2011/04/23 - 2011/05/09
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mikoyan358さん
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2011年、旧ユーゴスラビアを構成するスロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの5か国を、レンタカーで旅しました。
前年にドイツ・オーストリア・チェコをレンタカーで巡って自信がついていたという状況でしたが、それでも
「そもそも外国人が車で飛び込んで大丈夫な場所なんだろうか?」
という一抹の不安も感じながら、車と宿の予約だけしてとりあえず飛び込んだ国々(笑)。
2000年前から続く悠久の歴史あり、世界にもまれなほどの奇勝地あり、そしていまだ残る内戦の爪あとあり...
危険を感じることもなく、かつてのユーゴスラビアという国が持つ魅力そして負の歴史を、肌で感じることができた旅でした。
もう5年前の出来事ですので多少状況も変わっている可能性がありますが、でもレンタカーでこの辺に行こうと思っているけど情報が少ないし、本当に大丈夫なのかな?とお考えの方に、少しでも参考になればと思っています。
1日目 4月23日(土) 成田⇒ミュンヘン→リュブリャナ
2日目 4月24日(日) リュブリャナ⇒ザグレブ
3日目 4月25日(月) ザグレブ⇒ベオグラード
4日目 4月26日(火) ベオグラード⇒モクラ・ゴラ⇒ヴィシェグラード
5日目 4月27日(水) ヴィシェグラード⇒サラエヴォ
6日目 4月28日(木) サラエヴォ
7日目 4月29日(金) サラエヴォ⇒モスタル⇒ドブロヴニク
8日目 4月30日(土) ドブロヴニク
9日目 5月1日(日) ドブロヴニク⇒コトル⇒ドブロヴニク
10日目 5月2日(月) ドブロヴニク⇒スプリト
11日目 5月3日(火) スプリト⇒トロギール⇒シベニク⇒プリトヴィツェ
12日目 5月4日(水) プリトヴィツェ⇒リエカ⇒プーラ⇒ポレチュ
13日目 5月5日(木) ポレチュ⇒ヴェネツィア⇒ポレチュ
14日目 5月6日(金) ポレチュ⇒ポストイナ⇒シュコツィアン⇒ブレッド湖
15日目 5月7日(土) ブレッド湖⇒クラニスカ・ゴラ⇒リュブリャナ
16日目 5月8日(日) リュブリャナ⇒ミュンヘン⇒(機中泊)
17日目 5月9日(月) ⇒成田
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- レンタカー タクシー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
旅も6日目にさしかかり、朝起きるのも少しずつ辛くなってきました。
幸いにして今日は運転はなく、サラエヴォの街を1日かけてじっくり巡る日。
レンタカーの旅の良いところであり避けられない運命でもある「次の街に行かねばならない」という必要に迫られなくてよいこういう日は、日程の中では貴重です。
泊まったペンションの窓からは、近所の家の様子が見渡せます。
地図を見ていていくつか気になるところもあったので、朝食開始前に少し余った時間を利用して、少し散歩することにしました。Hotel Villa Harmony - Free Parking ホテル
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周辺の家は比較的新しいもの、そして現在建設中のもので占められています。
内戦で大きな被害を受けた建物なのでしょうか。
この建物はペンションから出てきたすぐのところにあり、その前の道は右に曲がるとサラエヴォ市街へ至る下り坂になっています。
その逆側、坂を登る側へと進んでみると... -
こんな看板が道端にありました。
「Grad Istocno Sarajevo」、そのまま訳すと「東サラエヴォ市」という事になります。
特に事前知識がなければ、ああ、そんな街もあるんだね、で終わっていたかもしれません。
しかし、ここまで旅してきた知識がそうさせたか、私はこれを見て真っ先にアルファベットより優先して上に書かれているキリル文字の地名の存在に気づきました。
3日目の日記で「セルビアに入ったとたんに、キリル文字が優先して表示されるようになった」ということを書きました。
こういう表記があるということは、セルビア人が多くいる場所という意味。
写真の位置情報を開いてもらうとよくわかりますが、この場所はボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエヴォ市と、セルビア人国家である「スルプスカ共和国」との「国境」にあたる場所なんです。 -
「Kanton Sarajevo」とは「サラエヴォ県」のこと。
斜め線が引かれている看板は、「その地域がここで終わる」ことを示しています。
大きな壁もなければ検問もなく、自由に行き交うことができる、見た目には普通の道。
しかしながら、ここには目に見えない壁が存在し、人を寄せ付けないでいます。
しばらくこの辺をうろつきましたが、通過する車もほんの2台ほどで、誰もここを通り抜ける必要を感じていないようにも見えました。 -
「国境線」の向こう側まで入ってみました。
ガソリンスタンドはありますが、その近辺にはほとんど家はありません。
おそらく、この道は山に囲まれた盆地のサラエヴォを攻撃する、格好の侵攻ルートになったはず。
ここから入ったセルビア兵が攻撃したものを、この後次々と目にすることになります。 -
停戦実現後はEUの援助もあり、街は復興を遂げました。
EUの部隊もいまだに駐留しているようです。 -
再びボスニア・ヘルツェゴビナへと戻り、事前に頭に叩き込んだ地図をたどりながら住宅街を歩いていきます。
-
家々の間から、突然立派な照明塔が見えてきました。
夜であれば躊躇するような狭くて寂しい路地を下っていきます。 -
門が開いていたので勝手に入ってしまいました(笑)。
こちらは、サラエヴォを本拠地とする「ジェリェジュニチャル」というプロサッカーチームのホームグラウンドである「グルバヴィツァ・スタジアム」。
第二次大戦後からユーゴスラビアのリーグに所属し、ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカークラブとしては最も高い評価を受けているチームの一つでもあります。
このスタジアムのすぐそばのグルバヴィツァ地区に生まれたひとりの少年。
その後このチームに18歳で入団して、ユーゴスラビア代表としても活躍し東京オリンピックにも出場、欧州選手権では準優勝の栄誉に輝いた選手。
後にこのチームに監督として返り咲きUEFAカップベスト4になり、そしてユーゴスラビア代表監督としても実績を残した人物。
