宇部から萩、山口ちょうちん祭りと徳山の旅(三日目)~長州藩を支えたのは多様な人々。その息使いを感じながら、引き続き市内各所へ。歴代三輪休雪の手びねりもまるで命が宿っているかのような躍動感です~
2016/08/06 - 2016/08/06
28位(同エリア939件中)
たびたびさん
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萩の二日目もレンタサイクルを活用して、極めて順調。お天気にも恵まれたのも、ラッキーだったでしょう。しかし、それにしても、この歴史スポットの多さはちょっと予想外。本当にすごい数です。
まず、萩城城下町で萩城に近い辺りを考えれば、堀内。これは最も上級の武士が住んでいた辺りですから、幕末の長州藩にあっては保守派。高杉晋作の言う俗論党の地盤というところでしょうか。一つ一つの屋敷の区画がけた外れに大きくて、そのスケール感を感じるだけでも価値があると思います。
一方で、地元の人が城下町という場合は、青木周瑜や高杉晋作の旧宅が集まる狭い範囲を指すよう。中・下級武士が住んでいた急進派、正義党を育んだエリアです。こうした場所では、一つ一つの屋敷跡で、どのような人物が住んでいて、幕末から明治にかけてどういう行動をしたのか。いろんな立場や考え方の人が混じりあって時代は流れていく。そのダイナミズムを感じることが楽しいですね。
また、重要伝統的建造物群保存地区という見方でとらえれば、萩の保存地区は堀内地区に加えて、平安古地区、浜崎地区がある。平安古地区は、堀内地区に次ぐ上級武士の住んでいた地区だし、浜崎地区は毛利氏が萩に移ってきた当初からの商人の街。ほか寺町もしっかりあるし、藍場川地区も印象的。地区によってメリハリのきいた趣が楽しめます。そして、それらが組み合わさった萩の街、全体を城下町として味わうことができるというのが萩の最大の魅力。萩城には天守閣など建物が一切残っていないので、一般的な観光からすると地味な印象になってしまうのですが、これを補って余りある魅力ではないかと思います。
ところで、薩長と言われる両雄、薩摩藩と長州藩ですが、明治維新の匂いは山口県の方が濃厚に残っています。つまり、鹿児島県の加治屋町に匹敵するのは山口県だと萩になるのでしょうが、市街のあちこちに残る武家屋敷など、その厚みはこちらの方が圧倒的。武家屋敷だけで言えば、鹿児島だと知覧の武家屋敷とか篤姫の故郷とかが思い浮かびますが、それでもかなり差があるように思いますね。そして、山口県は、萩だけではなく、山口市や下関市もかなりの明治維新の史跡が残っていて、そこまで含めると、もうはるか別次元のレベルになるでしょう。
ただ、司馬遼太郎は、鹿児島の気質は地域の郷士がいて成り立っていたのだが、明治維新以降は急速に失われてしまったと述べています。桜島の噴火のように爆発した後は振り返っても意味がない。跡なんか大事に残しても仕方ないというのもちょっと鹿児島らしいかもしれません。
そして、もう少し付け加えるなら。鹿児島では、むしろ、西南戦争の史跡の方が生々しいし、幕末は島津斉彬や久光の存在が絶対的に大きいので、そういう意味では、薩長は似て非なるもの。小さなことを積み上げて想像力を膨らませる視点が楽しい山口県と大どころから見ていく鹿児島県とでも申しましょうか。結果、史跡に臨む気持ちがおのずと違ってくる。それもまた一興かと思います。
鹿児島市の旅(参考まで)
http://4travel.jp/travelogue/10778031
http://4travel.jp/travelogue/10778032
http://4travel.jp/travelogue/10778047
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二日目の萩市内散策です。昨日から連続で自転車を借りているので、朝早くから出発できる。時間を有効に使えて、これは助かります。
萩市中央公園は、明倫小学校の隣り。この公園自体が緑の芝生のけっこうな規模があるのに加えて、周辺には明倫小学校や山口県立萩美術館・浦上記念館といった大きな施設があるので、広々した萩市の文化ゾーンと言った雰囲気の場所です。
公園内に立つこの久坂玄瑞進撃像は、禁門の変における雄姿を表したもの。高杉晋作と並び松下村塾の双璧と言われた久坂玄瑞ですが、禁門の変で討ち死。25歳の生涯を閉じることになります。その後の長州征討も含め、長州藩の急進的な攘夷論はまだまだ苦難の道を歩むのですが、自分の死は、ただの死ではない。それを乗り越えて行く人のために必ず役に立つはずと喜んで散って行った志士たちの象徴でもあります。感慨深く拝見いたしました。 -
これは山形有朋の像。かなり大きくて、ちょっと場違いなくらいに浮いています。ちなみに、山形は中間の身分である家で生まれたので、 士分でないため藩校明倫館の入学資格がない。それで、松下村塾で学びましたという人物。この銅像は陸軍の大臣官邸から上野公園、井の頭公園を経て、ここにたどり着いたとか。長崎の平和祈念像を作ったことで有名な北村西望の作です。
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そこから、三つの伝統的建造物群保存地区の一つ、平安古町地区へ向かいます。
村田清風別宅跡への途中にあった平安寺です。浄土真宗本願寺派の寺で、観光スポットという感じではないのですが、それでもとちょっと寄ってみると、 -
本堂正面の唐破風はベンガラの朱色が少し残っていたりして、あまり見ない意匠。梅と巴の家紋が並んで、どこかの菩提寺なのだと思います。
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村田清風別宅に到着。この長屋門だけでなく、
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その奥の屋敷内までは、母屋などの建物は残っていませんが、公園みたいにきれいに整備されていました。
