2015/10/08 - 2015/10/08
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旅人のくまさんさん
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若い頃の家康所縁の大高城址の紹介です。城址を見学する前に大高旧市街を散策しました。昔ながらの雰囲気が残る、情緒豊かな街並みです。
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弘冶2年(1556年)大高城主の水野大膳が父和泉守の菩提のため建立した春江院(しゅんこういん)の末寺だったとされる、薬師寺紹介の続きです。内側から眺めた山門光景です。
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寺社の境内でよく見かけるソテツ(蘇鉄)の庭木です。兵糧攻めが行われた戦国時代を連想させる植物です。有毒植物ですが、十分に水に晒せば種子や幹から、澱粉を採取でき、危急食として利用できます。
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厳密な決まりではないようですが、お寺は鰐口、神社は鈴の使い分けがあるようです。これは、鰐口です。神社では、拝礼の時手を鳴らしますが、寺院では拝礼だけです。
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現在は『曹洞宗・薬師寺』と呼ばれていますが、春江院(しゅんこういん)の末寺だった時代には、『医王山・薬師寺』と呼ばれていたようです。現在も、『医王山』の山号が使われていました。
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境内に祭られていたお地蔵様の光景です。菊などの季節の花がお供えしてありました。
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こちらは手に蓮の花を持ったように見える仏像です。地蔵菩薩と同じように、こちらも菩薩像のようです。観音菩薩あたりでしょうか、薬師寺ですから、薬師如来かもしれません。
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薬師寺の行事などが記された立て札です。右側の人形供養の案内には、『医王山・薬師寺』の寺名が記されていました。『医王山』のような山号は、インドやスリランカでは使用されず、仏教が中国に渡ってから後のようです。
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大高の旧市街の光景です。昔ながらの小道が、続いていました。人が通るのがやっとで、車が通行できない道も家の間を縫っていました。
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建物の背後に見える林の光景です。小高くなった場所のようですから、この方角が大高城址であることが推測できました。
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先に紹介した、大高の造り酒屋、亀の井酒造の建物光景です。回り道した西側方面から、元の場所に戻ってきました。
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イチオシ
常滑街道と師崎街道が分岐していた場所で、かつての大高の中心部と言われます。『辻』と呼ばれ、今でも大高の例祭の出発地点とされるようです。現在は防火の神様、秋葉社です。
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この辺りの道は、昔の街道筋だったのでしょうか、かなりの道幅がありました。板塀に囲まれた、由緒ありそうな家並みでした。
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板塀に囲まれた、由緒ありそうな家並みが続く、大高旧市街の光景です。
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子供の頃は大高城址で遊んでいたと言われる、城址の近くに住む方に、駐車場の中を通る近道を教えてもらいました。その途中での光景です。この場所は左手に海岸寺がありました。後ほど、城址から眺めたそのお寺を紹介します。
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子供の頃は大高城址で遊んでいたと話された地元の方は、以前には、城址の東南にある家と、城址の間にお濠があったとも話されていました。
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お濠が埋められ、大高城時代とは地形が変わってしまったらしい付近の光景です。
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立札と石碑があった付近の光景です。大高城の築城時期ははっきりしませんが、土岐頼康が尾張守であった南北朝時代(1336〜1392年)には池田頼忠が城主を務め、永正年間(1504〜1521年)には、北方の鳴海周辺に出自を持つ、花井備中守が居城としていたようです。当初は城より砦の造りだったかもしれません。
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『大高城跡』のタイトルがあった、名古屋市教育委員会名の立札です。この日、地元の方からお聞きしたお濠に関しても記載がありました。その内容は、『東西約106メートル、南北32メートル、四方を二重の堀で巡らしていた』という解説です。戦国時代(1540年頃〜)の天文・弘治年間(1532〜1558年)には、水野氏が居城していたと伝わります。
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『史跡・大高城跡』の文字が刻まれた石碑です。大高城は、知多半島の脊梁山地の末端近くの西側が開けた丘陵上に築かれた平山城です。
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大高城址に残された遺構は、本丸と二の丸の曲輪跡、土橋や空堀などです。この辺りも土壕の名残かもしれません。石垣が使われた形跡はないようです。
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整地され、古の姿は窺い知れませんが、曲輪跡のようにも見えた光景です。
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『大高城跡』のタイトルがあった名古屋市教育委員会名の説明看板です。丸根、鷲津の砦とともに、昭和13年(1938年)に国の史跡に指定されたことなどが紹介されていました。
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この辺りの地形は、白の周囲を固めた造りの面影を残しているようでした。二重にめぐらされていた濠や土塁とも関連しているかもしれません。
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本丸跡の入り口付近の光景です。城の歴史を感じさせる古木の姿がありました。後世の脚色もあるかも知れーませんが、大高城への兵糧入れは、三河風土記では、『、総量450俵の兵糧を、馬150頭に、一頭3俵ずつ背負わせた。その上で馬50頭を1グループとして三つのグループに分け、それぞれに50人の兵を張り付かせ、半町ずつ離し、更に1グループ毎に右備えに100名、左備えに100名を配置し、更に残りの兵力を遊軍として展開させたと伝えます。
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イチオシ
大高城本丸跡の光景です。建物遺構などは残されていませんが、かなりの広さです。大高城に兵糧入れを成功させた松平元康、後の家康は、今川義元の家臣で、城代だった鵜殿長照に代わって、城の守りについたようです。鵜殿長照(生年不詳〜1562年)は、三河国宝飯郡の上ノ郷城(蒲郡市神ノ郷町)を居城としていました。
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大高城の守りについた家康ですが、桶狭間での戦いで、今川義元が討ち取られたことを知ると、岡崎城へと引き上げ、大高城は戦略的な意味合いが薄れて、やがて廃城となりました。永禄5年(1562年)、松平氏からの攻撃を受け、上ノ郷城は落城し、父の長持と共に長照は戦死しました。
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イチオシ
家康が岡崎城に退き、廃城となった大高城跡には、江戸時代には尾張藩の家老の志水家が、元和2年(1616年)に館を設けて代々住んだとされます。この館も明治3年(1870年)に売却されました。志水氏は、1万石の尾張家の重臣でした。眼下に見える屋根は、近くを通ってきた海岸寺です。
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同じく、眼下に見える海岸寺方面の光景です。この後も紹介しますが、大高城の本丸が、平野部を見渡せる軍事的な要衝の地であることがよく分かりました。海岸寺の名前から想像できるように、戦国時代の大高城は、海に近く、すぐ近くを大高川が流れていたようです。
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大高城本丸跡の周りの光景です。1万石の尾張家の重臣だった志水氏が館を売却してから既に150年ほどが経ちます。その間に樹木も成長したようです。
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同じく、大高城本丸跡の周りの光景です。かつては今川氏の人質として過ごした時代もある家康ですが、1560年に今川義元が桶狭間の戦いで敗死したことで、自由な立場になったようです。桶狭間の戦いでの敗戦が、家康にとっては、かえってその後の出世の始まりとなりました。
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