2011/04/23 - 2011/05/09
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mikoyan358さん
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2011年、旧ユーゴスラビアを構成するスロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの5か国を、レンタカーで旅しました。
前年にドイツ・オーストリア・チェコをレンタカーで巡って自信がついていたという状況でしたが、それでも
「そもそも外国人が車で飛び込んで大丈夫な場所なんだろうか?」
という一抹の不安も感じながら、車と宿の予約だけしてとりあえず飛び込んだ国々(笑)。
2000年前から続く悠久の歴史あり、世界にもまれなほどの奇勝地あり、そしていまだ残る内戦の爪あとあり...
危険を感じることもなく、かつてのユーゴスラビアという国が持つ魅力そして負の歴史を、肌で感じることができた旅でした。
もう5年前の出来事ですので多少状況も変わっている可能性がありますが、でもレンタカーでこの辺に行こうと思っているけど情報が少ないし、本当に大丈夫なのかな?とお考えの方に、少しでも参考になればと思っています。
1日目 4月23日(土) 成田⇒ミュンヘン→リュブリャナ
2日目 4月24日(日) リュブリャナ⇒ザグレブ
3日目 4月25日(月) ザグレブ⇒ベオグラード
4日目 4月26日(火) ベオグラード⇒モクラ・ゴラ⇒ヴィシェグラード
5日目 4月27日(水) ヴィシェグラード⇒サラエヴォ
6日目 4月28日(木) サラエヴォ
7日目 4月29日(金) サラエヴォ⇒モスタル⇒ドブロヴニク
8日目 4月30日(土) ドブロヴニク
9日目 5月1日(日) ドブロヴニク⇒コトル⇒ドブロヴニク
10日目 5月2日(月) ドブロヴニク⇒スプリト
11日目 5月3日(火) スプリト⇒トロギール⇒シベニク⇒プリトヴィツェ
12日目 5月4日(水) プリトヴィツェ⇒リエカ⇒プーラ⇒ポレチュ
13日目 5月5日(木) ポレチュ⇒ヴェネツィア⇒ポレチュ
14日目 5月6日(金) ポレチュ⇒ポストイナ⇒シュコツィアン⇒ブレッド湖
15日目 5月7日(土) ブレッド湖⇒クラニスカ・ゴラ⇒リュブリャナ
16日目 5月8日(日) リュブリャナ⇒ミュンヘン⇒(機中泊)
17日目 5月9日(月) ⇒成田
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- レンタカー 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
周囲に特に何もなく、チャンネルの少ないテレビ程度しかない質素な部屋だったこともあり、この日も早寝早起き。
旅行に来るとえてしてそうなりますが、今回は特にその傾向が強いですね。
帰ってから時差ボケになりにくくなるので、メリットも多いです。
まだ朝食の開始までには時間があったので、人の少ない朝のヴィシェグラードの街を体感することにしました。
橋のたもとには世界遺産の看板があります。ヴィシェグラードのメフメド パシャ ソコロヴィッチ橋 史跡・遺跡
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昨日も紹介した世界遺産の「ソコルル・メフメト・パシャ橋」。
水が澄み渡り、いったい何連の眼鏡橋だろう?と思うくらいの、まるで空中回廊のような風情です。
昨日の旅行記にも書いた虐殺の事がここでまた頭によぎりますが、この美しさの中にどうしてもそれを落とし込むことができません。ヴィシェグラードのメフメド パシャ ソコロヴィッチ橋 史跡・遺跡
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そもそも車が通らない橋(自動車用の橋は街の外れにある)、さらに朝は観光客も少ないので、ドリナ川の水の流れが谷に反響する音以外は静寂に包まれています。
夜中に雨が降ったらしく、しっとりと橋の表面が濡れているのも、その静けさに趣を加えます。ヴィシェグラードのメフメド パシャ ソコロヴィッチ橋 史跡・遺跡
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しばらく橋にたたずんだあと、街の裏手の高台へ登ってみました。
麓からも見えていた塔は、セルビア正教会のもの。 -