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ちなみに、村田清風は、天保の改革でその手腕を発揮し、幕末に長州藩が活躍する財政的基盤をいち早く築くことになった人物とされています。この屋敷は藩政にたずさわった約25年間を過ごした場所。73歳で亡くなっています。
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平安橋は、城三の丸の3つの総門の一つ、平安古総門の外堀に架けられた石橋。事が起きれば重要な守りの場所だったはずですが、橋は意外に華奢な感じ。弱そうにも見えるのですが、ちゃんと残っているところをみるとやっぱり丁寧な仕事で作られたのかなとも思います。傍らには橋と総門、それぞれの説明板があります。
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満行寺も平安寺と同じく、武家の街平安古地区の一角。いかつい門と
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限られた広さではありますがきれいに整備された境内はなにかスキがありません。傍らに井戸があったりしますが、これも手入れがよく行き届いた感じで、好感が持てますね。
寺の開基である毛利家家臣坪井玄蕃満行は、石山合戦において本願寺を助けるために派遣された人物だそうで、この寺ももちろん浄土真宗。一時は信長包囲網の一翼を担っていた毛利家も、秀吉とは中国大返しで特別な関係を作る。この寺も少しは歴史に関係するといえるかもしれません。 -
続いての久坂玄端誕生地は、石垣に囲まれて、その中心に立派な石碑が建つ。ちょっとものものしい感じで整備されていました。傍らに説明板があって、久坂玄端のもとに武市半平太の手紙を預かった龍馬が訪れたことなども紹介されていました。久坂が龍馬に説いたのは草莽崛起論。龍馬は大政奉還の大仕事を成功させましたが、その時でさえ、どちらかといえば心は公武合体論と大きな違いはない。もしかしたら、過激な思想に目を丸くしていたかもしれません。
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ところで、平安古地区は、堀内地区ほど高級武士ではありませんが、それに次ぐ上級武士の住んでいた地区。ここもそこそこの塀が続いていて、平安古の鍵曲辺りが一番の見どころかと思います。
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ちなみに、鍵曲は敵を市街戦で食い止めるために造られたもの。萩市街にいくつかあるようですが、たぶん、この平安古の鍵曲が一番でしょう。
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イチオシ
というのも、鍵曲自体も厚い土塀に囲まれて丈夫そうなのですが、川向こうの山の景色やうっそうとした屋敷林が塀の上から覗いていたり。
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このまま時代劇のロケができるくらい迫力があるように思います。
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鍵曲を少し進むと坪井九右衛門旧宅。敷地内には長屋門・主屋、土蔵が残っているようですが、表には表札も架かって普通の住宅として使われているようなので、外から中の様子をうかがうしかありません。ただ、玄関口の表門の上には立派な板に書かれた教育委員会の詳しい説明があって、これは読みごたえあり。九右衛門は村田清風と並び称される人物ではあったのですが、最後は徳川幕府への恭順を主張する俗論党の領袖として野山獄で刑死したとありました。
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そのはす向かいにあるのが、平安古かいまがり交流館。駐車場もある公民館的な建物で、この建物自体は休憩スペースがあるくらい。観光的なものではありません。
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やっぱり見どころは敷地内に残る旧児玉家屋敷跡の庭。変化のある地形を利用したメリハリのある構造で、ちょっと優雅な気持ちになれると思います。
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鍵曲を戻ってきて。
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続いては、田中義一別邸へ。
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平安古地区でもここは敷地内に入れます。
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橋本川に面した大きなお屋敷は、
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建物の中には入れませんが、
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首相の別邸だけに悠々としたたたずまいはさすがのような。
ただ、実のところは基本的には夏みかん栽培を奨励した小幡高政が作ったもの。 -
田中がここを手に入れたのは、首相を引いた後、大正期に入ってからのことになります。
ちなみに、田中は日清戦争に従軍し、日露戦争でも積極的な開戦論者。軍人としての道を歩んだ末に政界に転身。陸軍大臣、政友会総裁から、昭和2年に内閣総理大臣となっています。日本が列強の仲間入りをした華々しい時代ですが、結局は、清の内政問題やロシア帝政の崩壊など、運が見方をしてくれた側面がかなりあってのこと。それを自らの実力と過信したこともその後の大きな悲劇につながったのではないかと思います。
