2011/04/23 - 2011/05/09
61位(同エリア122件中)
mikoyan358さん
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- 旅行記38冊
- クチコミ16件
- Q&A回答0件
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2011年、旧ユーゴスラビアを構成するスロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの5か国を、レンタカーで旅しました。
前年にドイツ・オーストリア・チェコをレンタカーで巡って自信がついていたという状況でしたが、それでも
「そもそも外国人が車で飛び込んで大丈夫な場所なんだろうか?」
という一抹の不安も感じながら、車と宿の予約だけしてとりあえず飛び込んだ国々(笑)。
2000年前から続く悠久の歴史あり、世界にもまれなほどの奇勝地あり、そしていまだ残る内戦の爪あとあり...
危険を感じることもなく、かつてのユーゴスラビアという国が持つ魅力そして負の歴史を、肌で感じることができた旅でした。
もう5年前の出来事ですので多少状況も変わっている可能性がありますが、でもレンタカーでこの辺に行こうと思っているけど情報が少ないし、本当に大丈夫なのかな?とお考えの方に、少しでも参考になればと思っています。
1日目 4月23日(土) 成田⇒ミュンヘン→リュブリャナ
2日目 4月24日(日) リュブリャナ⇒ザグレブ
3日目 4月25日(月) ザグレブ⇒ベオグラード
4日目 4月26日(火) ベオグラード⇒モクラ・ゴラ⇒ヴィシェグラード
5日目 4月27日(水) ヴィシェグラード⇒サラエヴォ
6日目 4月28日(木) サラエヴォ
7日目 4月29日(金) サラエヴォ⇒モスタル⇒ドブロヴニク
8日目 4月30日(土) ドブロヴニク
9日目 5月1日(日) ドブロヴニク⇒コトル⇒ドブロヴニク
10日目 5月2日(月) ドブロヴニク⇒スプリト
11日目 5月3日(火) スプリト⇒トロギール⇒シベニク⇒プリトヴィツェ
12日目 5月4日(水) プリトヴィツェ⇒リエカ⇒プーラ⇒ポレチュ
13日目 5月5日(木) ポレチュ⇒ヴェネツィア⇒ポレチュ
14日目 5月6日(金) ポレチュ⇒ポストイナ⇒シュコツィアン⇒ブレッド湖
15日目 5月7日(土) ブレッド湖⇒クラニスカ・ゴラ⇒リュブリャナ
16日目 5月8日(日) リュブリャナ⇒ミュンヘン⇒(機中泊)
17日目 5月9日(月) ⇒成田
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 50万円 - 100万円
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
前日早々に寝落ちしてしまったこともあり、この日は早めに起き出してSNSに日記を投稿。
(私の旅行の恒例として現地からクイズを仲間に向けて出しており、問題数確保のためにはそうそう休んではいられません。締め切りに追われる作家の気持ちw)
ホテルで簡単な朝食をとり、狭い駐車場から車を引っ張り出して、今日の行程スタート。
まずは、空爆通りを南へ進みます。 -
まずやってきたのは、前日休館日と聞いていた「チトー博物館」。
さっそく私を出迎えてくれたのは、チトーの威厳ある銅像。
しかし!
行ってみたらどうやら、サイトに書いてある時間よりも開館が1時間遅かったみたい。
かといって街に戻るほどの時間もないので、意味もなく何もない周囲をうろうろして待ちます。 -
街の南のはずれにあるこのチトー博物館は、ユーゴスラビアの国父であるチトーの功績を後世に伝えています。
そしてもうひとつ重要な役割が、ここがチトーの墓であるということ。 -
チトーの経歴などはもうWEBで見れば一目瞭然なので省略。
まず博物館部分へ入ると、彼が実際に手にしたノートや書類などのゆかりの品が並びます。 -
チトー個人の功績とともに、ユーゴスラビアという国を象徴するアイテムも置かれていました。
この、聖火リレーのトーチのようなもの。 -
これはユーゴ国内を若者の手でこうしてリレーしていき、国民の団結と若い力の素晴らしさを誇示する、というものだったようです。
いかにもそうした政治思想が好みそうなやり方。 -
そして、そうした展示の奥に、警備員に厳重に見守られている空間があります。
-
こちらが、チトーが眠る墓。
世界の歴史に名を残す指導者とは思えない、シンプルなものです。
アトランタで訪れたマーティン・ルーサー・キングJr.の墓に似たものを感じました。 -
1980年、チトーの死を伝えるニュースを、自分は確かに見た記憶があります。
そして「チトーってそんなに凄い人なの?」といった内容のことを親に質問していたことも覚えています。
あれから30年以上経ち、彼がその手腕とカリスマ性ひとつで維持してきた国が崩壊して凄惨な戦いが起こった後になって、ようやくその指導者としての偉大さを肌で理解することができます。 -
スーベニアショップがあったので、バッジとか小物をいろいろ買い込んだのですが、その中で目を引いたのがこちら。
チトーが諸外国の首脳を招いた際に供されたディナーのレシピを記載した本なのですが、なんとこのレシピ本、チトー自身が考えたものがベースになっています。
ページを開くと、
・ケネディに供した、ガチョウのレバーのダンプリング
・サダムフセインに供した、バグダッド風ピラフ
・チャウシェスクに供したチーズロール
・カストロに供した蒸し魚のハバナスタイル
など、さすがチトー!と思わせるような異常に広い外交関係が、提供された美味しそうな料理とともに並んでいます。
帰ったら作ってみよう!