その敷地内には、内戦で命を落とした青年たちの墓が並んでいます。
なぜそうわかるのか。
ほぼすべての墓に「1992」という数字が入っていることが、その理由です。
命を落とした彼らの行為を否定するつもりは毛頭ありません。
ただ、本来埋葬される場所を破壊され、墓にすら入ることができなかった人々が、この墓の規模の何倍もいたことを考えると「彼らだけがここにいる」ことの違和感も同時に覚えます。 -
複雑な想いを抱えながら、花たちの間に見える橋を見やります。
-
昨日歩いた目抜き通りの一本裏の路地。
左側の建物の左下の壁付近、今はすべて埋められていますが銃弾の跡がたくさんあるのがわかりますでしょうか。
このような銃弾の跡、そして何か燃えた痕跡が、ほぼすべての建物に見られます。 -
中心街のわきを走る交差点まで来ると、「VILINA VRAS(ヴィリニャ・ヴラス)」の看板が見えました。
このヴィリニャ・ヴラスは、古くからこの地で親しまれてきた温泉保養施設。
内戦の際には、ここにボシュニャク人の女性(中には10代前半の子どもさえいた)が大量に監禁され、セルビア兵に毎日のように代わる代わるレイプされ、数百人いた女性のうち生き残れたのは数人という記録が残っています。
この施設は「歩き方」にも乗っていて、どうやらこの時点で営業もしているようだったのですが、事前にその話を知って以降はさすがに行く気がなくなりました... -
そこかしこに、こうした「EUの援助で復興しています」という看板が立てられていました。
反セルビアの立場にあったEU諸国が今はそこを支援する。
正直、これを見るのは複雑ですね。。 -
この景色の下半分が、死体で埋め尽くされていた日々があった。
...事前に勉強していったことを思い出しながら歩いていると、ひどく気が滅入ってきました。
この場所に行く限り仕方のないことですが。
複雑な想いで橋を眺めていたら、昨晩私を興味深そうに追いかけてきた少年と再び出会い、また何語ともつかない、通じてるんだかどうだかわからないコミュニケーションが続きました。
そんなやり取りで少しだけ気が紛れたので、もう一度橋へと近づきます。 -
この橋が舞台となったイヴォ・アンドリッチの小説「ドリナの橋」を、この旅にも持ってきていました。
(結構重かったので迷いましたが、現地で後悔したくないと思い)
一度宿へ戻り、荷物の中から本を引っ張り出し、手に持って橋の真ん中の「カピア」までやってきました。
明け方の雨で濡れてはいましたが、それほど激しく濡れていなかった一角があったのでそこに腰を下ろし、本を開いて個人的に一番好きなくだりを読んでいきます。
小説の舞台になった場所で、その本を読む。
これほどまでに臨場感があり、目の前に本当に登場人物が甦ってくるようなシチュエーションがあるでしょうか。
なんと贅沢な時間だこと!
通り抜ける地元の人以外は誰も来ない中、30分ほどじっくりと本を読み進めました。 -
読んでいたら、平和の象徴が私のすぐ近くにたたずんで、こっちをじろじろ?と見ていました。
この橋の名前の由来となったソコルル・メフメト・パシャは生粋のトルコ人ではなく、地方からキリスト教の少年を強制的に徴収してイスラム教に改宗させ英才教育を施して軍事・政治の中枢を担わせる、という「デヴシルメ」という制度により、この地域から連れて来られた経験がありました。
小説の冒頭では、まだ橋がなかった当時のこの谷をかごに揺られて渡る少年の想いが描かれています。
故郷に凱旋してこの橋を作った彼は、その後の数奇な運命をどのように感じているのでしょうか。 -
夢中になって本を読んでいたら、だいぶお腹もすいてきました。
もう1か所だけ行きたい場所があったので寄り道します。 -
ホテルから橋を挟んで反対側、橋から5分もかからない場所にある小さな集落の中にあるこの家。
左側の看板が示す通り、ここがイヴォ・アンドリッチの生家です。
「ドリナの橋」の中で、民族がわけへだてなくこの橋を使い、橋と運命を共有していく様子を描いていたアンドリッチ。
彼はチトーが亡くなる5年前、1975年にこの世を去っているので、その後の「理想郷の崩壊」を目にすることはありませんでした。
アンドリッチがあと50年遅く生まれていたら、いったいどういう物語になっていたことか。 -
宿に戻って朝食をとり(写真撮り忘れましたwが、目玉焼きが美味しかった)、予定していた10時に出発。
街をぐるりとう回する幹線道路に乗り、アンドリッチの生家の前を通って橋の最後の姿を瞼に記憶させ、さあ次の街へ...