また、田中が内閣で取り組んだ大きな課題は昭和2年の昭和金融恐慌の事後対策。モラトリアムの発動でいったんこれを収めますが、張作霖爆殺事件の責任をとって辞任したのが昭和4年7月。山形有朋から田中儀一に受け継がれた長州閥の力をもってしても、軍の抑えがきかなくなってきたことも感じられます。ただ、それでもこれはまだマシな方。
同年10月には世界第恐慌が発生し、日本ももう明治維新の成功に浮かれている暇はない。生活苦から娘の身売りも珍しくないという、暗い泥沼の時代に突入することとなるのです。 -
ただ、それはそれとして。。
塀に囲まれた敷地内にはみかん畑もあって、この広々とした感じは別格だと思います。建物も大きいのですが、この敷地、ロケーションだとあまり目立たないかもしれません。建物の周囲を回れば、別邸の素晴らしさをすぐに感じることができると思います。 -
さて、橋本川ですが、萩の街を囲うように流れて、まるで大きな外堀みたいな存在です。
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イチオシ
田中邸から大照院に向かう途中。じっくり眺めましたが、川幅も広いし、川のはるか向こうには武家屋敷群の街並みや萩城も見えて、まさに絶景。萩の街の美しさはこれにありといった感じかと思います。
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少し距離がありましたが、なんとか大照院に到着しました。
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これが山門で、ここで拝観料を払います。
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ただ、拝観はこの庭園が目玉スポットのはずだったのですが、はっきり言えばそこまでの美しさもインパクトもないような。京都の天龍寺にも例えられる萩第一の名園とあったのですが、池の周囲を深い緑が覆うだけ。もう少し石組みの妙とかがあれば違うのでしょうが、どうでしょう。
なお、これも目玉とされていた木造釈迦如来坐像はけっこういい。秀逸だと思います。 -
で、最後に回ったのは大照院墓所。これも、東光寺と並ぶ萩藩主毛利家の墓所です。
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始まりは2代藩主綱広が初代藩主秀就の菩提所として再建したものですが、
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以降、秀就以下2代から12代までの偶数代の藩主の墓所となりました。
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ぎっしりと林立する石燈籠の眺めは東光寺と同じですが、
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イチオシ
こちらは亀趺がないので、敢えて比較すれば景観としては少しさみしいような気がします。
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萩駅の方に戻ってきまして。これは観光案内所。外観からすると何か歴史的な建物かと思ったのですが、そうではない。
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駅舎の雰囲気を壊さないように、こうしたデザインになっただけだそう。
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それにしても、もう萩駅は萩の玄関口というには不便な場所。東萩駅の方が実質的な玄関になっている中で、ちょっともったいないような施設かなと感じます。
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そして、こちらが本物。萩市自然と歴史の展示館が、萩駅を利用した施設です。
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展示は萩八景や長州ファイブなどありましたが、
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やはり見どころはこの駅舎そのものでしょう。
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大正14年に開業。白地にモスグリーンの縁取りとか大正ロマンの香りもするおしゃれな意匠だと思います。
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金谷神社は、萩駅のほど近く。
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菅原道真を祀る神社で、始まりは鎌倉時代。長門守護の 佐々木高綱が大宰府から勧請したということですが、なんといっても、正面の重厚な赤い楼門がシンボルでしょう。
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境内は少し起伏があって少し荒れた感じもなくはないですが、荘厳な雰囲気は漂っています。
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再び、松本川を渡って、今度は藍場川のエリアを目指します。
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改めてですが、萩の街は周囲を外堀のように川が流れていて、西南側が橋本川。東側がこの松本川です。橋本川の方がたぶん本流で、松本川は途中で分岐する形。藍場川のエリアがその分岐点に当たります。
何かあるかなあと思って行ってみましたが、何かの石碑があるくらい。なにもない寂しい場所でした。 -
