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戦国時代の攻防の地、鳴海城址の紹介です。織田家と今川家でのせめぎあいが激しかったお城です。1560年の桶狭間の戦い時には今川勢の手中にあり、対抗して信長は、周りに砦群を造りました。

2015秋、鳴海城(1/4):鳴海駅から鳴海城、浅間神社、高札場、成海神社、日本武尊歌碑

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2015/10/09 - 2015/10/09

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旅行記グループ 2015年、尾張の城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

戦国時代の攻防の地、鳴海城址の紹介です。織田家と今川家でのせめぎあいが激しかったお城です。1560年の桶狭間の戦い時には今川勢の手中にあり、対抗して信長は、周りに砦群を造りました。

交通手段
私鉄

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  • 鳴海城の最寄り駅、名鉄鳴海駅です。この駅で降りて、歩いて鳴海城跡に向かいました。歩いて10分足らずの距離でした。

    鳴海城の最寄り駅、名鉄鳴海駅です。この駅で降りて、歩いて鳴海城跡に向かいました。歩いて10分足らずの距離でした。

  • 鳴海駅で降り、北側に歩いて、数分ほどの距離に最初の目的地、天神社はありました。古城や古戦場跡を見学する時、近くの神社やお寺の見学は欠かせません。

    鳴海駅で降り、北側に歩いて、数分ほどの距離に最初の目的地、天神社はありました。古城や古戦場跡を見学する時、近くの神社やお寺の見学は欠かせません。

  • 時間の余裕がありましたから、途中立ち寄った浅間神社です。その鳥居と狛犬の光景です。変則的な場所に、もう1箇所の鳥居があった神社です。

    時間の余裕がありましたから、途中立ち寄った浅間神社です。その鳥居と狛犬の光景です。変則的な場所に、もう1箇所の鳥居があった神社です。

  • 浅間神社の石碑と社殿光景です。普段は無人らしい小さな社でした。理由はよく分かりませんが、右の石柱が浅間神社、左の石碑が秋葉神社の文字でした。

    浅間神社の石碑と社殿光景です。普段は無人らしい小さな社でした。理由はよく分かりませんが、右の石柱が浅間神社、左の石碑が秋葉神社の文字でした。

  • 横から眺めた浅間神社の境内光景です。左が手水舎、右が一対で並んだ灯籠です。

    横から眺めた浅間神社の境内光景です。左が手水舎、右が一対で並んだ灯籠です。

  • 狛犬のズームアップ光景です。聞き分けのよさそうな子獅子を右手の下に置いた、雌獅子の光景です。

    狛犬のズームアップ光景です。聞き分けのよさそうな子獅子を右手の下に置いた、雌獅子の光景です。

  • 拝殿に向かって右手に置かれた、狛犬のズームアップ光景です。阿形の雄獅子です。足の下の玉は、『儀宝珠』と呼ばれているようです。魂の象徴という説や、邪悪を避ける葱の花を表現したとする説などがあります。

    拝殿に向かって右手に置かれた、狛犬のズームアップ光景です。阿形の雄獅子です。足の下の玉は、『儀宝珠』と呼ばれているようです。魂の象徴という説や、邪悪を避ける葱の花を表現したとする説などがあります。

  • 浅間神社の拝殿光景です。注連縄が張られ、中には明かりが灯っていましたが、鈴や賽銭箱は見当たりませんでした。『浅間神社』は『せんげんじんじゃ』と呼ばれることが多いようですが、この神社では『あさま』の呼び方が使われているようでした。

    浅間神社の拝殿光景です。注連縄が張られ、中には明かりが灯っていましたが、鈴や賽銭箱は見当たりませんでした。『浅間神社』は『せんげんじんじゃ』と呼ばれることが多いようですが、この神社では『あさま』の呼び方が使われているようでした。

  • 天白川の支流の扇川の光景です。これより少し上流の扇川と手越川が合流する地点には、織田氏により『中島砦』が築かれていました。戦国時代には、重要な役割を持っていた河川です。

