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葛山城(かずらやまじょう、静岡県裾野市葛山)の築城時期は判然としませんが、南北朝時代に駿東郡一帯に勢力を有していた藤原惟康の孫親家が大森氏と称し今川氏に仕えながら富士川以東を所領として栄え後に小田原に移住、他方子惟兼が当地に残り葛山氏と名乗って居館を構え、後に有事の際の詰城として築いた並郭式の山城です。<br /><br />暦応元年(1338)足利尊氏(あしかが・たかうじ)が京都室町に幕府を創設、併せて出身地の上野国足利荘を含む関東8ケ国に甲斐・伊豆を加えた10ケ国(後に奥州2ケ国が追加編入)について尊氏は幕府の出先機関を鎌倉に置いて長男義詮(よしあきら)に代わる四男基氏(もとうじ)に政権運営を委ねることになります。<br /><br />葛山氏が領する駿東郡は駿河国の一部で鎌倉府の行政地域の外にあって当然幕府の管轄に属し、具体的には駿河守護の今川氏領国でありこの事から葛山氏は大永元年(1521)の今川氏家臣福島正成(くしま・まさなり、1492~1521)率いる甲斐武田氏侵攻に出兵するなど今川氏の被官の国衆とするも自領の地勢的な不安定さを考慮して付かず離れずの半独立性を指向します。<br /><br />長禄2年(1458)室町幕府6代将軍足利義教(あしかが・よしのり、1394~1441)の子である政和(まさとも1435~1491)が堀越公方として伊豆国に下向、駿河国衆の葛山氏は同公方の影響下にありましたが新将軍足利義澄(あしかが・よしずみ、1481~1511)の命によって伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)の指揮下に入って足利茶々丸の討伐に加わります。<br /><br />その後は北条氏による伊豆国及び相模国の領有化に葛山氏は関与を進め、これを機に早瑞のもとへ葛山氏の娘が嫁ぎ、その後早瑞の子である氏広(うじひろ)が葛山氏の養子となって家督を引き継ぎます。<br /><br />上述のように今川氏の重臣でもあり、同時に小田原北条氏の一族でもある立場を続けるなか、氏広は武田信玄の甲斐国とも領土を接していることから武田氏の進出を念頭において甥の御宿友綱(みしゅく・ともつな)を人質として送り込み極めて厳しい局面を乗り切ろうとします。<br /><br />しかし永禄3年(1560)今川義元が尾張国桶狭間に討取られ、これを契機に今川氏の求心力は衰え没落の一途を辿り、葛山氏も衰退をしていくなか当主氏元(うじもと、1520~1573)は武田氏一族で河内(甲斐国南部)を領治する国人領主穴山氏と共に小田原北条氏家臣が守備する大宮城を攻撃して武田氏との同盟関係は良好に推移します。<br /><br />その後氏元は武田信玄に北条氏に内通しているとの嫌疑をかけられ誅殺され、信玄は人質として置かれていた氏元の娘に自分の六男信貞(のぶさだ、生誕不詳~1582)を養子として葛山姓を名乗らせ葛山氏領を継承させることで事実上の支配政策を採ります。<br /><br />天正10年(1982)織田信長の武田氏攻略によって陣代ながら事実上の武田氏棟梁である武田勝頼は天目山で自害、始祖である新羅三郎義光の血を継ぐ甲斐源武田氏は滅亡、信貞も甲府善光寺にて自害させられ葛山氏も滅亡します。<br /><br /><br />葛山城本丸に至る中腹にある葛山氏廟の横に立っている説明板には次の如く記載されています。<br /><br /><br />「 葛 山 城<br /><br />       指定種目  裾野市指定史跡<br />       指定年月日 昭和四十八年二月二十四日<br /><br />葛山城は鎌倉・室町・戦国期を通じて、駿東一帯に勢力を持った葛山氏の本拠地である。<br /><br />この地には、葛山氏が平時居住した館跡と、戦闘に備えて築城した城跡があり、中世城郭の形態を明確に知ることができる数少ない貴重な史跡である。<br /><br />城の構造は、主郭(本丸)、二の曲輪、東曲輪、西曲輪、大手曲輪とその他の小郭群、堀切から成り、山頂部を階段状に平らに削って主郭を中央に設け、左右に曲輪を配している並郭式の山城である。<br /><br />葛山氏は藤原鎌足の流れをくむ、藤原道隆の子伊周を祖とし、惟康の次男親康が大森に住んでいたので、大森氏を名乗り、惟親の三男惟兼が葛山に住んでいたので葛山氏と名乗ったとされる。<br /><br />戦国期葛山は氏堯・氏広・氏元と三代続き、天文初年頃(1532頃)氏広・氏元は駿府で公家と交流し歌を詠んだことが、当寺今川氏と関係深かった冷泉為和の歌集「為和卿集」にその様子をうかがい知ることができる。<br /><br />また、墓所の玉垣と門扉は江戸時代期のもので、門扉には丸に武田菱が刻まれている。葛山氏の墓に武田の紋があるのは不自然であるが、葛山氏の最後の領主は武田信玄の六男信貞とされ、武田氏滅亡の天正十年の年(1582)小山田信茂とともに甲斐善光寺で最期を迎えることになり、法号陽春院瑞香浄英という。その供養の意味をこめて造ったものと思われる。<br /><br />    葛山氏系図  ー 略 ー <br />                   裾野市史より 」<br /><br /><br /><br />また葛山氏居館跡入口に掲載の「葛山館跡」と題する説明は次の通りです。<br /><br /><br />「 葛 山 館 跡<br /><br />          市指定史跡・昭和48年2月24日指定<br /><br />葛山館跡は、12世紀前半(平安時代)から16世紀後半(室町時代)にかけ、東駿一帯に勢力を振っていた葛山氏が平時居住していた館を構えた地である。<br /><br />館跡は、東西約97メートル、南北約104メートルで約1万平方メートルの規模があり、東西と北に土塁が残存している。土塁規模は馬踏幅約1.2メートル、高さ約3.5メートル、底敷幅約10メートルほどある。<br /><br />出入口は現在三ケ所あるが、北東隅と西側北の二ケ所は後世の間口といわれ、西側南の開口部が門址とされる。<br /><br />この城館の西隣に接続して半田屋敷、荻田屋敷と、その北西に岡村屋敷があり、葛山館と重臣屋敷は、総体的に複濠複郭式の館を構成している。<br /><br />このうち半田屋敷北側には、今も土塁址が残存している。また、北側と東側には土塁に沿って濠があったが、埋め立てられ、堀田という地名になっている。<br /><br />館跡東南済が「鍛冶屋敷」、館の南側を流れる大久保川を隔てた南西側の金毘羅山の裾野を「金山」といい、「馬場」、「陣加堂」「上円」、「中村」など城下集落に関係の深い小字名が残っている。<br /><br />平成元年に館跡の発掘調査が行われ、中世のカワラケや常滑焼の壅片などが発見、確認されている。 <br /><br />                       裾野市教育委員会 」

駿河裾野 駿東地域に勢力伸ばすも今川・北条・武田と強大勢力に挟まれながら巧みに立ち回った駿河国衆葛山氏詰城である『葛山城』訪問

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2015/12/26 - 2015/12/26

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滝山氏照

滝山氏照さん

葛山城(かずらやまじょう、静岡県裾野市葛山)の築城時期は判然としませんが、南北朝時代に駿東郡一帯に勢力を有していた藤原惟康の孫親家が大森氏と称し今川氏に仕えながら富士川以東を所領として栄え後に小田原に移住、他方子惟兼が当地に残り葛山氏と名乗って居館を構え、後に有事の際の詰城として築いた並郭式の山城です。

暦応元年(1338)足利尊氏(あしかが・たかうじ)が京都室町に幕府を創設、併せて出身地の上野国足利荘を含む関東8ケ国に甲斐・伊豆を加えた10ケ国(後に奥州2ケ国が追加編入)について尊氏は幕府の出先機関を鎌倉に置いて長男義詮(よしあきら)に代わる四男基氏(もとうじ)に政権運営を委ねることになります。

葛山氏が領する駿東郡は駿河国の一部で鎌倉府の行政地域の外にあって当然幕府の管轄に属し、具体的には駿河守護の今川氏領国でありこの事から葛山氏は大永元年(1521)の今川氏家臣福島正成(くしま・まさなり、1492~1521)率いる甲斐武田氏侵攻に出兵するなど今川氏の被官の国衆とするも自領の地勢的な不安定さを考慮して付かず離れずの半独立性を指向します。

