名古屋旅行記(ブログ) 一覧に戻る
若かりし頃の家康公所縁の大高城址紹介の締め括りです。十代の時の松平元康、後の家康が、当時は今川方として兵糧を届けたお城です。桶狭間の戦いの前哨戦です。

2015秋、家康所縁の大高城(3/3):大高城、本丸、城山八幡宮、二の丸、土橋、空堀

15いいね!

2015/10/08 - 2015/10/08

2177位(同エリア5445件中)

旅行記グループ 2015年、尾張の城巡り

0

30

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

若かりし頃の家康公所縁の大高城址紹介の締め括りです。十代の時の松平元康、後の家康が、当時は今川方として兵糧を届けたお城です。桶狭間の戦いの前哨戦です。

交通手段
JRローカル

PR

  • 本丸から見下ろした海岸寺のお墓の光景です。周りを見回しても、海の光景はありませんが、かつては、船着き場があったようです。そのことはお寺の名前だけでなく地名にも残されています。

    本丸から見下ろした海岸寺のお墓の光景です。周りを見回しても、海の光景はありませんが、かつては、船着き場があったようです。そのことはお寺の名前だけでなく地名にも残されています。

  • 海岸寺の屋根超しに眺めた東北方面の光景です。大高城が今川義元により落とされた後、尾張への進出を防ぐために織田信長は鷲津砦と丸根砦を築きました。その距離は大高城から目視できる800メートルほどの距離でした。その砦が残る東から東北方面の光景です。

    イチオシ

    海岸寺の屋根超しに眺めた東北方面の光景です。大高城が今川義元により落とされた後、尾張への進出を防ぐために織田信長は鷲津砦と丸根砦を築きました。その距離は大高城から目視できる800メートルほどの距離でした。その砦が残る東から東北方面の光景です。

  • 小さな祠に地蔵尊らしい姿がありました。その周りの藪が切り払われていましたので、近寄ってみることにしました。

    小さな祠に地蔵尊らしい姿がありました。その周りの藪が切り払われていましたので、近寄ってみることにしました。

  • 近寄って眺めた地蔵尊の光ズームアップ光景です。花形向けてありましたが、枯れてしまっていました。

    近寄って眺めた地蔵尊の光ズームアップ光景です。花形向けてありましたが、枯れてしまっていました。

  • かつての大高城の本丸跡の光景です。現在は、大高城址一帯が、鷲津砦と丸根砦とともに国の史跡に指定されています。

    かつての大高城の本丸跡の光景です。現在は、大高城址一帯が、鷲津砦と丸根砦とともに国の史跡に指定されています。

  • 本丸跡は、よく整備された平坦な野原ですが、その周りは鬱蒼と茂った樹木で囲われていました。

    本丸跡は、よく整備された平坦な野原ですが、その周りは鬱蒼と茂った樹木で囲われていました。

  • 同じく、周りが鬱蒼とした林で囲まれた大高城址の本丸跡の光景です。

    同じく、周りが鬱蒼とした林で囲まれた大高城址の本丸跡の光景です。

  • 本丸西北隅方面の光景です。石段を登って、一段高くなった場所に鳥居の光景がありました。城山八幡宮です。本丸の一段高くなった場所の広さは、東西約70メートル、南北約30メートルとされます。

    本丸西北隅方面の光景です。石段を登って、一段高くなった場所に鳥居の光景がありました。城山八幡宮です。本丸の一段高くなった場所の広さは、東西約70メートル、南北約30メートルとされます。

  • 鳥居よりさらに高く、奥まった場所に赤い屋根を持った小さな社が見えました。城山八幡宮です。

    鳥居よりさらに高く、奥まった場所に赤い屋根を持った小さな社が見えました。城山八幡宮です。

  • 城山八幡宮の周りの光景です。先ほどの小さな社が、中央やや右寄りに見えています。

    城山八幡宮の周りの光景です。先ほどの小さな社が、中央やや右寄りに見えています。

  • 『城山八幡宮』らしい文字が刻まれた古い石碑の光景です。この石碑には、『御宝前奉寄進・志水氏菅原忠時・石灯篭・寛文十庚戌十二月吉日』の文字が刻まれているようです。江戸時代の寛文10年(1670年)の日付になります。八幡宮に石灯篭を寄進した記録のようです。

    『城山八幡宮』らしい文字が刻まれた古い石碑の光景です。この石碑には、『御宝前奉寄進・志水氏菅原忠時・石灯篭・寛文十庚戌十二月吉日』の文字が刻まれているようです。江戸時代の寛文10年(1670年)の日付になります。八幡宮に石灯篭を寄進した記録のようです。

  • 城山八万社の立て札です。最新は応神天皇、神功皇后と玉依姫です。その下に縁起が記されていました。『大高歴史の会』の名前の立札でした。

    城山八万社の立て札です。最新は応神天皇、神功皇后と玉依姫です。その下に縁起が記されていました。『大高歴史の会』の名前の立札でした。

  • 賽銭箱が置かれていた石碑の光景です。本文のほうは読み取れませんでしたが、最上部に『大高城址碑』らしい文字がありました。ウィキペディアでは、『明治40年(1907年)に建てられた城址碑』と記述していました。