これが藍場川ですね。
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まずは、旧湯川家屋敷へ。同じ並びには桂太郎旧宅もある藍場川沿いです。
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玄関を入って。。
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藍場川を庭に引きこむのはまあありとして、
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炊事場のすぐまで引き込んで、そこには悠々と大きな鯉が泳いでいる。これは面白いというかすごいですね。
藍場川と一体になった生活を実感するのなら、この屋敷が一番です。 -
座敷も調度品などほどよい上品さが漂っていて、気持ちいい空間がありました。
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堀内や平安古のような上級武士ではないので、なにか緊張感がほぐれるような穏やかな感じがありますね。
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藍場川に出て。
ここでは錦鯉が悠々と泳いで、餌やりをする子供たちの姿もちょっとほほえましいです。 -
鯉もここでは危害を加えられることがないので、のんびり安心して泳いでいます。
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続いては、桂太郎旧宅へ。鯉の餌やり場とかはここが一番しっかり整備されているので、それが目印です。
小さな石橋を渡って、 -
門から玄関へ進みます。
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さて、桂太郎が、ここに暮らしたのは3歳の時から。現在の建物は、明治42年のもの。
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3回も内閣総理大臣を務めた桂にしては意外なほど小さな規模のような気もしますが、それはそれとして。
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一角に桂の銅像があって、それだけはやや無粋になっていますが、全体としてはこじんまりとした中にも美しさや穏やかさを感じる邸宅。
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手入れもよく行き届いていて、これなら暮らしやすかったかも。
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イチオシ
今の感覚で言っても、気持ちいいのは確かです。
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再び、藍場川に出て。
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今度は、善福寺です。室町期に指月山麓に創建された臨済宗の古刹でしたが、萩城築城の際に、こちらに移されました。
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見どころとして山門を入ってすぐのところにあるキリシタン灯籠がありますが、キリシタン迫害の事件もあったり、それを思うとちょっと複雑です。
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本堂の前の庭とかはかなりよく整備されていて、
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苔の緑とか、どうしたんだろうかというくらい美しいです。
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藍場川エリアを後にして。
こちらは、山縣有朋誕生地です。 -
イチオシ
それなりの広さの敷地の中に、厳島神社旧祉之碑と本人の書による石碑とそれを固める神社みたいな左右のこま犬。あれれと思うような大げさな演出がありました。
長州閥の大物であり、日本陸軍のドン。総理大臣も務めていますが、功山寺の挙兵の時、奇兵隊の実権を握っていた山縣は高杉晋作の誘いを始めは断っている。日清戦争の第一司令官であった時も、平城の攻撃は予定通りとはいえ、鴨緑江の作戦は朝鮮から清の影響力を排除するという目的からするとやりすぎの感がなくはない。また、大きな疑獄事件もあったし、私的には気分がよくない。けっこうマイナスのイメージが付きまといます。 -
さらに川沿いを進んで。
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渡辺蒿蔵旧宅は、松下村塾出身の渡辺蒿蔵が明治中期に建てた邸宅。
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イチオシ
主屋に土蔵、周囲の日本庭園など規模も大きいし、堂々とした風格です。
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米英に留学し、学んだ造船技術で日本の造船事業の近代化に貢献ということですが、
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一旗揚げて故郷に戻って建てたものなので、
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ズバリ言えば、ちょっと自己顕示のようなところもなくはなかったかも。
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購入して自分好みに変えた屋敷ですが、ただ、センスはまあまあ悪くないような気はします。
