800円。バスを使わずに歩いている人もいなくはありませんが、せいぜい、東塔と西塔間くらい。横川まで含めれば、バスを使わないととても回ることはできないと思います。

  • まずは、一番遠い横川にやって来ました。<br /><br />

    まずは、一番遠い横川にやって来ました。

  • 横川は、第3台座主慈覚大師円仁によって開かれたエリア。ちなみに、円仁は、最後の遣唐使として中国に渡り、五台山巡礼や金剛界曼荼羅を手に入れて天台宗の密教を完成させた人物です。よく知られた最澄と空海の密教を巡る課題に天台宗陣営として正面から忠実に取り組んだと評価される偉業でしょう。<br />

    横川は、第3台座主慈覚大師円仁によって開かれたエリア。ちなみに、円仁は、最後の遣唐使として中国に渡り、五台山巡礼や金剛界曼荼羅を手に入れて天台宗の密教を完成させた人物です。よく知られた最澄と空海の密教を巡る課題に天台宗陣営として正面から忠実に取り組んだと評価される偉業でしょう。

  • 緑の小道を進むと

    緑の小道を進むと

  • その脇には比叡山が輩出したキラ星のような諸宗の祖師たち。<br />永平寺を開いた道元に、

    その脇には比叡山が輩出したキラ星のような諸宗の祖師たち。
    永平寺を開いた道元に、

  • 親鸞、

    親鸞、

  • 法然、

    法然、

  • 日蓮と。半生をコンパクトに紹介しています。

    日蓮と。半生をコンパクトに紹介しています。

  • そして、この横川中堂が、このエリアの中心。慈覚大師が建立し、聖観音像と毘沙門天像を奉安されたのが始まりです。<br />現在の建物は昭和17年の再建ですが、舞台造りという堂々たる建物。遣唐使船をモデルとしたということですが、そういわれればそうかなあというくらいかと思います。<br />いずれにしても、天台密教を完成させたのは慈覚大師ですが、建物の内部は、一般的な密教のイメージほどの華やかさはないように感じました。

    そして、この横川中堂が、このエリアの中心。慈覚大師が建立し、聖観音像と毘沙門天像を奉安されたのが始まりです。
    現在の建物は昭和17年の再建ですが、舞台造りという堂々たる建物。遣唐使船をモデルとしたということですが、そういわれればそうかなあというくらいかと思います。
    いずれにしても、天台密教を完成させたのは慈覚大師ですが、建物の内部は、一般的な密教のイメージほどの華やかさはないように感じました。

  • そして、

    そして、

  • ルートの先には元三大師堂。

    ルートの先には元三大師堂。

  • 全体としては、修業の地としての比叡山の原風景を楽しむといったエリアだと思います。

    全体としては、修業の地としての比叡山の原風景を楽しむといったエリアだと思います。

  • 続いては、延暦寺西塔です。<br />

    続いては、延暦寺西塔です。

  • こちらは、第2世天台座主寂光大師円澄によって開かれました。<br />

    こちらは、第2世天台座主寂光大師円澄によって開かれました。

  • 少し進むと。

    少し進むと。

  • 見事な苔庭の先に、常行堂と

    イチオシ

    見事な苔庭の先に、常行堂と

  • 法華堂。<br />同じ形をしたお堂が二つ並んだ

    法華堂。
    同じ形をしたお堂が二つ並んだ

  • その間をルートに従って進みます。

    その間をルートに従って進みます。

  • すると、次にはこんな景色。<br />そして、石段を下って行くと

    すると、次にはこんな景色。
    そして、石段を下って行くと

  • 広い平地に建つ本堂である釈迦堂が正面に立ちふさがる感じ。

    イチオシ

    広い平地に建つ本堂である釈迦堂が正面に立ちふさがる感じ。

  • こうした景色の変化の楽しさや痛快さは、ちょっと意表を突くものだし、見事な設計というしかありません。

    こうした景色の変化の楽しさや痛快さは、ちょっと意表を突くものだし、見事な設計というしかありません。

  • 東塔や横川を凌いでいる演出のように思います。

    東塔や横川を凌いでいる演出のように思います。

  • 釈迦堂から境内を見た景色もなんかいいですよね。

    釈迦堂から境内を見た景色もなんかいいですよね。

  • 西塔を後にしてというか。浄土院は、大きくは西塔のエリア(所属は東塔?)になるのですが、西塔と東塔のちょうど中間あたりになると思います。

    西塔を後にしてというか。浄土院は、大きくは西塔のエリア(所属は東塔?)になるのですが、西塔と東塔のちょうど中間あたりになると思います。

  • ここは、伝教大師最澄の廟があるところ。56歳で亡くなった最澄の遺骸を、慈覚大師がここに移して安置したということです。門を入った境内はとてもきれいに整備されていて、延暦寺はどこでも修業の場という雰囲気が濃いのですが、ここだけはちょっと安らぎの雰囲気もあって、違った印象を受けると思います。