(・・・そう思って5年間作ってませんw) -
さあ、お目当ての一つだったチトー博物館も見られたし、ここからはセルビアの大地を一気に南下!
...と思って勇ましくスタートしたのですが...
おおむねヨーロッパ各国の道路地図が入っているカーナビ君ですが、セルビアとボスニア・ヘルツェゴビナは対象外で、猛烈に大雑把なものしか入っていません。
(日本で例えるなら高速道路とひとケタ国道しか入ってない感じ)
なので、野生の感?に従って移動したら、見事に入口を間違えて東側へ向かう高速に入ってしまいました。
急いで出口から降り、狭い路地をうろうろしていると、道を教えてくれる親切な人が。
その人はわざわざ買い物帰りの荷物を置いて、行き道を細かく説明してくれました。
...ここでちゃんとその人の言う事を聞いていれば問題なかったのでしょうが、言われた方角が明らかに逆向きだったので「本当に大丈夫かな?」と思って従わず(ごめんなさい)、また野生の感に乗って車を進めました。
...結果、「ここを左に行けば大丈夫!」という場所がことごとく左折禁止だったこともあり、ベオグラードの街の一番北側、あとちょっとでカレメグダン公園という場所まで身動き取れないままでした。
教訓:地元の人の言う事はちゃんと聞く -
結局、最後は無理やりUターンする形で何とか南向きの道に入りましたが、今度は看板が全然出ていないこともあって「南に向かってはいるがどこを走っているのかさっぱりわからない状態」に。
超大ざっぱに表示されるカーナビの位置情報などを見ながら、どんな路地にぶつかってもひたすら西側に移動したら国道にぶつかる!と思いつつ悪戦苦闘し、ようやく想定していた幹線道路に入った時にはチトー博物館を出てから1時間あまりが経過していました。
おそらく真っすぐ来れば20分くらいの場所なのに(泣)。
以降は、小さな看板を見落とさないように注意深く走ることにしました。 -
今日の主要目的地であるセルビア・ボスニア国境の街(というより村)までは順調にいって4〜5時間。
さらにその先、ボスニア国内の街まではもう1時間くらい必要。
となると、明るいうちに着くためにはもうロスは許されません。
なので、出来るだけ先を急ぐ必要があります。
まあ、そんなときに限って工事してて渋滞してたりするんですけどねorz -
ベオグラード郊外の住宅地も去り、車窓にはのどかな田園風景が広がります。
目印がないので自分がちゃんと移動できているのか全然わかりませんが、とりあえずカーナビに一本しか表示されない大きい道の上にいますし、印はぐいぐいと南へ移動しているので、間違いはないんでしょう(適当)。
もうこの辺では、行き先不明のミステリーツアーを楽しむ感覚でしたw -
昼ご飯を食べる時間がなかったので、車の給油とあわせて自分もこれで栄養補給。
-
給油中に持って行った紙の地図で途中の街の名前などを全部覚えておいたので、その後は比較的安心して進むことができました。
ただ、道は正しくても、こんな風に激遅のトラックに引っかかてしまうと焦りばかりが募ります。
この辺含め、海外のドライブではこういうのはガンガン抜いていくのが正解で、普段はまとめて3台抜き(遅い車の後ろの車が行ってくれないとこうなる)とかもやってましたが、この写真に写っているのは最終的には遅いトラック5連コンボ状態でした。
(前のほうは写ってないですが)
1台抜いてはまた対向車線の様子を伺い、抜こうとしたら追い越し禁止の看板が来て...というのを繰り返し、最終的に全部処理するまでに30分くらいはかかったかな。 -
チトー博物館を出てから5時間。
ようやく、セルビア南西部の大きな街、ウジツェへと到着。
ここまで来ればあとは一本道なので、もう勝ったも同然(笑)。
この地域きっての工業都市で、長大な貨物列車がいやでも目立ちます。
どこまで走っていくのか考えるだけでも楽しい。 -
ここから、いま目指している村までは40分弱。
国境も少しずつ近づいてきて、人の気配がどんどん減っていきます。 -
こんな田舎に似つかわしくない立派なトンネルを通って...