この街で育ち、目の前に見えるこの芝生の上を走っていた少年はサッカーでそのような功績を残し、やがて我が国の代表監督にもなりました。
皆さんもご存知の、イビチャ・オシム、その人です。 -
スタジアムのあったこの付近は、サラエヴォの中でも最も激しい戦闘が行なわれたところ。
今はきれいなスタジアムにも、かつてはこういう時代がありました。
https://en.wikipedia.org/wiki/Stadion_Grbavica#/media/File:Sarajevo_19.3.1996_war.JPG
15年以上が経過し、街にはこのような微笑ましい平和な光景が戻ってきています。 -
労働者階級が多く住むこのグルバヴィツァ地区には、このようなそれほど背の高くないアパートがたくさん並んでいます。
オシムも、こうした景色の中の一員だったんですね。
故郷、その中でもとりわけ自分の実家の近辺が焼き尽くされ、家族が危険にさらされ、そしてそんな中で国際試合の出場停止を言い渡される...
あまりに過酷すぎる運命です。 -
ここにも、ほぼすべてのアパートのほぼすべての階層に、こうした銃弾の跡が見られます。
この街に生まれ育ちこの街が好きであれば、こうして年月が経って住むことができるのでしょうが...
仮に私が今からここに住めと言われても、落ち着いて滞在できる自信はありません。 -
仲良く歩いていたカップルを見送り(笑)、宿へと戻ります。
豊富な食材が揃い、一介のペンションのものとは思えないような豪華な朝食を取ってから、この日の行動を本格的に開始することにしました。 -
まずは、行きたかった場所の中で唯一離れているところへ。
ペンションのオーナーに相談したところ、手早くタクシーを呼んでくれ、観光している間の待機含めての値段交渉もしてくれました。
新しく作られたこのようなビルを横目に見ながら、街の西の外れへと向かいます。 -
タクシーは、サラエヴォの国際空港をぐるりとう回するように進み、街から見て南側、滑走路の向こう側の路地へと入っていきます。
街からわずかこの程度の距離でこんなに?と思うほどにのどかな農村風景の中に、このような建物が見えてきました。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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壁にある小さなプレートには「tunel」と書かれています。
ここは「トンネル博物館」。
ボスニア内戦時のサラエヴォ包囲の際、セルビア人勢力に包囲された人々の生命線となったというトンネルが、現在に至るまで残され見学できるようになっています。
朝一番なのに、なかなかの賑わいですね。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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包囲、といっても実際に行ってみないとなかなかイメージが沸きにくいですが、ちょうどよい説明が博物館の入口に掲げてありました。
サラエヴォは、これまで見てきたように周囲を山に囲まれた盆地に広がっています。
内戦の際、セルビア人勢力はその山から市街に向けて激しい攻撃を加えましたが、サラエヴォ市民は持ちこたえます。
そして、街の南西にある空港は、ここを物資輸送の最後の拠点として守るボシュニャク人側と、攻め落とそうとするセルビア人側とで、ひときわ激しい攻防の舞台となります。
空港を死守しないとサラエヴォが壊滅する、ということで、国連軍も加わりこの場所は何とか確保。
結果、この写真のように、空港の滑走路だけを出口とするような勢力図ができあがりました。
このような状況では、空港を通り抜けるルートだけがボシュニャク人勢力の頼り。
しかし、空港から市民の食糧などを運び込もうにも、滑走路は遮るものもなくスナイパーが狙い放題の極めて危険な場所でもありました。
このトンネルは、そんな物資をより安全に運び込むために設けられた、まさにサラエヴォ市民にとっての「点滴」のようなものでした。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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中に入ると、まず雰囲気たっぷりの地下壕に入り、映像にて実際にこのトンネルが使われていた時代の様子を見ることができます。
中にはレールがひかれ、トロッコのような乗り物に荷物をぎっしりと積み込んで、滑走路を挟んだサラエヴォの内部へと物資を送っている様子がわかります。
一回の輸送で400キロほど積めたそうですが、それでもサラエヴォ市民の数を考えたら全く微々たるものであることが、見ているだけでも一目瞭然。
いったい、必要な物資を運ぶためにこの作業が何回必要だったのか、想像すらつきませんね。。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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かつては、滑走路の下をくぐるように伸び、長さは800メートル以上もあったそうです。
トンネル自体は、燃料供給のパイプや電話回線の維持のためにも重要なものでした。
そしてもう一つ、兵士の補給のラインも兼務。
ボシュニャク人はもちろん、PKOの兵士などもここを行き交ったようです。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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実際に、そのトンネルをくぐってみました。
現在残っているのは、この観光用に保存されている20メートルほどの区間のみ。
2004年に現在のようにきれいに整備されたそうです。
この出口にある家の主は、当然ながら無償でこのトンネルを多くの人に使わせていました。
長らくサポートもなく苦労したようですが、現在では毎日観光客が訪れているでしょうから、少しはかつての苦労の穴埋めになってますかね。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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実際に歩いてみると、背が低い私でも若干身をかがめなければならないほどの高さ。
加えて左右は、(現在では一方通行なので問題ないですが)反対側から人が来たらかなりすれ違いに苦労するような幅。
しかも、途中に空調のための通気口が一切ないので、酸素マスクをしないで行くと窒息してしまう状況だったとか。
図体がでかい現地の人に、そんな状況の空間を800メートル進むのは難易度が高いですね...サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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つかの間の戦争体験終了。
生きるために必死で通ったトンネル。
時代の移り変わりとともに、出てくる人たちの顔もみな楽しそうなものになっています。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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運搬された物のなかには、こうした卵や牛乳といった、サラエヴォの市街では生産できない日常の食べ物などもたくさんありました。
ただ、すべてが健全な方法ではなく、管理者がピンハネしたうえで闇市に流れる...なんてことも多かったそうですね。
長期間の包囲の間、サラエヴォ市民は働くこともままならなかったはずですが、いったいどうやって日銭を稼ぎどうやって生活していたんでしょうか。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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トンネルには近くに住む一般の人も多くボランティアで携わっていました。
この写真に姿のある女性は、息の詰まりそうなトンネルをくぐってきた兵士たちに水をあげて労をねぎらう、という事を長年やっていたそうです。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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そうしたら、その写真の奥のほうに人だかりが出来ていました。
何だろう?と思って近づいたら、どうやらその写真に写った女性ご本人のよう!
15年以上が経ってかなり年老いた風貌にはなりましたが、こうして観光客の相手をするくらいわけなさそうなほどに元気よく見えます。
戦争自体は終わりましたが、戦争の記憶はまだまだあせてはいないようですね。サラエボ トンネル博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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充実した1時間弱のトンネル博物館観光を終え、待ってくれていたタクシーで市街の中心部へと移動します。
空港から戻る道の途中にも、一見して戦争遺構とわかる建物がいくらでも見つかります。
この建物も、事前にサラエヴォの様子を勉強した際の写真で見たことのあるものです。 -
こちらはサラエヴォのテレビ局。
戦闘地域の最前面にありましたが、猛攻の中死守され最後まで放送が継続されていたそうです。 -
この、空港からサラエヴォ市街の中心へと入る一番の大通り「Zmaja Bosne通り」。
この名前は聞いた事がないかもしれませんが、こちらの呼び名は一度耳にした方も多いのではないかと思います。
「スナイパー通り」
サラエヴォ包囲戦において、南側の丘陵地帯から(朝方に通った)グルバヴィツァ地域へ、セルビア人勢力が侵入していました。
そして、そのグルバヴィツァから見渡せるこの通りのこの界隈に向け狙撃兵が常に銃を構え、兵士はもちろん女性や子供まで含めた「動くもの」を無差別に狙撃していました。
こうすることで、物流と戦力移動の中心であるこの通りの機動力をそぎ、街を東西に分断していく狙いがあったようです。
そんな時代の名残りから、今でもそう呼ばれているこのスナイパー通り。
現在は車と人の通りも戻り、その名前が持つ雰囲気は意図しても感じ取ることはできません。スナイパー通り 史跡・遺跡
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その「スナイパー通り」に面したこちらの目立つ黄色の建物。
昨日ツイストタワーからも目にしましたが、これがサラエヴォ一有名なホテルと言っても過言ではない「ホリデイ・イン・サラエヴォ」です。ホリデイ イン サラエヴォ ホテル
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なぜこのホテルが有名なのか。
ひとつは、この入口にあるエンブレムにも現れているとおり、1984年のサラエヴォオリンピックのために作られたホテルであること。
そしてもう一つ。
ボスニア内戦の際、目の前のスナイパー通りを中心として周囲が火の海と化す最前線にありながら、根性、いや執念にも近い形で営業を続け、世界各国の報道陣がここを拠点にボスニア紛争の実状を報道した、という事で幅広く知られるようになりました。
ボスニア紛争を題材にした映画「ウェルカム・トゥ・サラエボ」などでも、このホテルは頻繁に登場します。ホリデイ イン サラエヴォ ホテル
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このホテルの姿は、たびたびニュースなどにもとりあげられました。
こちらの動画にも、このラウンジ含めたホテルの風景が何度も出てきます。
https://www.youtube.com/watch?v=ydUA7w8XGAs
1分56秒くらいから、このホテルの様子が出てきます。
ちなみにレポートしているのは、ジャーナリスト以外での話題も記憶に新しい(笑)山路徹さんですね。ホリデイ イン サラエヴォ ホテル
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内戦当時は目の前のスナイパー通りを通り越し、このホテルにも銃弾が届くことが日常のように起こっていました。
15年以上が経過し、すっかりそんな雰囲気は見られなくなっています。
よくあるそこそこ高級なホテルのラウンジ。ホリデイ イン サラエヴォ ホテル
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事前に動画などを見て勉強していき、同じつくりでありながらあまりに流れる時間が違うその様子に、若干の戸惑いを感じていました。
少し気持ちを落ち着けるために、おそらく当時こんな場所でゆっくりできなかっただろう、スナイパー通りが見える席でコーヒーを飲みひと息つきます。ホリデイ イン サラエヴォ ホテル
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あろうことか、今やカジノまであるとは...