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ここから、今朝の出発点、中心部あたりに戻ってきました。
観徳門は、有備館の手前に建つ藩校明倫館の遺構です。 孔子を祀る聖廟の前門だった門で全体としては美しい姿のは間違いないのですが、よく見ると左右に唐破風を備えたところが珍しいでしょう。この破風は正面から見ても気が付きにくいのでお見逃しなく。 -
有備館は、旧明倫館の剣術場と槍術場を移した建物。
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黒光りした床がここで汗を流した人たちの歴史を語っているようで、
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中に立つとけっこう凄味を感じます。それぞれに藩主の上覧場があって、
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ほか、坂本龍馬もここで試合をしたというのはちょっと出来過ぎのような気もしますが。。
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この長い塀は、
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建物は、国の登録有形文化財に指定されていて、現在保存工事が進められています。そういう意味でも敷地内には入れないので、塀の外から眺めることしかできませんが、それでも建物は大きいし、迫力ある姿は十分感じれます。
ただ、名前の通り、藩学明倫館の流れを汲んでいるとは思いますが、この建物は明治以降のものです。 -
旧萩藩校明倫館は、最初に5代藩主吉元が建てたのは堀内。今では何もないような場所に石碑が建っているだけですが、こちらは幕末になって移転してきた場所。
二つの場所はけっこう混同されているようですが、紛らわしいといえば紛らわしいかもしれません。
これは、明倫館遺構南門。嘉永2年(1849年)、それまでの堀内から移った新しい明倫館の正門として建てられたものです。明倫館と書かれた額を掲げ、門には鉄鋲が打たれて、城郭の門のように重厚な構えです。一時は寺の方にあったようですが、今では元の場所。周囲に何もない場所にポツンとあるようですが、ここが元々の場所なんです。 -
再び萩市中央公園です。日が高くなると、いっそう緑が美しいです。
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一角にあるのは最近整備された世界遺産ビジターセンター 学び舎です。
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期間限定の施設のようですが、それはもったいないくらい内容は充実しています。
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体育館のような建物いっぱいを使って、
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特に幕末の長州藩が力を入れていた西洋の技術導入にスポットを当てたりしたのは、新たな試み。
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技術の導入は、薩摩や佐賀だけではないよということをアピールしていますが、反射炉や造船所を実際に見た後に説明を読むと理解が深まると思います。
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今度は、向かいにある山口県立萩美術館・浦上記念館。
山口市にある県立美術館を想像してましたが、こちらの美術館は全く別格。特に、萩焼の展示は大迫力で、萩の面目躍如といった内容。すばらしいの一言というか、それ以上最大限の賛辞を贈ってもまだ足りないと思うくらい。いわゆるひねりものの傑作がこれほど揃っていると、萩焼になじみのない人でもその素晴らしさが一瞬で分かる。浮世絵のコレクションも秀逸でしょう。 -
さて、いきなりの12代三輪休雪ですね。東京藝術大学大学院陶芸専攻を修了し、「花子の優雅な生活(ハイヒール)」を卒業制作して周囲をあっと言わせたのを皮切りに、その後も焼き物の概念を覆すような意欲作を次々と発表しています。
これは、白雲現龍氣のシリーズ。 -
蛇のようにのたうつ形ですが、思い切り力を秘めたエネルギーの塊りのよう。そこに黒と赤茶の組みわせの配色で、重厚な美しさも備えている。その力強さと美しさのバランスが素晴らしいですね。
私は、12代三輪休雪の作品は、博多で襲名披露の個展を見たのが最初なんですが、その時度肝を抜かれたのは、金色の茶碗。金色なんて、焼き物の美しさとは対極のもの。そんなことをしたら、焼き物の意味はないはずで、この人は気が狂ったのかと思ったものです。 -
これは、卑弥呼の書シリーズ。黄金の表現が時空を越えた神秘性を醸し出します。
しかしこうして、次々と12代の作品を見ていくうちに、単に奇をてらったものではない。そこには一貫したテーマがあることが分かってきました。 -
これはまた、ギリシャ神話のような世界。
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焼き物でなくても表現できる世界とも見えるし、焼き物だからこそ表現できているようにも見える。焼き物はツールであり、要は何を表現するかなんでしょうが、そこまで話は単純ではない。炎の中から生み出された焼き物に、我々はそれ自体で永遠性のようなものを感じてしまうのであって、その面白みを否定してしまっては元も子もないんですよね。
焼き物はツールであり・・というように見えながら、この作品でも、やっぱり焼き物の存在感や美しさを尊重した造形が感動を呼ぶ基本となっているように思います。 -