と思いきや、街の南の外れでいきなりの工事通行止め。
結局10分くらいで通れるようにはなったのですが、止められている間は結構焦っていました(笑)。 -
時間が余ったので、先ほど運転しながら別れを告げたドリナの橋に、もう一度車を降りてご挨拶。
また来ることがあるかどうかは不明ですが、この橋が歴史の波に流されず、このあと何十年もこのままの姿であり続けることを祈るのみです。 -
ヴィシェグラードを出てしばらくは、ドリナ川の上流へ向け川と並走します。
川沿いにはところどころにトンネルや洞門が設けられているのですが、借りていたレンタカーが「周りが暗くなると計器パネルを勝手に消灯しやがる」という設定になっていて、トンネルに入ると速度が全く分からなくなってしまいひどく困っていました。
最終的に解除できたのですが、いるのかなこんな設定? -
ボスニア・ヘルツェゴビナの道路ってどんな感じなの?と思われるかもしれませんが、ざっくりいうと「極めて普通の田舎道」です。
クロアチアとかに比べると若干整備が追い付いていないような個所はあるものの、走れないような個所はありませんし、幹線道路は道幅も十分広くてストレスもほとんどなし。
道路標識とかどうなの?というのが気になるところですが、基本的な表示はヨーロッパ域内ではおおむね統一されていて、判断に迷うような表示がなかったというのも正直なところ。
(でも一応わからなかった時のために、ダッシュボードに印刷したボスニアの標識一覧を貼り付けていました)
唯一、ボスニアだからこそケアしなければならなかったのが、道路そのものよりも道路脇の状況。
この看板のように、15年以上たってもまだ弾痕が残っているところもありますし、何より「道路脇には地雷が埋設されている可能性がゼロではない」という点を常に意識しておく必要があります。
なので、余計な寄り道はせず、トイレ休憩ならばガソリンスタンドを使うなどの配慮はいりますね。 -
この当時、サラエヴォまでの幹線道路は、絶賛リニューアル中。
なので、途中からは地図の通りに進まず、大きなう回をさせられるシーンも増えてきます。 -
とはいえ、う回のロスはそれほどなく、ヴィシェグラード出発から約1時間半たった正午というおおむね予定通りの頃合いに「Sarajevo」の看板の前を通り過ぎました。
サラエヴォは街の東側がすぐに山と森林になっているため、いったんサラエヴォ市の管轄に入ったら一気に中心街へと様相が変わっていきます。
入って3分でもう旧市街のメインストリートに到着。 -
サラエヴォでの観光は1日半あり、旧市街は翌日じっくり回る予定にしていました。
なので中心街はそのまま通り抜け、中心街を流れるミリャツカ川から1キロほど離れた街の北側のエリアへと直行。
スタジアムのようなものが見えますが、ここもサラエヴォで来たかった場所のひとつです。オリンピックスタジアム 現代・近代建築
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ここは、サラエヴォの「オリンピックスタジアム」。
ご存知の方も多く、一定以上の年齢の方は生で見たという方も多いであろう、1984年のサラエヴォオリンピック。
そのメインスタジアムがここでした。
内部へは入れませんが、当時から変わらないであろう聖火台が外側からも見ることができます。オリンピックスタジアム 現代・近代建築
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サラエヴォオリンピックの施設は、大半が内戦の影響で放棄され、この5年前段階はもちろん2016年現在でも廃墟と化しているものが多数あると聞いています。
そんな中、このオリンピックスタジアム周辺だけは、数少ない例外として稼働中。
そして、戦火を生き残ったこの五輪マーク、そしてその下にあるサラエヴォ五輪のシンボルマークが掲げられた塔だけが、ここに世界中のアスリートが集まったことを示し続けています。オリンピックスタジアム 現代・近代建築
-
スタジアムを周囲から眺めた後、その隣にあるこちらの建物へと移動します。