当時も営業はしていましたが、ネット予約サイトでは部屋が取れなかったので(かつ、この時は車での移動で駐車場確保が必須だったため)ここの宿泊は断念。
そして、昨年(2015年)ついに営業を休止したというニュースを耳にすることになりました。
こうして、戦争を直接的に感じさせるものが徐々に減り、やがて内戦の記憶は一部の人のものだけになっていくんでしょうか。ホリデイ イン サラエヴォ ホテル
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ホテルのすぐ隣の敷地にある、こちらのツインタワー。
1980年代に建設され、この地域の古いラジオのショーの主人公2人にちなんだニックネームが付けられていました。
その2人がボシュニャク人とセルビア人だったこともあり、このツインタワー自体が民族融合の象徴のような存在でしたが...
非常に目立つ場所にあるタワーですから、内戦時は格好のターゲットとなり、幾度となく炎上し見るも無残な姿となっていました。
このタワーから上がる炎は、ボスニア内戦の象徴的なシーンとしてご記憶の方も多いと思います。
すっかり綺麗に建て直された現在でも、変わらず街のシンボルであり続けています。 -
こちらが、ホテルの前の「スナイパー通り」。
昔の映像では、ここを装甲車が猛スピードで駆け抜けるという場面を何度も目にしました。
(そんなスピードであっても容赦なく弾丸は飛んできていたわけですが)
今は、至って普通の「ヨーロッパの地方都市の交通量の多い中心街」です。
むしろ弾丸ではなく、そうした過去の光景を想像しながら歩いていくと遭遇する歩道のくぼみの方が危険かもしれません。 -
ホテルの脇から、南側のグルバヴィツァ方面を見たところ。
ちょうど正面のほうから狙われていた形ですね。
市民も、バリケードの陰を走り抜けるという、日々命を賭けた移動を強いられていました。 -
近隣にはモダン、いやどちらかというと奇抜な建物ばかり。
政府庁舎やショッピングセンターなどが並び、新たなサラエヴォの中心となりつつありました。アルタショッピングセンター ショッピングセンター
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平和な光景です(笑)。
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ただ、流れる時間ののどかさに平和は感じ取れるものの、ふと視線を古くからある建物にやると戦闘の激しさがこれでもかという程に伝わってきます。
埋め直されてはいますが、銃弾の跡がもはや数えきれないくらいに。 -
かつての戦場の中心地の雰囲気を感じ取った後は、このような美しい植栽を横目に街歩きをスタートさせます。
ホリデイ・イン・サラエヴォの付近から旧市街まで、ゆっくり歩いてだいたい1時間くらいの行程。 -
市内を東西に流れるミリヤツカ川に沿って歩いていきます。
スナイパー通りと川が交わる部分にある「スケンデリヤ」(奥の建物)は、オリンピックではアイスホッケーの会場として使われました。
サラエヴォは、オリンピックの開催地投票で札幌を破って選ばれました。
決め手となったのは、このように市内の近いところに施設が集まり、またアルペンやノルディックなどの施設が街の南西にある山の麓に固まって設置されているという「コンパクトな運営が可能」という点だったようです。 -
この辺にはかつてのユーゴスラビアの雰囲気が残っていて、例によって無駄に?モダンな建物がいくつも見えます。
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無意味に出っ張りが多くて、色が暗めの外装。
こちらの建物も、いかにも旧共産圏っぽい感じですね(笑)。
こういうのを楽しみながら20分ほどミリヤツカ川沿いを歩いていくと... -
こちらの橋へとたどり着きます。
車は通行禁止で、人と自転車しか渡れない小さな橋。
歴史はありそうですが、その躯体自体に特筆するものはなさそうに見えます。 -
名前を「ラテン橋」というこの橋。
傍らには、このようなレリーフがあり、このように記載されています。
「この場所で、1914年6月28日、ガブリロ・プリンチップがオーストリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナンドと妻のソフィアを暗殺した」ラテン橋 建造物
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そう、つまりこの橋の周辺は「サラエヴォ事件」が起こった場所なんです。
ということは、第一次世界大戦の火ぶたが切られた場所であり、世界史に残る大きな分岐点となった場所でもあります。
橋には特筆するような大きな痕跡はありませんが、この一角だけ集まっている観光客の存在が、ここに「何かがある」ことを予感させます。ラテン橋 建造物
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橋に背を向けたこちら側の路地。
ここが、実際にフランツ・フェルディナンド大公夫妻が暗殺された場所になります。
現在では、そのすぐそばにサラエヴォ事件に関する記念館があります。
ひとまず入ってみましょう。ラテン橋 建造物