-
目指していた、ボスニアとの国境にほど近い山あいの村「モクラ・ゴラ」にたどり着きました。
時間は16時。思ったより時間かかっていて、この時は結構焦っていました。
こんな何もなさそうな村を目指した理由はひとつ。
過去にカンヌ映画祭の最高賞である「パルム・ドール」を2回受賞し、世界的に高い評価を受けている、そして私が大好きな作品を作り続ける映画監督の「エミール・クストリッツァ」が自らの手で開いた「村」があるためです。
この看板は、彼が作ったホテルの入口の案内。
案内に従い、右側の坂を登っていきます。Hotel Mecavnik ホテル
-
登った先にあったのは、家が密集した小さな「村」。
エミール・クストリッツァといってもご存知の方は少ないかもしれません。
しかしこの人は、いまだに「ユーゴスラビア人」と自称するのが理解できるような出自を持ち(サラエヴォに生まれ、父親がセルビア人、母親がボスニア人)、彼が生まれ育ちさまざまな運命をたどった旧ユーゴの大地を舞台に、その歴史を受け止めながらも明るく笑い飛ばすような、とにかく「この人でなければ絶対に作れない」唯一無二の作品を紡ぎあげる、稀有な存在でもあります。
そんな彼が故郷に近いこの場所に突然村を作って住み始めたので、ファンは大いに驚きました。
理由は「ロケをしていて気に入ったから」だそう(笑)。
ちなみに、この建物にはクストリッツァ自身が住んでいるそうです。
旅行記では、ファンが訪れたら本人がいて話しかけられた、なんてのも見たので期待していましたが、残念ながらこの日は遭遇することはありませんでした。 -
彼が作った「村」は、村といっても「映画村」です。
2004年に公開された彼の映画「ライフ・イズ・ミラクル」でこの場所にセットを作って撮影したのですが、この地をとても気に入ってしまい、映画で建てたセットを移設して自ら住んでしまったそうです。
その他の映画でも使われたセットやアイテムなどもちらほらと見えて、ファンにはたまりません。
クストリッツァ映画は(旅行時点ですでに)ほとんど観ていた自分にとっては、すべてが映画の中から飛び出してきたかのような場所で、思いっきりはしゃいでしまいましたが(笑)。 -
この教会と見張り塔ももちろん見覚えあり(笑)。
-
こちらは、クストリッツァが主催する映画祭にゲストで訪れたジョニー・デップだそうです。
さすが大御所、ジョニデをこんな田舎まで連れて来られるんですね。
それにしても似てねえwww
どっちかというと菅田将暉。 -
かなり奥の方まで建物が密集しています。
ホテルもありもちろん宿泊も可能。
今回はこの先のボスニアの街に泊まることが最大の目標だったので、こちらはさっと見学するだけにしました。
なので、次に訪れる時には泊まってみたい気はしますが...
果たして、セルビアにもう一回行くことがあるかどうか(笑)。 -
狙って車で来なければ絶対にたどり着けない場所ですが、けっこう観光客がいるのに驚きました。
顔のところに穴があいてるやつは、クストリッツァの「ウェディング・ベルを鳴らせ!」という作品がモチーフなんですが、その内容よりも「あの穴に顔を入れたがるのは万国共通なんだなあ」ということに意識が集中していました(笑)。 -
映画村は高台にあって、このモクラ・ゴラというどこが中心街かわからないような谷あいののどかな村の風景がすべて見渡せます。
ちょうど視界の正面、谷を挟んだ向かい側の斜面に... -
こんな小さな建物が見えます。
これこそが、私の好きだった映画でさんざん出てきた場所。
事前にグーグルマップなどで調べていた道順に沿って、谷を下り「この先曲がっても何もなさそうな」路地を曲がって、向かい側の斜面へと近づきます。 -
これは見えていた建物のふもとのあたり。
線路が見えますが、これはかつての廃線がそのまま残っているとかではなく、今でも使われているれっきとした「現役」です。
これは「シャルガン山岳鉄道」といって、もともとはベオグラードからここを通りサラエヴォ、そしてアドリア海沿いのドブロヴニクまでを結ぶ鉄道の一部でした。
ユーゴのこの大地の例に漏れずこの鉄道も様々な運命をたどり、国境によって線路が分断され長らく放置されていましたが、20世紀末に再整備され観光列車として復活し、現在では観光客を集める存在です。
上空から見ると線路が8の字を描いているため「シャルガン8(シャルガンスカ・オスミツァ)」の愛称でも親しまれています。
そして、写真で見ても一目瞭然の通り、760ミリという非常に狭い軌道を持つことが特徴。
いわゆる標準軌(新幹線とか)のほぼ半分!