長禄2年(1458)室町幕府6代将軍足利義教(あしかが・よしのり、1394~1441)の子である政和(まさとも1435~1491)が堀越公方として伊豆国に下向、駿河国衆の葛山氏は同公方の影響下にありましたが新将軍足利義澄(あしかが・よしずみ、1481~1511)の命によって伊勢新九郎宗瑞(北条早雲)の指揮下に入って足利茶々丸の討伐に加わります。

その後は北条氏による伊豆国及び相模国の領有化に葛山氏は関与を進め、これを機に早瑞のもとへ葛山氏の娘が嫁ぎ、その後早瑞の子である氏広(うじひろ)が葛山氏の養子となって家督を引き継ぎます。

上述のように今川氏の重臣でもあり、同時に小田原北条氏の一族でもある立場を続けるなか、氏広は武田信玄の甲斐国とも領土を接していることから武田氏の進出を念頭において甥の御宿友綱(みしゅく・ともつな)を人質として送り込み極めて厳しい局面を乗り切ろうとします。

しかし永禄3年(1560)今川義元が尾張国桶狭間に討取られ、これを契機に今川氏の求心力は衰え没落の一途を辿り、葛山氏も衰退をしていくなか当主氏元(うじもと、1520~1573)は武田氏一族で河内(甲斐国南部)を領治する国人領主穴山氏と共に小田原北条氏家臣が守備する大宮城を攻撃して武田氏との同盟関係は良好に推移します。

その後氏元は武田信玄に北条氏に内通しているとの嫌疑をかけられ誅殺され、信玄は人質として置かれていた氏元の娘に自分の六男信貞(のぶさだ、生誕不詳~1582)を養子として葛山姓を名乗らせ葛山氏領を継承させることで事実上の支配政策を採ります。

天正10年(1982)織田信長の武田氏攻略によって陣代ながら事実上の武田氏棟梁である武田勝頼は天目山で自害、始祖である新羅三郎義光の血を継ぐ甲斐源武田氏は滅亡、信貞も甲府善光寺にて自害させられ葛山氏も滅亡します。


葛山城本丸に至る中腹にある葛山氏廟の横に立っている説明板には次の如く記載されています。


「 葛 山 城

       指定種目  裾野市指定史跡
       指定年月日 昭和四十八年二月二十四日

葛山城は鎌倉・室町・戦国期を通じて、駿東一帯に勢力を持った葛山氏の本拠地である。

この地には、葛山氏が平時居住した館跡と、戦闘に備えて築城した城跡があり、中世城郭の形態を明確に知ることができる数少ない貴重な史跡である。

城の構造は、主郭(本丸)、二の曲輪、東曲輪、西曲輪、大手曲輪とその他の小郭群、堀切から成り、山頂部を階段状に平らに削って主郭を中央に設け、左右に曲輪を配している並郭式の山城である。

葛山氏は藤原鎌足の流れをくむ、藤原道隆の子伊周を祖とし、惟康の次男親康が大森に住んでいたので、大森氏を名乗り、惟親の三男惟兼が葛山に住んでいたので葛山氏と名乗ったとされる。

戦国期葛山は氏堯・氏広・氏元と三代続き、天文初年頃(1532頃)氏広・氏元は駿府で公家と交流し歌を詠んだことが、当寺今川氏と関係深かった冷泉為和の歌集「為和卿集」にその様子をうかがい知ることができる。

また、墓所の玉垣と門扉は江戸時代期のもので、門扉には丸に武田菱が刻まれている。葛山氏の墓に武田の紋があるのは不自然であるが、葛山氏の最後の領主は武田信玄の六男信貞とされ、武田氏滅亡の天正十年の年(1582)小山田信茂とともに甲斐善光寺で最期を迎えることになり、法号陽春院瑞香浄英という。その供養の意味をこめて造ったものと思われる。

    葛山氏系図  ー 略 ー 
                   裾野市史より 」



また葛山氏居館跡入口に掲載の「葛山館跡」と題する説明は次の通りです。


「 葛 山 館 跡

          市指定史跡・昭和48年2月24日指定

葛山館跡は、12世紀前半(平安時代)から16世紀後半(室町時代)にかけ、東駿一帯に勢力を振っていた葛山氏が平時居住していた館を構えた地である。

館跡は、東西約97メートル、南北約104メートルで約1万平方メートルの規模があり、東西と北に土塁が残存している。土塁規模は馬踏幅約1.2メートル、高さ約3.5メートル、底敷幅約10メートルほどある。

出入口は現在三ケ所あるが、北東隅と西側北の二ケ所は後世の間口といわれ、西側南の開口部が門址とされる。

この城館の西隣に接続して半田屋敷、荻田屋敷と、その北西に岡村屋敷があり、葛山館と重臣屋敷は、総体的に複濠複郭式の館を構成している。

このうち半田屋敷北側には、今も土塁址が残存している。また、北側と東側には土塁に沿って濠があったが、埋め立てられ、堀田という地名になっている。

館跡東南済が「鍛冶屋敷」、館の南側を流れる大久保川を隔てた南西側の金毘羅山の裾野を「金山」といい、「馬場」、「陣加堂」「上円」、「中村」など城下集落に関係の深い小字名が残っている。

平成元年に館跡の発掘調査が行われ、中世のカワラケや常滑焼の壅片などが発見、確認されている。 

                       裾野市教育委員会 」

旅行の満足度
4.5
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 葛山周辺案内図<br /><br />富岡支所交差点を左折し東名高速道路を潜り佐野川を渡る宮川橋手前に「もののふ里葛山」とする案内絵図があり、目的とする仙年寺・葛山氏墓所・葛山城(詰の城)・葛山館の所在を確認します。

    葛山周辺案内図

    富岡支所交差点を左折し東名高速道路を潜り佐野川を渡る宮川橋手前に「もののふ里葛山」とする案内絵図があり、目的とする仙年寺・葛山氏墓所・葛山城(詰の城)・葛山館の所在を確認します。

  • 葛山城案内図<br /><br />葛山館の近くまで来ると「葛山城案内図」と題した大型看板が配されています。

    葛山城案内図

    葛山館の近くまで来ると「葛山城案内図」と題した大型看板が配されています。

  • 仙年寺・葛山城跡入口<br /><br />入口には「葛山城鳥瞰図」が立っており、訪問者にあらゆる角度で情報を提供する心配りが感じられます。

    仙年寺・葛山城跡入口

    入口には「葛山城鳥瞰図」が立っており、訪問者にあらゆる角度で情報を提供する心配りが感じられます。

  • 仙年寺・葛山城跡石標<br /><br />石標の片面には「浄土宗 仙年寺」もう片面には「葛山城跡」と刻されています。

    仙年寺・葛山城跡石標

    石標の片面には「浄土宗 仙年寺」もう片面には「葛山城跡」と刻されています。

  • 葛山城鳥瞰図<br /><br />仙年寺の後背に造られた葛山城は東西の尾根に本丸を中心に左右が均衡的に配されている連郭式平山城となっており、東側に開かれた大手口が尾根に沿って本丸に連なる形となっています。

    葛山城鳥瞰図

    仙年寺の後背に造られた葛山城は東西の尾根に本丸を中心に左右が均衡的に配されている連郭式平山城となっており、東側に開かれた大手口が尾根に沿って本丸に連なる形となっています。

  • 仙年寺参道

    仙年寺参道

  • 仙年寺<br /><br />道路側には多数に亘り粗めの石材が多数積まれ、更に一段高い壁面には石垣が積まれ寺院には似つかわしくなく要塞のごとき雰囲気を呈しています。

    仙年寺

    道路側には多数に亘り粗めの石材が多数積まれ、更に一段高い壁面には石垣が積まれ寺院には似つかわしくなく要塞のごとき雰囲気を呈しています。

  • 「もののふの里葛山」絵図

    「もののふの里葛山」絵図

  • 仙年寺山門

    仙年寺山門

  • 仙年寺本堂

    仙年寺本堂

  • 葛山城入口<br /><br />本堂と墓地の間に石段が設けられここを登っていきます。

    葛山城入口

    本堂と墓地の間に石段が設けられここを登っていきます。

  • 葛山氏廟<br /><br />城跡途中の中腹には歴代当主の葛山氏の墓が控えています。

    葛山氏廟

    城跡途中の中腹には歴代当主の葛山氏の墓が控えています。

  • 葛山氏五輪塔

    葛山氏五輪塔

  • 葛山氏五輪塔

    葛山氏五輪塔

  • 葛山氏五輪塔

    葛山氏五輪塔

  • 武田氏家紋<br /><br />門扉には丸に武田菱が刻され不自然ですが葛山氏最後の当主は信玄の六男信貞(のぶさだ)とされ、織田信長侵攻時に捕縛され武田氏滅亡時に甲斐善光寺にて自刃させられます。

    武田氏家紋

    門扉には丸に武田菱が刻され不自然ですが葛山氏最後の当主は信玄の六男信貞(のぶさだ)とされ、織田信長侵攻時に捕縛され武田氏滅亡時に甲斐善光寺にて自刃させられます。

  • 葛山城説明板

    葛山城説明板

  • 葛山氏廟と説明板板

    葛山氏廟と説明板板

  • 葛山城跡方向<br /><br />急峻な階段が直線的に走っており、息を整える場面が出てきます。

    葛山城跡方向

    急峻な階段が直線的に走っており、息を整える場面が出てきます。

  • 葛山城跡階段

    葛山城跡階段

  • 葛山城跡階段<br /><br />途中で振り返る景色は「随分登ったなあ」という印象しかありません。

    葛山城跡階段

    途中で振り返る景色は「随分登ったなあ」という印象しかありません。

  • 堀切<br /><br />急襲な階段をようやく上り切ると堀切が現れ各種案内板が見えます。左折すると本丸へ右折すると大手口へとなりますが、自分は躊躇せず本丸をめざします。

    堀切

    急襲な階段をようやく上り切ると堀切が現れ各種案内板が見えます。左折すると本丸へ右折すると大手口へとなりますが、自分は躊躇せず本丸をめざします。

  • 本丸への道<br /><br />更に階段を登っていきます。擬木にて通路が示されています。

    本丸への道

    更に階段を登っていきます。擬木にて通路が示されています。

  • 三号堀(竪堀)

    三号堀(竪堀)

  • 竪堀

    竪堀

  • 四号堀(竪堀)

    四号堀(竪堀)

  • 二の丸虎口

    二の丸虎口

  • 五号堀

    五号堀

  • 雷神宮入口<br /><br />杉林の向こうに「雷神宮入口」案内板が見えます。

    雷神宮入口

    杉林の向こうに「雷神宮入口」案内板が見えます。

  • 二の丸虎口

    二の丸虎口

  • 二の丸

    二の丸

  • 本丸入口

    本丸入口

  • 本丸

    本丸

  • 本丸に建つあずま屋<br /><br />あづま屋の背後北側には土塁が配され、南に沿ってなだらかな傾斜となっています。

    本丸に建つあずま屋

    あづま屋の背後北側には土塁が配され、南に沿ってなだらかな傾斜となっています。

  • 葛山城鳥瞰図

    葛山城鳥瞰図

  • 「日本一の富士山」案内板<br /><br />葛山城址から富士山が見えるとの案内板が本丸北側に立っています。(実際には富士山は見えませんでした)

    「日本一の富士山」案内板

    葛山城址から富士山が見えるとの案内板が本丸北側に立っています。(実際には富士山は見えませんでした)

  • 「畝形状空堀」及び「遠見塚」案内<br /><br />本丸北側に畝形空堀の案内がありますが実際は薮に覆われて確認することができません。そして遠見塚は見ることができませんでした。