イチオシ
6代休雪の鉄拐仙人(てっかいせんにん)に、
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7代休雪の蝦蟇仙人(がませんにん)。はっきり言えば、6代の方が迫力があるようにも思いますが、
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11代の萩玉取獅子置物に
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10代休雪はどうでしょうか。動きは静かですが、白い牡丹雪のような長石釉がなんとも美しい。その釉の美しさを表現するためだけの造形と言ってもいいかもしれません。
作者は自分の人間性がいかに恰好を付けようと思っても表面に出てしまう。そして、それをまた後世の人にいつまでも見られてしまう。陶芸家と言うのはなかなか大変な職業です。 -
浮世絵の方も、いいじゃないですか。
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着物を着た女性の姿は日本の誇り。いい女と言うのはこういうのをいうんですよって感じでしょう。
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中国の陶器も少し見て、以上。いやあ、たっぷり楽しませてもらいました。
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佐久間佐兵衛旧宅地は、高杉晋作旧宅のある地区のほど近く。二本の石柱の門の前に少し苔むした名前を記した案内の石杭と説明板がありました。その細い路地の先、一般住宅の間が旧宅ですが、それ自体はどうということはありません。やはり、佐久間佐兵衛に思いを馳せられるかどうか。
佐久間佐兵衛は、水戸の会沢正志斎に学び、その後、藩校明倫館の助教等、藩の要職についた人物。禁門の変にはつながりしましたが、家老の福原越後の参謀として京に登ったのはこれ以上なく晴れがましい舞台だったはず。しかし、京で敗れて逃げ帰ると、第一次長州征討を受けた長州藩は幕府への恭順派が主流となり、福原越後は切腹。佐久間佐兵衛も斬首される。
尊王攘夷派と幕府恭順派の力関係は長州でも絶対的なものではなかったということ。その力関係のはざまで多くの有為な人物が犠牲になったことを思わずにはいられません。 -
みやげ処 村田は、高杉晋作旧宅のエリアの入口といったところ。敷地内はきれいに砂利が敷かれてきれいですね。ここに自転車を置かせてもらって、周辺を散策しました。
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で、その前に、ここでソフトクリームをいただきました。柑橘系のさわやかタイプです。
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江戸屋横町は、円政寺から、青木周弼旧宅、佐伯丹下家屋敷、木戸孝允旧宅が軒を並べる通りのこと。この通り自体は、特に特徴的なものはないのですが、これだけ有名どころの屋敷があるとなかなか。そして、これと並行して走る高杉晋作旧宅もある菊屋横丁に挟まれたエリアが地元の人だと狭義の城下町なんだそうです。
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円政寺は、高杉晋作や伊藤博文が勉学に励んだ寺とされていて、境内の小物の販売所など今ではかなり観光に特化したような感じです。
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中に入ると、境内の広さは限られますが、
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巨大な石灯籠に
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高杉晋作のしつけに一役買ったという天狗の面を掛けた拝殿もなんだかちょっと大仰すぎるような。
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なにかとどんどんアピールされるので、
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落ち着かないように思いました。
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青木周弼旧宅は、毛利敬親の侍医を務めた家柄。
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邸宅は保存状態もなかなかよくて、
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上がると落ち着いた庭に囲まれているし、気持ちの良い空間。
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しばし休憩がしたくなるような場所です。
ちなみに、青木周弼は、当時、日本屈指の蘭学医。周弼の洋学の知識は、村田清風を通じて藩政改革にも生かされたということです。 -
佐伯丹下家屋敷は、青木周弼旧宅と木戸孝允旧宅に挟まれた場所。少しくたびれたような門で、見学は門から少し中に入れるだけですが、静かな佇まい。映画のロケに使われたというのも納得です。
門前に説明板があって、佐伯丹下は萩藩大組士。直目付や撫育方仕組掛、奥番頭役などの要職を務め、岩国吉川家との交渉に尽力したとありました。 -
木戸孝允旧宅も、青木周弼旧宅と並んで、建物の保存状態がよくて気持ち良い空間。
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青木周弼旧宅よりもこっちの方が一回り大きい感じでもあります。
