2015/10/09 - 2015/10/09
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旅人のくまさんさん
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鳴海城址紹介の続きです。城域は東西75間半(13メートル)、南北34間(61メートル)の規模であったと記録されていて、周囲を堀が囲み、本丸、二の丸、三の丸から構成されていたようですが、詳細は不明です。
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- 私鉄
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二箇所目の鳴海城跡の紹介です。現在は都市公園の『鳴海跡城公園』となっています。
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『鳴海跡城公園』から眺めた西方向光景です。名鉄電車の中からも眺められますが、鳴海城址の西側にも高台が続いていることが目視できます。
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鳴海城跡公園から眺めた、西北方面の光景です。かつては、鳴海潟と呼ばれていた区域かもしれません。海に守られた堅城だったようです。
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鳴海城跡公園から眺めた、西方面の光景です。お城だった戦国時代や江戸時代には、南側や西側は、海に面していたとされます。
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鳴海城跡公園の中の遊具施設の光景です。できることなら、鳴海城址に相応しい『城址公園』らしい施設も望みたいところです。
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鳴海城跡公園の南端側から眺めた西方面の光景です。切り立った崖になっていました。1560年の桶狭間の戦いの時の今川方の守将は、岡部元信(生年不詳〜1581年)でした。主君・義元公が信長に討たれた後も抵抗を続け、義元の首と引き換えに開城した傑物です。信長はその忠義に応え、義元の首級を丁重に棺に納めた上で、10人の僧を付けて送り届けたと伝わります。
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イチオシ
鳴海城公園の南端側から眺めた東方面の光景です。岡部元信は、義元の棺を輿に乗せて先頭に立て、粛々と鳴海城を引き払ったとされます。駿府へ帰還する途次、刈谷城を100余の手勢で攻撃し、水野信近(1525〜1560年)を討ち取り、城を焼き払ったことも伝わります。今川家の後、武田家に仕えました。
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鳴海城公園近くから眺めた、西方面の光景です。最初に紹介した、天神社の城跡説より、地形的には、個人的には、こちらが鳴海城跡に相応しいと思えました。前方の高台は、物見の出櫓説もあるようです。
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鳴海城公園の南側に見えていた地蔵尊のズームアップ光景です。近くに立ち寄るのは、難しそうでした。
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鳴海城跡公園の西端の当たる部分の境界の塀の光景です。後ほど、麓から坂道を登って鳴海城址に戻ってきました。
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西側から眺めた、鳴海城跡公園のコンクリート壁の光景です。鳴海城が現役だった時代には、土塁や濠が作られてもおかしくない地形でした。
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西側から眺めた、鳴海城跡公園の光景です。現在は名古屋市・緑区が管理する都市公園です。
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鳴海城公園の中の遊具施設の光景です。戦国時代の鳴海城は、天文年間の頃(1532〜1555年)に、信長の父の織田信秀(1510〜1551年)が所領を固めるため、山口左馬助教継を城主としました。しかし、信秀死後の天文22年(1553年)、山口教継は今川方に寝返ったため、1560年の桶狭間の戦い当時は、今川方の城となっていました。
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かつての土塁跡らしい土手の光景です。山口父子が寝返った当時、19歳の信長は、4月に800の軍勢を率いて鳴海城を攻撃しましたが、落城は果たせませんでした。更に山口氏は大高城や沓掛城まで攻め落とし、今川勢を拡大しました。信長にとっての大きな脅威ですが、これに対応したのが、武力ではなく、山口父子に対する『信長の策略』とされます。
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鳴海城跡の東南端に位置する、土塁などの遺構とされる一角です。櫓台状の部分が残り、その端の方に土塁らしいものが残っています。山口父子に対する『信長の策略』は、『山口父子が今川方に寝返ったというのは謀略、本心は織田方にあり』という噂を広めたことです。今川義元は、山口父子に不信感を抱くようになり、父子を駿府に呼び寄せ、謀殺しました。信長の情報作戦勝ちだったようです。
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ネット情報によっては、土塁跡とも紹介されていましたが、櫓台跡が主体のように思えた場所です。信長は、鳴海城が今川家に落ちたため、軍事的には、鳴海城を押さえるために、丹下砦、善照寺砦と中島砦を周囲に築かせました。
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鳴海城跡公園の周りの樹木光景です。神社境内にあれば、鎮守の杜と呼ばれそうです。山口父子が亡くなった後、鳴海城には今川方の武将・岡部元信が入城しました。1560年の桶狭間の戦いの当時の守将です。
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鳴海城址公園の東面の光景です。土塁跡としているネット情報もありましたが、詳細は不明です。
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参考に撮影しておいた、現在の地番割です。名鉄鳴海駅が右下、その北西方面が記され、鳴海城跡公園もありました。
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鳴海城に関する遺物が残されているお寺の東福院です。東福院は、かつて鎌倉街道沿いにあったようですが、寛永年間(1624〜1643年)に、鳴海城跡の西北に位置する現在地に再興されたとされます。
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真言宗・東福院の山門光景です。真言宗は、弘法大師・空海によって、平安時代初頭の9世紀に開かれた真言密教の仏教宗派です。
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真言宗・東福院の山門脇の掲示板の光景です。色々な行事などが、細かく書き込んでありました。
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真言宗・東福院の由緒を記した立看板です。鳴海城の廃材が使われた山門のことや、古くは鎌倉街道脇にあったお寺が、寛永年代(1624〜1645年)にこの地に移ったことなどが紹介されていました。
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天正18年(1590年)に廃城となった根古屋城(鳴海城)の廃材が今も残る山門光景です。鳴海城は、桶狭間の戦いの後、今川家から織田家の手に移り、佐久間信盛・信栄父子が城主を勤め、天正時代(1573〜1593年)末期に廃城になったとされます。
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イチオシ
同じく、天正18年(1590年)に廃城となった根古屋城(鳴海城)の廃材が今も残る山門光景です。横に通された黒っぽい木材部分です。
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真言宗・東福院の外壁光景です。山門の東側になります。お寺の戸締り目的ではなく、景観アップのための飾り主、体の外壁でした。
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イチオシ
再び外から眺めた、東福院の山門の光景です。鳴海は寺の多い街として、『鳴海寺詣り歌』のわらべ唄が残されています。『東海道の鳴海宿 寺銭用意しなされや 西よりはじまる寺参り』で始まり、三つ目のお寺として、『ちょっと入った東福院』として歌い込まれているお寺です。
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真言宗・東福院の庫裏の光景です。先ほどのわらべ歌に歌い込まれているお寺と神社は16寺社、光明寺に始まり、長翁寺、東福院、如意寺、誓願寺、圓道寺、円龍寺、万福寺、浄泉寺、浄蓮寺、善明寺、金剛寺、神明社、御諏訪社、天満社、上がりが桶狭間の長福寺です。
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真言宗の寺院、護国山・東福院の境内の光景です。元は鎌倉街道にありましたが、兵火に遭い、この場所に再建されたのは、寛永年間の1624年とされます。
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真言宗・東福院の庫裏の玄関と、その右側の本堂の光景です。1590年に廃城となった鳴海城の遺物が乏しい中、山門に使われている鳴海城の廃材は貴重な遺物といえます。
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