    天白川の支流の扇川の光景です。これより少し上流の扇川と手越川が合流する地点には、織田氏により『中島砦』が築かれていました。戦国時代には、重要な役割を持っていた河川です。

  • 鳴海の街並み光景です。江戸時代には、東海道の『鳴海宿(なるみしゅく、なるみじゅく)』として賑わった場所です。かつての東海道五十三次の40番目の宿場です。

    鳴海の街並み光景です。江戸時代には、東海道の『鳴海宿(なるみしゅく、なるみじゅく)』として賑わった場所です。かつての東海道五十三次の40番目の宿場です。

  • 鳴海の交差点光景です。旧東海道は左上に分岐した、西方向の41番目の熱田宿(宮宿)方面への街道になります。その反対側の東方向が『間の宿』の有松方面です。有松は『間の宿』でしたが、有松絞をお土産に求める人で賑わったようです。

    鳴海の交差点光景です。旧東海道は左上に分岐した、西方向の41番目の熱田宿(宮宿)方面への街道になります。その反対側の東方向が『間の宿』の有松方面です。有松は『間の宿』でしたが、有松絞をお土産に求める人で賑わったようです。

  • 歩道に設置してあった、『高札場跡』の標識です。『高札場』は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設です。

    歩道に設置してあった、『高札場跡』の標識です。『高札場』は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札(高札)を掲示した施設です。

  • 鳴海城跡近くには、今も多くの寺社があります。その寺社も見学してきました。そちらの方は、別途、お寺巡りの方で纏めます。

    鳴海城跡近くには、今も多くの寺社があります。その寺社も見学してきました。そちらの方は、別途、お寺巡りの方で纏めます。

  • 『ヘブンリー・ブルー(天国の青、天上の青)』とも呼ばれる、西洋朝顔の紫の花の光景です。日本種の朝顔より花が長持ちする朝顔です。

    『ヘブンリー・ブルー(天国の青、天上の青)』とも呼ばれる、西洋朝顔の紫の花の光景です。日本種の朝顔より花が長持ちする朝顔です。

  • 南北の通りの西側にあったお寺の光景です。鳴海城跡見学の後に立ち寄りました。

    南北の通りの西側にあったお寺の光景です。鳴海城跡見学の後に立ち寄りました。

  • 南北の通りの西側にあったお寺のズームアップ光景です。『聖観音菩薩』の石碑と、『四国直伝弘法大師』の幟がありました。

    南北の通りの西側にあったお寺のズームアップ光景です。『聖観音菩薩』の石碑と、『四国直伝弘法大師』の幟がありました。

  • 『高札場跡』の光景です。高札場は、江戸時代に全国6万カ所、全国各地に設置してありました。高札場の管理は、幕府が費用を負担する『御普請所』と、各藩が費用を負担する『領主普請』とがありました。これは尾張家負担の『領主普請』のようです。

    イチオシ

    『高札場跡』の光景です。高札場は、江戸時代に全国6万カ所、全国各地に設置してありました。高札場の管理は、幕府が費用を負担する『御普請所』と、各藩が費用を負担する『領主普請』とがありました。これは尾張家負担の『領主普請』のようです。

  • 同じく、高札場跡の光景です。最上列の2枚が慶応4年(明治元年)の太政官高札、2列目がいずれも慶応年間で、左から2枚が江戸幕府高札、3枚目が太政官高札です。太政官布告および太政官達は、いずれも、明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式です。

    同じく、高札場跡の光景です。最上列の2枚が慶応4年(明治元年)の太政官高札、2列目がいずれも慶応年間で、左から2枚が江戸幕府高札、3枚目が太政官高札です。太政官布告および太政官達は、いずれも、明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式です。

  • 鳴海城跡とされるのは2か所です。その内の一つ、天神社です。石段の右脇に、その石碑がありました。

    鳴海城跡とされるのは2か所です。その内の一つ、天神社です。石段の右脇に、その石碑がありました。

  • 坂道に沿って積まれた、天神社の西側の石垣光景です。近代工法による切込み接ぎの積み方のようです。

    坂道に沿って積まれた、天神社の西側の石垣光景です。近代工法による切込み接ぎの積み方のようです。

  • 『成海神社創祠・天神社』の文字が刻まれた石碑の光景です。『成海神社(なるみじんじゃ)は、『鳴海天神』、『東宮大明神』とも呼ばれていた式内社で、旧県社です。この天神社は、その境内外末社の一つのようです。

    『成海神社創祠・天神社』の文字が刻まれた石碑の光景です。『成海神社(なるみじんじゃ)は、『鳴海天神』、『東宮大明神』とも呼ばれていた式内社で、旧県社です。この天神社は、その境内外末社の一つのようです。

  • 日本武尊の歌碑の光景です。『鳴海浦を見やれば遠し火高地に この夕潮にわたらへむかも』の和歌です。『ヤマトタケル(日本武尊:生年不詳〜景行天皇43年)』は、記紀等に伝わる日本古代史上の伝説的英雄です。ミヤズヒメを娶ったことで、草薙の剣を含めて、中部地区に縁の深い人です。

    日本武尊の歌碑の光景です。『鳴海浦を見やれば遠し火高地に この夕潮にわたらへむかも』の和歌です。『ヤマトタケル(日本武尊:生年不詳〜景行天皇43年)』は、記紀等に伝わる日本古代史上の伝説的英雄です。ミヤズヒメを娶ったことで、草薙の剣を含めて、中部地区に縁の深い人です。

  • 平成2年(1990年)11月に設置された、『成海神社旧祠・天神社由緒』のタイトルで、縁起が記された説明看板です。先ほど紹介した和歌のことなどが記述されていました。

    平成2年(1990年)11月に設置された、『成海神社旧祠・天神社由緒』のタイトルで、縁起が記された説明看板です。先ほど紹介した和歌のことなどが記述されていました。

  • コンパクトな造りの天神社の鳥居光景です。先ほどの由緒書に記された内容では、この場所は成海神社の旧地(旧祠)のようです。また、この神社は日本武尊を祀る朱鳥元年(686年)の創建とも伝わります。

    コンパクトな造りの天神社の鳥居光景です。先ほどの由緒書に記された内容では、この場所は成海神社の旧地(旧祠)のようです。また、この神社は日本武尊を祀る朱鳥元年(686年)の創建とも伝わります。

  • 『史蹟・鳴海城跡』の文字が刻まれた石碑です。旧法に基づく石碑のようです。現在の文化財保護法では、国や県指定の史跡にはリストアップされていません。大高城跡と鷲津砦跡、丸根砦跡が国の史跡に指定されているのに対し、残念なことです。

    イチオシ

    『史蹟・鳴海城跡』の文字が刻まれた石碑です。旧法に基づく石碑のようです。現在の文化財保護法では、国や県指定の史跡にはリストアップされていません。大高城跡と鷲津砦跡、丸根砦跡が国の史跡に指定されているのに対し、残念なことです。

  • 天神社境内の石灯篭の光景です。春日灯篭の六角形とは違って、四角をベースにした各部の造りです。

    天神社境内の石灯篭の光景です。春日灯篭の六角形とは違って、四角をベースにした各部の造りです。

  • 同じく、一対で奉納されていた、天神社境内の同型の石灯篭の光景です。

    同じく、一対で奉納されていた、天神社境内の同型の石灯篭の光景です。

  • 天神社の境内の光景です。庭木などがよく手入れされているのは、成海神社が手を掛けているためのようでした。

    イチオシ

    天神社の境内の光景です。庭木などがよく手入れされているのは、成海神社が手を掛けているためのようでした。

  • 天神社の境内の光景です。神社の手水舎代わりの施設かも知れません。

    天神社の境内の光景です。神社の手水舎代わりの施設かも知れません。

  • 天神社の鳥居のズームアップ光景です。その先に、天神社の拝殿が見えていました。

    天神社の鳥居のズームアップ光景です。その先に、天神社の拝殿が見えていました。

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