この建物は「ゼトラ」といい、内部にスケートリンクがあります。
オリンピック当時は、フィギュアスケートやアイスホッケーの会場として使われました。
フィギュアスケートという事は、あのオリンピックを2連覇し、いまだに優雅さという意味ではこの人を上回る人が出てきていないと個人的に感じるカタリナ・ヴィットの1冠目。
そして、オリンピック史上初の全員満点という離れ業を達成し、30年以上経った今見てもその完成度にほれぼれしてしまうジェーン・トーヴィル&クリストファー・ディーン組のアイスダンスの演技。
サラエヴォオリンピックの象徴的なシーンの数々は、この建物の中で起こりました。 -
サラエヴォ五輪は、長らくIOCのトップに君臨したサマランチが会長として初めて迎えたオリンピックでした。
その後の商業化など含めて賛否はいろいろありますが、この地では経緯を払うべき人物としてこの大事な建物にその名が冠されています。 -
ゼトラに併設される形で「オリンピック博物館」があることを把握していたので、まずはここへと入ります。
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入るとすぐに、オリンピックの標語である「より速く、より高く、より強く」の言葉がお出迎え。
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こちらが、オリンピックスタジアム・ゼトラを中心としたこの付近の会場の空撮図。
ゼトラの隣にあるのはスピードスケートのリンク。
オリンピック施設としては今や珍しくなった屋外リンクでしたね。
周辺には様々なスペースがありますが、これが今どうなっているかをこの後の行程で巡りますので、この様子を頭にとどめておいてください。 -
サラエヴォ五輪のマスコット「ブチコ」。
この地域にいたという狼をモチーフとしています。 -
こちらが聖火トーチ。
聖火リレーは、オリンピアからドブロヴニクへ上陸した後、リュブリャナからザグレブを通る西回りと、(現在のマケドニアの首都)スコピエからベオグラードを通る東回りの2つのルートを通り、サラエヴォに集結しました。
個人的には、このサラエヴォ五輪は記憶にある中の最初のオリンピックなのですが、さすがに開会式は覚えてないなあ。 -
こちらが、実際に選手に渡されたものと同じ金・銀・銅メダル。
最近の五輪はいろいろ凝ったデザインになっていますが、それと比べるとかなりシンプルですね。 -
こちらは、五輪の入場券。
ちょうど中央に写っているのは、あのトーヴィル・ディーン組の満点演技に世界が驚愕した、アイスダンスのものです。
このチケットを普通に買ってあの瞬間を目撃できた人は、正真正銘の歴史の生き証人ですね。 -
開会式の入場行進で使われた国名のプラカード。
今は、歴史的価値以外は何の意味も持たないただの板でしかないですが。 -
当時12歳だった私にとってリアルタイムで記憶にあるのは、雪の中で行なわれたスピードスケート男子500メートル、ジャンプのラージヒル(うん、懐かしい響きw)、そしてフィギュアスケートの女子シングルの3つだけ。
今でも内容を覚えているのはスピードスケートだけと言ってもよいくらい、もう記憶の彼方に過ぎ去った出来事です。
その、リアルタイムで見ていたはずのフィギュア女子で金メダルを取ったカタリナ・ヴィットの姿がありました。
(これは後年、内戦が終結したあとにサラエボを訪れたときの様子ですね) -
それほど広くないながらも充実した展示をじっくり見て、スポーツ好き、特にオリンピック好きな私の好奇心は大いに満たされました。
ゼトラの建物を出て、再び敷地の中を移動します。
標高差がないのでわかりにくいかもしれませんが、この目の前に見えている塀の向こう側、白いドーム状の建物を取り囲むような形になっているのが、オリンピックのスピードスケートでも使用された屋外リンク。
ということは、金メダルを期待された黒岩彰が失速し、それに対する日本人の落胆が冷めやらぬうちに2位に食い込み銀メダルを獲得した北沢欣浩、という一連の流れは、ここで起こったわけですね。
あの頃は、全く存在すら知らない遠い異国の、雪が強く降るとても寒そうな場所に、まるでそれが遠い宇宙のどこかで行なわれているような距離感を持っていたのを覚えています。
今こうして目の前に立ってみると、案外近いところ、そして案外普通の場所だったんだな、というのに気づきますが(笑)。 -
そうしたオリンピックが開催されたのが、すでにチトー亡きあとだった1984年。
その後、東欧の民主化の影響を受け、共産党支配が揺らいで民族主義が勃興したのが1990年に近づいたころ。
そして1990年代は、泥沼の内戦へと至りました。
サラエヴォは、ボシュニャク人が多く住む地域でしたが、セルビア人がそこを陥落させて自らの支配を決定づける重要拠点として、非常に激しい戦闘が数年にわたって繰り広げられました。
スタジアムの近くにも、こうして銃弾の跡が無数に残ります。 -
歩くたびに、建物が見えてくるたびに、その大半に何らかの戦争の爪あとを明確に認識できる状況。
そしてもうひとつ、嫌でも目に入ってくるのが... -
この、斜面を埋め尽くす、白い帯のような「何か」。
遠景だけでなく、それはスタジアムの敷地のすぐそばにも迫ってきています。
近づいて見るまでもなく、それが何であるかはすぐにわかりました。 -
それは、無数の墓標。
内戦で命を落としたサラエヴォ市民があまりに多すぎて、従来の墓地では全く追いつかず、市内の空き地という空き地に次々と墓が作られていきました。
当然ながら戦火の中だったため、戦闘が落ち着く深夜にこっそりとお葬式をしていたんだとか。 -
個人的に強く印象に残ったのが、この墓標でした。
生まれた年は、私と同じ。
そして私が大学に進みのほほんと生活していたころ、彼は命を懸けて戦い、そして物言わぬ墓標の主となってしまいました。
自分の人生を振り返って、あの年齢の頃に一生を終えなければならないとしたら...
あまりに短すぎて想像すらつきません。 -
スタジアムのこの付近は、もともとメインスタジアムのサブグラウンドなど、オリンピックに必要な施設として用意されたスペースでした。
しかし、そこは今、おそらくサラエヴォ五輪を生で見て熱狂した人々が眠る場所となっています。
スタジアムやゼトラなどを含めた、敷地全体の40%以上を占める形で。 -
この青年の母親、あるいは(現在の年齢差を考えると)兄弟・恋人か。
年月が流れていく人々と、止まったままの場所。
旅行から5年経ちますが、墓の前で語り掛けるように立ち尽くし何かを伝えようとしていたこの女性の後姿を、いまだに忘れることができません。 -
そんな墓地が見渡せる場所で、未来の希望となる少年たちがスポーツに興じていました。
確かにこの地は内戦で様々なものを失いましたが、15年近くが経過したいま、一見すると普通の街と思えるような姿を取り戻してきています。
あと10年もすると、戦争を知らない世代が台頭していくはず。
そうなった時、この国の民族の間にどのような感情が発生するのか、まだまだ見守っていく必要はありそうです。 -
最後にメインスタジアムの周りをぐるっと1周して、1時間半ほどの滞在を終えました。
13時をまわって小腹もすいてきたので、何か軽く食べるべく次の目的地を目指します。 -
スタジアムからは車で10分ほど。
街の北西側、サラエヴォ駅からほど近い場所に、こんな建物が建っていました。
まるで名古屋のモード学園のビルを思わせるような形状。
その名も「Avaz Twist Tower」です。
2008年に完成した、サラエヴォの新たなランドマーク。アヴァズ ツイストタワー 建造物
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わずか1兌換マルク(60円ほど)の料金を払い、最上階40階、高さ150メートルの展望台へと高速エレベーターで昇ります。
青いガラスでトワイライト風味になっていますが(笑)、サラエヴォの中心街がこうして一望のもとに。