    賽銭箱が置かれていた石碑の光景です。本文のほうは読み取れませんでしたが、最上部に『大高城址碑』らしい文字がありました。ウィキペディアでは、『明治40年(1907年)に建てられた城址碑』と記述していました。

  • 『緑区の歴史』の中の『大高城回顧』には、『大高城城主の花井備中守が建立し、九州から来た原田治郎種臣が建久8年(?)から神職を務めた』と記載されているようです。花井備中守は尾張の国の土豪で、永正7年頃(1510年頃)に大高城を築いた城主とも伝わります。

    『緑区の歴史』の中の『大高城回顧』には、『大高城城主の花井備中守が建立し、九州から来た原田治郎種臣が建久8年(?)から神職を務めた』と記載されているようです。花井備中守は尾張の国の土豪で、永正7年頃(1510年頃)に大高城を築いた城主とも伝わります。

  • 内側から眺めた、城山八幡宮の鳥居の光景です。鳥居の周りの樹木が高木になり、鳥居が小さく見える光景でした。

    イチオシ

    内側から眺めた、城山八幡宮の鳥居の光景です。鳥居の周りの樹木が高木になり、鳥居が小さく見える光景でした。

  • 本丸跡の周りの樹木光景です。秋の季節に差し掛かっていましたが、青々と生い茂っていました。

    本丸跡の周りの樹木光景です。秋の季節に差し掛かっていましたが、青々と生い茂っていました。

  • よく手入れされた芝生に覆われた本丸跡の光景です。本丸跡の主要部分は、東西130メートル、南北50メートルの広大な平坦地です。

    よく手入れされた芝生に覆われた本丸跡の光景です。本丸跡の主要部分は、東西130メートル、南北50メートルの広大な平坦地です。

  • 本丸跡の西南付近から眺めた、二の丸跡方面の光景です。その途中に土橋があります。

    本丸跡の西南付近から眺めた、二の丸跡方面の光景です。その途中に土橋があります。

  • 本丸跡と、二の丸跡の中間にある堀跡付近の光景です。本丸側から二の丸側に向かって左手の光景です。立入り禁止にされていました。

    本丸跡と、二の丸跡の中間にある堀跡付近の光景です。本丸側から二の丸側に向かって左手の光景です。立入り禁止にされていました。

  • 本丸跡と、二の丸跡の中間にある濠跡付近の光景です。本丸側から二の丸側に向かって右手の光景です。濠跡が残されていました。

    本丸跡と、二の丸跡の中間にある濠跡付近の光景です。本丸側から二の丸側に向かって右手の光景です。濠跡が残されていました。

  • 同じく、本丸跡と、二の丸跡の中間にある濠跡付近のズームアップ光景です。深くて広い、空堀がありました。土橋西側の横堀は、幅15〜20メートル、深さ約7メートルで、旧状をよく残しています。

    同じく、本丸跡と、二の丸跡の中間にある濠跡付近のズームアップ光景です。深くて広い、空堀がありました。土橋西側の横堀は、幅15〜20メートル、深さ約7メートルで、旧状をよく残しています。

  • 『二の丸跡』になるようです。本丸からは濠を挟んで、一段低くなっていました。

    『二の丸跡』になるようです。本丸からは濠を挟んで、一段低くなっていました。

  • 同じく、『二の丸跡』になるようです。本丸に対して、南側に位置します。

    同じく、『二の丸跡』になるようです。本丸に対して、南側に位置します。

  • 大高城址の比高は20メートルほどとされます。険しい崖で守りが堅固な方角もありますが、高い石垣のない濠と土塁だけでは、本格的な城攻めには耐えきれなかったかもしれません。

    大高城址の比高は20メートルほどとされます。険しい崖で守りが堅固な方角もありますが、高い石垣のない濠と土塁だけでは、本格的な城攻めには耐えきれなかったかもしれません。

  • かつての大高城は、二重の濠で守られていたとされます。その外側の濠かもしれません。

    イチオシ

    かつての大高城は、二重の濠で守られていたとされます。その外側の濠かもしれません。

  • 大高城址の見学を終えて、帰り道での光景です。北側から入場しましたが、帰り道は南側にしました。うっそうとした樹木のトンネルです。

    大高城址の見学を終えて、帰り道での光景です。北側から入場しましたが、帰り道は南側にしました。うっそうとした樹木のトンネルです。

  • かつての大高城の二の丸のエリアを過ぎた場所の光景です。

    かつての大高城の二の丸のエリアを過ぎた場所の光景です。

  • 国の史跡に指定されているエリアだからでしょうか、通路のわきには空き地が多くありましたが、人家はありませんでした。

    国の史跡に指定されているエリアだからでしょうか、通路のわきには空き地が多くありましたが、人家はありませんでした。

  • 南側の道は、荒れ地のような場所を狭い道が通っていました。行き交う人もいない道でした。

    南側の道は、荒れ地のような場所を狭い道が通っていました。行き交う人もいない道でした。

  • 大高城址見学の後、次に向かったのは大高山・春江院です。弘治2年(1556年)、大高城主の水野大膳が父和泉守の菩提を祀るため創建した古刹です。

    大高城址見学の後、次に向かったのは大高山・春江院です。弘治2年(1556年)、大高城主の水野大膳が父和泉守の菩提を祀るため創建した古刹です。

この旅行記のタグ

15いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

旅行記グループ

2015年、尾張の城巡り

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP