2014/10/09 - 2014/10/09
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さいたまさん
バンコクの高架鉄道BTSの駅に、戦勝記念塔(Victory Monument)と言う駅がある。高架鉄道で北行きの電車に乗ると、左側に戦勝記念塔を見ながら廻るように、線路上を走る。表紙写真は、高架鉄道から撮ったもので、記念塔の右に、高架鉄道の線路が写っている。
記念塔は、フランス領インドシナ連邦との戦争に勝利したことを記念し、戦いで戦死したタイ陸海空軍兵士を慰霊している。記念塔の台座の上に戦死した兵士の像を祭っている。
10世紀以前からタイ(シャム)とカンボジアは、世界有数の穀倉地帯バッタンバン平野を巡り、争奪の歴史があり、第2次世界大戦後まで続いており、その余波は、昨年のプレアヴィヒア国際司法裁判まで影響しており、未だ決着がついていない。
バッタンバン平野は、カンボジアのアンコール王朝とタイのアユタヤ王朝の争奪の中心地であり、フランスのインドシナ半島進出に伴い、タイ領からフランス領インドシナ連邦に収奪された歴史がある。第2次世界大戦開始後、フランスがドイツに占領されたため、1941年、タイは、収奪されたバッタンバン平野を取り戻すべく、フランス領インドシナ連邦を攻撃した。当初は、タイ軍が勝利していたが、後半、フランス外人部隊等の反撃により、フランス側が優勢となった。また、コーチャン海戦では、タイの旗艦トンブリが撃沈される等、戦勢はフランスに利ある状態で膠着していた。当時、北部仏印に進駐していた日本の武力を背景とした斡旋により、東京条約が締結され、戦勢とは別個に、フランスは、バッタンバン平野をタイ側に返還することとなった。戦勝を記念するというよりも、東京条約により失地を回復したという政戦略的結果を記念することになった施設である。
第2次世界大戦末期、日本の劣勢が明らかになると、タイは連合国側につき、敗戦国となることを免れた。その代り、食糧不足に苦しんでいた連合国に米を150万トン供出すること命ぜられた。タイは、それらのコメ供出を、米作地バッタンバン平野に頼ろうとしたが、戦勝国かつ国連常任理事国フランスがバッタンバンの返還を強く求めたため、バッタンバン平野は、タイ領からフランス領に戻された。戦勝記念塔は、現在では、歴史の一コマを顕わすもののみとなってしまっている。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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カンボジアの国道5号線沿いに広がるバッタンバン平野の穀倉地帯
平坦な平野部と豊かな水に恵まれ、温度が高く、日照が強いため
古来から稲作が発達しており、世界有数の米作地帯である。 -
カンボジアのアンコール王朝は、遠くタイ(シャム)までも勢力圏に収めていた。
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タイのアユタヤ王朝が、カンボジアの西北地域を、支配下に置いた。
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18世紀には、シャムがイントシナ半島の大部分を支配していた。
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19世紀後半、フランスがインドシナ半島に進出し、ベトナム、ラオス及びカンボジア地方を勢力圏に入れ、フランス領インドシナ連邦を樹立した。
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見にくい地図ですが、東京条約により、バッタンバン州やシェムリアプ州がタイ領となった。
タイとしては、フランス領インドシナ連邦成立とともに失ったバッタンバン州などを、「失地回復」した形になった。
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