左手奥の方が旧市街、右手中央に写っている黄色い建物が「ホリデイ・イン・サラエヴォ」、その左側の高層ビルが(戦争の映像でもたびたび登場する)ビジネスセンターのツインタワーです。アヴァズ ツイストタワー 建造物
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今や高層のマンションが林立し、内戦で荒廃した都市、というイメージはみじんも感じられなくなりました。
こんな風景を眺めつつ、展望台に併設されたカフェでケーキとコーヒーで一息つきます。アヴァズ ツイストタワー 建造物
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とりあえず食べ物を腹に入れたら猛烈に疲れが襲ってきたので、ひとまず宿にチェックインすることにしました。
今回予約したのは、サラエヴォの中心街から少し離れたところにあるペンション「ハーモニー」。
金額がリーズナブル、車を停められる、そしてネットでの評判が非常に良かったことから選択した宿。
中心街には徒歩で行ける距離ではないですが、確実に車を置けることを優先してここにしました。
それにしても、住宅街のまっただ中にあり「本当にあるんだろうか?」感の高い宿。
しかも相変わらずカーナビはボスニア・ヘルツェゴビナ国内では超大ざっぱモード継続中ですが、事前にグーグルマップなどでしっかり調べて行ったことが功を奏し迷うことなくたどり着くことができました。
親切なオーナーにお勧めのレストランも教えてもらい、おまけに不安だったパスポートを見て「いままで旅行者のをいろいろ見て相談受けてきたけど、この内容なら国境通過は大丈夫!」というお墨付きまでいただきました。
いろいろ安心したこともあり、1時間半ほど宿で仮眠。リーズナブルだけど侮れない、ポテンシャルの高い宿 by mikoyan358さんHotel Villa Harmony - Free Parking ホテル
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起きて身支度を整えたら、もう17時を過ぎていました。
宿の周辺にも興味ありましたがその辺は明日の朝巡ることにして、今日はお勧めを受けた店での晩御飯をメインに、いったん旧市街へと繰り出すことに。
オーナーはすぐにタクシーを呼んでくれ、待ち時間もいろいろ話しかけて気を遣ってくれます。
ご覧の通り、ペンションがあるのは谷になっているサラエヴォ郊外の高台。
向かいにあるテレビ塔は、内戦の時代には格好の標的となり果てしない攻撃にさらされました。
このペンションがある地域も、無論内戦と無関係ではありません。
その辺はまた翌日詳しく。リーズナブルだけど侮れない、ポテンシャルの高い宿 by mikoyan358さんHotel Villa Harmony - Free Parking ホテル
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タクシーに乗り、いったん街の中心を流れるミリヤツカ川を越え、旧市街の西の端あたりで降ろしてもらいました。
こちらは、第二次大戦の戦没者を追悼する「永遠の炎」。
1946年の4月からずっと炎が絶やされることなく維持されたそうですが、さすがに内戦の荒波には贖えず、燃料不足という何とも現実的な理由にて3年間途絶えた時期があったそうです。
でもそれ以降は、また毎日平和の象徴であり続けています。
私が行った直前である2011年の初頭に酔っ払いが酩酊のうえでこの火を消そうとしたそうですが、炎はより強く燃え上がり消えることがなかったそうです。 -
いろいろパクってる(笑)。
三日月の使い方とかセンスありますな。 -
旧市街のメインストリート「フェルハディヤ通り」の歩行者天国を東側へと向かいます。
陽もだいぶ落ちてきましたが、さすが旧市街の一番の通りだけあって人の流れは絶えません。
この通りを行き交う人を見ていると、ヨーロッパというよりアジアの顔立ちだなあとしみじみ思います。 -