    ここは、伝教大師最澄の廟があるところ。56歳で亡くなった最澄の遺骸を、慈覚大師がここに移して安置したということです。門を入った境内はとてもきれいに整備されていて、延暦寺はどこでも修業の場という雰囲気が濃いのですが、ここだけはちょっと安らぎの雰囲気もあって、違った印象を受けると思います。

  • ここまで来たら、西塔のバス停に戻らずに、このまま東塔に向かいましょう。

    ここまで来たら、西塔のバス停に戻らずに、このまま東塔に向かいましょう。

  • 東塔は、延暦寺の総本堂にあたる根本中堂があるエリア。三塔の中では、最澄が延暦寺を開いた場所であり、延暦寺発祥の地にあたります。<br />これが東塔で、

    東塔は、延暦寺の総本堂にあたる根本中堂があるエリア。三塔の中では、最澄が延暦寺を開いた場所であり、延暦寺発祥の地にあたります。
    これが東塔で、

  • 隣りが阿弥陀堂。ここが東塔エリアでも一番高い場所にあたります。

    隣りが阿弥陀堂。ここが東塔エリアでも一番高い場所にあたります。

  • 八重桜がまだ咲いていて、

    八重桜がまだ咲いていて、

  • 緑の紅葉に覆われた石段を下って、根本中道に向かいます。

    緑の紅葉に覆われた石段を下って、根本中道に向かいます。

  • その途中が、戒壇院。この戒壇院は、これによって比叡山が公的なものとなった証。僧侶になるための戒をここで授けるのですが、それまでは天台宗の僧侶となる場合でも例えばライバルである東大寺に戒を授けてもらう必要があったわけで、最澄と奈良仏教の戦いに勝ち抜いた成果そのものだと思います。

    その途中が、戒壇院。この戒壇院は、これによって比叡山が公的なものとなった証。僧侶になるための戒をここで授けるのですが、それまでは天台宗の僧侶となる場合でも例えばライバルである東大寺に戒を授けてもらう必要があったわけで、最澄と奈良仏教の戦いに勝ち抜いた成果そのものだと思います。

  • 少し下がって、大講堂。比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られています。

    少し下がって、大講堂。比叡山で修行した各宗派の宗祖の木像が祀られています。

  • さらに下がって、

    さらに下がって、

  • これが比叡山の中心の中の中心。根本中堂です。<br />

    これが比叡山の中心の中の中心。根本中堂です。

  • 現在の根本中堂姿は、徳川家光の命で建てられたもので、

    現在の根本中堂姿は、徳川家光の命で建てられたもので、

  • 内部には「不滅の法灯」もあって、これは高野山と同じですね。坂を下って建物に向かう設計が印象的だと思います。

    内部には「不滅の法灯」もあって、これは高野山と同じですね。坂を下って建物に向かう設計が印象的だと思います。

  • これは、向かいの文殊堂へと向かう長い石段。

    これは、向かいの文殊堂へと向かう長い石段。

  • そして、最後は延暦寺国宝殿に寄ってみましょう。<br />ところで、国宝殿の国宝は、いわゆる国宝のことではなくて、最澄の言葉である「一隅を照らす。これ則ち国宝なり。」から名付けられたということだそうです。<br />さて、展示は千手観音像、五大明王像、釈迦如来座像などなど。高野山霊宝館だと有名な八大童子立像や不動明王坐像があって、どうしても比較してしまいますが、全体として、こちらの見応えも十分それに匹敵するもの。延暦寺は焼打ちにあっているので、貴重な文化財はほとんど残っていないというイメージがあるのですが、それ以降に奉納されたものも含めて、やはりその厚みは一流。再認識させられた次第です。

    そして、最後は延暦寺国宝殿に寄ってみましょう。
    ところで、国宝殿の国宝は、いわゆる国宝のことではなくて、最澄の言葉である「一隅を照らす。これ則ち国宝なり。」から名付けられたということだそうです。
    さて、展示は千手観音像、五大明王像、釈迦如来座像などなど。高野山霊宝館だと有名な八大童子立像や不動明王坐像があって、どうしても比較してしまいますが、全体として、こちらの見応えも十分それに匹敵するもの。延暦寺は焼打ちにあっているので、貴重な文化財はほとんど残っていないというイメージがあるのですが、それ以降に奉納されたものも含めて、やはりその厚みは一流。再認識させられた次第です。