日本でも、このレベルの広さの軌道は現在黒部峡谷鉄道などごくわずかにしか残っていないようです。
【「ライフ・イズ・ミラクル」のロケ地訪問の情報収集で訪れた方へ】
この写真以降の撮影場所情報はかなり正確に入力していますので、これをたどっていくと車でも徒歩でも無理なくこちらの建物までたどり着くことができます。ぜひ、参考にしてください。
クストリッツァの映画村から行くのであれば、以下のような道順になります。
・坂を下り、ホテルの看板のある角を右斜め後ろ、E-761を南方向へ
・E-761を道沿いに1キロ弱進むと、道路左側に左斜め後ろへ折れる路地があるので、そこへ入る
・そのまま道なりに700メートルほど歩くと、右に折れる木に囲まれた小さな路地があるので、右折してその道へ
・100メートルほど少し登ると、左手にシャルガン鉄道のトンネルがあり、線路が前を横切って右側へと続いているので、右折してそれに沿って進む
⇒トンネルのところから200メートルくらい来ると、この写真の場所へたどり着きます -
お目当ての建物は、この斜面の上にあります。
正規のルートがあったのですが、私はそれに気づかずに目の前の斜面(おそらく近くにあった農家の私有地w)を登っていき、最後はほぼ垂直の斜面に愕然としながらもぐるっと回って何とかこの建物のすぐ近くまでたどり着きました。
【ロケ地訪情報収集で訪れた方へ】
先ほどのトンネルから、線路と並行に走る道を道なりに600メートルほど進むと、左手に線路を横切って斜面を登る未舗装道路の分岐があります。
(おそらくそこからは駅舎は見えていません)
その道へ入り、何回かうねうねしながら登ると、ここにたどり着きます。 -
やっとの思いでたどり着いた、こちらの建物がお目当ての場所。
この建物は、今ではシャルガン鉄道の駅の一つとして使われています。
が、もともとは、あの映画監督クストリッツァがここに移り住むきっかけとなった2004年の映画「ライフ・イズ・ミラクル」で主人公ルカが住んでいた家、という設定で作られた建物でした。
劇中に本当に何度も出てきており、映画で見たまんまの姿に感激!! -
映画にも出てきたような、線路の上に置いて移動する車的なものも置いてありました。
街なかのもともとあった店がそのまま映画のロケーションになった場所も、セットがそのままスタジオ内で観光用に残されている場所も世界にはたくさんありますが、「映画で作ったセットがそのまま街の風景のひとつになった」というのは珍しいですね。
(モロッコのアイット・ベン・ハドゥにもそんなのがありましたが、ここまで独立したセットとしてとなると、世界ロケ地めぐりフリークの私としてもぱっとは思いつかないです) -
シャルガン鉄道に乗ると、ここに停まって見学する時間があるようです。
ただ、私が行った4月末はまだ鉄道の運行開始時期ではなかったのが残念。
ここはもう一度来たい気がしています(笑)。
という事はセルビア再訪か。 -
内部は映画の時とちょっと変わってはいますが、雰囲気は同じ。
すごく人を選ぶ映画監督ですが、映画に興味のある方は「エミール・クストリッツァ」という名前、覚えておいて損はないと思います。 -
駅からは、先ほどいた映画村が見渡せます。
せいぜいこのくらいの大きさ。 -
通る車も少なく、緑の木々が奏でる静かなざわめき以外は何も聞こえてこない場所。
ここに移住したくなる気持ちは、この景色を見ていて本当によくわかりました(笑)。
「究極の道楽」と呼んでしまうのは乱暴でしょうか。
時間に余裕があればもっとここに滞在したかったのですが、だいぶ日も傾いていてそろそろ先へ進まないといけなかったので、この景色をまぶたの裏におさめて山を下り、車で再び南西方向へと進み始めました。 -
映画村のちょっと南側にある「モクラ・ゴラ駅」。
シャルガン鉄道の出発点です。
先ほど説明したようにまだ運行開始時期になっていなかったので、誰も人はいません(泣)。シャルガン山岳鉄道 鉄道系(地下鉄・モノレールなど)