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入るといきなり、大公夫妻に出迎えられました(笑)。
今やどちらかというと、フランツ・フェルディナンドといえばバンドの方が先に思い浮かぶくらい、サラエヴォ事件は遠い昔の出来事になってしまっています。サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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こちらが当時の写真。
大公夫妻は軍事演習の視察のため、このサラエヴォを訪問していました。
当時はこの地域はオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にありましたが、それに反発して大セルビア主義を掲げるセルビア人も多数いて、暗殺の機運は当初から高かったそうです。サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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こちらが、暗殺実行の数分前、大公の生前の最後の姿という写真。
ここに来るまで私は世界史の授業なども含め、単に「暗殺された」という事しか知らなかったのですが、この博物館で非常に興味深い事実を知ることができました。
(その辺はのちほどの写真で詳しく)サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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暗殺実行後、取り押さえられる実行犯のガブリロ・プリンチップ。
彼らの武器がセルビア政府から与えられたものであったことから、後日オーストリアはセルビアに対して宣戦布告し、事件からちょうど1か月後の7月28日に第一次世界大戦へと突入していきました。サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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事件後、ラテン橋のたもとで行なわれた大公夫妻の追悼集会。
ちなみに大公夫妻は、妻のゾフィーが身分が低かったことから扱いがよくなく、死後もハプスブルク王家の墓所であるウィーンのカプツィーナー礼拝堂に入ることができなかったそうです。サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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左側の大きな写真が、最終的な実行犯であるプリンチップ。
そして右側にある6枚の写真のメンバーを含めた7人が、大公夫妻の暗殺の実行犯でした。
事件後に彼らは捕らえられ、プリンチップほか数名は獄中死、あるものは絞首刑になったそうですが、一方で戦後も生き延びユーゴスラビアの大臣にもなったという人物も1人いたそうです。
そうした犯罪経歴がある人物が大臣、ということからも、ユーゴスラビアにおけるセルビア人の影響力の大きさが垣間見えますね。
彼らは、大公夫妻の車列に手りゅう弾を投げ込んで爆発させる、という形での暗殺を計画し、当日沿道にそれぞれ配置を決めて準備をしていたそうです。サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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こちらが当日の実行犯たちの配置と大公夫妻の車列の移動の様子を図示したものなのですが、これを見るとこのサラエヴォ事件が「意外なほどに偶然に頼った結果」であることがよくわかりました。
まず、実行犯たちはパレードをしていた大公夫妻の車列に手りゅう弾を投げ込みましたが、爆発するタイミングがずれて後方の車列にしか被害を与えられませんでした。
(その時の実行犯は服毒して川に飛び込んだそうですが、水深が顔を洗う事ぐらいしかできない極めて浅い状態だったため、地元の人々に引きずり出されてフルボッコされたそうですw)
しかし、そんな事件があったにも関わらず、大公夫妻は最初の爆発でけがをした従者を見舞うということで予定を変更し、あえて街なかを通り抜けて病院へ向かおうとします。
まずここで違う判断がなされていれば事件は起きなかったかもしれません。
そして、その病院へ向かう途中、大公の車列は(川沿いにまっすぐ行けばよかったのに)道を間違えてこのラテン橋のたもとを曲がってしまいます。
これが2つ目の誤算。
それほど広くない路地に入ったため、車列が引き返すまでにしばらく立ち往生してしまいました。サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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そしてもうひとつの偶然が。
車列爆破に失敗し、プリンチップは意気消沈して暗殺を諦め、このラテン橋のたもとにあったカフェで食事をとっていました。
そんな彼の目の前に、まさか現れるはずのなかった大公の車が出現し、しかも立ち往生して目の前で止まっている...
シュートを思いっきりクロスバーに当てて諦めていたら、クリアミスしたボールが無人のゴールの前に転がってきたようなものですね。
こんな「ごっつぁんゴール的なおいしい状況」を彼は逃さず利用し、大公夫妻にこのピストルで銃弾を撃ち込みます。
双方いろいろずさんなのですが(笑)、ともかくこうした様々な要因が重なって「サラエヴォ事件」は実際に起こり、世界の歴史を変えました。サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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プリンチップが当日実際に着用していたという衣服なども展示されています。
彼は実行後、さっきの浅すぎる川に落ちた仲間と同じく服毒してピストル自殺を図りますが、毒にむせて吐き出してしまい、駆け寄った憲兵にピストルも奪われて拘束されることになりました。サラエボ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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この博物館で教えてもらった事を頭に入れて、改めて前の道へと出てみます。
ああ、ここで大公がこっちに行こうとしたんだなとか、プリンチップはこの辺で食事を取っていたら「急に大公が来たから」的な感じで色めき立ったんだろうなあとか、いろいろと想像が膨らみます。
世界の歴史を変えた割には、あまりに狭い路地というのも驚きです。
100年が経過し、幾たびかの戦争を経験した街は、つかの間の休息を取り戻しているようです。 -
サラエヴォに来たら一度は寄りたかった「その時歴史が動いた場所」を見学出来て大いに満足。
だいぶ足も疲れてきましたが、また旧市街方面へ向けて歩を進めます。
旧市街の中心の少し手前にある、前日も前を通った「ガジ・フスレヴ・モスク」。
一昨日のヴィシェグラードでは排除されていたイスラム教徒のコミュニティが、このサラエヴォの中心にはまだ確かに存在しています。
※ここから宿の向こう側、スルプスカ共和国へ入るとその様子は一変するのですがガジフースレフベイモスク 寺院・教会
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礼拝中だったため建物には入れませんでしたが、敷地内からその様子をうかがう事はできました。
真面目にお祈りしている人が大半ですが、中にはけっこうぎりぎりに来たり、堂々と遅刻して悠然と歩いてこの一団に加わる、という不信心者?がけっこういて笑えます。ガジフースレフベイモスク 寺院・教会
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モスクの左右で男性・女性が分かれていて、こちらは向かって左側にある女性の礼拝スペース。
こちらは遅刻者はいませんでした(笑)。ガジフースレフベイモスク 寺院・教会
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この日は始動が早かったこともあり、まる一日観光しているようなボリュームですが、まだ13時半くらい(笑)。
旧市街にある「地球の歩き方」にも載っているレストラン「モリチャ・ハン」で昼食にしました。
16世紀のオスマン帝国時代に建てられ、街道沿いの宿として長らく繁盛してきた建物を使った、歴史あるレストランです。
ここで食べたのは、羊肉の煮込み料理。
上に乗っているサワークリームがほどよいアクセントになり、やや肌寒い街歩きで失われた温もりが戻ってきます。モリチャ ハン 地元の料理
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ボルシチひとつですっかり満腹になり、再び路上へと身を置きました。
正面に見えている、再建中の国立図書館を見ながら少し進むと、 -
再び、昨日も訪れた旧市街の中心「バシュチャルシャ」へとたどり着きます。
バシュチャルシヤ 散歩・街歩き
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昨日に負けないくらいの鳩が広場を覆い尽くしていました。
車も入ってこない場所で、特に何をするわけでもなくたゆたっている人も多いので、何か街の他の場所とは違うのんびりとした時間がここには流れています。バシュチャルシヤ 散歩・街歩き
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広場の中心にあるセビリ(水飲み場)の脇で少し休んでから、街歩きを再開。
旧市街の北側を東西に伸びる通りへと入ってみます。 -
2分ほど歩いた先にまず見えてきたのは、古いセルビア正教会。
旧正教会 寺院・教会
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そのすぐ先には、このダビデの星で一目瞭然な、ユダヤのシナゴーグ。
ユダヤ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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シナゴーグは現在では博物館になっており、内部が見学出来たので入ってみました。
異教徒に寛容だったオスマン帝国の支配下だった中世、サラエヴォには各地から逃れてきたユダヤ教徒が集まり一大コミュニティを築いていたそうです。
内部には、そんなユダヤ人の食生活や風習、そして第二次大戦に至るまでの過酷な運命などがよくわかる展示が並んでいます。
暇だったのか(笑)職員の方がいろいろ説明してくれたのですが、英語で話している間にこの建物を表す意味合いでつい「church」という単語を遣ったら、すかさず「synagogue」という修正の言葉が返ってきました(笑)。ユダヤ博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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ユダヤ博物館を出て1分も歩くと、昨日も通った旧市街の目抜き通り、フェルハディヤ通りの賑やかさに包まれます。