西側は西欧風のキリスト教エリア、そしてある通りを境にして急にトルコ風のイスラムの香り漂う街へと変化するフェルハディヤ通りを15分ほどゆっくり歩くと、旧市街の中でも一番有名な人々のよりどころとなる場所にたどり着きました。
この広場は「バシュチャルシャ」と呼ばれています。
バシュ=メイン(トルクメニスタンで覚えた)
チャルシャ=市場(ウズベキスタンで覚えた)
テュルク系の言葉が共通しているので名前を見た瞬間に意味が分かりましたが、その名の通り「中央市場」という意味の場所で、昔も今もサラエヴォの街の中心はここです。バシュチャルシヤ 散歩・街歩き
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今ほど水が潤沢に手に入れられなかった時代、この広場にある「セビリ」(水飲み場)は人々の生活のよりどころでした。
おそらくここを囲んでのんびりと過ごしながら、話に花を咲かせたんでしょうね。
今でも蛇口をひねると水がしっかりと出てきます。セビリ (水飲み場) モニュメント・記念碑
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全世界の鳩の何分の1くらいかと思うくらい(笑)、膨大な数の鳩がいます。
サラエヴォの街にこれだけの鳩がいるというのが、何というか皮肉にも感じます。バシュチャルシヤ 散歩・街歩き
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裏路地も、この界隈は「ヨーロッパ」という範疇から飛び出て、イスタンブールの旧市街の裏通りにも通じるような雰囲気が漂っています。
建物が木造主体で落ち着いていることと、やはり絨毯やカリグラフィという販売物が目に付くからなんでしょうね。 -
この辺は金細工や水たばこといった、トルコから中央アジア方面でよく見られる工芸品が多く並んでいます。
-
「アラーは偉大なり」と書かれたカリグラフィなども並んでいて、この旅で初めての「まごうことなきイスラムの香り」に包まれます。
奥のほうには、トルコのお土産でも有名な目玉型のお守り「ナザール・ボンジュウ」すらありました。
トルコと違う所があるとすれば、人々の商売の強引さでしょうか。
トルコのバザールでは日本語で話しかけられることは当たり前で、ひどいときは腕をつかまれたりしますが、こちらでは店に入っても多少の関心を示す程度で深追いはしてきません。
こっちの方が楽でいいですね。 -
先ほどから晴れていつつも遠くの空に怪しい黒い雲が行き交っていましたが、それも過ぎ去ったようで美しい虹が旧市街の空にかかりました。
この上なく、サラエヴォから歓迎されているような気分に(笑)。 -
そして、その旧市街のイスラミックなエリアの真っただ中にあったのが、ペンションのオーナーに勧めてもらった「Mrkva」というお店。
ここの「チェバブチチ」は絶対食べろ!と言われたので、選択の余地はありません(笑)。
チェバブチチとは、小さなケバブという意味。
串に刺して焼いた挽肉の塊を、ごろっとピタの間に挟んで出してくれます。 -
中をのぞくとこんな感じ。
これがまた、けっこう脂ギッシュではあるものの、昨日のヴィシェグラードで食べた肉を非常に高いレベルで凌駕するような、歯で切った瞬間に肉汁がドバっと飛び出してくる至福の一品でした!
付け合わせの玉ねぎのみじん切りも、そのまま食べると辛いですが、肉と合わせるとあら不思議、素晴らしいアクセントになります。
お近くへ立ち寄りの際は、オーナーに代わって私もお勧めしますのでぜひ食べてみてください。
この日はこれで究極に満足したので、タクシーでとっとと宿に戻り、昨日できなかった日本への連絡をまとめて済ませました。
(ヴィシェグラードの宿は、当時はWi-Fiなんてものは飛んでおらずネット接続が不可能な状況でした。このサラエヴォの宿はかなり速い回線で、接続も超快適)
明日は、サラエヴォといえばここを訪れなければ!という場所を一気に巡ります。
(6日目に続く)
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