2014/08/26 - 2014/08/26
3901位(同エリア7442件中)
滝山氏照さん
JR奥羽本線山形駅東口から徒歩で約20分、時宗光明寺(こうみょうじ、山形県山形市七日町)は南北朝時代の永和元年(1375)、山形城を築城した最上家初代城主である斯波兼頼(しば・かねより、1315?~379)によって城内に開基されます。
兼頼は延文元年(1356)奥州大崎より出羽最上郡山形に入部、翌2年山形城を築き最上家の拠点として歴代当主が居住することになります。
兼頼は羽州探題として治国に力を注ぐなか、応安6年(1373)領内東山に狩りを催しての帰途に、漆山の念仏堂にて諸国遊行中の上人他阿元愚(たあがんぐ)和尚と出会いその教えに深く感銘します。
そして翌日城内に上人を招き授戒をうけ出家して其阿覚就と称し、その翌々年家督を息子の直家(なおいえ、生誕不詳~1410)に譲り自らは城内の一隅に草庵を結びて隠居して仏道に精進を重ねます。
それから4年後の康暦元年(1379)6月に64歳の生涯を閉じ、戒名は光明寺殿成覚就大居士と申し、入没するまで4年間、修業求道したその草庵には二代直家も隠居し「遍照山無量寿院光明寺」と号して兼頼の菩提寺となります。
光明寺はその後最上家11代義光の時代に、城郭整備に伴い二の丸大手門前北側に移りますが義光は光明寺に1760石を寄進して最上家開祖である兼頼を深く崇敬の意を表します。
元和8年(1622)いわゆるお家騒動で改易となり、当主義俊(よしとし、1605~1632)は近江国大森に僅か1万石を以て転封、その後旧領は4分割され山形には磐城平12万石から加増され24万石で徳川譜代鳥居忠政が入封し、その後は光明寺は城郭を離れ現在地に移され現在に至ります。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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