  • 比叡山を下って、八瀬へ。では、せっかくなので、三宅八幡にも寄ってみましょう。<br />この神社は、推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として隋へ赴く途中、九州の筑紫を過ぎた辺りで病気になったことから、宇佐八幡宮に参詣。祈ったところ完治したことから、妹子は、帰国後に、報恩のため宇佐八幡を勧請し、一族の守護を祈願するため祀ったのが起源だそうです。また、「虫八幡」と呼ばれ、子供の疳の虫封じの神としても信仰を集めているとか。ところで、三宅八幡神社の鳥居。よく見ると、狛犬の代わりに「狛鳩」。これは珍しいでしょう。八幡神の使いとされているようで、境内の茶店にも「鳩餅」という名物があるので、有名です。<br />

    比叡山を下って、八瀬へ。では、せっかくなので、三宅八幡にも寄ってみましょう。
    この神社は、推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として隋へ赴く途中、九州の筑紫を過ぎた辺りで病気になったことから、宇佐八幡宮に参詣。祈ったところ完治したことから、妹子は、帰国後に、報恩のため宇佐八幡を勧請し、一族の守護を祈願するため祀ったのが起源だそうです。また、「虫八幡」と呼ばれ、子供の疳の虫封じの神としても信仰を集めているとか。ところで、三宅八幡神社の鳥居。よく見ると、狛犬の代わりに「狛鳩」。これは珍しいでしょう。八幡神の使いとされているようで、境内の茶店にも「鳩餅」という名物があるので、有名です。

  • これがその三宅八幡茶屋。何とか閉店の4時までには到着したのですが、鳩餅の方はたった今売り切れましたということ。いや、これは痛い。<br />

    これがその三宅八幡茶屋。何とか閉店の4時までには到着したのですが、鳩餅の方はたった今売り切れましたということ。いや、これは痛い。

  • ただ、鳩餅は、いわゆる「しんこ」。「しんこ」という名前なら、京都では平野屋が一番有名だと思いますが、上新粉を使った和菓子。ういろうのようなほどよい柔らかさが特徴です。

    ただ、鳩餅は、いわゆる「しんこ」。「しんこ」という名前なら、京都では平野屋が一番有名だと思いますが、上新粉を使った和菓子。ういろうのようなほどよい柔らかさが特徴です。

  • 京都市内の銀閣寺道。<br />バス道路に面してはいるのですが、日栄軒といっても、お店の隅に小さく看板があるだけなので、これが日栄軒だと意識している人はほとんどいないかも。

    京都市内の銀閣寺道。
    バス道路に面してはいるのですが、日栄軒といっても、お店の隅に小さく看板があるだけなので、これが日栄軒だと意識している人はほとんどいないかも。

  • ただ、中を覗くと、おしるこのお菓子があったので、迷わずそれをお土産に買いました。<br />帰っていただくと、餡子は甘さを抑えた落ち着いた味わい。一方で、お餅に相当する皮の部分がもち米の香りがしっかりあって、全体としてメリハリがついています。面白いおしるこだと思います。

    ただ、中を覗くと、おしるこのお菓子があったので、迷わずそれをお土産に買いました。
    帰っていただくと、餡子は甘さを抑えた落ち着いた味わい。一方で、お餅に相当する皮の部分がもち米の香りがしっかりあって、全体としてメリハリがついています。面白いおしるこだと思います。

  • 狐月は、銀閣寺道の入口。にしん稲荷という看板があって、興味をそそられました。

    狐月は、銀閣寺道の入口。にしん稲荷という看板があって、興味をそそられました。

  • にしんは身欠きにしんを酢飯に混ぜ込んだということなんですが、他にはごまやごぼうなんかも入っていて、なるほどこれはありですね。多彩な味わいというか、それらが融合して、とっても美味。京都の味を凝縮したような逸品だと思います。

    にしんは身欠きにしんを酢飯に混ぜ込んだということなんですが、他にはごまやごぼうなんかも入っていて、なるほどこれはありですね。多彩な味わいというか、それらが融合して、とっても美味。京都の味を凝縮したような逸品だと思います。

  • そこから少し歩いて、喜み家では、名物の豆かんをいただきました。

    そこから少し歩いて、喜み家では、名物の豆かんをいただきました。

  • 豆かんって、名前はそれなりですけど、どっちかと言えば超シンプルで、B級そのものの食べ物ですよね。ところが、ここの豆かんはなんとも芳醇な甘さの黒蜜に加えて、豆の一つ一つに表情があるような丁寧な炊き込み方。器も大理石のような風合いに、白に青が少し入っていて、いやこの器で豆かんが映えるって、ここのご主人よく気が付きましたねえ。感心します。とにかく、全体として、素晴らしい一品としか言いようがないでしょう。

    イチオシ

    豆かんって、名前はそれなりですけど、どっちかと言えば超シンプルで、B級そのものの食べ物ですよね。ところが、ここの豆かんはなんとも芳醇な甘さの黒蜜に加えて、豆の一つ一つに表情があるような丁寧な炊き込み方。器も大理石のような風合いに、白に青が少し入っていて、いやこの器で豆かんが映えるって、ここのご主人よく気が付きましたねえ。感心します。とにかく、全体として、素晴らしい一品としか言いようがないでしょう。

  • ゑびす屋加兵衛は、バス停下賀茂神社前そば。京都で焼きもちなら神馬堂でしょと思いますけど、ここの焼き餅も最近注目度が上がっているようですね。郷ひろみさんがウエンツ君においしい焼き餅があるよとここに来て、ここの焼き餅を紹介したんだそうです。お店に写真もありました。<br />

    ゑびす屋加兵衛は、バス停下賀茂神社前そば。京都で焼きもちなら神馬堂でしょと思いますけど、ここの焼き餅も最近注目度が上がっているようですね。郷ひろみさんがウエンツ君においしい焼き餅があるよとここに来て、ここの焼き餅を紹介したんだそうです。お店に写真もありました。

  • で、いただいた焼き餅は、予想以上にけっこううまいじゃないですか。これを紹介するって、郷ひろみさんもなかなかやりますねえ。神馬堂の焼き餅は予約しないとなかなか手に入りませんけど、ここはそんなこともないし。。これは穴場かもしれません。

    で、いただいた焼き餅は、予想以上にけっこううまいじゃないですか。これを紹介するって、郷ひろみさんもなかなかやりますねえ。神馬堂の焼き餅は予約しないとなかなか手に入りませんけど、ここはそんなこともないし。。これは穴場かもしれません。

  • 鴨川を越えて、最後の晩飯です。

    鴨川を越えて、最後の晩飯です。

  • 知る人ぞ知るの篠田屋は、京阪三条駅のすぐそば。しかし、地元密着というか、常連さんのたまり場になっているようなレトロ食堂です。

    知る人ぞ知るの篠田屋は、京阪三条駅のすぐそば。しかし、地元密着というか、常連さんのたまり場になっているようなレトロ食堂です。

  • この日も常連さんと女将さんがよもやま話をどっさりしていて、観光客はアウェイの感じ。まあ、それが目当てだったんですが。。<br />

    この日も常連さんと女将さんがよもやま話をどっさりしていて、観光客はアウェイの感じ。まあ、それが目当てだったんですが。。

  • 皿盛りというのをいただきました。あんかけはカレーうどんの汁の味そのもの。これをトンカツの乗ったご飯にたっぷり掛けたものです。あんかけには、けっこうな牛肉が入っていて、トンカツとのコラボが面白い。めちゃくちゃではない意外に計算された味わいにも人気の秘密があるように思いました。<br /><br />さて、以上で5日間の旅はおしまい。これで、いつもの京都から東京に帰ります。お疲れ様でした。

    イチオシ

    皿盛りというのをいただきました。あんかけはカレーうどんの汁の味そのもの。これをトンカツの乗ったご飯にたっぷり掛けたものです。あんかけには、けっこうな牛肉が入っていて、トンカツとのコラボが面白い。めちゃくちゃではない意外に計算された味わいにも人気の秘密があるように思いました。

    さて、以上で5日間の旅はおしまい。これで、いつもの京都から東京に帰ります。お疲れ様でした。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • Rave999999さん 2015/07/30 20:20:13
    楽しい旅行記拝見しました!
    たびたびさん
    今週、青森秋田旅行のQAにアドバイスをいただきましたRave999999と申します。食道園や福田パンについて教えていただきありがとうございました!その際、たびたびさんの御礼欄に誤って他の方の御礼を記載してしまいました。お許しください。

    旅行記拝見し、沢山ご旅行されていて、旅行記のタイトルも面白く写真もいっぱいでとても楽しいです!特に比叡山延暦寺は行ってみたくなりました。

    たびたび

    たびたびさん からの返信 2015/07/31 09:44:44
    RE: 楽しい旅行記拝見しました!
    ありがとうございます。旅ごころをくすぐられたというのは、私にとっては一番うれしいことですね。とにかく、日本にはいろんなところがあって、日本は多様性のある国なんだなあということをいつも感じながら歩いているんですが、今日は夕方から出て、東北の夏祭りに行く予定です。旅行記の原稿がたまりにたまっていて、この夏祭りもいつアップできるかはわかりませんが、これからもいろいろ紹介していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

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