人の流れに沿って、シナゴーグから3分ほど歩くと、 -
こちらの荘厳な建物が見えてきます。
フェルハディヤ通りの中でもひときわ目立つこの建物は「イエスの聖心大聖堂」。
19世紀末に建設された、サラエヴォ最大のカトリック教会です。
シナゴーグの中にいた時間を除けば、わずか10分ほどで3つの宗教が私の目の前を通り過ぎていきました(笑)。
ここからちょっと寄り道すればモスクもありますし。
人種のるつぼであるサラエヴォの、真骨頂ともいえる混沌ぶりです。イエスの聖心大聖堂 寺院・教会
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この大聖堂も、その目立つ風貌のため内戦では標的となり、大きな被害を受けました。
そしてもうひとつ、大聖堂の目の前の道路に、こんな印があります。
何か、ガムが踏み固められたかのような跡があり、そこが赤い線で囲まれ、何かしらの注意を引こうとする意図が感じられます。 -
そこから少し離れたフェルハディヤ通りのど真ん中にも、同じような表示が残っていました。
これは、内戦時にこの場所に迫撃砲が着弾し、犠牲者が出たことを忘れないようにするためにつけられた印なんです。
今でこそ「踏み固められたガム」という失礼な例えがそれほど外れとは思えないような見た目をしていますが、もともとは目立つように赤い樹脂でマーキングされていました。
その色味から名付けられたのは、この印が本来持つ意味合いとは真逆の美しさを持つ「サラエヴォのバラ」。
私はどうしてもそれを遠巻きに見守り、そしてよけながら歩いていくのが当然と考えて動いていましたが、地元の若者たちはまるでその存在に気づかないかのように普通に踏み越えていきます。 -
むしろ、こんな風に犬が派手に往来のど真ん中に寝ていても平気、そして行き交う人々もそれを優しくよけて歩いていくという、のどかさの方ばかりが目につきました。
その印はあっても、15年前のサラエヴォの空気はもうここには少しも残っていない、街を歩きながらそんなことを考えます。フェルハディヤ通り 散歩・街歩き
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昨日も見た永遠の火の回りにも小さな子供たちが集まり、それが持つ歴史の重みがいささか説教臭さすら覚えさせるかのような、幸せな空気が流れていました。
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とはいっても、やはり街を歩けば「内戦の時には」という場所にそこかしこで出会い、一瞬安らぎかけた気持ちをまたかき乱します。
この一角は、サラエヴォの青空市場。
生鮮食料品などを地元のおばちゃんたちが売るという、交易路の街には必ずと言っていいほど存在するものですが...
ここにも、1994年2月に迫撃砲が撃ち込まれ、68人もの尊い命が犠牲となりました。
右奥のほうに見える赤い壁には、その時亡くなった人々の名前が刻まれています。青空市場 市場
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バシュチャルシャから北側、住宅街に入ったところにある「スヴルゾ・ハウス」。
オスマン帝国の支配下だった19世紀に作られた邸宅で、時代の影響を受けて本格的なオスマン様式で建てられています。
この、中央の絨毯敷きの空間を囲むスタイル、やや暗めの調光など、イスタンブールのトプカプ宮殿のハーレムで見た光景にかなりよく似ていますね。
このくらいの薄暗さが大好物なので、足を休める意味で30分ほど長居してしまいました(笑)。 -
オスマン邸宅で優雅にくつろぐネコさん。
愛想をとっていたら日も少し傾いてきたので、街へと戻ることにしました。 -
事前に調べた際にはサラエヴォ市街の治安にちょっと不安があり、さらにオスマン邸宅などは中心街からちょっと離れていたので大丈夫かな?と思っていましたが、まだ明るいという事もありそれほど心配することはありませんでした。
今回は結局乗る機会のなかったトラム。
事前に見た内戦時の映像で、戦火の中をけなげに走っている姿が印象的でした。
それにしても細身ですね。 -
観光地の中にある、こうした日常の姿を見るのが大好きです。
この床屋のご主人は、サラエヴォという激動の街のど真ん中でどんな生活をして、どんな家に住んで、建物の外をうろつく日本人をどんな風に見ているのか?
興味は尽きません。 -
平日の夕方という事もあり、バシュチャルシャの周辺の商店エリアの人通りはまばら。
風通しがよいので、どこかから漂ってくるケバブの匂いが容赦なく鼻を刺激してきて、遅めの昼食だったにも関わらずお腹がずいてきました(笑)。 -
そんな街角のお土産物屋さんで売られているのが...
内戦の時に使われたであろう、薬きょうをペンダント型にしたアクセサリー。
サラエヴォでは「売れ筋」のお土産だそうですが、さすがにこれを買って帰りたいという気にはなれませんでしたね。。。
そもそも、飛行機のX線検査でも明確に映る、これ以上ないほどの危険物ですしねw -
こちらが、先ほどから何度か姿が見えていた、国立図書館。
3年半あまりのセルビア人勢力によるサラエヴォ包囲のさなか、街のランドマークでもあったこの図書館は川沿いの一番目立つ場所にあったこともあり、破壊の限りを尽くされてしまいました。
15年たってもまだこの状態、というのがその苛烈さを如実に表しています。サラエボ シティ ホール 史跡・遺跡
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図書館やその周囲を散策していたら急に空が暗くなってきたので、川を挟んで図書館の向かい側にあるこちらの「イナト・クチャ」というレストランへと入りました。
クラシカルなボスニア料理を出す店として有名で、数々のガイドブックにも載っているところです。Inat Kuca その他の料理
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このお店の名物でもある、ボザンスキ・ロナッツ(ボスニア風の牛肉と野菜の煮込み)とビールが、疲れた体にことさら痛快に染み渡ります。
ほのかにトマト風味の煮込みは肉もトロトロで、あっという間に完食!
もっとゆっくりするはずだったんですが、美味しさに負けてしまいました。Inat Kuca その他の料理
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時間が余ったので、トルコ風コーヒーで気持ちをさらに落ち着かせます。
この「粉が下にたまる」本場のトルココーヒーは久しぶり。Inat Kuca その他の料理
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煮込みとビールで体がポカポカしたのと足の疲れが少しおさまったので、帰りはまた少し歩いていくことにしました。
昼間の喧騒が消えたミリヤツカ川沿いは、ひたすらにフォトジェニックで飽きません。 -
バシュチャルシャも、人も鳩もすっかりいなくなって、寂しさすら漂わせるようになっていました。
頑張ってカメラを固定した甲斐があっていい感じの写真が撮れましたわ。 -
だいぶ店じまいしてしまったフェルハディヤ通りを西へ向かいます。
昼間は人の賑わいで気づかなかった野菜や果物のカラフルさを、この時間になって改めて認識しました。 -
「ロクム」というとなじみがないかもしれませんが、欧米人の呼び名である「ターキッシュ・ディライト」といえば聞いたことがある人もいるはず。
トルコ本土以外で初めて目にしました。
さすが、オスマン文化が根強く残っている街ですね。 -
だいぶ周囲も暗くなってきたのでモスクなんか誰もいないだろう、と思ったら、まだまだ入っていく人がたくさん。
ガジフースレフベイモスク 寺院・教会
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イスラム教徒の1日5回のサラート(礼拝)の4回目が「マグリブ」。
モロッコやアルジェリアなどを「マグレブ」と呼びますが、それと同じ言葉で「日の沈む方角」という意味があります。
ちょうど、陽が沈んだ時の礼拝、という感じですね。ガジフースレフベイモスク 寺院・教会
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店じまいする店が増えてきて幾分心細くなってきたので、タクシーで昨日も行ったあの場所まで移動することにしました。
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昨日の昼にも訪れた、サラエヴォの新たなランドマーク「アヴァズ・ツイストタワー」。
旧市街からはタクシーだと10分くらいで着きます。
周囲がかなりさびれた場所なので、夜来るにはタクシーは必須かな。
いちおう営業時間は確認していたものの、果たしてこんな街はずれに夜わざわざ来る酔狂な人なんかいるんだろうか?と思ってましたが...
登ってみると、展望台はもちろん、その階下にあるカフェ含めてかなりの賑わいを見せていました。
あいていた席を探し、窓から周囲を見渡します。
こちらは「ホリデイ・イン・サラエヴォ」のあるあたり。アヴァズ ツイストタワー 建造物
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壁につけられたテレビでは、地元っぽいチームのサッカーの試合が中継されていて、観戦しながらあれこれ文句を言っている客もいました(笑)。
窓の外を見ると、タワーから南西側、ちょうど今朝訪れたグルバヴィツァスタジアムらしき場所に、照明が煌々と輝き、発煙筒の跡らしき煙も見ることができます。
その2つを見比べていると、その様子をウェイターが目ざとく見つけてやってきて、「あの光っているところでやっているのがちょうどこの試合だよ」と教えてくれました。
よくテレビを見てみれば、確かに対戦チームの一方がジェリジュニチャルの頭文字になっています。アヴァズ ツイストタワー 建造物
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教えてくれたウェイターに礼を述べたあと、ふと気になって質問してみました。
「今朝、あのスタジアムに行ってきたんだよ。オシムという人が生まれ育って...」
ただ、とは言ったものの、日本でサッカーがそこそこ好きならオシムという名前は当たり前であるところ、もしかしたらかなり若いこのウェイターさんには通じてるのかな?とふと気になり、「オシムって知ってる?」と一応聞いてみました。
すると彼は、我々日本人が旅行中のボスニア人に「カズって知ってる?」と聞かれたときにおそらくするであろう顔を一瞬見せた後
「もちろん知ってるよ。だってこのチームの監督だったし」
と返しました。
そして、間髪入れず彼の口から出てきた言葉が、
「He is the legend.」
その後もオシム本人や息子(以前ジェフの監督をやっていたアマル)の話で盛り上がりましたが、その自信たっぷりな言い切りぶりを見るに、やはりオシムの地元での知名度は半端ではなかったことを改めて思い知りました。
この会話を経て考えると、そんな彼が日本に来たこと自体がある意味「奇跡」としか思えません。
いっこうにやむ気配のない発煙筒の煙を遠目に眺めながらコーヒーを飲み、日本とこのサラエヴォの地が確かにつながった瞬間を楽しみました。
再びタクシーで宿に戻った時には、もう22時。
明日はまた早起きして、一路ヘルツェゴビナ地方を目指します。
(7日目へと続く)アヴァズ ツイストタワー 建造物
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