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この、おもちゃのような可愛らしい蒸気機関車で先ほどの山々を巡ります。
劇中では自殺志願?のロバが何度か鉄道を止めていましたが、実際に走ったらロバが出てきたりするのかな。シャルガン山岳鉄道 鉄道系(地下鉄・モノレールなど)
-
モクラ・ゴラから国境までは、わずか5キロほど。
10分もしないうちに、またカーナビにグレーの線が現れます。
※セルビアとボスニア・ヘルツェゴビナは「大ざっぱな表示しかない区間」のため、幹線道路が一本表示されている以外は何も出てきません(笑) -
セルビアの出国審査をすんなりと通り抜け、いよいよ未知の国「ボスニア・ヘルツェゴビナ」へ。
しかし、入ったその瞬間から、とある看板を見て深く考えさせられました。 -
その看板がこちら。
右側にある青い看板には、ボスニア・ヘルツェゴビナの国章がデザインされ「ようこそボスニア・ヘルツェゴビナへ」と書かれた、他の国に入った時にもよく見るような内容で、これ自体特に不思議なところはありません。
問題は、その後ろの看板。
半分欠けてしまっていますが、こちらには「スルプスカ共和国へようこそ」と書かれています。
ご存知の方も多いと思いますが、このボスニア・ヘルツェゴビナという国は1990年代に、ボシュニャク人(イスラム教)・セルビア人(セルビア正教)・クロアチア人(ローマ・カトリック)という相容れない宗教対立の様相も呈しながら「ボスニア紛争」と呼ばれた凄惨な内戦を繰り広げました。
かつては民族が絶妙のバランスで融合していた地でしたが、隣人同士、そしてある時には家族同士で銃を向けあうような、にわかに想像できない、そしてしたくないような憎悪がうずまく環境に。
最終的には停戦が実現したのですが、その結果としてボスニア・ヘルツェゴビナという国の中に「セルビア人が支配する事実上の国家」が、全土のほぼ半分くらいの地域を実効支配地域として誕生しました。
それがこの「スルプスカ共和国」です。
(直訳するとこの「国家」も「セルビア人の共和国」となり本家セルビアと同じような名前になるので、区別させるためにこういった呼称がついています)
ボシュニャク人が主体の「ボスニア」、クロアチア人が主体の「ヘルツェゴビナ」という2つの連合国家に、もう一つ目に見えない形で「スルプスカ」という国が重なった、立体的な民族構造となってしまったこの国。
その位置づけを、入国してわずか数秒でこの看板が如実に教えてくれました。 -
つまり、今入ろうとしているのは「ボスニア」であってボスニアでない場所、ということになります。
入国審査は、ここが一番厄介でした。
この写真を撮ったあと、係官が寄ってきてパスポートチェックしたのですが、その後建物の中へと呼ばれます。
今でこそボスニアはビザは不要になりましたが、この時には国境で発行されるトランジットビザが必要な時代。
こちらからはビザを発行して欲しいことを伝えますが、中にいた係官は現地語でどんどんまくし立ててきて、英語で返しても全く理解されてない様子。
とにかくコミュニケーションが取れずに、悪戦苦闘します。
しかも、トランジットビザは基本72時間という情報を聞いていたのですが、私が滞在する予定は(実質的な滞在時間はほぼ72時間ですが)4日間。
さらに、車検証にも問題があるらしくて、車検証を手にいろいろ話しかけてくるのですが、肝心の「問題が何なのか」がわからない...
しばらく押し問答し、辛うじてわかるドイツ語とかで滞在日数とかを伝え終わり、何とかトランジットビザが発行された時には1時間が経過していました。
とりあえず先には進めそうですが、いったい出国時にどうなることやら。
とはいいつつも、どう転ぶかわからないその状況を楽しんでいる自分もいました(笑)。
今はビザも必要ないから、この辺は楽になってそうですね...