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維新の三傑と詠われた木戸は、坂本竜馬の仲介で薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと交渉し、薩長同盟を結んだ長州藩の代表。
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邸内には幼い時の手習いや家系図などちょっとした展示もありますが、この邸宅の雰囲気を味わうのが一番。
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静かで平和な佇まいと幕末の激動に時代がオーバーラップするかどうかは創造力次第。それぞれが自由に楽しめる場所だと思います。
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菊屋の前の通りです。正面は萩城の方なんですが、天守閣があった頃は、きっとここからもお城が見えていたはずです。
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旧久保田家住宅は、呉服商や酒造業を営んでいた豪商の屋敷。
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向かいの菊屋家住宅の方が外観からしても規模が大きいし有名なんですが、
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イチオシ
ここも入って見るとけっこう負けていない。
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幕末に建てられたという日本家屋は、表面的な豪華さは抑えつつも整った落ち着きのある雰囲気があって、
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余裕余裕の精神まで感じます。
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路地庭園の庭石や石灯籠もちょい豪華の加減がいいですね。少し時間を取って見学することをお勧めします。
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菊屋横丁は、ここに豪商菊屋があるのでこの名前なんでしょうが、この通りに面しては田中義一の誕生地、高杉晋作旧宅があって、萩の観光では松陰神社周辺に次ぐハイライトのエリアだと思います。入口には菊屋の美しいなまこ塀。細い通りは歩いて5分もあれば抜けてしまいますが、日本の道百選の一つでもあるようです。
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田中義一誕生地は、菊屋横丁の中ほど。菊屋の白い塀に囲まれて申し訳ないような感じで最低限の広さを整備した一角。自然石に田中義一閣下誕生地と刻んだ石碑が石垣の奥に建っていました。なお、田中義一が総理大臣となったのは昭和2年のことです。
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高杉晋作誕生地は旧宅が残っていますが、
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敷地内には入れても建物は外から中をのぞくだけです。
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ただ、産湯の井戸や庭園はよく整備されていて美しいし、
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縁側とかからは邸内もよく見えるし基本的には申し分なし。
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龍馬に送ったピストルの模型とかもありました。維新の志士たちの中にあって、坂本龍馬に次いで人気の高いのは高杉晋作でしょうが、私の中では高杉晋作がナンバーワン。
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晋作の決断による功山寺の挙兵がなければ明治維新はなかったといっても過言ではないでしょう。ここは、萩に来たら必見の場所かと思います。
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続いては、晋作広場。
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イチオシ
高杉晋作立志像は、その広場の中に建っています。晋作広場は菊屋横丁と江戸屋横町に囲まれたエリアにあって、よくこれだけ広い場所を確保できたものだと思う場所なのですが、逆に殺風景なほど。そこにこの像だけがポツンと立っているので、だれでも存在に気が付くと思います。
ただ、ハチャメチャな行動力のイメージとは違って、像は物腰穏やかな表情。紳士然としていて、ちょっとギャップがあるのも面白いところかもしれません。 -
伊勢屋横町は、江戸屋横丁と菊屋横丁の間を平行に走る通り。観光ボランティアの人もここには何もありませんからと言っていましたが、確かに、細い道。裏通りのような路地なので、入口から眺めただけでスルーしてしまいました。
ただ、伊勢屋という大店があったことで付いた名前。伊勢屋は菊屋と並ぶ豪商だったようです。
ということで、こちらは、旧野田家住宅。江戸屋横丁と伊勢屋横丁の間。旧木戸孝允邸からだと円政寺を過ぎて、次の角を右に曲がったところです。表の門が半分開いて、駒札があったので、ここも観光スポットだということがわかって、ちょっと入ってみました。 -
玄関先まで数メートルを入って終わりなんですが、それでも静かな佇まいの雰囲気は感じれます。
