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JR山形駅東口を東進し最初の大きな交差点を右折、羽州街道を南下しますと鉄砲町の第六小学校に隣接する地に羽前の虎将と称される最上義光(もがみ・よしあき、1546~1614)が創建した天龍山・光禅寺(こうぜんじ、山形県山形市鉄砲町)と号する曹洞宗の寺院があります。<br /><br />家康の東軍に属して上杉軍と戦った東北版「関ヶ原戦い」が終わって2年後の慶長7年(1602)に57万石の大大名となった義光は大石田黒滝の向川寺9世の春林禅寺和尚を拝請して創建したのが光禅寺です。<br /><br />従来は慶長寺と称していましたが、元和元年(1615)義光の嗣子である家親(いえちか、1582~1617)の代に義光戒名「光禅寺殿玉山道白大居士」から光禅寺と改称します。その頃の寺は今の長源寺(七日町)に位置し、寺領250石の御朱印寺で堂塔伽藍完備の寺であったそうです。<br /><br />義光逝去後孫の義俊(よしとし、1605~1632)の代になりますと最上家内部騒動発生し収拾できず改易となり、近江国大森に1万石を以て移されます。<br /><br />元和8年(1622)10月、最上氏の後に磐城国平より鳥居氏が24万石で入封の際、磐城国より菩提所の長源寺を招き入れ、現在地に移転させることになります。<br /><br />明治27年(1894)市街の大火の為観音堂を残してすべて焼け落ち、貴重な宝物や古文書等が焼失してしまいます。<br /><br />本堂の裏手には最上家三代の墓として義光・家親・義俊の他義光に殉死した四名の家臣の墓が並びます。<br /><br /><br />2023年8月6日追記<br /><br />当該寺境内には下記の通り縁起が紹介されています。<br /><br />『 光 禅 寺 縁 起<br /><br />当寺は慶長7年(1602)羽州57万石、山形城主の最上義光公が大石田黒滝、向川寺九世春林禅寺冬和尚を拝請して開創したものである。元は慶長寺と称したが元和年間、家親公の時代に光禅寺と改称した。<br /><br />当時の寺は今の長源寺(七日町)の地にあって、寺領250石の御朱印寺で堂塔伽藍完備の寺であった言う。義光公逝去の後、孫の義俊公の代に至って最上家改易の変に遭い近江の国大森に移封された。<br /><br />元和8年10月、磐城の国、平(現在いわき市)より鳥居忠政公、山形城主に(24万石)なるに及んで、磐城の国より菩提所、長源寺を招致し、興禅寺の土地・建物を長源寺に使用せしめ、当寺を現在地に移転せしめたのである。<br /><br />その時、門前の三日町町民も一緒に移って来たので、元の町を元三日町と称して今日に至る。<br /><br />寺は。明治27年5月、市南も大火に遭い本堂を残して全焼、貴重な宝物・古文書等を消質した。<br /><br />寺境内には、最上家三代の墓(義光公・家親公・義俊公)と義光公に殉死した四家臣の墓がある。<br />               曹 洞 宗 興 禅 寺 』<br /><br /><br /><br />なお、JR山形駅東口には「最上義光歴史館」があり、そこで入手のパンフレットには次のように紹介されています。<br /><br />『 最上義光とやまがた<br /><br />最上氏の初代斯波兼頼(しばかねより)は、いまから約600年前の延文元年(1356)にこの地に入部して居城を構え、その後、子孫は出羽国最上郡山形郷の地名から「最上(もがみ)」の姓を名乗ったいわれています。最上氏は足利一門斯波氏の支族(清和源氏)です。<br /><br />兼頼から数えて11代目が義光(よしあ気)です。義光は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、57万石(全国第5位・実高100万石)の領地を支配し、城下は繁栄を極めます。義光が治めた領地は、現在の山形県の置賜地方を除く全域と秋田県の南部NIまで及んでいました。<br /><br />また、義光は府城として、三重の堀をめぐらせた巨大な山形城(現在の霞城公園は二の丸)を築城し、城下町の整備も行いました。現在の山形市繁栄の礎を築いたと言えるでしょう。戦国武将としての義光の評価は様々ですが、現存する連歌などから、当時一流の文化人として認められ、作品も高I評価を得ていたことが、新たな実像としてわかっています。』

羽前山形 家康を後ろ盾とし伊達家と対峙し羽前57万石に上り詰めた最上義光と凋落の家親(息子)・改易の義俊(孫)三代を祀る菩提寺『光禅寺』散歩

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2014/08/26 - 2014/08/26

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR山形駅東口を東進し最初の大きな交差点を右折、羽州街道を南下しますと鉄砲町の第六小学校に隣接する地に羽前の虎将と称される最上義光(もがみ・よしあき、1546~1614)が創建した天龍山・光禅寺(こうぜんじ、山形県山形市鉄砲町)と号する曹洞宗の寺院があります。

家康の東軍に属して上杉軍と戦った東北版「関ヶ原戦い」が終わって2年後の慶長7年(1602)に57万石の大大名となった義光は大石田黒滝の向川寺9世の春林禅寺和尚を拝請して創建したのが光禅寺です。

従来は慶長寺と称していましたが、元和元年(1615)義光の嗣子である家親(いえちか、1582~1617)の代に義光戒名「光禅寺殿玉山道白大居士」から光禅寺と改称します。その頃の寺は今の長源寺(七日町)に位置し、寺領250石の御朱印寺で堂塔伽藍完備の寺であったそうです。

義光逝去後孫の義俊(よしとし、1605~1632)の代になりますと最上家内部騒動発生し収拾できず改易となり、近江国大森に1万石を以て移されます。

元和8年(1622)10月、最上氏の後に磐城国平より鳥居氏が24万石で入封の際、磐城国より菩提所の長源寺を招き入れ、現在地に移転させることになります。

明治27年(1894)市街の大火の為観音堂を残してすべて焼け落ち、貴重な宝物や古文書等が焼失してしまいます。

本堂の裏手には最上家三代の墓として義光・家親・義俊の他義光に殉死した四名の家臣の墓が並びます。


2023年8月6日追記

当該寺境内には下記の通り縁起が紹介されています。

『 光 禅 寺 縁 起

当寺は慶長7年(1602)羽州57万石、山形城主の最上義光公が大石田黒滝、向川寺九世春林禅寺冬和尚を拝請して開創したものである。元は慶長寺と称したが元和年間、家親公の時代に光禅寺と改称した。

当時の寺は今の長源寺(七日町)の地にあって、寺領250石の御朱印寺で堂塔伽藍完備の寺であった言う。義光公逝去の後、孫の義俊公の代に至って最上家改易の変に遭い近江の国大森に移封された。

元和8年10月、磐城の国、平(現在いわき市)より鳥居忠政公、山形城主に(24万石)なるに及んで、磐城の国より菩提所、長源寺を招致し、興禅寺の土地・建物を長源寺に使用せしめ、当寺を現在地に移転せしめたのである。

その時、門前の三日町町民も一緒に移って来たので、元の町を元三日町と称して今日に至る。

寺は。明治27年5月、市南も大火に遭い本堂を残して全焼、貴重な宝物・古文書等を消質した。

寺境内には、最上家三代の墓(義光公・家親公・義俊公)と義光公に殉死した四家臣の墓がある。
               曹 洞 宗 興 禅 寺 』



なお、JR山形駅東口には「最上義光歴史館」があり、そこで入手のパンフレットには次のように紹介されています。

『 最上義光とやまがた

最上氏の初代斯波兼頼(しばかねより)は、いまから約600年前の延文元年(1356)にこの地に入部して居城を構え、その後、子孫は出羽国最上郡山形郷の地名から「最上(もがみ)」の姓を名乗ったいわれています。最上氏は足利一門斯波氏の支族(清和源氏)です。

兼頼から数えて11代目が義光(よしあ気)です。義光は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、57万石(全国第5位・実高100万石)の領地を支配し、城下は繁栄を極めます。義光が治めた領地は、現在の山形県の置賜地方を除く全域と秋田県の南部NIまで及んでいました。

また、義光は府城として、三重の堀をめぐらせた巨大な山形城(現在の霞城公園は二の丸)を築城し、城下町の整備も行いました。現在の山形市繁栄の礎を築いたと言えるでしょう。戦国武将としての義光の評価は様々ですが、現存する連歌などから、当時一流の文化人として認められ、作品も高I評価を得ていたことが、新たな実像としてわかっています。』

旅行の満足度
3.5
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 光禅寺正門<br /><br />左右に最上氏家紋である「足利二つ引」が大きく記されている正面入口が印象的です。

    光禅寺正門

    左右に最上氏家紋である「足利二つ引」が大きく記されている正面入口が印象的です。

  • 光禅寺社標<br /><br />正門右側の柱には「漕洞宗 光禅寺」と刻されたプレートがはめ込まれています。

    光禅寺社標

    正門右側の柱には「漕洞宗 光禅寺」と刻されたプレートがはめ込まれています。

  • 光禅寺正門左側<br /><br />左側には「旧山形城主 最上義光公開基」がはめ込まれています。<br /><br />

    光禅寺正門左側

    左側には「旧山形城主 最上義光公開基」がはめ込まれています。

  • 光禅自縁起説明

    光禅自縁起説明

  • 山形市指定文化財説明<br /><br />名勝として「庭園」、歴史資料として「永和二年石塔婆」が指定されています。庭園は造園時期は不明ですが部分的に室町式・桃山式の面影を示し、規模の大きさや後世補修が見当たらず貴重な庭園です。また石塔婆は元来は山形城跡二の丸に在ったもので最上氏の始祖である斯波兼頼が隠居地の中に建てたと伝えられています。

    山形市指定文化財説明

    名勝として「庭園」、歴史資料として「永和二年石塔婆」が指定されています。庭園は造園時期は不明ですが部分的に室町式・桃山式の面影を示し、規模の大きさや後世補修が見当たらず貴重な庭園です。また石塔婆は元来は山形城跡二の丸に在ったもので最上氏の始祖である斯波兼頼が隠居地の中に建てたと伝えられています。

  • 石橋<br /><br />参道の途中には石橋がありここを渡って本堂に進みます。

    石橋

    参道の途中には石橋がありここを渡って本堂に進みます。

  • 鐘楼堂<br /><br />梵鐘は元禄11年(1698)京都洛陽三条の釜座、藤原国次の作と言われています。

    鐘楼堂

    梵鐘は元禄11年(1698)京都洛陽三条の釜座、藤原国次の作と言われています。

  • 光禅寺本堂

    イチオシ

    光禅寺本堂

  • 扁額<br /><br />本堂上部に架かる扁額が見られます。

    扁額

    本堂上部に架かる扁額が見られます。

  • 境内風景<br /><br />本堂から境内を眺めます。

    境内風景

    本堂から境内を眺めます。

  • 最上家三代之墓所

    最上家三代之墓所

  • 最上三代塋域説明

    最上三代塋域説明

  • 出羽の関ヶ原板「長谷堂合戦」説明<br /><br /><br /><br />

    出羽の関ヶ原板「長谷堂合戦」説明



  • 最上義光廟

    イチオシ

    最上義光廟

  • 最上義光五輪塔(近景)

    最上義光五輪塔(近景)

  • 最上家親・義俊の墓石<br /><br />右側には義光嗣子である家親、左側には義光嫡孫である義俊の墓石が並んでいます。

    最上家親・義俊の墓石

    右側には義光嗣子である家親、左側には義光嫡孫である義俊の墓石が並んでいます。

  • 義光に殉死した重臣の墓<br /><br />最上義光葬送後の夕刻に巡視した長岡但馬守、山家河内守、寒河江肥前守そして寒河江重兵衛尉の四名の家臣が並んでいます。

    義光に殉死した重臣の墓

    最上義光葬送後の夕刻に巡視した長岡但馬守、山家河内守、寒河江肥前守そして寒河江重兵衛尉の四名の家臣が並んでいます。

  • 最上義光三百年祭記念石柱

    最上義光三百年祭記念石柱

  • 永和の板碑<br /><br />明治29年(1896)山形城二の丸の北東隅で発見され当寺に移されたもので、最上氏の始祖である斯波兼頼に関連する石製の板碑です。

    永和の板碑

    明治29年(1896)山形城二の丸の北東隅で発見され当寺に移されたもので、最上氏の始祖である斯波兼頼に関連する石製の板碑です。

  • 永和の石製板碑

    永和の石製板碑

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