※ちなみにこの時は興奮して(笑)気づかなかったのですが、宿に着いてからトランジットビザをよく見たら、ちゃんと4日間滞在可にしてくれてました。
係のお姉さん、まくし立てすぎてごめんw -
入国審査の建物には、いちおうボスニア・ヘルツェゴビナの国旗が掲げられていました。
ただ、これが国境を離れ、しばらく山道を走ったあと... -
街が違づいてくると、この赤・白・青の横じま(写真では縦になってますが、掲揚の方向の関係です)の「スルプスカ共和国」の国旗が見えてきました。
セルビアの国旗は、この配色で真ん中に紋章がある形。
配色を合わせて「同じ民族の国家である」ということを示しているんですね。
こんな「国旗」を横目で見ながら、今日の目的地、ボスニア・ヘルツェゴビナの最東端にある街「ヴィシェグラード」の市街地へと下っていきます。 -
この17日間の旅行においては、基本的にすべての滞在地の宿は事前にネット経由で確保していました(booking.comなどで)。
このヴィシェグラードを除いては。
というのも、そもそもヴィシェグラードの街にあるホテルがそういったサイトに一切掲載されていなかったからです。
まだ観光業がそれほど盛んになっているとは言い難いこの国、さらにその端っこのほうにある小さな街なので、致し方ない部分もありますが。。
いちおう「地球の歩き方」にはいくつか宿が載っていて、街の中心にあたる部分に「ホテル・ヴィシェグラード」というのがあるという事までは把握していました。
しかし、ネットで調べるとどうやらこのホテルは改装に入っていて、その後の情報がいくら調べても全然出てきません。
(宿の公式サイト的なものもないので)
日本語の情報などは皆無なので、英語、ドイツ語、そしてボスニア語などでも検索し、WEB翻訳を大活躍させながらほうぼう調べてみましたが、結局このホテルがどうなっているかはわからないまま。
そんな状況でしたが、「果たして泊まれるかどうか?」を友人へのクイズとしつつ、とりあえず来ちゃいました(笑)。
まあ、「歩き方」に載ってる宿は他にもあるし、この辺に宿がなくてもあと2時間頑張って運転してサラエボまで行けば絶対に宿はあるし、最悪の最悪車の中で野宿すればいいし、まあ何とかなるかと思いw
そうしてたどり着いた「ホテル・ヴィシェグラード」は、ご覧の通り改装も終わって普通に営業していました。
心のどこかでは「営業してなかった方が面白かったかも」とか考えていましたが(笑)。
あとは、部屋が取れるかどうか。 -
恐る恐る宿に入ってみると、客など来ることを想定してなかったような感じで出迎えられました。
英語は問題なく通じたので、とりあえず「川と橋が見える部屋に滞在したい」というリクエストを出したら、部屋を2つほど見せてくれます。
つくりは質素ですが、そこそこ清潔そうだし何も気になる点はなかったので、そのうちの1つをこの日の我が家とすることに決めました。
ちなみに、国境からここまで直行したので、ボスニア・ヘルツェゴビナの通貨である「兌換マルク」をまだ1銭も持っていないというなかなか不安な状況でホテルにいきなり飛び込みましたが、その旨を伝えるまでもなく向こうから支払いをユーロで請求されましたw
(ユーロ札は充分に持って行ってたので問題なし)
※最近になって調べたら、こちらのホテルは再度改装され「Hotel Andricev Konak」という名前のモダンなホテルになり、そしてbooking.comなどでも予約が出来るようになっていました。
時代の移り変わりは早い(笑)。 -
「部屋から川と橋が見える」という事の説明をしておかねばなりませんね。
このヴィシェグラードという街は、ドナウ川の支流であり、ボスニアの東部を流れて多くの箇所でセルビアとの国境線をなしている「ドリナ川」の河畔に築かれた歴史ある街です。
ホテルは、そのドリナ川に面した場所に建っています。
そして、木の間に見えているのがその「橋」。 -
こちらが、世界遺産に指定されている、ドリナ川にかかる歴史ある橋「ソコルル・メフメト・パシャ橋」です。
この橋が建設されたのは、16世紀後半、この地域がオスマン帝国の支配下だったころ。
イスタンブールのスレイマン・モスクなどの名だたる壮大な建築物を設計し、皇帝にも寵愛され当時当代一の名声を誇った建築家「ミマール・スィナン」がこの橋を設計しました。
その名前は、この橋の建設を命じた人物であり、スレイマン大帝の片腕として重宝され、そして暗愚なスレイマン後の皇帝の治世においては事実上の帝国のトップとして君臨した大宰相「ソコルル・メフメト・パシャ」にちなんでいます。