    「畝形状空堀」及び「遠見塚」案内

    本丸北側に畝形空堀の案内がありますが実際は薮に覆われて確認することができません。そして遠見塚は見ることができませんでした。

  • あづま屋と鳥瞰図

    あづま屋と鳥瞰図

  • 市街地展望<br /><br />本丸東側から市街地を一望します。

    市街地展望

    本丸東側から市街地を一望します。

  • 帯曲輪<br /><br />本丸跡東端から見下ろせば南北に走る曲輪が確認されます。

    帯曲輪

    本丸跡東端から見下ろせば南北に走る曲輪が確認されます。

  • 本丸広場

    本丸広場

  • 本丸広場<br /><br />本丸南側から「葛山城跡」柱標を捉えます。

    本丸広場

    本丸南側から「葛山城跡」柱標を捉えます。

  • 本丸下り口<br /><br />本丸を離れ東曲輪方向に進みます。

    本丸下り口

    本丸を離れ東曲輪方向に進みます。

  • 帯曲輪

    帯曲輪

  • 切岸<br /><br />腰曲輪から本丸の東端にあたる部分を見上げます。ほぼ90度の角度で削られた壁面が見られ切岸と思われます。

    切岸

    腰曲輪から本丸の東端にあたる部分を見上げます。ほぼ90度の角度で削られた壁面が見られ切岸と思われます。

  • 東の堀切

    東の堀切

  • 二号堀

    二号堀

  • 一号堀

    一号堀

  • 竪堀

    竪堀

  • 東曲輪

    東曲輪

  • 東曲輪

    東曲輪

  • 袖曲輪

    袖曲輪

  • 袖曲輪

    袖曲輪

  • 大手曲輪<br /><br />大手道を出るすぐ左側には一段と高い郭が配されて、大手道を抑える機能があったと思われます。

    大手曲輪

    大手道を出るすぐ左側には一段と高い郭が配されて、大手道を抑える機能があったと思われます。

  • 大手曲輪(近景)

    大手曲輪(近景)

  • 大手曲輪と大手道

    大手曲輪と大手道

  • 葛山城跡大手口

    葛山城跡大手口

  • 葛山城案内図<br /><br />静岡古城保存会作図(H13・4・8)には詳しく縄張が見て取れます。別談ですが仙年寺から登ってきた階段の横に「一号堀」と記載されるも途中で消えていることから一号堀の竪堀跡を一部利用して階段を設置したと考えられます。

    葛山城案内図

    静岡古城保存会作図(H13・4・8)には詳しく縄張が見て取れます。別談ですが仙年寺から登ってきた階段の横に「一号堀」と記載されるも途中で消えていることから一号堀の竪堀跡を一部利用して階段を設置したと考えられます。

  • 葛山城入口

    葛山城入口

  • 葛山氏居館跡<br /><br />葛山城跡を終えて今度は葛山氏居館跡を尋ねるます。

    葛山氏居館跡

    葛山城跡を終えて今度は葛山氏居館跡を尋ねるます。

  • 居館跡説明板<br /><br />

    居館跡説明板

  • 居館跡入口<br /><br />正式な入口ではなく土塁の一部が崩壊して通行可能となった道と思われます。

    居館跡入口

    正式な入口ではなく土塁の一部が崩壊して通行可能となった道と思われます。

  • 土塁の一部<br /><br />居館の形状は方形ですが東側にも居館を取り囲んでいた土塁の一部が残されています。

    土塁の一部

    居館の形状は方形ですが東側にも居館を取り囲んでいた土塁の一部が残されています。

  • 居館跡内部<br /><br />広々とした空間には芝生や畑等が散見されます。

    居館跡内部

    広々とした空間には芝生や畑等が散見されます。

  • 土塁<br /><br />北側の道路に面している土塁は今もその姿を維持しています。

    土塁

    北側の道路に面している土塁は今もその姿を維持しています。

  • 居館跡<br /><br />畑から南方向を捉えますが奥には芝生が広がっています。

    居館跡

    畑から南方向を捉えますが奥には芝生が広がっています。

  • 河川を利用した防御<br /><br />居館跡広場の南側には土塁らしき姿は見えず、その代り竹林を含む樹林が東西に広がっています。通りに面している見取図によればこの竹林の向こうは大久保川が流れており土塁に代わって河川が敵の侵入を防ぐ機能を呈していました。

    河川を利用した防御

    居館跡広場の南側には土塁らしき姿は見えず、その代り竹林を含む樹林が東西に広がっています。通りに面している見取図によればこの竹林の向こうは大久保川が流れており土塁に代わって河川が敵の侵入を防ぐ機能を呈していました。

  • 土塁<br /><br />居館跡内部から西方向を見るとやはり居館を囲む土塁が認められます。

    土塁

    居館跡内部から西方向を見るとやはり居館を囲む土塁が認められます。

  • 土塁と樹林<br /><br />西方向の北寄りにも樹林と共に土塁が見られます。<br />

    土塁と樹林

    西方向の北寄りにも樹林と共に土塁が見られます。

  • 土塁<br /><br />居館跡を出て北側の道路から再び土塁を一望します。おそらく往時の土塁は相当高かったと思われますが現在でも2m〜2.5mほどあると思われます。

    土塁

    居館跡を出て北側の道路から再び土塁を一望します。おそらく往時の土塁は相当高かったと思われますが現在でも2m〜2.5mほどあると思われます。

  • 土塁

    土塁

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