説明によれば、萩藩遠近付51石の家柄。当時の面影を残す主家に庭園なども残っているようです。 -
あづま寿司は、高杉晋作誕生地のすぐ近くなんですが、川を挟んでいるのでちょっと分かりにくいかもしれません。炎天下に駆けこむと店内はひんやり。
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カウンターに座って落ち着いたら、今度は大将が寿司を握ってくれると疲れがいっぺんに吹き飛びました。
赤出汁はちょっと味が濃い感じですが、にぎりはどれも美しい。職人気質の技が光っていると思いました。外観がちょっと粗末な感じがあるので、もったいないような気がします。 -
多越神社は、萩市の寺町の一角。門から本殿へは狭い参道のですが、本殿の周辺は緑の濃い松にも覆われていて、ちょっとゆったり感もある神社です。ただ、そこそこ荒れた感じは否めないかも。
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鳥居の脇に説明書があって、元々は円政寺と同じだったところ、明治の神仏分離令で別れ、こちらに来たものだということです。境内の井戸水は酒屋も汲み帰っていたという説明もありました。
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熊谷美術館は、萩藩御用達として栄えた豪商である一方、表千家とも縁が深かったということ。蔵利用した展示室に展示された美術品は、書画屏風類や茶道具などの目を見張るような品々。ドイツ人医師シーボルトに贈られたというピアノも一つの見どころですが、熊谷家の審美眼の高さを味わうのが一番の醍醐味かと思います。
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熊谷氏邸庭園は、有料エリアである熊谷美術館の敷地内。
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母屋や離れなどとその周囲に整備された庭園なんですが、
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イチオシ
庭園というか敷地そのものです。
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毛利家の御用商人だったという豪商の邸宅ですから、悠々とした規模があるのはもちろんですが、
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建物と建物の間隔というか空間の取り方とかが絶妙。
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ただ広いだけではなくて、心地よい広さというのはこういうものを言うんでしょう。
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立方体に刈りこんだ庭木が変わっていましたが、風水か何かの関係なんでしょうか。いろんなところに工夫が散りばめられているようなドキドキ感もあるように思います。
さて、萩市内の観光もこれで終了。これから山口市に移動して、今夜はちょうちん祭りを拝見します。 -
これは萩のバスセンター。
萩にバスで入った時、どこのバス停で降りるのかはちょっと迷うところ。終点の東萩駅だと松陰神社には比較的近いのですが、萩駅は観光エリアから離れていてちょっと論外。この萩バスセンターは、高杉晋作や木戸孝允の旧宅など維新の志士の住宅地には近いので、ここで下車するのもお勧め。東萩駅よりも使えるかなと思います。 -
ただ、私はレンタサイクルを借りたので、この東萩駅の終点を使いました。ここで自転車を返して、山口市行きのバスを待ちます。
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構内に観光案内所があって、萩観光の感想など。係の女の人も、吉田松陰先生の偉さがやっと最近分かってきましたとおっしゃっていました。今でも萩の人の心には、松陰先生の威徳が残っていることを感じれて、最後にまた気持ちが温かくなりました。
これでほぼ予定通り。任務完了といったところでしょうか。
では、ここからちょうちん祭りの山口市に向かいます。
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この旅行記へのコメント (3)
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- Antonioさん 2024/05/15 00:24:10
- 萩
- こんばんは。今年の初めに萩に行きましたが、半日で市内観光するのは無理でした。観光資源に溢れた街だと思うのですが、アクセスが悪いのかインバウンドはあまりいなく、宿泊施設はコロナ禍を経て減少したようでした。戦中に空襲の対象にならなかったのか、びっくりするほど古い町並みが保存されていてびっくりでした。
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- tadさん 2017/02/24 18:31:30
- 素晴らしい旅行記です。
- あちこち感動させられました。最近、歴史ものを読むと、感情押し殺したものが中心で、密かに頭の中で喝采を叫びたくなるのですが、たびたびさんの旅行記は、もう少し、気持が現れており、いい読後感です。一坂太郎氏などに、読ませたい旅行記ですね。
- たびたびさん からの返信 2017/02/28 16:49:05
- RE: 素晴らしい旅行記です。
- 本日、徳山のアップで一連の旅の旅行記が終了しました。応援ありがとうございました。
たまたまですが、この後、坂本龍馬の高知県に水戸藩の茨城県の旅もアップを予定していますので、よろしくお願いします。
たびたび
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