ドリナ川のエメラルドのような色に重なる、落ち着いた重厚な橋のイメージ。
期待していた以上の美しい光景です。 -
この橋は、オスマン、ユーゴスラビア、そしてボスニアといったこの地域の数奇な運命の中で幾度か破壊されたこともありましたが、修復を経て現在も建設当時の姿を保ち続けています。
そして、この橋を有名にしたものがもうひとつ。
のちにノーベル文学賞を受賞したユーゴスラビアの作家「イヴォ・アンドリッチ」が、この橋を舞台にした小説「ドリナの橋」の中で、この橋とそれにかかわった人々たちの300年以上にもわたる悲喜を壮大な歴史絵巻として書き上げたからです。
その小説が発表されたのは第二次大戦終結直後。
そしてアンドリッチがノーベル賞を受賞したのが1961年。
はるか昔の作品ということもあり日本での知名度は著しく低いのですが、世界的な評価は高く、単に橋を見に来るというだけでなく「小説の舞台を見たいから」ということでここを訪れる人もいまだに多いんだとか。ヴィシェグラードのメフメド パシャ ソコロヴィッチ橋 史跡・遺跡
-
ここにターバンを巻いていたトルコ人が闊歩していた時代。
やがてここが国境となってしまい、自由な往来ができなかった時期。
(のちほどまた説明しますが)凄惨な内戦の「現場」となった時。
橋は変わらずここに存在し続けました。
いや、言い換えれば「橋しか同じものはなかった」というべきでしょうか。
橋の向こうに誇らしげに翻るスルプスカ共和国の旗が、それを改めて感じさせます。ヴィシェグラードのメフメド パシャ ソコロヴィッチ橋 史跡・遺跡
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小説「ドリナの橋」では、この橋の周囲に住む人々の出会い、希望と絶望が飽きの来ない繊細なタッチで描かれています。
私はふだんほとんど本を読みませんが、この旅行に出発するにあたり読んでおきたいと思い、近所の図書館に奇跡的に置かれていた本を読み始めたところ、数日間寝不足になるくらいに没頭してしまいました。
時代とともに移り変わる風俗、そして国の支配の形などの描写が非常に忠実、それでいて登場人物の心理が、あんた見てきたんか!とついツッコミを入れたくなるくらいに鮮烈に描かれていて、読んでいるだけでもう十分にこの場所を旅した気分になっていました。 -
なので、この橋に来た時には、初めて来たのに「再会した」という気分すら感じさせるほどになっていました。
こちらは橋の上からホテルを見たところ。
小説の中では、このホテルの場所には酒場があり、ここに出入りする人々のいくつもの話がつむがれています。
なのでつい、実在しないとはわかっていつつも心の中で「あの誰々は元気かなあ」とか考えてしまいます。ヴィシェグラードのメフメド パシャ ソコロヴィッチ橋 史跡・遺跡
-
橋のちょうど真ん中の部分には、このような「カピア」と呼ばれる、川にせり出したテラスのような場所があります。
こここそが「ドリナの橋」の作中にて人々が集まり、ここから様々な出来事が起こっていた、物語の中心となる場所でした。
この同じ場所での「定点観測」によって、移ろっていく人々そして時代を描くという、作中でも特に象徴的な場所。
作品を読んでいないと「ふーん」と思って通り過ぎていたところかもしれません。
しかし、一度読んでしまうと、ここにいったい何人の人々の想いが交差したんだろう?と考え、その歴史の重さに足を前に出すことができなくなってしまいます。 -
カピアの向かい側には、橋を記念する碑文らしきものがあります。
この川のすぐそばに生まれたアンドリッチ少年は、毎日ここの様子を見て育ち、そして大人になってもこの場所を忘れず、故郷の美しさを小説の中にきっちりと保存してくれました。
日本語訳を行なってもさらに伝わってくるその文才がなければ、昔の人の姿もそれほど鮮明には見えてこなかったでしょう。
ここを訪れる方は、ぜひ一度読んでおくことを強く強くお勧めします。
(私も結局図書館では飽き足らず、古本を購入して出発前に再度読んでしまいましたしw) -
知名度は高くありませんが、個人的にはもう100か所以上訪れた世界遺産の中でも有数に強い印象を残している場所です。
その歴史と、このドリナ川そして背後の風景を含めた美しさの両方で。 -
橋の上にたたずんで小説のことを思い出していたらだいぶ空も薄暗くなり始めたので、橋はまた明朝訪れることにして街歩きへと入ります。
ヴィシェグラードは、もともとボシュニャク人(イスラム教徒)が人口の半数以上を占めていた場所。
それが、ボスニア紛争ではセルビア国境に近いこと、サラエヴォへの経路上にあることなどから、セルビア軍の重点目標として徹底的な攻撃を受けました。
1992年にセルビア人がこの街の実権を握って以降は、徹底した「民族浄化」が繰り返され、人口の半数以上を占めていたボシュニャク人がほぼすべて姿を消してしまったそうです。
先ほど見た、あの「ドリナの橋」も、毎日虐殺された人々の死体が流れ着く場所でした。
今のあの美しさから全く想像できない光景が、ここには実際に日常として確かに存在していたようです。
そしてこの通りにも、死体が転がっていた日々がありました。
朝家族に挨拶をして仕事に向かったあと、職場に突然踏み込んできたセルビア人に連行され、家族が見ている前で銃殺された父親。
セルビア兵によって監禁され、代わる代わるレイプされセルビア人の血を引く子供の出産を強要された女性。
母親から取り上げられ、ドリナの橋の上から川に投げ込まれ、あろうことかそれが水面に落ちるまでの間にちゃんと撃ち抜けるかという「射的」にも近いセルビア兵の遊びの対象になっていた赤ん坊。
「Višegrad massacres(ヴィシェグラードの大虐殺)」で調べると、こうした話が次から次へと出てきます。
それらは、たった20年前のこと。 -
今でこそ生活は普通に戻っているように見えますが...
かつて隣人同士だった人々が殺し合い、今ではこの街は完全にセルビア人が大多数を占める場所となりました。
私のような一見さんでも、その緊張感の一端は感じ取れます。 -
街の目抜き通りに面して建てられたモスク。
当然ながら紛争の最中はモスクは徹底的に破壊されており、これは近年になって再建されたものだそうです。
ただし、戻ってきたイスラム教徒はごくわずか。
多くはこの地を去りボシュニャク人が多い地域へと移住(というか避難)を余儀なくされ、そして何千名もの人々がまるで皿を割るかのように簡単に、かつ尊厳を徹底的に奪われる形で惨殺されました。 -
街なかを少し歩くだけでも、その内戦時の爪あとがいくらでも見つかります。
このアパートの塔の上の方などはその典型ですね。
何も情報を得ずに来ても、明らかに「ここでかつて何かが起こっていたこと」は容易に理解できると思います。 -
そんな街並みを歩いていたら暗くなってきたので、晩御飯を食べる場所を探すことにしました。
いちおう「地球の歩き方」にもこの街は載っていますがレストラン情報などはないため、いったん宿に戻ってお勧めの店を聞き、そこに向けて歩きます。
途中には、こんなイスラム教徒の拠点となる場所がありました。
(壁に小さく「イスラム教徒協会」的なことが書いてあります)
こうして拠点を作らねばならない程度にしか、人がいないという事か... -
宿の人に勧められた店では、ボスニアの典型的な肉料理の盛り合わせを注文。
いや、これが、それほど期待してなかったのですがどれもとてもジューシーでいつまでも余韻が残ります。
食べ物のスタイルや味付けなど、昨日まではスラブ系民族の場所にいて、今日はそことは違う「アジアの外れ」にいる、ということが、舌を伝わってよく理解できました。
※店の名前を忘れてしまったけど、場所は正確に登録しているので探してみてください! -
食事を終えて川沿いを散策しようとしたら、5〜6歳の少年が私のあとを興味深そうについてきます。
こちらが近づくと少し距離をとって後ずさり、また私が進むと間隔を保ちながらついてくる。
興味があることはよくわかったので(笑)話しかけてみましたが、向こうは向こうで何か話しているものの、お互いの言葉が通じず意思疎通はほとんどできません。
とりあえず、何となく伝えられたのは「私が日本人である」ということくらい(笑)。
街灯の下で目配せしてニヤニヤする、そして同じ感覚を保って散歩する。
そんな攻防?を20分ほど続けながら、街の目抜き通りからドリナ川沿いの小路まで、ゆっくりと進んでいきます。 -
途中、少年の家の前を通ったら、少年が両親に出歩いていたのをとがめられていました(笑)。
まあそんなに怒らんでやってくれ。
こんな田舎町に東洋の見知らぬ国の人間がいたら、興味持つのはよくわかりますし。
寂しそうに家に入っていく少年に手を振り、再びホテルの脇からドリナの橋のまた違う夜の顔を眺め、長かったこの一日を締めくくりました。
明日は、いよいよ首都サラエヴォへと至ります。
(5日目へ続く)
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